2011年1月31日月曜日

よみがえりの力に支配される必要性

鷺どのの 歩く姿見る 楽しさよ 根城おそえり 迷カメラマン(自宅近くの用水路にて) 
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(新約聖書 エペソ1:19)

(私たちは上から新しく生まれることによって神のいのちをともに体験するものとなります。聖書が「永遠のいのち」と呼んでいるものは新生した者がいただくユニークなものですが、どんな人間も生来の力でそのいのちを持つことはありません。真の霊的な体験がすべてたどる道はその永遠のいのちが増大し発展するためにあります。そしてこのことはこれまで私たちが見てきたように死と復活の危機や繰り返しを通して特別起こります。主のこどもたちに対するすぐれた目的とは何でしょうか。それは主のこどもたちがただ主のいのちだけで生きるようになるためであることは疑いありません。この目的のために主は生来のいのちを益々取り除かれるのです。)

私たちの主は、復活なさった後、よみがえりの状態にあり、その特別なご性質のゆえに、もはや自然の限界に支配されないものだということを指摘しましょう。時間と空間は今や主を支配しなくなったのです。この原則が今や働き、当てはまるのです。復活のいのちの価値やエネルギーにあって生きる者は「永遠」のこどもであり、「全宇宙(を支配する)」こどもです。祈りは地の果てにまで届きます。私たちの存在や行為は重要になり、全宇宙的、永遠の次元のものになりました。限界はありません。

それですから、神に愛される者にとっては、もはや自然のいのちが基準にはなりません。強いか弱いかは問題ではありません。強さが、どんなに知的なものや道徳的なことや社会的なことや肉体に関する強さであったとしても、霊的には何ら影響はありません。弱さが不利になることはありません。私たちは主のいのちにあってだけ生き、仕えるように召されているのです。主のいのちだけが唯一力があり確かなものであります。

かしらの真実はそのまま肢体の各人の真実にあてはまります。ぶどうの木の真実性はそのまま枝の真実性であります。最後のアダム(イエス・キリストのこと)の真実は主の民に加えられている全員の真実になります。「キリストの復活と同じようにつぎあわされているなら」(ローマ6:5)と使徒は言いました。その上で彼はそのことがもっともっと自分の体験となるように次のように祈りました。「私がキリストを知り、その復活の力を知ることができますように」(ピリピ3:10)それが御霊に導かれたすべての真のキリストに仕える者の祈りとならなければなりません。

(引用はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003029.html からである。 In The Likeness of His Resurrection  からの抜粋である。)

2011年1月30日日曜日

信仰の創始者・完成者であるイエス

ドイツ・フィリンゲンの教会扉に刻まれていた銅版絵
「人間をとる漁師にしてあげよう。」と読める?
イエスから目を離さないで・・・(新約聖書 ヘブル12:2)

ヘブル人へのこの手紙にはパウロの生き生きとした息吹が感ぜられます。「イエスから目を離さないで」と。この手紙を実際に誰が書いたとしても、パウロ(の人柄)が文章に影を落としています。彼の影響が至るところにあります。確かに彼はイエスから目を離さないように心がけていました。

このことは私たちにとっても学ぶべき大変重要な課題であります。クリスチャン生活において何度も何度も学ばなければならないことです。もし私たちが主イエス様以外のものに目を奪われるなら、全く(生活は)めちゃめちゃになってしまいます。

ところで、神の聖徒に対しては十分注意しなさい。私はあらゆる神の聖徒を疑いをもって見ることを勧めているのではありません。また「ご存知の通り、彼は完全でない」と言うべきだと言っているのではありません。尊敬しなければならない人は尊敬すべきです。しかし、あなたの信仰は、たとえその人がどんなにいい人であっても、その人の上に築き上げられてはならない(と言いたい)のです。

それに、私たち自身に関するなら―いいですか、私たちは他の何物よりももっと自分自身を見る傾向があるのじゃないかと思います。このことは本当のクリスチャンの課題の一つです。私たちは絶えず自分自身や自分に関わる事物から目を転ずる必要があります。この自我ほど私たちを落胆させるものはありませんし、私たちを誤らせるものはありません。私たちの判断はすべて間違います。私たちの思考もまたそうです。いずれも神の考えではないからです。

私たちは目を自我から転じなければなりませんが、空(くう)を見、空しくなるのではありません。「イエスから目を離さないで」という文章はそのあとどのようにして終わっているか知っているでしょう。その文章は「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」となっています。

あなたが信仰を始めたのですか。あなたはクリスチャンになりたいと決めたから今クリスチャンなのですか。そうなんです。主はあなたが決心したから、あなたを助けるのです。(と言うのですか)

とんでもありません。主がこのことを始められたのです。「私を見つけたのは主でした。私に手を差し伸べて下さったのは主でした」と言うことができることが喜びとなっていないのでしょうか。主が次のようにおっしゃることはまことに真実です。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」(ヨハネ15・16)主は信仰の創始者でした。さらに手紙は言います。主は信仰の完成者である、と。主は必ず信仰を完成なさいます。

私たちが天国に行ったら、かつて経験したことのない驚きで一杯になるでしょう。私たちは他の聖徒と見合って言うことでしょう。「やあー私たちはここにいます。素晴らしい部屋ですね。どのようにしてここに来たかわかりません。こんなところには決して来れないと何度も考えましたよ。しかし、今ここにいるんですね。」そうです。それはイエス様が(信仰の)完成者であるからです。

愛する友の皆さん!このことを信じてください。あなたが落胆し困難に会っている時、目をイエス様に向けてください。イエス様は言われました。「わたしのいる所に、わたしに仕える者もいるべきです」(ヨハネ12:26)、と。たとえ何度奇跡が起ころうとも、主は私たちを天国へ連れて行くために働いてくださるのです。そのことを信じてください!両手でしっかりとその真理をつかみ、主を信じてください。そうすれば栄光に嘉(よみ)せられることを体験なさるでしょう。

なぜならそれこそこの手紙が示す偉大なものの一つであるからです。「多くの子たちを栄光に導く」(ヘブル2:10)とあります。そのことはあなたにも私にもあてはまるものなのです。

(引用はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003028.html
 The On-High Calling Volume 1 - Chapter 9 からの抜粋である。)

2011年1月29日土曜日

啓示に身を置きなさい

ハクレンである。最近次の短歌を知った。さらに味あうべきは「天」である、と思い至った。

「葉が落ちて初めて知りぬ枝すべて天に向かうがごとく伸びるを」(後藤瑞義)
神は・・・御子を私のうちに啓示することをよしとされた(新約聖書 ガラテヤ1:15~16)

黙示録で「耳のある者は聞きなさい」(黙示2・7他)とあります。ラオデキヤ教会(終わりの時代を代表する)に向けては「わたしはあなたに忠告する。・・・目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい」(黙示3・18)とあります。「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた」(黙示1・12)とヨハネは言いました。神様は語っておられます。おっしゃらなければならないことをお持ちなのであります。しかし(それを知るにはパウロが私たちのために祈っているように)「神を知るための知恵と啓示の御霊(が与えられれば)、あなたがたの心の目がはっきり見えるように」(エペソ1・17~18)なるにちがいありません。

(ところが現代は)霊的な洞察力、理解力、知力、思考力はすべて余りにも希薄であります。原因は多くあります。仕事への没頭、多様な雑事。生活の多忙さ。休息を知らない時代精神。これらは、宗教儀式を重んじてその用意を徹底的に備えることとあいまって、すべて内側に語りかけてくださる神様の働きをさせないようにする傾向にあります。恐らく、私たちは聖書は単に啓示に終わるだけでなく、啓示より成り立つものであることを忘れてしまっているのでしょう。さらに深い霊的な中味は、目や耳が開かれて、別のことばで言えば目を覚まされてはじめて認識したり悟り得るものであります。

主のもっとも忠実な仕え人のなかには依然としてみことばの文字、様々な書、様々な出来事、様々なテーマ、様々な主題、様々な概要、様々な分析に心を奪われるだけで、最も深い意味で「啓示」に身を置かれない方がいらっしゃるのです。(これは非難の意味で申し上げているのではありません)精神や頭脳による働きと心や魂からする働きとではあまりにも違いがしばしば見られるからです。

前者は早かれ遅かれみことばを伝える人も伝えられる人も疲れてしまうでしょう。それに対して後者はいずれの方にとってもいのちの働きであり、いつも新鮮で疲れを知らないのです。

初めであろうと後であろうと、「神様は私に御子を啓示することをよしとしてくださった」「私は啓示を人からでなく、神から受けた」と言える日は私たちの人生にとって最大の日であります。それこそ多くの争点となる事柄の本質的な始まりであります。こういうことの一つが今特に考えていること、すなわち、ある特定の時点で神様のお考えやご意志が何であるかを知るように目ざめさせられたことであります。かような啓示は、みことばを通してでありますが、たとえ通常は犠牲を伴うものであったとしても、これ以上革命的なものは他にありません。

(今日の箇所はゼカリヤ4章にのっとり、みことばのときあかしが行なわれているA4版で9頁ほどのものであります。関心のある方は是非原文をお読みください。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003027.html
題名は The Candlestick All of Gold  です。)

2011年1月27日木曜日

私は見える

白椿 一枝手折り 和ませる 妻の心に われら喜ぶ
ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。(新約聖書 ヨハネ9:25)

(これまで現代の根本的な病根、人々が霊的盲目状態に置かれていることについて話してきました。今までともに読んで参りました聖書箇所※を取り上げてみても、霊的な盲目さや霊的見方の全ての背後に、極めて一般的な仕方ではありますが、どんなにかそれらの病根がおおっていることかがわかります。それですから、続けてこのようなあらゆる場合における共通した要因について話すことにします。

それは霊的に見えることは必ず一つの奇跡であるということです。誰もが生まれたままでは霊的に見えないからです。霊的に見えるとは神様の直接の働きとして天から来るものです。その能力は生来のものとして備えられているのではなく、新しく創造されねばならないのです。この世界にキリストが天から来られたために義認そのものが事実となったように、人は霊的に盲目状態で生まれ、人の霊の眼が開かれるためには天からの訪れが必要なのです。

それですから結局、霊的に見えないということはキリスト者生活において奇跡的要素をなくしているということです。人が、本当に「私は見える」と言い切るためには大変な時間の必要があることをこれまで見てまいりました。

想像してください。あなたが盲目に生まれついて、その生活を続け、大人になるまでどんなものもまた誰をも見たことがないのに、突然目が開いたとしたら。すべてのものが見え、みんなが見えるんですよ。そこには驚きの思いがあるだけでしょう。世界はこんなに素晴らしいのです。ヨハネ9章に登場するあの盲目であった人は家に帰って言い続けたことでしょう。人が見えるなんて、何と素晴らしいことでしょう。何でも見えるんですよ。素晴らしい!そのことばが彼の唇からもれることばのほとんどでしょう。

そうなんです。しかしこのことは霊的な事柄にもあてはまります。絶えざる飢え渇きは四六時中、心の中にその霊的な驚きを持っている人のものです。聖霊の啓示によって心が目ざめされ、つねに変わることなく発展して行く驚きであります。それは新しい世界、新しい霊の世界です。それが現代の必要としていることです。「私は見える!」


クリスチャン生活のあらゆる段階、最初から終わりまで秘訣はまさしくそれに違いありません。「私は見える」私は今見ているようにはこれまで一度も見たことがない。私はそのように見たことがなかった。私は自らの博学でも見たことはなかった。しかし、今見えます!もしいのちが御霊にあるいのちであるなら、初めから終わりまでそのように言えるにちがいありません。

それですから、しばらくクリスチャン生活の一、二の局面を考えて見ましょう。そのような生活は神様の働きによって見えるというこの偉大な真実に支配されているにちがいありません。このことについて聖句の中でどんなにたくさんのことが書かれているかを知って、私が話している通りたくさんのみことばを思い出されることでしょう。

クリスチャン生活の始まりとは何でしょう。それは見えることです。見えることでなければなりません。これまで述べてきた論理そのものがこのことを要求しています。このゆえに、クリスチャン生活のすべては一つの線に沿って漸進的に進み終わりに達するものです。その線、終わりとはキリストです。それがヨハネ9章の盲目に生まれついた男にまつわる記事の核心でした。

この男が(証をし)追放された後、どのようにしてイエス様に見つけられたかを覚えらておられるでしょう。イエス様は彼に言われました。「あなたは人の子を信じますか」すると男は答えて言いました。「主よ、その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエス様は彼に言われました。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」すると彼は言いました。「主よ。私は信じます。」そして彼は主を礼拝しました。霊的に見えるということは主イエス・キリストを深く知るということです。そしてクリスチャン生活の最初から終わりまでの全行程がそうなるように定められているのです。

私たちは救いは自分が罪人であると知ることであると言うかも知れません。しかしそこを離れると私たちには乏しいままです。

そうなんです。すべてのことがらはイエス様を見ることにまとめられます。そしてイエス様を本当に体験するとき何が起こるでしょうか。タルソスのサウルに起こったことは何だったでしょうか。よろしいですか、すべてのことが起こったのです。他の何物ももたらなかったであろう強力なことが起こったのです。あなたがもしその当時いたとしてタルソスのサウルと議論をしてもキリスト教へと導き出すことは決してできなかったでしょう。同じようにあなたが脅しても、また理性で納得させても、感情に訴えてもクリスチャンにすることはできなかったでしょう。

その男をユダヤ教から引き出すためにはこの地上で見いだし得るいかなるものよりも更なるものが必要だったのです。しかし彼はナザレのイエス様を見たのです。そしてそれがそのことをしたのです。彼はユダヤ教から脱出します。解放されます。彼は見たのです(he has seen)。

(今日もいつもの通り以下のサイトの私訳に過ぎないし、誤訳のあることは否めません。ただ今回はサイトの該当箇所だけでなく、その前にあある数十行をも思い切って訳してみました。ご参考にしてください。なお※の聖書箇所は民数記24:3~4、マルコ10:46、51~52、8:23~25、ヨハネ9:1、7、25、エペソ1:17~19、黙示3:17、使徒26:17~18です。読者はこの箇所を参照するだけで、霊的に目が開かれることがどんなことか聖書を通して理解し、恵まれるはずです。ご一読をお勧めします。http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003025.html

2011年1月26日水曜日

自我の終着駅

亡き義母の 植えし蝋梅 雪の中 つぼみ盛んに 陽を待ちこがる
私にとっては、生きることはキリスト。(新約聖書 ピリピ1:21)

荒野にあって私たちの生まれながらのいのちの全貌は浮き彫りにされます。私たちは自らの弱さと空しさ、自分には何もないことを知るようになります。このようにして、私たちは今やキリストのうちにすべてがあることを知り、受け入れ、それを自らのものとすることができるのです。(キリストを)持つこと、私たちが(キリストを)受け継ぐようになる秘訣は何でしょうか。

私たちがすべてのものは「キリストのうち」にあるというところまで来ることです。キリストがすべてです。まさしくいのちそのもの、私たちの存在そのものなのです。私たちの肉の思いがそぎおとされ、存在の最深部で、もし神様が聖霊によって私たちのうちに何もなさらないなら、すべて価値がないと知ることです。キリストの満たしに入るためには、私たち自身の働きをやめにするところまで来なければなりません。

私たちは自らの弱さにへなへなと座り込んで自らを大事にしやすいのですが、主はこの点についても「立ちなさい、そして獲得しなさい」と言われるのです。あなたが受け継ぐべきものは、この地上にはありません。天にいらっしゃるキリストにあるのです。あなた自身の中ではなく、キリストのうちにあなたの満たしはあるのです。あなたの空しさに対してはキリストの満たしが。あなたの弱さに対してはキリストの強さが,、あるのです。あなたが受け継ぐものは、キリストにある全てです。それはちょうどイスラエル人が乳と蜜の流れる地に来たことに典型的にあらわされている事柄なのです。

パウロはテモテについて、「彼は主のみわざに励んでいる」(1コリント16:10)と言っています。私たちに関する限り私たちの働きは終わりです。私たちから出るものはもはや何もありません。けれどもそのようになれば、神様は「あなたの無価値にかえて私は天と地を持つ」と言われます。

そのように自らに死に、空しい人になってください。そうすれば聖霊はその御力によって私たちのうちにおられる主イエス様のきよい栄光をあらわし、また私たちを通しても栄光をあらわしてくださいます。「今、・・(天にある)支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が知られるようになるため」(エペソ3:10、11)「それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みをお示しになるため・・・私たちは神の作品です」(エペソ2:7、10)

(本日の引用箇所は下記である。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003024.html

2011年1月25日火曜日

上にあるものを求めなさい

通い慣れし 小学校時代の 通学路 (2011.1.24故郷にて)
もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。(新約聖書 コロサイ3:1)

心が完全に神にとらえられている人にむかって、「これはあきらめねばならない、あれもあきらめねばならない」と決して言う必要はありません。そのような主とともにいる人をそのままにしておきなさい。そのようなものはなくなることがわかるでしょう。主に引き寄せられている(人の)心を見るのは大変うれしいことです。その行く末を心配する必要はありません。あらゆる不安は心が完全に主から離れるところにあります。

テサロニケ人に宛てた使徒の二つの手紙は喜びに満ちています。彼は彼らをことごとく思い出すごとに主に感謝しました。彼は彼らのことをよく言ったり、言葉を使ってほめそやす必要はありませんでした。なぜなら、単純なことに、彼らは「生けるまことの神に仕えるようになり、イエスが天から来られるのを待ち望んで」、この世から神に心が向いており、何ら心配する必要はなかったからです。ところが目をコリントの人々に転ずるとたくさん問題がありました。荒野の状態、二心でした。

よみがえりの土台により神様は(人を)世から主のところに引き出す機会を与えてくださいます。そのことが意味していることをすべて私たちは学ばねばなりません。もし私たちが主とともに行動するなら、私たちは決して予期しない事柄に出くわすことでしょう。私たちは神様が存在しているということほど明確に定められている事柄はないのですが、一瞬間たりとも疑問を持つことがないように望まれ挑戦されるようになります。過去において事柄は神からのものでないものはなく、ある程度神からのものだけでした。ところが今やそれらをはるかに越えたものがあるのです。

そしてこれ以上何かをし続けないなら、善が最善の敵となります。それゆえ私たちは価値を比較し、良いことを離れ、より良いことに向かわねばなりません。そしてそれからのちには、より良いことから離れ、さらに最善へと向かわねばなりません。私たちが本当に主とともに歩き続ける時に、はじめて事は起こり得るのです。しかし、そのことは先ず第一に次のことを求めています。私たちがこれまでもはっきりさせ、言って来たことです。「私は自らを捨て、復活の土台の上に立ちます。」「私は自らを捨て、完全に主とともにいます。」

(今日の部分は英文が難しく判読できないところばかりでした。読者が自ら下記サイトに当たられ直接確かめられるようにお願いします。また誤訳を指摘し正しく直してくださることを是非お願いします。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003023.html  

なお、この記事を投稿した後に今日のオズワルド・チェンバーズの霊想を見たら、次の記事が載っていました。ひょとしてこのことも上記の記事と関連があるかもしれないと思い、以下に載せることにしました。お読みください。これは湖浜馨氏の訳です。


1月25日 神に機会を与える

恵みをもって召してくださった方が・・・よしとされたとき。(ガラテヤ一・一五、一六)

私たちは神の働き人として、神に機会を与えることを学ぶ必要がある。私たちは身を引き、神に十二分に働かれる余地を与えるのである。私たちは細かく計算し、見積もって、これこれのことが起こるだろうと言う。そして、神の介入される余地を作ることを忘れてしまう。
神が私たちの集会に、想像もしていなかったような方法で介入される時、私たちは驚くのではないだろうか。神はつねに特別な方法で介入されると考えてはならない。まず、神を尋ね求めよ。これが、神に機会を与える方法である。
神が臨まれることを当然のこととして期待せよ。しかし、ある一定の方法で臨まれると思うな。神について学べば学ぶほど、神はいつでも介入されることがわかる。神はこれ以外の方法では働かれない。神はよしとされた時、突然、あなたの生涯に臨む。しかし、私たちはこの事実を見逃しやすい、
だから、神と絶えず交わり、あなたの信仰生活を保て。そして神がいつ介入されてもよいように、神のために十二分に働かれる余地を作れ。そして、待機せよ。)

2011年1月24日月曜日

主に仕えるとは?モーセの場合。

義母植えし 蝋梅の花 雪の中 
今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(新約聖書 ローマ7:6)

主に仕えることは世からの分離に始まります。つまり、この世の王国から解き放たれることですが、それは徹底的な分離です。教会はこのことを認識すべきです。モーセが解放と分離を経験したとき、主なる神様が残されたことばは「ひづめ一つも残すことはできません」(出エジプト10:26)でした。ご存知の通り、モーセは徹底的に主に仕えました。ひずめ一つ残さないほど徹底的でした。それが神様に対する仕え方です。「見なさい。人々は完全に脱出しました。もはやエジプトとは何のつながりもないのです。」

しかし、主に仕えることはつねに外面的なことだけでなく、深い自己自身との分離に貫かれなければならないことを覚えていらっしゃいますか。私たちは世から出て、神の民の成員になるだけで十分なのではありません。そのことよりももっと必要なことがあります。私たちの全自我が厳しく処理されねばなりません。大切な分離はそこで行なわれる必要があります。

衝動的で熱くカッとなりやすいモーセは静かで忍耐強い謙遜なモーセとならなければなりません。とりわけ謙遜と忍耐を学ばなければなりません。40年間にわたり自己を明け渡す訓練はどんなだったでしょうか。モーセがやがていのちの働きを本当にしなければならない時、彼がもっとも必要とした事柄の一つは忍耐だったでしょう。忍耐を生み出すには何もしないという訓練ほどふさわしいものはありません。私たちは、忙しくしていたり、何か事を行ないあらゆる衝動を満たしている時は忍耐を学べないものです。それに対して、何もしようとせず、みことばを伝えたり、働いたり、仕えたりすることから切り離されて、黙って何もしない訓練や遅延する訓練を受ける時、神様は、そうしていなければ実現することのないような、もっとすぐれた仕え方を用意してくださっているのです。

(一日、家内の母の一周忌で帰省し、親せきの英語教師と話し合う機会があり、専門家の英語翻訳の話を聞いた。無知でどうしようもないが、新年から始めているこの試みに一つのヒントが得られた。今日の訳は少しその影響がある?引き続いて下記のサイトの翻訳である。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003022.html )

2011年1月23日日曜日

主がくださるいのち

水仙の 八頭身か 首重し 畑にいのち 満ちあふれたり
わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(新約聖書 ヨハネ10:10)

思い出してください。「この方にいのちがあった」というヨハネ1:4のみことばがあります。イエス様は他の人間と性質が違っていませんか。誰もがわかることでしょう。イエス様は性質そのものにおいて他の人間と異なっています。そのちがいはイエス様のうちにあるこのいのちにより生じます。このいのちは性質だけでなく、人間とは別の新しい意識をもたらすのです。主イエス様をごらんなさい。主の実際の意識とはどんなものだったのでしょうか。このことは主イエス様がつねに話されていたことです。イエス様の場合その意識は大変鮮明でした。

主イエス様は言われました。「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)「わたしがいつも、その(父の)みこころにかなうことを行なうからです」(ヨハネ8:29)「わたしが父の御名によって行なうわざ」(ヨハネ10:25)ヨハネの福音書ではこんなふうに「父」ということばが使われているのです。イエス・キリストの意識は毎日父と一体であり、父と御子は一つなのです。「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように」(ヨハネ17:21)

主イエス様の意識は父なる神様との最も緊密な一体性の中にありました。それは神のいのちそのものがイエス様の中にあったからです。主のいのちは神を意識するいのちですが、それは完全な一致という意味での神の意識です。そしてそれがこのいのちを持つという意味です。人間はそのいのちを決して持ったことがないのです。イエスは主の(選ばれた)人にいのちをもたらすために来られました。それは神との結びつきについて話すことでなく、弟子たちに神と一つとなるいのちの生活を体験させ、(イエス様と父なる神様とがそうであったように)同じ結びつきを与えるために来られたのです。

だから、「わたしが来たのは、羊がいのちを得」とは、別のことばで言えば「私は彼らが私が持っているのと同じように、父なる神を意識するために、また私が持っているのと同じ神の性質を持つようになるために来た」ということです。

(今日の文章は以下のサイトより訳出しました。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003021.html   )     

2011年1月22日土曜日

麗しい王、遠くの国

大海に 鴨の家族の 何語る (古利根川 11.1.21)
あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る(旧約聖書 イザヤ書33:17)

私たちは「語り聞かせよ、古くあれど、またなつかしきイエスのことば」と昔の賛美歌※を歌って集会を始めたことがあります。そしてその歌を歌う時には決まって、天使によっても人によってももっとも困難だと呼ばれている事態に直面していたものです。

イエスとその愛の物語を音楽にすることは音階をフルに生かしさらにその記憶を鮮明にすることです。音楽は高みに達し、深みに達することができます。イエス様がどんなに偉大な方であるかを示すことは、イエス様の人となり、またその働きがきわめて広範囲であるからです。イエス様はどんな他の事物よりもはるかに偉大なお方です。卓越した御性質こそ主イエス様の普遍性をあらわすものです。イエス様の物語を説明できない、また意味を説明できないという言語や舌は人間のことばにはありません。そのことはすでに証明済みであり、あらゆる国語を使って今も継続的に証明されています。

それは、あらゆる時代の最も偉大な知性たちには重荷であり、負い切れない思いにさせましたが、最も単純な人、最も無教養な人々には喜ばれ、味わわれ、かつ愛されもしました。それは大人たちにとっては問題であり、困難でありますが、小さな子どもたちにとっては喜びなのであります。人に備えられているあらゆる気質の中で、特別問題となりその要請を必要としているものが、主イエス様の気質の内には見出せないということは一切ありません。

イエス様とその愛は最も深い神秘性と宝を持つ大洋です。イエス様は尽きることのない富の宝庫です。ひとことばで言えば、主が満ち満ちたお方であることが明らかになるためには永遠を必要とします。それが私たちがいい加減な気持ちで「語り聞かせよ、古くあれど、またなつかしきイエスのことば」と歌っている時、直面していることです。(そんなふうには)断然話され得ないものです!

しかし、私たちがお交わりを続ける数時間のうちに、その物語が示す小さな光が一緒になって、私たちの心を打ち破るかも知れません。みことばの中にこういう文句があります。「あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る」その二重の宣言が主には真実で正しく当てはまるものであります。主は麗しき王であります。また遠く広がる国でもあります。

主イエス様と生き生きとした結びつきを持てば持つほど、遅かれ早かれ私たちは理解不能の袋小路に追い込まれ、次のように言わざるを得ません。「主よ、あなたは私を圧倒されます。主よ、私にはあなたを理解する力はありません。あなたははるかにまさっているお方です」

そのことはもちろん一方では困難さを意味します。私たちは主イエス様の後をついて行くことも、従うことも理解することもできません。けれども、もう一方で、そうでもなければ私たちは自分の小さな心で考え完全に理解できる、「小さな」キリストしか持たないだろうということです。そうなんです。主イエス様は完全に私たちを超えたお方です。そしてあなたと私、すなわち主の民は、もし主とともに進むのなら、来るようにとご計画のうちにあるということです。

主は私たちより、はるか、はるか遠くに達しておられます。そして私たちをそれぞれ自身から、またその私たちの考えや意志の根源から引き出されますが、私たちが進み続けなければならないことを知らせてくださるのです。私たちは立ち止まっていてはいけません。私たちは進み続けなければなりません。

(今日の箇所は以下のサイトに基づいているが、読者の便をはかり、同サイトに掲載してある文章を参考に引用箇所の前から大幅に訳出した。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003020.html 
なお文中出てくる讃美歌は日本語の聖歌集436番に収録されている。作詞・作曲については以下のサイトで調べ、曲も聞くことができるが、作詞者が重篤の病を経験した人であることを知る。むしろ一般には525番「かたりつげばや」が馴染み深い聖歌かもしれない。
http://www.cyberhymnal.org/htm/t/e/tellmoos.htm )

2011年1月21日金曜日

イエス様、あなただけが中心になってください

スコットランド・エジンバラの港に停泊していたアバディーン行きの貨物船。
アバディーンはオズワルド・チェンバーズの生まれ育ったところ
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。(ヨハネ4:23)

イエス様は女に言われました。「時が来ます。今がその時です」。そうして、主はその時まで存在していた全宗教様式をおしまいにされました。その様式とは旧約聖書にしばられたユダヤ教の全体系でありました。主は一文章ですべての(人間が勝手に設けた)制度を終わりにされました。そして完全に新しい(礼拝の)秩序を持ち込まれたのです。

主は何を言おうとされたのでしょうか。主が、「時が来ます、今がその時です」と言われたのは、文字通りの何時何分という時間をさすのでなく、新しい日の最初の時だという意味でした。この時、完全に新しくされた日が到来したのです。新しい日とはいったい何でしょうか。もしあなたがイエス様に短い文章で教えてくださいと頼んだとしたら、主は答えてくださったことでしょう。「いいですか、ここにわたしはいます」と。

時とは単なる時のことでなく、人の子のこと(人の子が到来された時のこと)なんです。新しい摂理はイエス・キリストが治められることにあります。キリストが新しい神の摂理なのです。「わたしはここにいます」と主はおっしゃいました。ヨハネの福音書を読んでください。主イエス様は万事につけご自身で中心になっておられます。曰く、「わたしは道である」「わたしは真理である」「わたしはいのちである」「わたしは羊飼いである」「わたしはぶどうの木である」「わたしはよみがえりです」それが人の子そのものの姿なのです。すべての事柄の背後にあるのはその事実なのです。

キリスト教はキリストです。キリストがキリスト教です。(ところが現在のキリスト教はキリストとは全く無関係になっています)キリストがすべての始まりであり、決してキリストから離れてはならないのです。キリスト者生活の進歩とはただ生活の中でイエス・キリストが盛んになられることだけなのです。

http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003019.htmlの私訳です。今日の箇所は1964年にオースチン・スパークスがマニラで42回の集会を持った時の録音テープから筆記されたもののようです。その集会の七番目のものでMeeting 7 - Christ Corporate is the Churchという題で述べられたものからの抜粋です。ほぼ40年間この記録は埋もれていたようです。関心のある方は上のサイトで直接読まれると大変益を受けられるでしょう。是非ご一読をお勧めします。)

2011年1月20日木曜日

「教会」は主にとって「宝」

「ななかまど」 スコットランド・エジンバラ 10.10.3
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。(コロサイ3:3)

主イエス様は宇宙や全被造物の支配権を持っておられたが、今や十字架によって、全被造物の中から宝を取り出すために特別にその宝(である教会)に集中されている。今このような時に生かされていることはすばらしいことである。

「天の御国は、(ここは天は複数であらわすべきだが)畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

主は教会に対して密かな働きをなさる。だから、私たちが教会だと思うことを、人目につく場所に出て行き、公にすることは常に危険である。真の教会は人の目には隠された密かな交わりであり、働きもそのようにしてなされる。それが教会の安全である。あなたも私も勇んで出かけて行き、宣伝したり、陳列品を並べるような立派な目に見える働きをするなら、私たちが神の働きをさらすことになり、果てしない危険に道を開くことになる。私たちは神様が私たちをご自身とともに隠された密かなところに置いてくださっているところに留まるべきである。それが安全というものだ。

このいのちの(歩み)を通して私たちは次のことを学ばねばならない。すなわち私たち自身が神と関係があるという状態から変えられて、私たち自身のうちに神ご自身がおられるという状態に変わることだ。たくさんの人は私たち自身が神と関係があるというところにいる。依然として、私たちの心の中に神の事柄に従事するという思いがある。私たちはそれらの思いが神の考えであったり、神の精神性であると思っているかもしれないが、依然としてそれは私たち人間の思いであったり、人からするこれが神の事柄だと思うことが大部分なのである。

私たちはつねに神の心はそんな私たちの思いとは別であることに気づくであろう。私たちは、主イエス様についての新しい見方に道を譲らねばならない。

http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003018.htmlの私訳です。)

2011年1月19日水曜日

「主イエス様の栄光の目撃者」より

スイス・アルプスの山々 2010.10
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(ヨハネ17:5)

思うに、主イエス・キリストがかつてお持ちであった栄光をいかに心の中に保たれ、そのことを切に求められ、祈られたかは明らかである。このところが、ヨハネが(その福音書で)大変緊密に触れている点である。ヨハネはその福音書の17章でその主イエス様の祈りを記録している。は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」この祈りは、主イエス様が、かつての消えることのない栄光を意識して歩んでおられることを私たちに明らかにしている。主イエス様はご自身にあって栄光を保たれ、それゆえに栄光についてご存知であった。何と素晴らしい考えであろう。以前のその栄光を意識され、つねに主は栄光に戻る日を待ち望まれ祈っておられたのだ。

変貌山上のできごとは、その主が心からなされる祈り、叫びに対する答えとなっていたのだ。つかの間の父なる神様との触れ合いではあったが、主にとって恐らくキリスト者がその生活において少し経験するものの一つであった。主はちょうど(いい具合に)事をなさる。過ぎ去っても、そのできごとによってあなたの願いは聞き入れられていることを知るであろう。あなたも知っているように、父なる神様はあなたの必要や今置かれている状態を心から同情してくださるお方だ。それは一日、一晩、あるいは一時間かほんの少し続き、それから過ぎ去ることかもしれない。道の終わりはまだないし、とこしえに続く栄光もまだ来ないが、その道に主が触れてくださることにより、私たちに何かがもたらされるのだ。

私たちは主が聞いておられたことを知っている。また主が心の中で私たちが叫ぶことや願うことを考えて、同情してくださる証拠を知る。それは主イエス様と父なる神様とのあいだと似たものであった。それこそ(この変貌山のできごとにあらわされた)主ご自身の叫びに対する答えであった。

By T. Austin-Sparks from: Men Whose Eyes Have Seen the King - Chapter 1 から引用。今日の箇所は「王を目撃した男たち」という題で書かれている文章の最初の部分に過ぎない。実はここで言われている男たちとはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人であり、主要テキストはマタイ17:1~21である。「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」マタイ17:1~2とあるのが変貌山のできごとである。この時に一緒にいたペテロはこの不思議な出来事を記録しているが、一方ヨハネは記録していないように見えるが上述のように十字架を前にした主の祈りが間接的にこのことを明らかにしているとし、その深い意味をオースチン・スパークス氏は明らかにしている。読んでいて、主イエス様がどんなにまことの人であり、また神であるお方であったかを知る格好の文章になっている。試みの中にある者に対する大きな励ましである。主イエス様をもっともっと聖書を通して知りたいと思う。)

2011年1月17日月曜日

愛、主を知る知識に満たされる法則

子どもたち 神の御愛の 贈り物 (パリからの絵葉書より) 
いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。(1コリント13:13)

人が霊的に進歩するための法則をあげるとしたら一体なんでしょう。それは愛です。もし私があらゆる賜物を持っていたとしても、私に愛がないなら私は何ほどでもありませんし、決して霊的とは言えません。「神の知識が増し加わる(神を愛する)」ことは「愛」とどれだけつながっているかに注意する必要があります。テサロニケの信者たちが急速に成長していった理由は何であったでしょうか。彼らの証をご覧下さい。(1テサロニケ1:8)

テサロニケの人々が立っていた位置を示すカギになることばは愛です。そうなんです。霊的な進歩は愛によるしかないのです。あなたはすべて賜物を持っておられるかもしれませんが、ひとつひとつは極めて未熟なものでしょう。霊的な知識が増すことはこれらの賜物を全部知ることではありません。またさらに知識を増す道も父なる神様を抜きにしてなされるものではありません。そうではなく、心から主を待望むことによってなされるものです。

あなたはどのようにしたらもっと神様の知恵に満たされるか知りたいと思っておられますか。それには「愛」による以外にありません。主が必要とされることはご自身に対して私たちが心を開くことであり、純粋な心で愛することであり、あらゆる聖徒を愛する愛であります。主はお互に純粋な愛があるところにご自身のより素晴らしい満たしを体験させて下さるのです。「主にあって」・・・エペソ人への手紙にはキリストのからだである教会に関するもっとも深い教えを通して天から与えられる信仰の完全性が明らかにされています。そしてその手紙では初めから終わりまで、全編を通して金色の一条の光のように「愛」が書かれています。このことはこの手紙が何を語ろうとしているかを知る上で大切なことです。

また1コリント13章も愛に関する重要な章です。ここでは愛はすべての「賜物」を脇に追いやっているほどです。愛は本質上「霊的」なものであります。愛はすべての賜物の中で最も難しく、それゆえ最も偉大なものです。「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです」(2コリント6:12)あなたがたはまるで閉ざされた障壁のようにそんなにも心を窮屈にしています! 「私たちの心は広く開かれています。あなたがたのほうでも心を広くしてください。」(とパウロは呼びかけました)

私たちの霊的生活の物差しに(ふさわしいものとして)は私たちの心以上のものはありません。頭の中にある知識は霊的生活の物差しにはなりません。あなたが自由になって神様をもっと知るようになるのは心であります。霊性はみことばが鮮明にした事柄に対して単に精神的に同意することではありません。そうではなくあらゆる聖徒のお互いの心が一つになることです。Spirituality is not mental agreement on things stated in the Word, it is the melting of one heart to another - to all saints.)悪魔は多くの主の子どもたちをまるでそれぞれが密閉した部屋にいるかのように閉じ込めてきました。神の子どもたち相互の間に存在するものにより、愛は凍らされます。そこから脱出する道は互いに愛が増し加わることによります。おそらく私たちがもとの状態にいるかぎりいつまでも閉じ込められたままでしょう。

真の霊性は心の中に浸透する神の愛の物差しです。すべて霊的な人は愛の上に安らぎ、愛によって立ち上がるのです。力ではありません。知識でもありません。様々な他の賜物でもありません。これらのものが最初ではありません。愛が最初なのです。愛を通して神を知る知識に満たされるのです。

By T. Austin-Sparks from: The Increase of God より私訳。最初の数行は掲載文の抜粋では意味が不完全だと思ったのでその前の本文を参照し訳し編集を加えてある。英文を掲載したところは誤訳の恐れのあるところです。)

2011年1月15日土曜日

戦いは激しいが、必ず祝福される

「春よ来い こどもたちの声 弾む道」

友人にいただいた絵。浅間山麓の「ハイラーク」内を描いたもののようだ。
数多の写真より、この一枚の絵がすべてを物語っていて絵の魅力を覚ゆ。
肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて(ガラテヤ5:17)

この二つは長い間対立します。絶対そうなんです。あなたが聖霊にあずかる時、次に経験することは古い肉のいのちに反対する新しい戦いです。あなたの内に肉が力を持つのは悪魔によるものです。なぜなら悪魔はあなたの生来の性質を見るからです。御霊が臨むとき、生来の性質がはっきりするからです。御霊が生来の性質に息の根を止めさせるからです。だから御霊が臨んだのち、たとえあなたが直面しなければならないことが肉が意地を張ることとのこの闘いだとしても驚いてはなりません。肉の主張はあなたをとりこにしていることを隠すやりかたです。

あなたは聖霊を受けた時に初めてあなたは肉の戦いを知り、肉に敵対するものがどんなことかを知ります。御霊を持たない人はそのような肉と霊の戦いを知りません。そのような人は御霊の支配下になく完全に肉の支配下にあるのです。聖霊は目的をもってやって来られました。その目的はキリストにあって受け継ぐものです。サタンによって動かされる肉はその目的にいらだつようになりあなたからその承継を奪おうと活動します。危機は御霊に始まっています。あなたはその道が険しいから、また犠牲が大きいから、またその戦いがあるからと言って、神のことばを忘れて、アマレクといかなる妥協もしてはなりません。「アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。」(1サムエル15:3)「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」(ローマ8:4)


What the flesh wants is opposed to the Spirit, and what the Spirit wants is opposed to the flesh. They are opposed to each other. (Galatians 5:17 ISV)
These two are in age-long conflict, in antagonism. It is ever so. When you have a fresh experience of the Holy Spirit, the next thing you find is that you are in a new conflict against the old flesh-life in yourself. This rising up of the flesh within is provoked by the devil because he sees the inheritance in view, for when the Spirit comes, the inheritance comes into view. He has come to bring to the inheritance. So do not be surprised if after an experience of the Spirit the next thing you have to face is this conflict with the assertion of the flesh across the path to hinder your going into possession.
It is only when you have received the Holy Spirit that you know the conflict of the flesh and what is the withstanding of the flesh. Those who have not the Spirit have no such conflict of flesh and Spirit; they are not in that realm, but wholly in the flesh realm. The Holy Spirit has come in relation to the end, and the end is the inheritance in Christ, and flesh moved by Satan rises up to frustrate that end, and to rob you of the inheritance. The peril is that having begun in the Spirit, you might turn aside to make some compromise with Amalek, because of the hardness of the way, the greatness of the cost, by reason of the conflict and forgetting God's word - "utterly destroy Amalek" (1 Samuel 15:3). "Walk not after the flesh but after the Spirit" (Rom. 8:4).

By T. Austin-Sparks from: Our Inheritance in Christ 

2011年1月14日金曜日

天的な富

川岸に ぼけの花咲き 温暖化 (1月8日 古利根川)
私は、私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなこともできるのです。(ピリピ4:13)

キリストの霊性は毎日の生活の実際的なこととかけ離れたものではありませんでした。キリストは天的な力や富を用いて日々の生活の実際の用に当たられたのです。皆さんは戸を拭いたり、洗濯をしたり、床を磨いたり、またこういう家の中のありきたりの仕事どれ一つを取っても霊的になし得るのです。ところが人々は霊的な働きと普段の働き(たとえば家の中の仕事)を二つに分けて考えているように思われます。人々は霊的な働きと他の働きと(分けて)話します。皆さんは天的な富を用いてどんなまっとうなこともできるのです。そしてそうすることが証になるのです。

ほとんどの人々が天的な富を引き出して(生活の)基盤となる働きをなす機会を逃しています。大部分の人にとって仕事は何ほどか規則的なものであり、毎日繰り返されるものです。ところが極めてしばしば人々は天的な富を用いては全くできないと感じています。彼らはもし自分たちが実行するにふさわしい霊的な職務であれば(たとえば出かけて行って、集会に出たり、霊的なことについて誰かに話したりするようなときであれば)主の助けを借りることもでき、そうすれば主は彼らを通して働かれると考えがちです。ところがありふれたことや普段の仕事となるとそのような考え方が極めてしばしば完全に姿を消すのです。

しかし、まさしくその同じ富は私たちが霊的な働きと呼んでいる事柄と同じように普段の仕事にも適用されねばならないのです。霊的な基礎の上になされることがすべてであり、それが証となるのです。日常生活の働きをやりおえることは人間の日常的な力にまさるものを何ほどか要求しているのです。霊性は天からのものとして万事に適用できるのです。私たちは霊的なことと「それ以外のこと」とを区別をしないように、どんなふうに線引きをしているか注意しようではありませんか。


I can do everything through Christ, who gives me strength. (Philippians 4:13 NLT)
Christ's spirituality was not that He was remote from what was practical in everyday life. It was that He was bringing heavenly forces and resources to bear upon the practical matters of everyday life. You can wash doors, or clothes, or floors - or do any of these ordinary domestic things - in spirituality. People seem to think that spiritual work and ordinary work - household work, for example - are two different things. They talk about the spiritual work and the other work. Now, you can bring heavenly resources in to do anything that is legitimate, and the doing of those things may be a testimony.

The majority of people have no occasion to draw upon heavenly resources for a platform ministry. For the most part their work is of some regular, daily kind; and very often they feel utterly unable for it, and they are tempted to think that if they had some spiritual ministry to fulfill - if they had to go and take a meeting or speak to some souls about spiritual matters - they could make a claim upon the Lord for help and He would carry them through. For the trivial round and common task such a thought is all too often wholly absent from the mind. Now, exactly the same resources have to come into the ordinary work as into what we call spiritual work. It has all to be done on a spiritual basis and therefore to be a testimony. To get through an ordinary day's work often requires something more than ordinary human resources. Spirituality consists in our doing everything as out from heaven. Let us be careful how we draw a line, lest we make a distinction between the spiritual and "the rest."

By T. Austin-Sparks from: Boundless Heavenly Resources 

2011年1月13日木曜日

いのちの御霊の原理 

チャペルに バッハの音色 響き信仰 語りし若き ヴァイオリニスト(明治学院にて1月6日)
キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した(ローマ8:2)

まず自然法則について話すことにしましょう。自然法則っていったい何ですか。栄養摂取の原理を取り上げてみなさい。その原理が尊重され、体が必要とするものが多くもなく少なくもなくちょうど与えられる限り、栄養摂取の原理が働き、全く無意識のうちに体は成長していくものです。それが無意識のうちに行なわれる自然法則の働きというものです。あなたは原理に従って座ったり、見たり、わずらったりしないでしょう。あなたのすることは食べることだけです。そのあとは原理にまかせるでしょう。もしあなたが原理に違反するならすぐわかります。しかし、原理通りに働くなら、あなたは終日栄養摂取の原理に煩わされることはないでしょう。あなたは食べ物を取り働くだけでしょう。その結果、あなたは働き、活動を続けられるのです。栄養摂取の原理は貫徹されているのです。

ちょうどキリストにある御霊の原理もその通りなんです。それがいのちの原理です。その原理が尊重されるとき実際的な働きをなすのです。この原理は無意識のうちに働くものです。それ自身で全く自然に結果を生み出します。私たちはキリストにあるいのちの御霊の原理を知るようになります。それがこの事態における最も単純な方法です。

主イエス様はご存知でした。ある定められた時でないと、動けないことも、また話すこともできないことも。主イエス様は急かすような御霊の動きやそうするいのちはお持ちにはなりませんでした。ご自身の霊においていのちを働かせられなかったのです。原理は積極的には機能しないのです。

しかし話すべき行動すべきことをすべてご存知の父なる神様が、その時がやってき、主の耳もとで「今が時だ。さあ!言いなさい。さあ!しなさい。」と言われるなら、その通り話されたのです。主イエス様は父なる神様の促しによってだけ急がれたのです。いのちの原理はこのようにして働いたのです。主イエス様は神様のみこころが何であるかをすばやく知られたのです。それがパウロの言う「御霊の心がいのちです」という意味です。

(以上は、下記のサイトの私訳です。読者諸氏の中で誤りを指摘してくださると幸いです。)


The law of the Spirit of life in Christ Jesus has made me free from the law of sin and death. (Romans 8:2)
We speak about natural laws. What are natural laws? Take the law of nourishment. Provided that law is complied with, honored; and at the right time the body is given what it needs, not more, not less; the law of nourishment deals with that and quite spontaneously works out in development, growth, to express itself in various ways. It is the working of a natural law spontaneously. You do not sit down with the law, and watch it, and worry about it. What you do is to feed yourself, and leave all the rest to the law. If you violate the law you know all about it, but acting rightly in relation to the law you will not be fretting all day long about the law of nourishment, you will simply be taking your meals and getting on with your work. The result is that you are able to work, able to go on; you are nourished.

The law of the Spirit of Life in Christ is like that. It is a law of Life, and it works out in a practical way when respected and honored. It works out spontaneously in certain directions. It has its own results quite naturally. The law of the Spirit of Life in Christ is that law by which we become aware. That is the simplest way of putting things. The Lord Jesus knew that at a certain time He could not act, could not speak; He had no movement of the Spirit in quickening, no Life to do so at that time; in His spirit there was no movement of Life; the law was not active in the positive way. But when the Father, Who knew what was required in speech or action, saw that the time had come, He did not bend down and speak with an audible voice into His ear, and say, "Now is the time! Say this! Do that!" He simply quickened Him inwardly. The law of Life became active in that direction, and He knew by an inward quickening what the mind of God was. That is what Paul means when he says, "The mind of the Spirit is Life".

By T. Austin-Sparks from: The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 6 

2011年1月7日金曜日

自我、このやっかいなもの 

河辺にて 二羽たたずむも 摂理なり 
そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。(ルカ14:33)

どんなことも、それが(主に)明け渡され、十字架の焼印を受けるまでは確立されないということは本当なのです。あなたはもうそれを経験なさいましたか。たとえあなたがそのことを神様から与えられたとしても、私たち自身のうちに絶えず、神様がくださったものにさからうという危険性が存するものです。私たちは神の賜物に自分の思いをすべりこませ、どういうわけかそれを自分のものとします。これが「自我」です!これが「肉」です!そうなのです。神様は私たちに神様の働きをゆだねなさいます。すると私たちはその働きを主にゆだね続けることをしないで、私たちの働きにしてしまい、用心深くなって自らのやりかたに他の人々が入ってきてその働きを奪ってしまわないかと恐れるようになります。ご承知のように「私たちの」働きという障害です。肉はそんな風にしてのしあがってき、他の様々な方面に、またつながりにまで手を伸ばします。神様が何かをしてくださる。すると私たちはこうなるのです。

この「肉なる性質」は神様が奇跡をもってなしてくださる事柄においてさえどうしても自分自身を閉め出そうとはしないのです。私たちは奇跡でさえ神様をほめあげるのか、それとも自分自身の肉を満足させるかのどちらかに向かうのです。神様が授けてくださることでさえ―そして恐らく神様が授けられる別の事柄を考えても―私たち自身が主に明け渡し、自らが自我の「死」の刻印を受けるまでは決して何も確立されないし、確信にいたることはないのです。自我が神様のために生き、神様に向かって生きてはじめてできるのです。そうするとたとえどんなことがあっても私たちはそのつながりのなかで神様のために、また神様に向かって生きるようになります。十字架が万事につけ神のいのちの方法です。immediately the Cross is nullified by this thing upon which the Cross says, "No, No!" we counter the life of that thing, we strangle its life, we limit its life.私たちは前進を妨げるだけでなく神様が増し加え与えようとされていることを小さなものに変えてしまいます。なぜ、神様は私たちに増し加えることがおできにならないのでしょうか。その答えは以下のもので明確であります。


それは人がこの神の働きに参加するときにどうにかしてその働きを自らのものにしてしまってきたことです。十字架はそのことをいい加減にしないで、これまでも神様に明白かつ完全で自由な道を与えるように(私たちを促)してきました。

By T. Austin-Sparks from: The Cross and the Way of Life - Chapter 4 から引用しました。題は引用者が勝手につけました。この文章はオースチン・スパークスによる一種のデボーションサイトだと思われます。本日のところはどうしても訳せず、相当意訳になっています。英語の堪能な方は直接上のサイトをご覧下さり、確認されますように。また文中の英文は訳せなかったところです。ご教示をお願いします。)

2011年1月6日木曜日

キリストの心 

しらこばと(?)の群れ 古利根川にて
私たちには、キリストの心があるのです。(1コリント2:16)

私たちの生まれながらの性質は、私たちが走ろうとしている競争において障害になる。それらはいつも様々な議論、様々な関心、それに様々な方法となって現われるのだ。「コリント人への手紙」が教会にもたらされた時、教会は明白な罪を追いやってはいたが、その方法たるや新しい支配を求めるべきところに古い生まれながらの思考や理性で処理していた。それらはいずれもこの世に属していて、神様の御霊によるものでなかった。しかし使徒(パウロ)はこのような彼らに「しかし、私たちにはキリストの心があるのです」(1コリント2:16)と忠告し、生まれながらの肉の性質と霊との間に十字架を認めるように促した。私たちは古い生まれながらの性質を捨て去る時はじめてキリストの満たしを経験し、もっともっとキリストの心のまま前進できるのだ。万事につけ、それはあらゆる判断、あらゆる推論、あらゆる分析、あらゆる評価においてということだが、私たちは次のように主に尋ねなければならない。「主よ、それはあなたの御思いですか、それとも私の思いですか」と。私たちは時々自分が明確な決断を下す最強の基盤に立っていると考える。そして自分にはすべての証拠がある。だから確信できるのだ、と。しかし私たちが間違っているのかもしれないのだ。

コリントの教会に手紙を書いた人(パウロ)は自身の深い深刻な経験から、こういう場合のことを知っていた。使徒の働きの中で「私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました」(使徒26:9)と言っている。タルソのサウロ(後のパウロ)ほど自らの進む道において強い確信を持っていた男はいなかった。彼がキリストのところに来た時起こった大革新の末、彼は「私はこれまで自らの考え方の根本からことごとく間違っていた」と言わざるを得なかった。その告白をしてからというもの、前進することが出来た。それというのも、彼はつねに自らの考え方を十字架に釘づけされた主の判断に従おうとしたからである。これが霊的な進歩の道である。私たちが自分の意見や自分の推論を大切にしている限り、たとえそれらを他の人々が支持していても前進は出来ないであろう。私たちは自らの生まれながらの性質をキリストの心に従属させることを学ばねばならない。このことは私たちが霊的な進歩に関心を持っているならもっとも重要なことである。そして霊的な進歩とはキリストが私たちのうちでつねに増し加わり大きくなることである。これ以外に道はない。

By T. Austin-Sparks from: God's Purpose in All - Chapter 1 の今朝の項目から私訳を試みました。