2011年8月28日日曜日

聖書はいのちの書です

実のある木 プルンを食べた 懐かしき 南ドイツを また歩きたし
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。(新約聖書 ヨハネ5:39~40)

(キリストは聖書を知らなかった人々には話をされませんでした。聖書を知っており、聖書が保持しているすべてを知っている人々に語られました。そして彼らの幾人かの場合には、かしらであるキリストとほとんど3年以上交わりがありました。あらゆるものがありました。教え、偉大な教え、素晴らしい教え、宗教的な教え、預言、そして約束、そして(御国の)相続など、あらゆるものです。広範な聖書知識のすべてがあり、それに加えてこのイエス様ご自身との個人的な交わりが時を越え、イエス様が言われたことを聞いたところ、言われたすべてがあ りました。彼らはイエス様がなさったことを見たのです。しかしそのすべてにわたっていのちあるものが欠けていました。それがその要点ではないでしょうか。・・・)

あらゆるものの価値はその価値が生きているところにあります。聖書の価値は私たちが聖書を知り、自由に操り、説明を(素晴らしい説明を)するところにはありません。また聖句を見事に、正確に引用するなど、その手のことができるところにはありません。キリストの仲間、クリスチャンという名がつけられることにもありません。またこの偉大な(御国の)相続や教えを保持することでもありません。そうではなく、それ自身があらゆる仕方で生きているということです。すなわちキリストのこのよみがえりのいのちが明らかになるべきであります。彼らはそのことを全く経験していませんでした。残りすべてを持っていても試練に会った時どうにもならなかったのです。それは言い方は強いですが、言うのはきついです。(That is a strong thing to say, it is a searching thing to say.)あなたはクリスチャンの言い伝えとたくさんのクリスチャンの教えを身につけており、恐らく聖書を非常に良く知っておられることでしょう。あるいはあなたがなすこと、恐らく仲間内で多くの役に立つことを考えておられることでしょう。しかしその問題が生ずるのです。あなたはそれを全部知っていますか。またあなたはそれを全部、すなわち教え、真理、聖書知識、交わりを全部獲得していますか。それはそういうことではないのです。あなたはすべてのものを持つこ とはできるが、あなた自身がすべてのことにおいて生きた要因となるこの何か生き生きとしたものによって刻印されていないことはあり得るのであります。あなたは依然として乗り物で言えば乗客的存在であり、恐らく寄生的な存在でしょう。あなた自身、本当はその価値のうちにいないのです。そのことについて正直で ありましょう。私たちはこのことを自分の問題として立ち向かう必要があります。

その答えは復活にあります。それがこれらの人々に対する答えでありますが、私たちにとってもそれが答えです。私がこのことによって言おうとしていることは歴史的事実やクリスチャンの信条の一部ではないということです。復活は歴史的な事実であることはもちろんのこと人を生かす原則であります。それは強力な力として知られたり、経験されたり、そして目的に向かって貫通するのにふさわしいと絶えず表現されるものとして先行しており、持続するものです。それが復活であり、その答えがそこにあるのです。それは復活は単にイエス様とともに起こっただけでなく、私たちのうちにあって起こり、私たちの内側に起こったことであります。イエス様のよみがえりのいのちによって私たちがイエス様と一緒によみがえらされたということを知らせる先ほどのことと同等のものがあります。そしてそれはまた単なる教義ではありません。それは本当であり、生きた真理であり、相当の昔にエルサレムにあったことはもちろんのこと、私たちに今起こることであります。単なる歴史や伝統ではなく、それは経験であります。

(歴史は私たちに何を教えますかということを尋ねられた時、誰かが歴史は私たちに歴史が何も教えないということを教えるのだと答えたということです。そしてそれは大変うがった言い方です。過去の戦争の歴史、それが私たちに教えたことは私たちに何を教えますか。「歴史は私たちに何も教えないということを教えるのです」そしてそれはあらゆる実際的な目的や完遂にとってキリスト教の教義とともにそのようになり得るのです。それは依然として私たちの現在の生活と関係のない重要な事実であるかも知れません。しかしそれは役に立たないでしょう。)

私たちはイエス様が死者からよみがえったことを信じるだけでなく、私たちがイエスとともにそのよみがえりにあって、そしてその立場に立って生きるようにならねばなりません。

(今日の箇所は The Testimony of the Christ - Chapter 9 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003344.htmlです。)

2011年8月27日土曜日

Subjective exercise

御代田の某食堂の花園の一角です。このお店は栄養満点、花満点のお店です。
ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。・・・。彼女たちは驚いた。(新約聖書 マルコ16:4,5)

(その時、このことが(訳注:主観的な訓練の必要性)主宰となっているのはどんなことですか。そのことは興味があります。そして4つの福音書の中でマルコの福音書がこの出来事に関連する主観的な訓練に言及しているただ一つのものであることに注意するのは有益だと思います。他の三つの福音書は復活の出来事を、客観的、外形的に記録するに過ぎません。人は大きな地震があったこと、一人の天使に注意せよと言います。ヨハネはマグダラのマリヤが墓にやって来て、「墓から石が取りのけてあるのを見た」と言うところまで進んでいます。しかし福音書のどれもマルコが記録していることに言及していません。すなわち彼女たちがお互いに誰が石をころがしてくれるかと問いあっていたことであります。ここに主観的な訓練があったのです。このことに帰するのです。何かは私たちのためにはもちろんのこと私たちのうちでなされねばなりません。私たちは私たちのためになされたことがらを経験するという線を続けたいのです。つまり天は私たちのために介入したとか、私たちの困難は私たちのために取り去られたとか、私たちのために道が真っ直ぐにされたとかです。天は介入する備えがありますでしょう、主なる神様は私たちのために働く用意があるでしょう。しかし主なる神様にとってそれは十分ではないのです。そしてもしそれがすべてであったら私たちにとってそれが十分良いとは言えないでしょう。霊的な成長と成熟の原則はまさしく主なる神様が客観的なことと主観的なこととのバランスを維持されることを求めるのです。それがあることが私たちのためはもちろんのこと私たちのうちになされることであります。
 それは再び十字架の原則でもあります。彼は私たちのために死なれました。それは客観的であります。私たちはキリストにあって死にました。それは主観的であります。ここに霊的な経験の二面性があります。キリストは物事のバランスを維持されます。私たちは自らのうちにこのバランスを働かせ、私たちの問題を許して主を見ないようにするこの傾向、すなわち「主はこのことについて私たちに何を教えたいと思っておられますか。このことにおいて主は私たちのうちに何をなさりたいのですか。私たちのうちに主が計画しておられることがあります。」と言う代わりに、置かれた状況を単に客観的に見るというこの頑固な私たちの習癖から解放されねばなりません。主は私たちのためにそれをなさる以前に、私たちのうちになさることをお持ちであります。私たちが主との新しい立場にやって来る時、どんなにしばしば私たちはそのことに気づいてきたでしょうか。物事が私たちのうちになされ、それから外に動きがあったのです。だから主観的な訓練に言及することは私たちがこのことを私たち自身の心で私たちのうちに変化を必要としている 何かと捕えねばならないことを暗示しているのです。私は全く確信していることですが、それが、彼らが腰を下ろして何度も何度も繰り返すことができた時感じたに違いない方法なのです。「私たちは私たちの問題で恐ろしいほどに頭が一杯でした、いったい誰が私たちのためにそれを解決できるのか問い続けました。主は私たちに私たちがこういうことについて内面的に違っていなければならないということ、すなわち、私たちが信仰、それらにまさる平安の立場を持ち、私たちが神を信じなければならないということを見させてくださいました。」私たちが外見上それにまさると知らされる優越性を知る以前に、私たちはその石にまさる優越性を内面的に獲得していなければならないのです。その石はまず第一にまさしく私たちの外側のことではないのです。それは内面的なことなのです。私たちの信仰、私たちの霊、私たちの心の中のことなのです。)

主なる神様がご自身の御子のために行動され、支配する関心をお持ちで、私たちが余りにも石が大きくて動かし得ないというような御子との関係に移された時、解決するのに余りにも大きい問題はなく、手がけるのに難しいこともないのですが、主なる神様は御子のために必要なことをなさいます。つまり私たちがそのような立場に達した時、主なる神様は非常に冷静に多くのことを自由になさるので す。私たちが言うように、それらはまさしく「起こる」のです。ああ、しかしそれらは並外れた偉大な力の行使の対象であったのです。「大きな地震が起こっ た」(マタイ28:2)けれどもここで、この状況の観点から見て、地震が起こるようには全然見えないのです。しかしちょうど起こったのです。私たちはまるでそれらがかつて存在しなかったかのような、主の巨大な力の働きが最大の困難を片付けてしまうという働きの視点があることを認識せねばなりません。時々主なる神様は私たちにしょっちゅうではありませんし、確かにいつもではないのですが、はっきりした素晴らしいご自身の力の働きの現前へと私たちを連れて行くことがおできになるのです。私たちがのちになって驚くような非常に静かなうちに障害物を脇にやることが可能になるような大変な力があるのです。「そして彼らは驚いた」すると天使は言いました。「驚いてはいけません」驚くことは良いことですが、私たちが驚く程度によって、私たちが十分信仰を持っていないせいなのだということも認識しましょう。

( 今日の箇所は The Problem of the Stoneの抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003343.htmlです。)

2011年8月26日金曜日

主のご栄光をどのようにして知らされるか

降り始め チョウチョ二羽 逢う瀬には 雨何のその 逞しきかな
主であるわたしは変わることがない。(旧約聖書 マラキ3:6)

(第2コリント3章を読むこと
 私たちは霊的であることのすべての支配的な目的は神様の栄光を知る知識の光にあることを心にとどめる必要があります。このことが創造の目的であることはこれまでの章で見て参りました。そしてその光が最初もたらされた時、それは神様の栄光のためでありました。神様の創造の働きにおいて、光に続いてもたらされたことはすべて神様の栄光を知る知識のためでありました。だから新しい創造において私たちの心を照らす光はその知識に向けられようとされているのです。この同じ目的が新しい契約に関して第2コリント3章で説明されている真理についてのより完全な方法や手段を支配しています。
 その支配的な考えを私たちはいつも記憶している必要があります。神様の栄光を知る知識の光はここでは宣教と結びついていて、それはそのような知識の所産であると見られています。
 神様の栄光は啓示されるものであります。そして私たちがこの章で知ることは旧約と新約の契約の間に見られる平行性であります。第一に神様の栄光の啓示の手段が契約であることが示されます。最初の契約は神様の栄光の啓示のための手段でした。そして同じことは新しい契約にも言えます。その啓示の仲介者は旧約の場合はモーセであり、新約の場合はキリストであります。その啓示の性質は神様の秩序の完成であり、その啓示に随伴しているものが栄光であります。このように4つのことがらが心の中に生まれていなければなりません。
(1)啓示の手段は契約である(2)啓示の仲介者はそれぞれモーセであり、キリストである(3)啓示の性質は神の秩序の完成である(4)啓示にともなうことが栄光である
恐らく、神様の秩序の完成とは何を意味するのか不思議に思われるでしょう。いいでしょうか、私たちは主がモーセに山で言われたことの(それは小さなことではありませんでしたが)すべてをともなう、支配的なもの、卓越したものが律法の板であることを知っています。この板はのちには証として知られるようになりました。契約の箱はこれらの律法の板を保存するために作られました。そして契約の箱は証の箱として知られるようになったのです。律法の板、十戒が山でモーセに与えられた全啓示を支配しました。その啓示が要約されたと言うことができます。すべては数が10であったこれらの律法と密接な関係がありました。神のみことばのすべてにあって十はつねに神の秩序の完成の数字であります。
 ここにあらわされた思想は契約について神の啓示の具体化、集大成であると言っていいでしょう。)

しかし、旧約と新約との間には大きな違いがあります。しかしそのちがいは神にあってではありません。新しい契約は神にあって何ら異なるところはないのです。主イエス様の仲介を通して私たちにもたらされている契約は私たちにとって異なった神様のところに連れて行くのではありません。イエス様にあって違いはないのです。つまりイエス様のご性質、およびご標準はつねに同じで変わらないものなのです。恵みは決して神様を低い標準に降ろすことではありません。恵みは神様の聖さをもあるいは神様の正しさにおいても何ら違いをもたらさないのです。二つの契約の違いは神様が変わられたことによるのではありません。神の立場は依然としてかつてのままであるし、聖さにおいても完全だし、義においても完全であります。違いは第一には仲介者にあり、第二には仲介者の立っている背景にあるのです。(15〜16頁)

そのことは私たちにこの栄光の中身と栄光の効用をもたらします。栄光は旧約の契約と連動していました。旧約の人々の様々な恐怖やその結果動けなくなっている様を読むと、栄光よりはもっと別の何かの結果だと考えがちであります。恐らく人々は恐る恐る啓示は栄光のなかの一つだとは知っていたのでしょう。しかし彼らは自分たちの感情を表現するとしたら、きっとそれを恐怖、恐ろしさと呼んだことでしょう。彼らはその経験について栄光とは話さなかったのでしょうが、明らかにそれは栄光でした。それは神様によるまことの啓示でした。神様はすべてにまさって栄光の神様です。もちろん人にとっては恐ろしさをともなう栄光でした。しかし恐怖は神様と無関係でした。不安、恐怖、恐れは人の弱さがもたらしたものです。ここには神様の啓示、神様の道徳的な完全さ、神様の高い標準のようなものがあるのです。その標準とはもし人々の間にあまねくそれが確保されたら、世界の様相は一変するようなものです。ちょっとでも世界が律法においてすらあらわされている 神様の標準をとおして維持されているか考えてごらんなさい。全世界が、主を神様として心を尽くし、全心全霊で、力を尽くして愛しているか、そして隣人をまたそのように愛しているか考えてごらんなさい。そのことはこの世界を変貌するにはもっぱら長い道のりを要することでありましょう。しかし律法におけるよりももっと多くのことがあるのです。律法は神様がどのようであるかを説明します。そこには恐れがありません。もしあなたがそのことを熟考するなら、そこに栄光があります。(17頁途中まで)
 それからキリストに心が占領されているこのことは、聖霊が私たちを新しい契約の仲介者としているという意 味があります。私は、その宣教はどのみち大変な重荷であるとは思わないのです。私たちは宣教の単純性と自発性に戻る必要があります。キリストに心を占領されなさい。そうすれば聖霊はあなたにキリストをますます示してくださるでしょう。そしてキリストがそれを生き生きとした本物にしてくださるとき、あなたは他の人に与えるものをもつでしょう。あなたの宣教は講壇の宣教でないかも知れません。しかしそれは宣教、他の人にとって確かなものとなるでしょう。いったい誰がそれ以上のことを求めるのですか。)

ああ、講壇の考えという「わな」があるのです。それは非常にしばしば他の人々は全然宣教者でないかのように、宣教 の全概念を構成する考えであります。(そうではなく)世界のどの人とも同じキリストを見続けるという特権があなたにあるだけなのです。そしてそうであることはあなたがキリストにあって見ることを他の人にも宣教するように召されているのにまさしくふさわしいのです。キリストを見続けることによって、私たちはある栄光から別の栄光へと同じ似姿に変えられるのです。これが後者の栄光です、新しい契約の栄光です。キリストが新しい契約の栄光です。違いは神のうちにはありません。仲介者の間の違いがあるのです。そしてまことの仲介者、主イエス・キリストのゆえに私たちが占めている位置に違いがあるのです。私たちは今やキリストのうちにあります、この方こそ神様を満足させるお方です。主は私たちにキリストにある満たしを絶えずまたいつまでも見続けることにより生ずる宣教を与えられるのです。(22頁)

(今日の箇所は Spiritual Ministry - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003342.htmlです。)

2011年8月25日木曜日

土地はのろわれている

鉢植えのイチジク、食べ頃。しかしアリは誰よりも早く蜜を吸っている。土地は・・・
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。(新約聖書 ローマ8:20)

私たちの視界に入るものが見られるような窓として役立つ一文章を探り求めるとしたら、もっとも効果あるもののように見える文章は「地が手出しするのろい」でありま す。こういう文章の最後の三つのことば(訳注:のろい、土地、接触)の意味することを理解することは霊的な、世俗的な歴史を丸抱え説明することになりま す。

(私たちはこの土地がのろいのもとにあるという事実を再強調することによって始めねばなりません。このことは創世記 3:18,19、ローマ8:20~23の双方において強調して述べられています。キリストが十字架による贖いを効果あらしめたにもかかわらず、そのことは被造物に関するなら可能性に過ぎなく、「キリストにある」人々の場合に霊的なことであるに過ぎないのです。「被造物自身」も「私たちの体」も「神の御子のあらわれ」、贖いの働きの完成を待ち望んでいるのです。信者だけが「のろい」から解放されています。その間、被造物はのろいのもとにうめいているのです。
 この地は2ペテロ3:7,10~13の火によって焼きつくされ、聖められます。かなり数世紀前に書かれたこれらのみことばは、書かれた当時いた人よりも多くの人によってはるかに理解しやすいことばです。この完成に向かって急速な進行は私たちの一生涯にも満たないで、「主の日は近い」と叫んでいます。だからのろいが今あるのです。急速に時は縮まっています。地上のどの地域も終局に向かって終わりからまぬがれることはないのです。)

のろいの性質と特徴は聖書がいたるところであらわすように、失望、挫折、困惑、不満、失敗、混乱、苦難、破綻、そして絶えず絶望と死との戦いに敗北させられるのです。

(神の目的に大々的に仕えたそんなに多くのものがなぜ結果として崩壊し、壊され、過去に生きていたものよりほとんどなくなるというのですか。なぜ主ご自身はこれを避けないで、主が用いられた完全な道具や用具を維持されなかったのですか。なぜ分離に分離が続き、聖書の真理に関して完全な位置をもとめて大変用心深かった多くのものの道にほとんど際限なく続くというのですか。
 こういうようなまた多くのそのような質問に対して答えは一つしかありません。その答えは地が手を出すということです。)

どこかで、どういうわけか、駄目にする結びつきがなされてきたのです。この地に貢献する所作があったのです。人は天的なことがらに手を伸ばし、それらをこの地にもたらそうとつとめてきました。それが様々な要素の性質を持つ「新約聖書の教会」であるのかもしれません。新約聖書の記録と一致して教えられ、成立し、なされた一定のことがら。一定の秩序、方法、構造、こういうものが一括して教義、手順の形式のために引き出され、「基盤」、すなわち型や基準、からだ、制度、社会の「組織」とされてきたのです。人の心、人の手が定義し、支配し、維持することによってです。歴史の判断は神がいかなるこのようなことがらに対していささかもご自身をゆだねられないだろうということです。

(教会が最初実際に誕生した時、教会は「上から生まれ」ました。 それは大きな、ほとんど恐ろしいと言っても良い危機を、すなわちキリストが十字架につかれたことにより崩壊する危機を収束するものでした。教会が誕生するようになった時、あらゆる場合において、それはこの人の内側からする激変と革新がそれぞれの地方にあらわれておこる繰り返しでした。教会は決して一人の人や人々によってつくられたのではありません。それはたとえどんなに最大の使徒たちにあってもです。)

使徒たちは行くところどこにあっても新約聖書の教会の 「青写真」を持ち込みませんでした。彼らの働きの結末は危機でした。古い造られしものは頂点に上り、新しく創造されたものが認められるという危機でした。 秩序や知識に続いたものは有機的でありました、決して組織化されたものではありません。自発的なものであって強制によるものではありません。いのちであって規則ではありません。なかんづく天的であって、地的ではありません。事態が悪化するのは、人がこれを地に引き下ろした時にはじめてそうなるのです。

(神様は多くの時、何かをもって新しい動きを天的になさってきましたが、最初そこに導かれた人々の上には天からする大きな影響があったのです。人々の間に地上と天上との間のそのような根本的な分離がありました。それは「すべてが新しくなった」という分離です。人々にとって二つの世界が分離され、妥協することのない内側からする断絶が生じたのです。もし悲劇がのちにやって来るとしたら、二つの点の上にあったように見ることができます。
1、これらのうち最初のものは彼らがその歴史を他の人々のために形式や枠組みとして結晶化することを求めることによって自身の歴史の原則をまさしく破ったのです。彼らは「キリストの十字架」の意味を完全な見方で維持し、他の人々にある危機のために骨折る代わりに一組の形式を提案したり、強制したのです。
2、 それから別のものが生じましたが、それは偽物であったり不適当な背景のもとに生じたことでした。彼らはそのいのちを感じ、良いものを(客観的に)見、そして価値を求めました。しかしすべてが犠牲や危機を経ることなしにです。破産もなければ、駄目になる危機もなく、天は開かれず、骨折りもせず、ただ祝福とおそらく地位を求めての価値だったのでしょう。彼らの以前の精神、伝統、野心は触れられず仕舞いでした。彼らの生まれながらの判断力は壊されることがなかったのです。地による手出しはこのようになされ、事態の性格は変化してしまいました。混乱と矛盾の物語、基準・影響および天来の栄光の欠如が気づかれないうちに始まり、いつからかのちにはじめて危機がその人々の上に襲い、下降を意味する変化が生じたのです。)

ああ、これは何たる地の手出しでしょうか。どれほどそのことは致命的でしょうか。主の民は一体いつになったら天におられるキリストとのつながりの本質の意味を理解するのでしょうか。

(今日の箇所は The Curse of the Earth Touch の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003341.htmlです。ところどころおかしな訳のところがあります。いやいや随分あります。読者の方で直して投稿してくださると助かります。今日の箇所はオースチン・スパークス氏が日頃から強調しているところですが、6頁ほどの原文を全部お読みになることをお勧めします。)

2011年8月24日水曜日

完全なキリストのいのち

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。(新約聖書 コロサイ3:3~4)

(十字架の主イエス様の働きは二つの観点で説明されて参りました。一方では十字架の働きは実際に完全であり究極的であったと言及しました。主は死の力を持つもの、また死そのものであるものを打ち壊したという事実です。主ご自身に関する限りそのことは完了した働きであります。神の右の座に着かれた主は死、墓、サタンが滅びに移され、もはや主に対しては何の力も及ぼさないと宣言されます。
   他方で私たちが十字架の潜在的な働きと呼んできたものがあります。それはキリストはご自身においては完全で究極的なことをなさったのであるが、聖徒にあってはまだ完全で究極的とはなっていないということです。そのことは聖徒のためであったのですが、まだ彼らの体験としては完全とはなっていなかったのです。そのことは教会に関しても教会がキリストのうちにあり、そのかしらであったとしても、完了したということはやはり潜在的であるのです。 キリストの十字架の働きの結果として、そしてよみがえりという重大な結果として、永遠のいのちはもうすでに信ずる人々に受け入れられているのです。
 しかし、そのいのちが勝利あるものであり、滅びざるものであり、壊されざるものであるのに対して、信者は信仰によって近づき、それを証し、それによって生き、 律法を学び、一つにされねばなりません。その勝利、その力、その栄光、その能力に関する限り、何もつけ加えることはできません。しかし、霊的な体験、霊的な生活の進む道筋は、そのいのちが代表するすべてのものや手段によって発見し、割り当て、生きることです。つまり霊的な生活と体験の道は、内側にあるものであり、上から助けられるそのいのちの価値によって、発見し生きる道なのです。)

そのことを識別あることばとして認識することは重要です。私たちは往々にして、私たちのうちにある主のいのちが何らかの方法で改善され、加えられる必要があると思いがちです。それはどのような時かと言うと、必要とされることは私たちが持っているものを発見しなければならず、そしてそれを体験によって発見することはそれに応じて生きなければならない時のことです。このいのちは主イエス様を離れたものではありません。だから私たちは決して何らかの改善の必要やキリストを完全にあるいはもっと完全にするためにキリストにつけ加えられるものの可能性をキリストに代置しようと考えることはできないのです。私たちはそのように決して考えることはないでしょう。そしてこのいのちはキリストご自身と一つであります。使徒が言いますように、それは私たちのいのちであるキリストであり、私たちの必要はキリストが私たちのうちにおられることを発見し、それにしたがって生きることです。だから、まさしく本当の意味で、私たちがいのちをもっと得ることよりも、むしろ、いのちが私たちをもっと得ることの方が問題であります。とにかくそれがいのちのはたらきの道であります。

神の秩序にあってはこのことが死が依然として支配し働いている世界でなされねばなりません。というのはこの世にあっては死を打ち壊すことはまだ明白になってはいないからです。カルバリが依然として完全な勝利を残しているにもかかわらず、死は悪魔のように存続しているのです。私たちはこの世にあって取り残されています。そして死が支配し、大きな力をもって働いているこの世にあって、私たちはこの支配的な神の秩序によって、私たちに預託されてきたいのちの価値を 証しその潜在力を発見するようにならねばならないということです。これが体験による発見であります。したがってそれはこの世にあるものと信者のうちにある いのちの闘争に変化するのです。それがいのちに対する戦いです。その戦いはそのいのちが喪失されることでもなく、また死が私たちから永遠のいのちを奪い去ることができるかどうかでもなく(というのはそれは争点ではないからです)、そのいのちの力の勝利ある表現と完全な顕現に関するものであります。それが争点であります。

(今日の箇所は The Battle For Life - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003337.htmlです。)

2011年8月23日火曜日

キリストをあらわすこと

夏の思い出、芹川上流
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、(新約聖書 エペソ1:18)

(・・・キリスト教は今やそのようなものにほとんど完全になってしまいました。実際に大多数のクリスチャンにとって、特に彼らのリーダーたちにとって次のことは理解したり信ずることさえ不可能なのです。つまり神がご自身の働きを委員会、理事会、機構、広告、組織、訴え、報告、名前、代理、後援者、宣伝活動、出版などなしになすことができるということです。もしこれらのものが「認知された」後援者とともに存在しないなら、たとえ存在することが信じられていても、そのものは信用されないのです。・・・
 私たちは新約聖書がそのうちに簡潔で限定的かつ十分な啓示を今日の終わりの時代に対する神のみ心に関して持っていること、そしてその啓示には教会の構成や使命のすべてのことがらにあって起こる、あらゆる疑問、すなわち何が、誰が、どのようにかについて答えがあると述べてきました。
  その啓示とは何ですか。その答えはそのような組織ではなく、人であります。新約聖書において第二次的なことであり、結果であることが今や主要なものとされてきました。それは、結果が第一のものとされ、支配的なこととされたということです。それなのに原因として結果の前に生ずるものは見過ごされているのです。
 もし私たちが振り返って見るなら、聖霊の最初の働きのもとであきらかになったことはキリストを体験することの結果だったと知るでしょう。それによって私たちはあの使徒(パウロ)が信者のための祈りを記録した時、言おうとしたことを指し示していることになるのです。「私たちの主イエス・キリストの神が・・・神を知るための知恵と啓示の御霊をあなたがたに与えてくださいますように、また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、・・・あなたがたが知ることができますように」(エペソ1:17~19)など)

そのことは永遠にして遍在する秩序にあるイエス様の素晴らしい意義を理解し体験することです。使徒たちとともにその体験することはからだを通して交わることができた日々に続くものでした。復活後40日間は新しい日の夜明けのようでした。第一には不確かな光が天を通り過ぎて行く時のような暗示がありました。それからペンテコステの日に続いてもっと確かで堅固な光線があらわれて、太陽が不確かな最後の影を一掃して地平線を越えて栄光のうちに姿を現す時のようでした。その日には彼らは開かれた天によってイエス様を見ました。過去の謎は吹きさらわれました。聖書が一冊の新しい本のように開かれて目の前にあるのです。彼らは永遠の光の中でイエス様を知ったのです。イエス様が栄化された方、人格ある方、神の御子であったのに対して、イエス様はご自身で偉大で広大な天的・霊的な秩序と体系の体現者であることを知り始めました。この経験は全く革命的なことでした。危機を脱出し、新しい世界、新しい創造が誕生したのです。

この根本的な原則に忠実にあらゆる広範囲にわたるその啓示が何世紀も使徒パウロをとおして彼から私たちに知らされてきたのです。それはその危機から(脱出させられ)立ち上がった彼によって次のように述べられているとおりです。「御子を私のうちに啓示することをよしとされた」(ガラテヤ1:16)「私はそれを・・・イエス・キリストの啓示 によって受けた」(同12)あらゆる関係は危機でした。しかし、完全な満足は漸進的でかつ絶えず成長する啓示にあったのです。

いくつかの初期の証があったにもかかわらず、使徒たちは会議で活動や宣教に関連するお膳立てや組織を公式化することはしませんでした。新しいいのちは古い衣を脱ぎ捨て、「内側から」という新しい衣を持つ有機体を身に羽織りました。内側の聖霊による力、エネルギー、促しが彼らが考えもしなかった道、秩序を生み出したのです。それは彼らにとっても驚きでした。起こったことはまさしくキリストが彼らのうちに、新しい誕生と成長によって個人としても集団としても形成したものでした。個々の信者も仲間もキリストをあらわすようになったのです。

(ここに私たちはクリスチャン生活と教会の絶対不可欠な性質を見出すのです。神様の考えにあってクリスチャンは何のために存在するのですか。教会は何のために存在するのですか。地方教会は何のために存在するのですか。一つの答えがあるのみです。その存在と役割はキリストをあらわすことです。それ以上もそれ以下の何ものもありません。キリストがアルファでありオメガです、始めであり、終わりです。そしてすべてはその中にあるのです!そのことを出発点としましょう・・・)

(今日の箇所は According to Christ - 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003336.htmlです。)

2011年8月22日月曜日

神を良く知るとは何と素晴らしいことか

しかし、自分の神を良く知っている人々は堅く立って事を行なうのです。(旧約聖書 ダニエル11:32)

(神は王座についておられます。そして世界情勢を処理するのに必要なあらゆる力やあらゆる用意を備えておられるのです。しかし神は人々を通して権力と権威と栄光が完全に行使され表されるように、選び任命されました。その人々とは神の満たしのうちに神を個人的に知る基盤に立って神との生き生きとした結びつきへと招かれて来た人々であります。
 新約聖書はその勝利の大いなる啓示であります。)

十字架の後、神の力のすべての満たしは、その十字架に よって主と完全に一つとされた人々を通して世にあらわされました。それは偉大な世の体系によってはまだ知られていない世界情勢の上に及ぶ大変な力の解放を意味する特別な知識であります。

第一にこの神についての知識は啓示によるものだということを忘れないでいましょう。私たちはこの神についての知識を単に聖書の字面を読んだり、人から聞いたり、集会に出席することによって得ることができないのです。

(人々は主の民の集まりを見回す時、どの集まりにも、修養会にも、どれだけたくさんの人がこのことを個人的な啓示によって体験し、またどれだけたくさんのものが話し手が言うことを聞いて来たことに代置するものであるかを知って驚くばかりです。もしこのことが聖霊があなたの人格に働きかけ、個人的な啓示と内なる人の誕生によってあなたの一部分となられないのなら、その時あなたはあらゆる真理を可能なものとして聞くことはできるかもしれないが、効果はないことが明らかになるでしょう。理屈として、また教えとしてこのことを初めから終わりまで知っているあなたがたのうちで、どれだけの人が一体その働きのために神の並外れた力の媒体となっているでしょうか。)

あなたはそのことのすべてを知的な理解力によって理解し用語や聖句を知り使うことはできるかも知れません。しかしこのことの原動力になる力についての理解はどうですか。置かれた状況において私たちの人格は何をしようとしていますか。その力はたとえいかなる人間的な基盤の上で重視され得ないことであったとしても、しかし世の組織、世の方法、世の資源によって代表される力よりははるかに大きい力であるることが重要なことと考えられているでしょうか。それが最も大切な問いなのです。このことが今生きていますか。それとも修養会を通してその知的な理解をもう少し獲得したことで終わってしまったのですか。私たちはこのことにおいて神を一人一人の内側に働く啓示に導かれて知っていますか。

(パウロはこのことを強調しています。「主が御子を私のうちに啓示することをよしとされ た」(ガラテヤ1:16)「啓示により、人からではない」(同1:12)「私は使徒に相談するためにエルサレムに上らず、アラビヤに出て行った。このこと が私のうちに成し遂げられた」

あなたがサハラ砂漠のど真ん中に突然追いやられるかどうかは問題ではありません。あなたはあなたの神を知り、あらゆる自然の助けから独立して立つことができるのです。このことがあなたのものとなったのです!それが力を意味する知識の本質なのです。それが世に勝利する経験の本質なのです。それがあらゆる他の仕組みを沈ませ、あなたにそれらにまさり凱歌をあげさせるものの本質なのです。それが初代教会の秘訣でした。王様たちに彼らが好むことをしてもらいましょう。人々が怒るにまかせましょう。そのことが続くのです。このことの前に粉々になるのはローマ帝国であって、ローマ帝国の前に沈没するのはこのことではないのです。それが独立した一人一人の神の知識であり、生きている内なる人の誕生の結果であります。客観的な真理であるだけでなく、主体的な力であって、もっとも微小な断片である知られた真理がその働く能力において生き生きとした個人の体験となる素晴らしい日です。それが私たちが求めていることです。 じかに得た知識であって二番煎じの真理ではないのです。願わくは神様がこのことが私たちのものとなるまで私たちのまさしく人格のうちに働いてくださいますように。あなたが好むなら断片的にでも取り上げなさい。そして主があなたのうちに成し遂げてくださり、あなたのうちにそれが生きるように願い求めましょう。)

第二にそれは苦痛の方法によって来るものです。あなたにとって啓示されたことを真理として、また恐らくはキリストの十字架についての何かあるいはサタンに対する勝利ととらえ、そのことを知っていると思い、言うでしょう。これは素晴らしい!。そしてあなたはそのことを話し始めます。ところが間もなく何かが起こります。あなたの環境に手が触れられるのです。今やあなたはこの真理を受け入れます。恐ろしい苦痛の渦に落ちこみ、地獄の門にまでまっさかさまに落ち、あなたの存在は奥深いところから混乱させられ、四六時中、あの真理は有効なのだろうかという疑問がおこります。果たしてうまくいきますか。あなたが落ちるところまで落ちてしまったとき、肉と自我が取り扱われ、主に勝利を求めて真剣になってすがるのです。そのとき明らかになり、あなたはそれを存在の深淵にいたるまでそのことを試みたのです。そのことはあなたのものとなりました。そしてそれからあなたは恐ろしい戦いと暗やみの中にある他の人のところに行って、次のように言うことができます。「私は知っています。このことを知っています、神は真実であることを、また勝利を知っています」あなたはあなたの知ったことを大変強調します。それはあなたがもはや疑いなく持っていることです。なぜならあなたはその深部にまで降りて行って明らかにされ、 まさしくその痛みを経験することによってそのことが明らかであることが証明されたからです。

(それがそのように自分の神を知り、大事にする人々です。世界の あらゆる他の力よりももっと偉大な力があります。その力はあなたを通して仲介されるものですが、それはあなたが痛みと悩みを通して個人的な体験をもとに神様を知るものとして初めて仲介されるものです。
 それからこの神を知る知識は絶対的に無条件の服従によってはじめて生ずるのです。・・・)

(今日の箇所は The People That Do Exploits の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003335.htmlです。かっこ内はいずれも読者のために原文に増し加え訳したものです。)

2011年8月16日火曜日

キリストに支配される生活

             ききょう。(浅間サンラインロード道ばたで
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(新約聖書 コロサイ2:9~10)

(教会とは何ですか。神の考えは〈宗教としての〉キリスト教ではありません。キリスト教の組織される中心としての教会でもありません。キリスト者の教えや事業を押し広げることでもありません。神の考えはキリストがすべてであり、すべてのうちにキリストがおられるとする人々を地上に持つことです。それが教会です。私たちは自らの考えを訂正しなければなりません。神の考えにあっては教会が初めであり終わりであります。もちろん、それは主イエス・キリストが絶対的な主権を持つことをともなっていなければなりませんが。そして神がつねにもくろんでおられることはこのようなほとんど神の考えを完全に悟り、神ご自身の永遠にわたる欲求が満足となるような神の民を集めることであります。主イエスが万事において卓越しており、すべてであり、すべてのうちにおられるということです。

 神は立派な組織、いわゆる「教会」を通り過ぎられ、謙遜で悔いた心を持ち、みことばにおののき、主イエス様が礼拝されるべきお方であり、唯一の目的であるとする人々とともにおられるのです。そのような人々が神の心を満足させるのです。神にとってはそのような人々が永遠に探し求められる答えであります。神のみことばがそう言っているのをお認めになるでしょう。もう一度コロサイ3:11をご覧ください。「そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」そこでは彼らは「新しい人を着、その新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」(同3:10)そこのところをよく調べてごらんなさい。そうすればこれが集められる人、教会、キリストのからだ、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられる」(エペソ1:23)ということがわかるでしょう。そして、そこでは、すなわち集まる人においてはもはやギリシヤ人とユダヤ人(という区別)はあり得ないのです。

 みことばに注意してください。みことばはギリシヤ人とユダヤ人が祝福された交わりのうちに入って来るとは言っていないのです。そうではないのです。あなたは教会にあっては国籍は持ちません。すべての国籍は剥奪され、今やギリシヤ人でもユダヤ人でも、奴隷でも自由人でもない、一つの霊的に新しくされた人、新しい創造を体験するのです。全地上的な違いは永遠に消え去り、一人の新しい人を体験するのです。右腕がユダヤ人ではありません、左腕がギリシヤ人でもないのです。そうです。彼らは消えて行きました。その教会には一人の新しい人がいるのです。国教会の人もウエスレー派の人もバプテスト信者も組合教会の人もその残りのすべての人が一緒になり、時間が経過してお互いの違いが消えて行くそういう結びつきではありません。それは教会ではありません。教会にあってはこれらの違いが時の経過のためにただ覆い隠されるのではありません。もともと彼らは存在しないのです。一つのからだ、一つの霊があるのです。教会は「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」これであります。それを知りなさい。そうすれば教会を経験します。他の何かを教会に求め、先のことばなしになさしめてみなさい。反対になります。それによって試してごらんなさい。

 もし神の考えやその思いに沿うキリスト者生活がまさしくこのようであり、つまり「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」ことが真実であるなら、あなたも私も本当のクリスチャンとなっているでしょうか。と申しますのは私たちは十字架によって主イエス様に席を譲るために出て行ったことを見て来たからであります。今やもし私たちがカルバリの道によって主のところに来たことを告白するなら、どうやらその十字架によって私たちが機能しなくなり、キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるようになったのかもしれません。

 このことについてはどうですか。私たちは世のほんの少しのことでも望んでいますか。相変わらず、主イエス様以外のあれやこれやのことに自然と心が傾きますか。なぜなら主イエス様は全く満足されたことがなく、私たちが中心となっているに違いないからです。世的なキリスト者は〈キリスト者という〉称号において矛盾します。キリスト以外に何かをほんの少しでも持つことは、カルバリを否定し、神がキリストに関して永遠に目論まれていることに反対することが中心になっていることです。あなたはその責任を取られますか。神はこのことを御子に関して永遠から決定しておられました。ですから私たちは主イエス様に属するものであることを告白できますか。しかし同時に私たちにとってキリストがすべてであり、すべてのうちにおられることが本当のこととはなっていませんか。もしなっていないのなら、何かが間違っています。否定があり、矛盾があるからです。私たちは神の考えと計画に反対しているのです。キリストがすべてであり、すべてであることは本当ですか。もし私たちがそのことに完全に一致するなら、キリストがすべてとなられます。)


ああ、これまで私たちの耳にささやき続けられているかすかな示唆、つまりもし私たちがあれやこれやをあきらめるなら、私たちは損をし、いのちはますます貧しくなり、何も残らないまでに段々狭くされていくということです。(しかし)それはうそです。それは私たちに対する神の偉大な考えに対抗するものです。私たちに対する神の考えは御子、イエス・キリスト(このお方にあって神のすべての満たしはからだをもって宿っている)以外の何ものも私たちの満たしとなるべきでないというものです。私たちにとってキリストにある神の完全な満たしがあるのです!皆さんはキリストを拒絶することによっては決してそこには達し得ないのです。もしあなたが主とともに全行程を歩みたくないのなら、生活は必要とされる以下のものになるに違いありません。私たちが主にささげ、生活の中で完全にキリストに放棄し、主からのものでないものは完全に切り捨てることにおいて獲得するものは奉仕の領域のものです。肉はキリスト者の働きを見せびらかすことを求め、そしてもし主に頼り続けるなら不安なときを持つことになると語ります。しかし神に頼る生活は絶えず愛のある生活たりうるのです。そこでは私たちが絶えず驚きとなる発見をさせるのです。

あなたは一分間はほとんど死ぬかもしれません。次に主はあなたにすることを与え、あなたは息つぎする息を主に依存して大変活動的になります。しかしこのようにしてあなたは主を知るようになるのです。それからその経験をして後、あなたはしばらくの間まるで絶望的になり再び死にます。しかしあなたは主がなさったことを思い出します。それから主は再び事をなさるのです。それですから生活は愛あるものとなるのです。しかし誰もあなたがまさしく息つぎを主に頼っていたとは想像もしないことでしょう。あなたが全く何もできなかったとき、主がそれをなしてくださるということを知ることは何という祝福でしょうか。それは人間的に見ても、自然からしても不可能です。しかし主はそれをなさるのです!(9〜11頁)

(今日の箇所は Christ - All, and In All の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003323.htmlです。この項は8.The explanation of the churchの抜粋文ですが、原文では物足りないので、最初から2頁ほど訳し加えましたので文章が少し長くなりました。)

2011年8月15日月曜日

御子との交わりに召されることの喜び

 蝉は幼虫として多年地下生活を送り、数日のいのちと言う

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。(新約聖書 1コリント1:9)


(主が与えてくださったと私が感じている実際的なメッセージに入る前に、一二予備的なことを申し上げたいのです。もし皆さんが、キリスト教の内、外にある今日の状態について何かをご存知なら、今の時代の最大の必要はキリスト教を再評価すること、つまりキリストのもとに来て、受け継ぐものを新しく理解することにあるという私の考えに同意してくださるだろうと思います。キリスト教の本当の特質や本質についてたくさんのもの、非常にたくさんのものがこれまで失われて参りました。たくさんの歪曲があり、その結果混乱を招きいてきました。繰り返しますが、今の時代に必要なことは私たちがキリストを受け継ぐとき、受け継ぐものがどんなことかを再び示すことであり、理解することであります。)


今は安っぽい時代です。「できるだけ安くかつ急いで、ほとんどお金をかけないで、退屈なしに獲得せよ。」「急いで獲得せよ、たやすく獲得せよ」そういう考えが全世界の仕組みを支配しています。すべてのことが今や容易になされ、速やかになされるようにと隊列を整えているのです。台所にあっても家事やありとあらゆる他の分野にあってもそんな風なのです。この世にあって真実なことが今や霊的にもほとんど真実となってきました。水準はおそろしく低下されてきました。大きいことが偉大さに置き換わりました。偉大さ、もはやそのことばの本当の意味が考慮されないのです。ああ、どんなに「大きいこと、そうだ、より大きければ大きいほど確実に最大の成功に満ちている」と聞かされることでしょうか。しかしこれは聖書とは、すなわちあらゆる福音とは完全に相反します。気楽なこと、軽さ、魅惑的なこと、興奮させること、情動、こういうものが今の時代の道理です。今話しているこの性急さはキリスト教にかなり大きく入り込んで来ており、その結果私たちのまわりは全く貧相なタイプのクリスチャンがいるのです。


しかし、今特に若い人の側で確かなものを求めてあきらかな伝道活動があることを私は大変喜んでいます。若い人たちは不確かなものに疲れ、病んでいます。そのことは、もし彼らが実体あるものを見出し、今日惜しげもなく言いふらされている代用品、それは実体があるように見え、幻想でしかないのですが、そのところに行きさえしないなら大変良いことです。(1~2頁)


主にあって喜んでいることに関して言うならば、時々幸せであることと喜びに満ちていることの間には大きな隔てがあります。「幸せ」は「出来事」に依存します。ところが「喜び」はたとえどんなことが「起ころう」とも持続するのです。いいでしょうか、これが私が初めに言わなければならなかったことです。私たちがキリストを受け継いだ時、私たちが受け継いだものの本当の性質を取り戻しかつ再評価する必要性があるのです。(3頁)


パウロは窓を開き、ちょうどピリピ人へのその手紙で「神の御姿であられる方」(ピリピ2:6)と言い、私たちに一瞥させています。他の何ものよりもはるか以前からこの方はおられ、私たちはこの方を受け継いだのです。そして交わりという言葉どおり、私たちはこの方との「お交わりに召されている」のです。(5頁)


私たちは何らかの非常に小さく、軽い、つまらないものを受け継いでは来ませんでした。たとえどんなに私たちがコーラスなどを喜んで歌っていることであっても、このことはちゃちなことでないことを覚えてください。このことは小さいことではありません。いい加減なことではありません。このことは全世界を受け入れることであり、私たちはその交わりへと召されているのです。いいでしょうか。私たちは交わりがどんなものであり、交わりのうちに誰がいるかをさらに知らねばなりません。このことはまだ主イエス様を讃える始まりに過ぎません。私は皆さんが愛しているお方、また救い主と主とお呼びしているお方の素晴らしさを新たな思いで一瞥されるようになることを祈ります。(11頁)


(今日の箇所はCalled Unto the Fellowship of His Son - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003322.htmlです。このメッセージはオースティン・スパークス氏が生前語ったものの聞き書きですから、ここで今と言われているのは、少なくとも今から4、50年前の時代です。文章中にも訳しましたが原文を以下に載せます。While we are going to be joyful in the Lord, sometimes there is a large gap between being happy and joyful. "Happy" depends upon "hap": "Joy" goes on whatever "happens." 味わうべき言葉だと思われませんか。)

2011年8月13日土曜日

夏休み番外編⑤すべてのいけにえと捧げ物が完成した

読む箇所:ヨハネ7:1,2,14,37〜39

この箇所は仮庵の祭りの行われているところで、民数記29章にまで戻ります。もし、その箇所をご覧になればこの祭りの大いなる日に至るまで何が動因となっているか、わかるでしょう。あらゆる様々な捧げ物が主の前に差し出されました。(捧げ物は全部その章で言及されているので、それらを一々列挙する必要はないでしょう)それから祭りの最後の大いなる日がやって来たのです。

その日は「仮庵の祭り」と呼ばれますが、「ラッパの祭り」とも呼ばれます。その最後の大いなる日に祭司たちは、水の入った大きな器を運び出し、そこからエルサレムの宮の段の最上部にその水を注ぎ出すのです。そのため、大変な水かさとなって流れ下りました。イエス様はその時前に進みでられたのです。イエス様にあってあらゆる捧げ物が神様の前にあらわされています。

人としてのイエス様はあらゆる捧げ物といけにえのあらわれであり、あらゆる神様の要求を完成するものとしてご自身を主に差し出されるのです。それからこの仮庵の祭りの日に来られます。民数記には「ラッパが吹き鳴らされる日」(訳注:民数記29:1)と言っています。イエス様は言うならばラッパを手に取られて「大声で言われた」(ヨハネ7:37)のです。ここに型としての仮庵の祭りのラッパがあります。イエス様にあってあらゆる捧げ物が完成されるのです。神様は完全に満足され、その結果、御霊を充分に注ぎ出すことができるのです。イエス様はラッパのように「わたしを信じる者は(略)その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と叫ばれました。

これが新しいイスラエル人であるすべての人々の相続財産です。あなたの相続財産でもあります。もし、神様のみことばが真実であるなら、また、キリストの言われたことが真実であるなら(そしてキリストは大声で叫んでそのことが真実であることを知らさせようとなさったのですが)、そしてあなたと私がイエス・キリストを自分たちのための神様の完全な満たしである、つまり神様がご自身に約束しておられたあらゆるささげものをもたらし、あらゆるいけにえと捧げ物を満たすお方だと受け入れるなら、その時キリストの叫びは私たちにとっても真実なのです。

生ける水の川は私たちから流れ出て、他の人々は私たちをとおしてキリストのいのちを受け入れることができるのです。私たちはキリストの水路であります。そのことはすべての本当の信者とともにどのようにあるべきかが示されていますが、イエス様は私たちのために完全に神様を満足させてそのことを可能にしてくださったのです。

だから、新しいイスラエルの人々は自分たちから川が流れ出る人々でなければなりません。あなたの信仰を信じ、確信を持ちなさい。黙っていてはいけません。ラッパを取り出し、人々に聞かせてください。そうすればあなたが主イエス様を証し始めるとき、他の方々がいのちを受け入れることに驚かされることでしょう。何かが彼らに起こります。もし、あなたが口を閉ざしたままで、家でも、近所でも、職場でも主イエス様を証することを拒んでいるなら、御霊の川の流れをさえぎることになります。あなたはあなたから流れ出てくるはずの川の流れをさえぎっているのです。

さあ、もし、今まであなたがそうなさったことがなかったら、試みてください。私はあなたに伝えたいのです。あなたの証をとおして主イエス様のところに来られる方はあなたにあって解放されることでしょう。その結果あなたはもう二度と口を閉ざしたままでいたいとは思われないでしょう。

口を閉ざしたままでいる大勢のみじめなクリスチャンがいます。話し過ぎるのですが、主イエス様を十分話さない人がかなりいます。そのために自身のクリスチャン生活を台無しにしています。主イエス様のラッパを取り、大声で言いましょう。そうすれば、御霊の川が流れ始めるでしょう。

新しいイスラエル人である私たちは、私たちのために神様にとっては、また私たちにとっては神様からと、いずれにとってもイエス様が全く十分であると宣言し、仮庵の祭りを守り続ける必要があります。

(40年以上前、私は度重なる大学受験失敗のため、劣等感の虜になっていました。今もその性質は根強く残っています。しかし、私は今日の聖書の箇所、ヨハネ7:37〜39を信じて、根本的にそこから解放されました。人にはそれぞれ賜物が創造主から与えられており、それだけでなく、神の愛はイエスを信じる者の内側から溢れ出る愛となって流れ出ることを瞬時に悟らされたのです。もちろんそのときはオースティン・スパークス氏がここで明らかにしようとしている委細は知りようもありませんでしたし、知ってもいませんでした。聖書信仰は全聖書を知って信じるものでないと私は考えます。私のように無知であり、ほんの一部の聖書しか知らない者であっても、みことばを信じる者に確かな生き方を与えてくれるのです。そしていったん信じた者に聖書はさらに深く深くその真理を伝授してくれるのです。)

2011年8月12日金曜日

夏休み番外編④天から与えられる食べ物の奇跡と奥義

(オースティン・スパークス氏はヨハネの福音書にユダヤ教の背景があるものとして16のポイントをあげています。今日ご紹介するのはその中の10ポイント目に該当するものです。)

読む箇所:ヨハネの福音書6章

このことについてはすでに何度かお話したことがあります。ユダヤ教の背景は32節にあります。「天からのパンを与えたのはモーセではありません。わたしの父です。」ユダヤ人のいる前でイエス様はおっしゃっているのです。「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えます。(略)わたしがいのちのパンです。」と。

ヨハネが荒野のマナについて広範囲にわたる文章71節を網羅して明らかにしているのは一つの論点であります。それは人間的に不可能な状態において神の食べものがいかに与えられるのかという論点です。このことは自然の領域を出て明らかに超自然の領域へと連れて行かれることです。

ニコデモ、彼はイスラエル人のまさしく典型ですが、キリストによって強力な〈どのように〉と疑問を起こされた要求に直面しました。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。」その疑問はクリスチャン生活の始まりの奇跡を自明なこととして仮定していたのです。

「いのちのパン」であるキリストご自身が、いたるところ霊的な荒廃があるとき、神の民のいのちを養われるということは、第一に奇跡であり、第二に事実であり、第三にキリストとの生き生きとしたつながりを試みるものです。この奇跡と事実は霊的な支えに何の地上的な手段を持たなかったかなり多くの人の活力と忍耐の長い歴史が証明しているものです。私たちの生活がキリスト自身に収斂されており、単なる宗教に支配されていないなら、私たちが歩み続ける方法は奇跡となることでしょう。

おそらく、これが神の多方面にわたる知恵が教会によって支配と権力にまさって知らされ、私たちが〈キリストの恵みの栄光〉にある道の一つとなることでしょう。

2011年8月11日木曜日

夏休み番外編③いのちのみことばと死の律法

読む箇所:ヨハネ4:46〜54
ここには王室の役人と死にかかっている息子のできごとが書かれています。彼はイエスを探し、説得して自分と一緒に家に行ってもらい、息子を直してもらおうとカペナウムからはるばるやって来ました。イエスは彼の信仰をためされたが、その信仰が全く本物であることを知って「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」と言われた。その人はイエスを信じて帰途につき、イエスが「あなたの息子は直っています」と言われたちょうどその時刻に子どもが良くなり始めたことを知りました。

このできごとの核心は何ですか。なぜイエスはカペナウムまでその人と一緒に行かれなかったのですか。イエスは別の機会にはそこへ行ってたくさんの人を直されました。なぜイエスは言われなかったのですか。「わたしはいつかカペナウムに戻り、そこで多く働く必要があります。今行ったほうが良いのです。ここには機会があります。招かれています。わたしはすべての招きを受けなければならないと思います。」

ところが、イエスはそう言われませんでした。イエスはおられたところに留まり、その人を随分遠くの家に送られました。その人が家にたどり着くには昼の正午からその日の日没までかかり、それから翌日にさしかかっていました。なぜイエスはこの特別な機会にこの方法を適用なさったのですか。

ユダヤ教の背景があります。それは何ですか。それは「文字は殺す」(2コリント3:6)という律法の背景があります。イエスは言われました。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)もし、キリストが話されるなら、キリストのことばは霊でありいのちです、という場合はどれだけ遠く離れていようとも問題ではありません。

律法について話す旧約聖書は死をもたらしました。「文字は殺す」(それは律法の文字です。)「御霊は生かす」(2コリント3:6)そして、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」イエスは話さえすればよく、律法の結果(訳註:死)を逆転されました。律法はこのことを決してなし得ませんでした。あなたはこの子どものところにエルサレムからすべての律法学者とパリサイ人を連れて来れるかも知れません。すると彼らはモーセの律法を全部暗唱できますが、何も起こりません。

イエスは彼らが律法を朗読するために確かに、そしてすぐに死なれるだけでしょう。(He will die right enough, and probably all the quicker because of their reading of the law!)イエスは口を開き、ことばを話さえすれば、数マイル離れた子どもはその瞬間良くなり始めたのです。そうです。イエスはご自身の口の法(のり)がいのちだと言っておられます。みことばのうちにある死からいのちへのこの移行は極めて明確であります。

(英文併記の箇所はどうしても適切に訳せません。ふさわしい訳をお教えくださるとありがたいです。)

2011年8月10日水曜日

夏休み番外編②わき出る泉への開かれた道

(ここには、もう一つの章節の不幸な分断があります。霊的な目的からすると、ヨハネの福音書が3章、4章と分離されているのは、大変残念なことです。)
読者はヨハネの福音書4:1〜42をお読みください。

主とサマリヤの女との間で交わされたすべての話の核心は14節です。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」私は今しがたここの章節の分離はあるべきでないと言ったばかりですが、それは民数記21章が分離されていないからです。上げられた青銅の蛇の出来事のあとすぐにわき水である井戸の出来事が書かれているからです。「そのとき、イスラエルはこの歌を歌った。〈わきいでよ。井戸。〉」(民数記21:17)

十字架がその働きを成し終えたとき、つまり、キリストが私たちの上にとどまるさばきと呪いを耐えしのばれたとき、聖霊は解き放たれ、永遠のいのちの泉としてわき出るのです。そういうわけで4章には民数記21章の背景、上げられた青銅の蛇にすぐ続いているわき出る井戸があるのです。3章と4章には以下二つのことがらがあるのです。

私たちのために呪われたものとなられ(と言いますのは、申命記21:23に「木につるされた者は、神にのろわれた者」と書かれているからです)、私たちの反抗心のさばきを甘受し、十字架に上げられたイエス様。それから、キリストがそれを成し遂げられて、永遠のいのちのわき出る泉の道となられたことです。

聖霊は聖書に素晴らしいつながりを与えておられます。そうじゃないですか。聖霊はどんなにものごとを一体化することでしょうか。私たちは恐らくヨハネの福音書3章と4章を民数記21章の中に見出すことは考えもしなかったでしょう。しかし、確かにそうなのです。

2011年8月9日火曜日

夏休み番外編 ① 蛇、呪い:上げられたイエス

「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14〜15)

ここには旧約聖書の背景があります。それは民数記の21章です。こんなふうに出来事は始まっています。「民は神とモーセに逆らって言った。(略)私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(民数記21:5)民はマナ、すなわち天から与えられた食べ物に激しい言葉を用いました。彼らは神とモーセに逆らって言ったのです。「私たちは神が備えたものを憎む」と。

是非覚えていただきたいのですが、神がみわざをなさる時はいつも御子を念頭に置かれておられたということです。この場合がまさしくそうです。神はイスラエルの子たちに天からのマナを与えられたのです。(ヨハネ6章で明らかにされるとおりです。)マナはキリストの型でした。キリストは言われました。「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものです。(略)わたしがいのちのパンです。」(ヨハネ6:33,35)イスラエルの民は言いました。「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした」しかも皆さんはユダヤ人がキリストが来られた時に「私たちはこの男を憎む!」と言う案配に話したのを聞くことができます。それがイスラエル人の心でした。

神は荒野のこれらの民の心を見ておられました。彼らの心は神に対して、また神が与えてくださったものに対して、どんなに反抗的であったことでしょう。そのために、「主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ」(民数記21:6)「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」ああ、ここには深刻で恐ろしいことがあるのです。聖書の初めから終わりにいたるまで、蛇は常に呪いと神のさばきの象徴であります。御存知のとおり聖書の蛇に関するまさしく最初の言及がそうであります。この荒野に上げられた蛇は神のさばきの象徴でありました。反抗的な民にとどまった神のさばきと呪いはその蛇へと移されたのです。今や人々に対する神の呪いとさばきを乗せる旗ざおに移され、その青銅の蛇を仰ぎ見る者は誰でも救われたのです。

旧約聖書のその一片を用いて主イエスは次のように言われたのも同然でした。「わたしはあなたがたのために呪いとされます。わたしが上げられる時、あなたがたのさばきをわたし自身の上に甘受します。わたしはあなたがたの罪を木の上のわたしの体に移します」十字架につけられたキリストのうちに呪いとさばきからの解放があり、仰ぎ見る者は誰でも生きるのです。こうして私たちが知っている最大の聖句に近づくのです。

「というのは」(私は接続詞が好きです。接続詞は新約聖書でつねに重要です。〈というのは〉、〈それゆえに〉とかある場合はつねに熟考すべきです。)「神は実に世を愛された」私たちはしばしば文脈を無視してヨハネ3:16を引用します。ああ、これは何と恐ろしいことでしょうか。

神はご自身のひとり子の上に私たちすべての罪・咎を置き、御子が、ご自身の愛された御子が、私たちのために呪われたものとされることを許されたのです。なぜでしょうか。「というのは、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(訳注:日本語の聖書では〈というのは〉という接続詞は訳されていない)」この聖句を取り上げ、民数記21章の中に正しく置くか、民数記21章を取り出しヨハネ3:16の中に正しく配置する必要があります。

ここに旧約聖書から新約聖書への移行の背景と前景があるのです。新しい天的なイスラエルは「信じる者は誰でも永遠のいのちを持つ」という基盤の上に築かれるのです。私たちはこのことについてもっともっと言いたいです。しかし、先を急がねばなりません。

(パソコンを使えない状況にありますので、当分このような形で投稿させていただきます。今まで通りスパークス氏の英文の私訳です。)