2011年6月30日木曜日

主を仰ぎ見ましょう

主と交われば、一つ霊となるのです。(新約聖書 1コリント6:17)

この関係の性質は基本的には霊的であります。すなわちそれは霊の一致であるということです。「主と交われば、一つ霊となる」「神を礼拝する者は、霊によって礼拝しなければなりません」なぜなら「神は霊ですから」。ですから、一致は霊の一致なのです。その結びつきはいかなる他の一致よりも深いのです。私たちは霊の一致以上に深く進むことはできません。その結びつきはもっとも深い、人間存在のもっとも真実なところにおける人の性質を特徴づけるものです。そして神の見るところにおいて、それが霊の領域なのであります。

霊の基盤はいのちです。 そのことはヨハネが福音書において例示という方法により、また書簡では直裁にそれぞれかなり明確に伝えています。「神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにある・・・」「御子を持つ者はいのちを持っており」(注:1ヨハネ5:11,12)それが私たちの交わりが、父なる神と御子との交わりであるという根本的な宣言に課せられている命題であるのです。交わりは神のいのちそのものを保持しているものとして説明できます。神との一致の基盤は神自身のいのちが新生した私たちに与えられているということです。そして、その新生した私たちの上に万物を神が築き、万物は重視されるのです。そうでないところでは神は結びつきに関する限り何事もなし得ないのです。

すべての神の考えに達し実現するためには、神がご自身を人のうちに存在そのものとして、すなわち神のいのちそのものを投入せねばならないのです。神は生まれながらのいのちしか持たない人のところには霊的であり、永遠であり、全宇宙的な目論見を実現できないのです。聖書はそのことをかなり明確にしています。つまり人の生まれながらのいのちはいかなる神の計画も実現する基盤を決して持ち得ない、それができるのはただ神ご自身のいのちのみである、と。このようにして神はすべての望みのためにご自身の基盤(いのち)を提供されるのです。神の望みはご自身のいのちであり、私たちのいのちではありません。神は望みの基盤を新生の範囲内に置かれるのです。その基盤の上にご自身の考えを発展しその意図を実現するように事を進めて行かれるのです。

(今日の箇所は The Power of His Resurrection - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003238.htmlです。)

2011年6月29日水曜日

御霊によって歩きなさい

わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(新約聖書 ヨハネ6:63)

このいのちは非常に広大ないのちです。いのちは神の大きな目的に達します。私たちはその目的の一部分です。私たちは「主の目的にしたがって召されている者」です。私たちはその目的、目的のうちにある私たちの位置、私たちの能力や働きを知りたいと思います。このことはどのようなのであろうか、と。しかしそれらがどんなものであるかは、学ぶことによって知るのでなく、ただいのちにあって歩むだけです。

人間の体の働きについて科学的な知見を得ることは大層興味のあることかもしれません、しかし体を動かすためにその知識は必ずしも必要ではありません。生きることです、そうすれば自ずとことはなるのです。一息入れて腰を下ろし精神的に解決するかどうかを熟考する必要はありません。あなたは行ないます、すると他のすべてのものはそれときっちりつながり、ふさわしい秩序が続くのです。適当に息することがそのことと大層密接に連動するのです。

生きればいいのです、その他のすべてのことは自然と続くのです。別の言葉で言うなら聖霊にあるいのちを得なさい、そうすれば神の計画・秩序が続いて行くと言うことに過ぎないのです。あなたはその秩序の中に入って来なければなりません。自由になし得るものではありません。

このようにしてその目的は主の民が主とともに歩み、主に対して心を大いに開くので、主が意図されるように歩く備えがなされるところへと連れて行かれることです。時々彼らは二義的なものからなる多くのものをあとに置いて行かねばならないことになるかもしれません。それには犠牲がともなうかもしれません。誤解や孤独、そしてその他の多くの諸々のこと。しかし、もしあなたが主に対して心を開き、どんなことも問題ではない、たとえどんなに犠牲があろうとも、また、どんな人々が、あなたは大きなクリスチャンや宗教的な組織の一員として彼らの考えどおりに行動しなければならないと言ったとしても、問題にしないなら、あなたはすべて神の秘かな考えの中にすっぽりと入ることでしょう。それはちょうど花が太陽に向かって花を開かせるようにです。そしてあなたはあなたが想像だにしない意義・可能性・能力・力を発見することでしょう。主は私たちの前にそれを差し出し、それを示そうとはなさいません。私たちが御霊によって歩く時にはじめて発見するのです。

(今日の箇所は Life in the Spirit - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003237.htmlです。今日の箇所は前回の3/27の続きの文となっています。)

2011年6月28日火曜日

聖霊の力によって生きる喜び

水・肥料不足か?勢いの無いのが難だが、ちょうどいいところに花を咲かせたので
どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。(新約聖書 ローマ15:13)

もしあなたも私も、私たちが本来あるように聖霊の油そそぎを受けて来たことが真実であるのなら、この世において私たちのありようは神のために積極的な何かを残すはずであります。その何かを残さずしてこの世に入り、そこから出て来ることは不可能であるはずです。この世の人々は私たちが彼らに近寄って行く時、何かを感ずるはずです。悪魔自身は私たちが聖霊のもとにいるのでイエス様がおられることに注目せざるを得ません。イエス様にとって何事も起こらずしてどこかにいることは不可能であります。今やイエス様は聖霊によって信ずる者のうちにおられます。それゆえにいかなるクリスチャンと言えども中立ということはあり得ないのです。

聖霊は積極的であり消極的ではありません。もし聖霊が私たちの生活において本当に主であるなら、私たちの生活は価値あるものとなるでしょう。とこしえに続くいのちからの影響があるでしょうから。神に聖霊のゆえに感謝してください。主に対して、油注ぎが私たちの生活に自由な生き方を保証してくださることを確信して祈り求めましょう。聖霊の働きはある者に罪を明らかにし、他の者には罪の贖いをなすものであり、中立はあり得ないのです。そして、もしあなたや私の上に油が注がれるなら、悪魔はそれを重要視するでしょう。主よ、そのことが悪いことにならないように助けてください。あなたは悪魔が次のように言うのを望みますか。「ああ、あの男ですか、あの女ですか。問題ではありません。あなたは彼や彼女について心配する必要はありませんよ」と。

私にはかつて一人の友がいました。私たちは別れ、それぞれ違った道に行きかける時はいつでも手を取って言ったものです。「さらば、古き人よ。主はおまえを悪魔にとり不愉快にさせます。」いかがでしょうか、それがもし聖霊が本当に私たちの上に臨まれるのなら、そういう方法を取られるのです。と言いますのは、それが主イエス様が通られた道なのですから。

(今日の箇所はの抜粋引用訳です。原文はです。全文は6頁ほどで英文も読みやすく、含蓄のある内容です。特に種まきのたとえを通してスパークス氏が言おうとすることは私に取り初見でした。なお訳文は最後の方、必ずしも適切ではありません。直接原文でお確かめください。当たるも八卦、当たらぬも八卦的な訳になっています。「一人の人」をスパークス氏の分身と解釈してみたからです。間違っている可能性が多分にあります。その折はお許しください。)

2011年6月26日日曜日

聞くことがすべてです!

耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。(新約聖書 黙示3:22)

心の内側に聞く耳を持たない男女、また内側に静けさを持たず、主の御声を聞くことのできる心の内側の場所を持たない男女は主にお仕えするのには全く何の役にも立ちません。いいですか、主がおられねばならないのです。主がおられるべきところに、善なる人々や良き書き手たちをも置かないように細心の注意を払わねばならないのです。

本をさっさと片付け、人々の声を遮断し、主とともに静けさを保ち、聞き入り、さらには様々なことが自分のまわりで鳴り響いている時でさえ、神のめぐみによってつねに主に対して耳が開かれているように養われることを求めねばならない時があります。街頭の喧噪さや忙しい仕事の生活にあって主が何かを言われねばならないのは困難ではありますが、不可能ではありません。しかし、もちろん主は主から聞こうとすることに価値を認め、出来る限り主に静かなところで語っていただく用意のある人にだけ話されることでしょう。

私たちのまわりであらゆる他の物音や声が聞こえて来る時、主に耳を傾けることは、主が私たちに求められる超然とする時や、悪魔がその耳を再びとりこにしようと絶えず働きかけていることに抗する時に、備えられ訓練されるのです。さて、そのことは基本的ですが(深遠なことを求めているのではありません)とても重要であります。

あなたも私も知るべきことは、どれほど私たちが霊的に成長しているかということはどうでもよく、悪魔の目的が私たちの耳を神から離し、悪魔の虜にし、神に対して私たちが静かな時間や静かに聞き入る耳を持つのを不可能にさせることです。あなたが少し静かな時間を持とうと決心したちょうどその時、緊急に起こるあらゆることがあります。そのときあなたが耳に対して闘わねばならないのです。それはご存知の通り真実なことであります。

あなたはそれと緊密な何かがあることを見ていますか。悪魔の働きが駄目になること、この世界で神の御心に覚えられていること、祭司のつとめによって意味される一切のこと、また神を迎え入れることのすべては次のことと密接に関連しているのです。すなわち神が耳を持っておられるということです。

(今日の文章は The Servant and Service of the Lord の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003234.htmlです。)

2011年6月25日土曜日

主が新しく生まれた者のすべてです。

義妹の家族は花を愛する、この菖蒲も白い菖蒲群の一部である。
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。(新約聖書 黙示22:13)

私たちは私たちの持っているすべての枠組み、計画、準備、主に対するプログラムの数々を戻し、主との密やかな場所において、主との本当の生き生きとした霊の結びつきがもたらす新たな価値へと進むべきです。それは目的が私たちから始まるのではなく、たとえば私たちの考えや意欲や意志によらず、神様が始められるようになることであり、私たちのうちに神様からのものであるということがわかるからです。

主が私たちをご覧になる時、主はご自分がなしておられる霊的な感覚をお持ちになり、それを行なわれるのは「同じようである」ことでしょう。と言いますのは、神様はご自分が目的についてそうであるのと同じように方法についても細かい配慮をされるからです。問題は神様のために事を行なうということではなく、神様が行なわれるということです。それが、なぜ、例の使徒が新しく造られた者についての開陳を述べる重要な節に次のことを加えるのかという理由であります。その時、使徒は言うのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。しかし、これらのことはすべて、神から出ているのです。」と。新しく造られた者にとってはすべてが神様から出ているのです。

神様の働きのうちに一人の人がいます。神様のすべての働きがゆだねられている一人の人です。一人の人、たった一人の人がいます。神様のすべての働きはその人と栄光のうちに緊密に結びついています。私たちにとって大切なことはキリストがどういうお方であるかを知ることです。それはキリストがどなたであるかだけでなく(どんなにキリストが神様であるかを知ることが大切であっても)キリストがどういうお方か、すなわちキリストはすべてを包含する新しく造られた人であるということです。言い換えれば、キリストは今や神様が人である方、十分、完全で、決定的かつ究極的に神様の考えを表しておられるということです。

新しく造られた者に関するかぎり、イエス・キリストを離れて神様の表現はありません。神様の思い、意志、意欲、働きはキリストにあって完成されるのです。イエス・キリストは最初であり、最後であり、その方を除いては達し得ないのです。

(キリストは新しく造られた者の代表であり、包含者であります。あなたも私も新しく造られた者となり、それに準じて働くためには神様の思いや神様の意志、神様の意欲 、神様の働きに応じて主イエス・キリストとのその結びつきに入り、主がどういう方であるかによって生きる方法とならねばなりません。私たちの古き者がわきに置かれ、そして、新しいキリストによる人が取って代わらねばならないのです。)

(今日の箇所は The Meaning of Divine Life - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003233.htmlです。)

2011年6月24日金曜日

神の御国に入るための安全性の原則

月曜日、義妹の玄関先で見かけた珍しい花。その時は気がつかなかったが、蟻がいる、いる
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、・・・与えられたもので・・・(新約聖書 2テモテ1:9)

私たちは何か新しく、かつ違った歩みや、また何かの新鮮な計画や立場に直面させられる時はいつでも、全てに関連する一つの問いがあるものです。その問いは明らかにされるべきものであり、熟考しては、繰り返し真剣に祈り求めるために十分な時間を必要とされねばならないものであります。その問いとは、「私の前にあるこのことは、神様の全計画と一致しているか、決して断片的でなく、みことばの全体に照らし合わせてみて」ということです。神様は私たちを疑いなき状態に置かれました。それは神様がご自身で介入なさる究極的な目的として見える形ではっきりと区別されるご計画をお持ちだということです。神様はまた、その計画がどんなものであるかを非常に明瞭なものとなさいました。さらに信者たちは「神様の計画にしたがって召されていること」と、それに「召しと選びが確かなものとされる」ためであることがはっきり示されるのです。

(長年、前進し続け、神様のしもべとして大いに用いられた人は、その生涯の終わりに向かって、自らの最大の関心は「キリスト・イエスによって捕えられ、それを得るようにしてくださるように願っている」ことであると言いました。)

すべての真のキリスト者の仕事と責務とはその「永遠のご計画」がどんなものであるかに関して学べば学ぶほど極めてはっきりしてくるということです。そうしたならば、私たちが従事するために起こされるあらゆることはその計画を判断する桟のような役割を果たし、その光のうちに問いただされることになるに違いありません。もしこのことをたずねもとめることに真剣でなかったり、与えられる光に従わないなら、神様は私たちの行く道を妨害なさらないし、道を進む上でいかなる分岐点にあっても特別光を与えられないでしょう。とてもじゃありませんが、私たちが正邪や善悪を比較したり、許容範囲、望ましさ、便宜かそれとも方針なのかを比較したりすることに影響されたままにはされないのです。野心や自己満足や「主のため」に広げられた見通しやキリスト教におけるより広範囲な受容やその他いかなることも私たちの判断を色付けしたり、私たちの決定に影響してはいけないのです。有利か損をするかはここでは決定要因として無視されます。

一つの問題、そして一つだけが悲劇か栄光かを決定することでしょう。「私の前にあるこのことは、神様の全計画と一致するものか」であります。目的が達せられ、完全な物語が話され、総決算の時、このことと密接な関係を持つどれだけが、キリストにあることの内実を全然持たず、それゆえに永遠にまで持ち越すことができないものとして剥ぎ取られることになるのでしょうか。神様の川は何を取り除かれ、天では何が浮上するのでしょうか。(これがパウロがコリント人への手紙につけ加えた大きなテーマでした。)

(今日の箇所は The Danger of Coming Short の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003232.htmlです。このシリーズは三度目の登場です。他の部分と比較して読まれますように。なお文章が非才のこの者には難しく、まちがって訳しているところがある、と思います。原文を必ずご確認ください。)

2011年6月23日木曜日

新しく造られた者を生かす主の法則

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(しかし)これらのことはすべて、神から出ているのです。(新約聖書 2コリント5:17~18)

新しく造られた者を左右する全包括的な法則は「すべては神から出ている」というところにあります。この事実を述べるにあたって、使徒パウロは「しかし」という言葉を用いています。「しかしすべて神から出ています」と。まるでパウロは、駆け出しかねないいのちや働き、すなわち古いもののベースの上に立ち、そこから出て来る力をもとに、それらを得ようとする衝動をあらかじめ見ていて、それを阻止しているかのようであります。

ですから、大切な質問は以下のことにあります。新しく造られた者にあってはすべてが神から発するということはどんなことを意味するのだろうか、ということ。それからそのような新しいいのちとはどんな種類のいのちであるか、ということです。この質問に適切に答えることは非常に広範囲な仕事となるでしょうし、もっとも考えられる限りの革命的なことでありましょう。

まず私たちは古いものと新しいものとの違いに関して、それからその相違がどれほど懸隔したものであるかについて自らの考えを明確にしなければなりません。加えて、神様はこれらの二つのものを全く永遠に別のものとされてきたかを知る必要があります。神様がどんなに私たちの無知や理解の遅いことに対してあわれみと忍耐を示されることはあっても、この二つのものの重なり合いやつながりは決して受け入れられないということです。それから私たちは本質的で理にかなった判断力が必要となります。それによって一方を禁止し他方に活力を与える神様を知るようになるからです。※

いつまでも残るものは、神様のためになされることではなく、神様によってなされることが残るのです。霊的な価値の基準は神様が遂行されたかどうかの判断によって決定されるのであって、決して神の名においてなされる人間の判断力や活力による人間的な活動の基準にあるのではないのです。

(今日の箇所は A New Creation の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003231.htmlです。サイト掲載の文章はA new creationという2頁ちょっとの文章の内の先頭の部分と末尾の部分のみです。※のあとに5つの要点について述べてあります。お急ぎの方は直接本文をご参照ください。)

2011年6月15日水曜日

主はうそをつかない確かなお方です。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。(新約聖書 マルコ8:34)

ついには、私たちのキリスト者生活を判断する終わりの時がくるでしょう。だから以下に述べることが、聖霊の働き、聖霊の関心・勢力・活動であります。すなわち人々を入り口にまで連れて来て、中にまで入らせるだけでなく、その入り口は万物が存在する入り口の向こう側に道を開くものだけであることを知らしめることにあるということです。入り口だけではなく、入り口の向こうにあるものが大切なのです。そしてそれはこの再生の働きであり、創造される主イエス様の似姿にしたがって新しくされるということです。

主のご目的が支配するのです。主が重要視し目論み明らかにされるのは、すべてのうちにあるキリストです。キリストがその広大なすべてであります。「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」がコロサイ3:11の結びの節です。私たちの救い、最初の救いの時よりももっと満ち満ちているキリストであります。入り口は基本です。しかし、そこへ導かれることは、とにかく中に入って行くことが判断されるのです。

キリストご自身はご在世当時、人々がその入り口に入り、まっすぐな狭い道に入って行く時、困難に会うということを知らしめるのにへまをされることはなかったのです。現に彼らは困難に会ったのです。今やそのことは言うのが大変怖いことのように聞こえるかもしれません、特に入り口の内側に入って間もない信じたばかりのクリスチャンにとってはそうなのですが、それについては完全にはっきりしていることであります。主イエス様はこのことについて誰をも決して騙されませんでした、全然騙されなかったのです。

主は人々に「あとについて行くこと」は、その時言われたように、困難や苦痛や迫害・試練が一生つきまとうことに巻き込まれることだと知らされたのです。代価があり、それも大きな代価です。数々の代償がこの生活においては疑いもなくあり、永遠のための大きな代償があるのに対して、このことは生まれながらの人間であったらとても容易ではないことがわかります。聖霊のこの働きは肉にとっては(訳注:生まれながらの人間にとっては)強烈で厳しく大変な試練であります。

そのことについて誤解しないでください。聖霊ご自身がこの働きを完遂しなければならないのであり、全エネルギーを要されるだろうということです。本当にそうなのです。そこで主イエス様はこのことについて私たちをいささかの疑惑であってもそのうちに放置したままには決してなさらなかったのであります。

(今日の箇所は God's Supreme Interest in Man - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003223.htmlです。今日の箇所は3/16と内容がだぶっていますが、訳は今日の時点での訳にしました。読者の方は比較して、どちらの訳の方を好まれるでしょうか。一人が訳しても、こんなに日によってちがうとは私の訳は当てになりませんね。)

2011年6月13日月曜日

聖霊の働きはどのようにして妨げられるか

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから熱心になって、悔い改めなさい。(新約聖書 黙示3:19)

私たちがつねに直面する大きな問題があります。それはある者は主の光の中に飛び込んで行き、そのまま進んで行くのに対して、別の者はそうしないで絶えず遅れを取り、もはやそれ以上決して進んで行かないように見えるということです。そのことは神様の側の選びは選ばれることに一種の選びがあり、その選びは神様の恣意的なものがあるのではないかということです。しかし、私はそうは思いません。それに対する答えの大部分は次の事情にあると思うのです。

はっきり申し上げれば、神様は人々が神様と真剣に取り組もうとしているかどうか、その結果、神様がはっきりとした道を持てるかどうか、その基盤になるものが神様にとってすでに障碍であるものによって占拠されているかどうかは、人々をお取り扱われる中でご存知だということです。もし人々が本当に真剣に神様と取り組んでいるなら、主が持たせたいと考えておられるすべての光を得ることはどなたもできると思います。

聖霊は私たちを知っておられます。私たちの心の深いところをまっすぐ見られ、私たちが真剣であるかどうかを知っておられます。主は正確に人が神様を妨げる何があるかを、またどれだけ進めることが出来るかも見ておられます。というのは、主は誰をも強制する御意志は持っておられないからです。もし私たちが自分自身が気がかりで心は自分のことで一杯であり、ぐるぐる自分のまわりをまわっていて自分中心でいるなら聖霊の(働く)機会はありません。自分自身がなくなるところまで来なければなりません。それがかなり多くのものにつきまとう困難です。

彼らは自身の固定観念を設定し、四六時中絶えず、同じところをぐるぐるまわり、出発した同じところに戻ってき、自身のまわりがすべてであり、それぞれ疲れ果てるのです。遠からず、彼らが主のために立っていたり、代表しているとみなされているすべてのことに巻き込まれる恐ろしい衝突を経験するようになり、倒れます。聖霊ははっきりした道をお持ちになれません。

この自己本位に関しては、もし私たちがはっきりあきらめて邁進したいのならその道から脱出しなければなりません。聖霊は正確に私たちがいるところ、すなわち主に対して心を開かないではいかなる光も全然知り得ないように一致しているかどうかを知っておられます。私たちがそれを全部経験しているか、それとも私たちが交わりを持っている人々がそれを経験しているかであり、私たちはその一部分です。私が言わんとする意味はおわかりでしょう。聖霊はそのような位置にいる人々と関わることが出来ないのです。そして聖霊はご存知です。聖霊の態度は「無駄です、わたしはそこでは何も出来ません、彼らが一致し過ぎです」けれども、もしすべてのことを水につけてしまう用意があるなら、その時、主は進むことが出来、はっきりとした道をつけることができるのです。

(聖霊はご存知です。聖霊はあなたも私も知っておられます。私たちが自分自身を知っている以上に多くのことを知っておられます。私たちは自分たちが真剣で長時間祈り、主にあれこれをして欲しいと叫んでいると思っているかもしれません。それに反して聖霊は私たちがまだ自分自身や自分自身の興味・関心が終わりとなっていないことをかなりよく知っておられるのです。
 聖霊がなさりたいことをされるまでには、私たちのうちでもっと何かがなされ、絶望へと導かれねばならないのです。けれども聖霊はご存知です。それがポイントであります。主はこの人※を知っておられました。主はこの人があらゆる明確な道への見込みをもって始めるためになすべきたくさんのことを持っていないことを知っておられました。そしてその機会が備えられたのです。主は支配するお方として働くことが出来たのです。聖霊はこの必要を満たすためにそうされたのです。)

(今日の文章は Spiritual Sight - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003220.htmlです。 ※は使徒8:26~39に登場するエチオピア人のことを指しています。本文中にある「水」というところもそのエチオピア人の受けた洗礼の水に言及しての内容です。4章の文章はエチオピア人、聖霊、ピリポについて丁寧に述べられており十分読み応えのある内容です。一読をお勧めします。その中で今日の掲載箇所は6つのポイントの一つ、「どのように聖霊の働きはさまたげられるか」のほぼ全文にあたるところです。訳が相変わらずまずく誤訳があると思います。特に真ん中の部分が訳しづらく、自信がありません。是非原文でお確かめください。一ヵ所だけ英文で珠玉中の文章と訳者が思うものを以下に載せておきます。エチオピア人についてまとめた文章です。是非、上掲の聖書箇所と平行してお読みください。益するところ大と信じます。 It comes in the Acts of the Holy Spirit, and when you come to ask the question, Why is this man included in the record and his story handed down from age to age to last as long as time? The answer is just what we have said: he was a man who meant business with God, was open to the Lord, honest in heart, humble in spirit, and obedient to the light that he had.

2011年6月10日金曜日

主の心を心として

私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく(新約聖書 ピリピ1:9~10)

私たちは指示と命令を望んでいますが、主は私たちが「心」を持つことを望んでおられます。「あなたがたの間では、そのような構えでいなさい」(訳注ピリピ2:5)「私たちには、キリストの心があります」(訳注1コリント2:18)キリストは意識あるお方です、だから聖霊によってキリストは私たちのうちにその意識を与え、伸ばされたいのです。霊感された言葉によるならば、「彼の油がすべてのことについてあなたがたを教える」(訳注1ヨハネ2:27)のです。私たちは召使いではありません、子なのです。命令はそのようなものとして召使いに対してあるのですが、心は子に対して言われるのです。
 ところが、今日主の民の間は恐ろしい状態にあるのです。かなり多くの人がほとんど完全に自分自身にとって外形的・形式的なことがら、すなわち自らの助言や導き、自らの滋養や支え、自らの知識、自らの恵みの手段において生活しているからです。)

個人的で内面的な霊的知性は大変まれなものになっているのです。敵が妄想や、偽物、虚偽表示で大変成功するのは不思議ではありません。そのようなものに対抗する私たちの最大の安全装置は訓練を通して主を深く知ることであります。

主を正しく知ることは、他のものが運び去られる時でも不動であることを意味しています。火の試練をくぐり抜けることのできるびくともしない不動さです。主を知っている人は自分自身の手を下し問題を解決しようとはしません。このようなものは愛や忍耐に満ちており、すべてのものがメチャメチャになるように見えても落ち着きをなくさないのです。確信はこの知恵の根本的で不可避な産物であり、主を知る人々にあっては、いのちの最深奥部から語ることのできる静かで平安に満ちた強さであります。

私にキリストにあって「知恵と知識との宝がすべて隠されている」(訳注コロサイ2:3)ものをあげさせてください。主の私たちに対する御意志は、私たちが絶えず成長する認識に到達することであり、すべての満たしを持つ主を個人的に体得するようになることにあります。私たちはあらゆる主御自身に対する主の御意志とそれらの最大の必要に関する事実をただ述べて来たに留まります。この主に対する本当の知識に欠けていることが教会の歴史において最大の悲劇の要因であることが明らかになってきました。

このことを欠いているが故に、あらゆる異常事態の暴動はクリスチャンの人々の間で恐ろしい弱点を明らかにしてきたのです。失敗の波、いくつかの新鮮で人受けする許容に対する動揺、恐怖を伴う大きな戦争と信仰の多方面の試み。これらすべてが多数の人々を押し流し、彼らを霊的破滅のうちに置き去りにしてきたのです。

これらの事柄はいつも身近にあります。このメッセージは主の民が主との非常にはっきりした関係を持たせようとして書いて参りました。その関係があれば、主は人々が主を知るようにあらゆる手だてを尽くしてくださることでありましょう。

(今日の箇所は On Knowing the Lord の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003217.htmlです。) 

2011年6月9日木曜日

目に見えないものを確信する平安

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(新約聖書 ヘブル11:1)

ヘブル11章に登場する人々は勝利を勝ち得て、その証を続けた人々でした。しかし、ああ、これらの人々が立たされた位置や彼ら自らが己が内に見いだしたところは何と不可能な状態でもあり、無力であったことでしょう。けれども結果は・・・。そうです。アベルは「死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」(訳注ヘブル11:4)とある通りです。彼は依然として生きているのです。勝利を経験しました。他の人々もです。
 そしてヨセフ、この人は完全に無力で非常に深い深みに陥れられたのですが、その苦境から脱出する手管を持ち合わせ得ないのです。もしヨセフに幾分でもかすかな望みがあったら、たとえば執事がヨセフの解放される時を求めて自分のことをよく言ってくれないかなという望みがあったとしたら、彼の望みは失望に終わったことでしょう。執事は威勢のいいことを言ったのですが、ヨセフのことを忘れたのですから。ヨセフは何も出来ませんでした。自分の解放のために何の操作も出来ませんでした。彼はそこに放置されたのです。
 解放は神様でなければなし得ませんでした。それをなしてくださるのは、ただ神様だけだったのです。(その結果)ヨセフは王座につき、国の第二の人となりました。ヨセフは主のいのちの証を家族に伝えるために・・・いのちが保たれたのです。・・・・)

神様は私たちに暗闇の経験を通らせなさる時、ご自身がしておられることを話されません。もし神様がなさるのだったら、大丈夫なのです。もし神様が「わたしはあなたを非常な苦境へと導いて行っているのです。そこはことごとく暗く、奇妙で混乱し当惑し無力なところであります。でも大丈夫です。わたしが大きなことをしています。これがわたしがそこから引き出させようとしていることです」もしも神様がそうおっしゃったら、信仰の要素は次第に消えて行ったことでしょう。

もし神様が何かをしておられること、すなわち、暗闇に置き去りにし、遠くへ離れていってしまうように見え、またいかなる関心を示さないということとは全く正反対になされることを話さえして下ったのなら。もしそれさえ話してくださったのなら、です。ええ、でも神様はそうはおっしゃらなかったのです。だから私たちには神様がそう言われない、説明もなさらないことがわかっています。けれどもここに信仰の挑戦があるのです。

これがヘブル書11章と信仰の人々があらわそうとしていることです。そしてそれが意味するところです。私たちはその信仰者の相続財産を持っていること、大きな財産、信仰の人々が持っていたよりももっとたくさん持っていることを神様に感謝してください。これらの人々は聖書を持っていません。彼らがそこを通過していた時、聖書は書かれていませんでした。私たちは今彼らの物語を持っています。そしてそれもかなり多くのものをです。結果を見、続編を持っていますが、それは本当に私たちの助けとなっているでしょうか。

あなたが悪い暗闇の時を経験し、万事悪くなっていると感じているのなら、ヨセフの話をもう一度読んでください。それを読み始めるや、あなたは巻を措きたくなくなるでしょう。その偉大な教訓を取り上げてみてください。ヨセフの神様は私たちの神様です。神様は同じことをなさいます。そしてそれはいのちにとって真実だとわかります。私がずっと言って来たことはいのちにとって本当に真実です。私たちはその証拠を持っています。とにかく、それは私の経験にたいそう似ているのです。だから私には同じことが引き起こされると考え信じる根拠があります。復活の神様はこのことのうちに働いて栄光に導かれるお方です。

(今日の箇所は The Testimony of the Christ - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003216.htmlです。)

2011年6月8日水曜日

主のpilgrimageはどのようなものだったか

あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(新約聖書 1テサロニケ5:24)

私は信じているのですが、私たちは主イエス様の霊的な巡礼の旅について新しい理解を必要としているということです。主は神の御子であったから、主はそういう方だったから、主の歩まれた道は私たちより困難は少なかったと思います。彼には私たちが持たない力がありました。また私たちが持たない性質がおありでした。私たちには主のようなお方の不思議さは理解できません。たとえば主は試みや困難や逆境に支配されており、ぎりぎりにいたるまで試みられ、そこを通り抜けられるように天の干渉が求められました。

主はそのようなところへ導かれました。そこは、主は一度ならず、かつてくぐり抜けることがなく、干渉される天や主を助ける天使らを持たなかったようなところでしたが、そこにまで導かれたのです。あなたは言うでしょう。私はそんな経験を一度もしなかった、と。ああ、しかし、あなたもおありなのですよ。あなたは天使たちが皆さんを助けるためにやってくるのを実際、経験しなかったかもしれません。しかしこの道を行ったことがあり、どこか遠くまで行き、心の中で「わたしは今日、神からも天からも見放されている」と知る信者は一人もいないのです。(Ah, but you have. You may never have actually seen angels coming to minister to you, but there is no believer who has gone this way, who has gone any distance, but knows in his heart, “But for God and Heaven, I would not be here today.”)私自身の証は一度ならず私が敗北するのを助けるために天の干渉が必要だったことがあります。

しかし、私たち自身にとって真実であることは主御自身にとってはるかにまさる真実でした。私たちはこの奥義を理解していませんが、主はあなたや私がかつて必要とし、経験し、あるいは将来経験するであろうものよりはるかに深い試練と試みのともなう霊的な巡礼を経験なさったのです。そうです、「すべての点で、私たちと同じように」(訳注:ヘブル4:15)はその通りです。しかし主にとっては私たちにとってよりもはるかに鋭さをともなったのです。そのすべてを通過して主は完成された、「完全な者とされ」(訳注:ヘブル5:9)たのです。

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ・・・とこしえの救いを与える者となった」(ヘブル5:8,9)「永遠の贖い」(ヘブル9:12)主は私たちのために完成を目指す道の終着点に到達されたのです。そして主は神様が私たちにあって完成をなすことのできる保証であります。それがポイントであります。主は信仰にとって、様々な行いの称号のようなものとしてそこにおられるのです。すなわち神様は主をしてそこに到達せしめたのですが、どんな者もそこに到達できるという保証であり確さなのであります。主はあなたも私も終着点のそこまで行かせることがお出来になります。主は私たちのうちにご自身の働きを完成させることがお出来になるのです。

(今日の文章は God's Purpose in All - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003215.htmlです。英文を示しましたところはこの文章のある意味で頂点になるような部分のような気がしますが、誤訳の恐れが多分にありますので併記しました。読者の方の適切な改訳をお願いしたいところです。)

2011年6月7日火曜日

殺す働き、生かす働き

文字は殺し、御霊は生かす(新約聖書 2コリント3:6)

もし、あなたが何かについて御霊による思いを知りたいなら、パウロが言うように「御霊による思いはいのちです」(ローマ8:6)とあるのですから、その方向に向けば、いのちがあるのですから、それによってすぐに知ることでしょう。もし、逆に御霊に反することを知りたいのなら、霊において向かうところが死であるので、あなたが口に出すように、こちらにはいのちがないということを知ることでしょう。確かにそれがあなたが主を知っている、御霊を知っている、キリストにあるいのちの御霊の原理の基礎の上に動いているのだと知ることを意味しているのです。

父なる神様はその原理によって御子を治められました。神様は私たちをも、私たちが主とひとつの霊で行をともにしているならば、まさしく同じ原理で治められるのです。導きや私たちが進むべき方向は御霊のうちにあるいのち、御霊によるいのちの問題です。主イエス様は詳細にわたって即座に働きかける御霊によって命令を与えられ、統治され、指揮され、整えられるいのちをお持ちだったのです。

このことをもう一度以下のことで対照してみましょう。(訳者注:ヨハネの福音書5章に登場する)ユダヤ人は(ベテスダに)やって来て、こう言ったのです。「ここに聖書がある。聖書は言っている、お前たちはこれこれのことをしてはいけない。ところがお前たちはそれらのことをしている。お前たちは全員間違っている、聖書はこう言っているのだから、だ。」

キリストがそうなさった時(訳者注:38年の間患っていた人を安息日にいやされたこと)キリストは聖書の(戒め)を破られたのでしょうか。 それともキリストは聖書に神様の御意志を示されたのでしょうか。神様がその律法を授けられた時、神様は人々が表面的にちょっと見ている以上にもっと完全な意味をお持ちではなかったのでしょうか。霊的な意味合いはなかったのでしょうか。それが問題になった時、取り替えるべき(破るのでなく、越えることを意味する)何かが指摘されたのではなかったのでしょうか。それは単にもっと高く完全で深い意味が到達されたにすぎないのですから。(Was it not pointing on to something, which when it came was to supersede - I do not mean break, but transcend - simply because higher, fuller, deeper meaning was reached?)

キリストは神様の安息日であります。キリストにあって神様はあらゆる働きを休まれるようになるのです。つまり神様の新しい創造であります。けれどもユダヤ人たちは言ったのです。お前たちは文字(訳者注:律法)から一歩も出てはならない、と。そんなふうに文字を守ることと文字について聖霊により心に照明をいただくこととの間の相違が示せるのです。いのちと文字はしばしばみことばにおいて対照的であります。文字は殺し、御霊は生かすからです。

(今日の文章は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 6 の抜粋引用訳です。 英文を併記したところはどうしても訳せないところです。無理に訳を当てはめましたが、自分でも何を言っているのかわからないところです。ただそれにもかかわらず、この6章全体は引用聖句ヨハネ5:19~20,30;16:13、ローマ8:2,6を載せ、大変霊的な内容のものです。全文の一読をお勧めします。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003214.htmlです。)

2011年6月6日月曜日

あなたは主の安息が欲しくないか?

わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。(新約聖書 ヘブル3:18)

私たち自身が安息を経験するまでは、また、経験していないなら、救われていない人のところに行ってキリストのところに来て休みを見つけなさいと勧める資格はありません。もし私たちが安息を経験していないなら、私たちの証や宣教は台無しにされ、弱くされ、力のないものになり、 信用の置けないものになります。そしてこれがこのことにおける敵の活動の目標であります。私たちの信用をなくさせることは、私たちが、主と結びついている相続権そのものを奪うことによってなされるからです。主は決して不安を持たれず、心配されず、すべてを治めておられるお方を決して疑われません。皆さんがおわかりのように、安息は神が主であるという信仰の実際的な現われであります。

(信仰の安息が私たちの態度でなければなりません。それは、義とされているという大切な問題においてであります。もっとも、もしそのことが今解決されておらず、将来も解決されていないのならばでありますが。ああ、敵は神の民に対してまさにそこ(神の民が義とされていること)を攻撃します、敵はそれを削ぎ落そうとつねに求めています。つまり義とされていることを再び疑わせるような方法を用いてです。敵は決してその削ぎ落しの試みをやめません。
 彼の方法は数えきれず、かなりしつこく、強力であります。信仰の安息は 毎日、何百もの(敵の)方法が信仰の安息、すなわち安息をもたらす主による信仰へと立ち向かう機会をとらえて働くのです。その方法は大変巧妙なので、そんなことは余りにも小さすぎるので主を患わせることは出来ないと私たちに言わせるほどなのです。つまりそれはちょっとしたことです、なぜ主にかまってもらうのですか。主はもっと大きく重要なことをかかえておられます。なぜ主にあなたの使い走りをさせてあなたが欲している小さなことまでも全部してもらおうとしているのですか、と。
 もしこのうちにその証が安息のうちに維持されるなら、その時、それは主にとって大きなことであり、小さなことではありません。もしこの問題において主のご栄光が苦痛に立ち向かうなら、それは非常に大きなことであります。日常生活においては偶発的なことかもしれませんが、そうです、毎日、実に多くの方法であなたがたと私は非常にバランスをなくし安息を失い確信を失うので霊的に敗北するのです。主は多くのものをなくし、その結果、信仰がいつしかなくなってしまい、それとともに安息がなくなったことが明らかにされるのです。それは一面です。それは私たちにとって挑戦でありますが、本当の挑戦であります。
 「彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります」できないとは、私たちを無力、不適格、無能力にさせる不信仰です。そのことは私たちがこの全体的な問題に直面するのが早ければ早いほど、出来る限りそれだけよりよく解決されるのだということを意味しています。38年間イスラエルは閉じ込められ、進めなくなり、ぐるぐる回っていたに過ぎないのです。言わば、それはイスラエル人が神様を信じ続けるかどうかに関するこの一つの問題でありました。物質的なことが生起しました。なぜなら荒野における生活は物質的なことが大きな問題であったからです。主は物質的な条件を変えられませんでした。主は何よりも人々自身の内側の変化を求めておられたのです。すなわち物質的な条件は主が人々の内側の変化を得られた時、解決されたのです。主によって信仰の問題が解決された時、それから主は物質的なことを処理されたのです。
 問題は状況的、情動的、知的、意志的な領域で起こりました。挑戦があらゆるそれぞれの線に沿って無数の方法でなされました。皆さんはイスラエル人のあらゆる経験を取り上げてそれぞれがどれほど信仰にとって挑戦的な特別な形態であったかを知ることが出来ます。その挑戦はほとんど日毎にその局面や形態において変化していましたが、挑戦そのものはみな同じものでした。挑戦はあらゆる種類の線に沿ってやってきました。主はそれを決して変えられず、妨げもせず、状態が丸ごと代えられることも許容なさいませんでした。しかしつねに一つのことに的が絞られてたのです。問題になるのは内なる人であります。その内なる人の問題が解決されるまでは、主は、すべての他の事柄を処理なさらなかったのです。
 いいでしょうか。それは包括的なことであります。)

私たちの状態を説明するかくかくしかじかのことがどうしても必要だと考えないでください。これらが諸要因に寄与しており、非常な試みとなり、私たちに非常に重くのしかかっているのかもしれません。物質的なことは—そうです、それらが圧迫し、状態を非常に困難にし、影響を及ぼすのです。私たちが生活しなければならない環境は多く違っており、それらが状態を非常に困難にしています。

私たちは言うのです。もし、主が、この物質的な条件、これらの環境、またこの他のことを扱ってしさえしてくれれば、すべてはそれによる、それが原因であり、理由なのだ、と。それが私たちの推論の仕方です。けれどもそれは全然主のお考えではありません。事態はそれよりももっと深く掘り起こされることであり、それは神様を信ずることに他ならないのです。つまり断固とした信仰、神様に対する確信です。

主は、私たちを、その変わりやすい、そして感情や思想や推論やあらゆるその種のことがらを慈しむという変わりやすい、たましいの生活から、霊的に確固としている領域へと引き出そうとされているのです。それが詩篇の中にすべて据えられている要点であります。「彼らの心は神に誠実でなかった」(詩篇78:37)そしてイスラエル人の40年のすべてはそのことばの周辺に集約されるのです。これに対する鍵は霊的であります。すなわち一切の他の方向により、一切の他の手段によって試されるものです。それが究極的に霊的なことであるという意味です。主の御霊によって内なる人が(エペソ3:16)強くされることがそのすべてに対する答えであります。

(今日の箇所は The Rest and the Courage of Faith の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003213.htmlです。訳があまりよくありません。小文字のところは原文の前後の文章です。本文の文章はこのあとカレブとヨシュアの例が述べられていて首肯的であり、その訳をつけ加えると良いのですが・・・)

2011年6月5日日曜日

主の宮はどこに存在するか

蛍袋の隣にアマリリスが咲きました。花弁が崩れているのが残念です。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。(新約聖書 マタイ18:20)

私たちは、神様が世界歴史の現段階で特別関心を持っておられることがどんなことであるか、そしてそれゆえに主の子どもである私たちが召されていることとはどんなことかが完全に明確になっていなければなりません。神様が今の時代のご計画においてなされることは霊的でありかつ天的であるイスラエルを形成されるということです。その形成において神様は古のイスラエルの様々な律法を霊的な方法で反復されているのです。

神様は古のイスラエルに対するご自身の方法を進められますが、今では天的ではあるが地(上)的な基盤でなされるのではありません。なぜなら神様の方法は変化するかもしれないのに対して、その原則は変わることがないからです。神様は旧約聖書の地(上)的な基盤から離れ、新約聖書の天的な基盤へと移られたのです。一時的なものから霊的なものへの移動でありました。そして霊的であることは一時的であることにくらべてはるかに偉大なことなのであります。

そして、そのことは私たちが新約聖書で経験するすばらしい啓示とすべての主を信ずる者が一つの神の宮とされていることへと導くものであります。キリストが私たちの宮であり、キリストにあって私たちは宮を通してかつて意図されていたことのすべてを知るのです。ああ、どれほど多くの人々がこのことから遠く道を外れて歩んで来たことでしょうか。

私たちは「教会」と称せられる多くの場所に参りますが、そのことばは建物のことを言っているのです。人々がそれらの場所で祈る時、人々は通常このように言うものです。「私たちは今日あなた様の家にやって参りました。私たちは今この神様の家におります」これはまさしく建物について語っているのです。しかし私たちは神様に宮を与える建物を必要としません。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」マタイ18:20)イエス・キリストによって集められた人々が神の宮を構成するのです。宮は特別な建物ではなく、キリスト・イエスにある人々であります。これが神様が今日のご計画のうちになされることであります。

(今日の箇所は The On-High Calling - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003212.htmlです。本文は平易に旧約のことが新約聖書でどのように実現されたか、ヨハネの福音書の順序に従って①すべての基礎である神の小羊(ヨハネ1:29,36)②閉じられた天と開かれた天(ヨハネ1:43~51)破られた契約とその回復(ヨハネ2:1~11)④神の宮一時的なことと霊的なこと(ヨハネ2:13~22)⑤アブラハムの本当の子孫(ヨハネ3:1~14)と簡潔に述べられています。この文章はその内最初の二つのパラグラフが全体の序文にあたるもので、後半の二つのパラグラフは④の文章中にあるものです。全文読まれた方がもちろんベストです。)

2011年6月3日金曜日

神様の道具

神のご計画に従って召された(新約聖書 ローマ8:28)

選ばれた器は器自身がびっくりするほど、神様の知恵の道具となります。遅かれ早かれその選びの器は一つの疑問で一杯になります。「なぜ神様は私を選ばれたのか。なぜこの仕事に私を召されたのか。神様は私以外の誰かを選ばれるべきでなかったのか。私はもっともこの種の生活や働きにふさわしくない。」

それはモーセのものでありました。神様が彼をエジプトへ派遣なさろうとなさった時、彼は「ああ、あなたが誰かを送られるなら、そうしてください、でも私では駄目です」と言いました。神様がエレミヤを選ばれた時、彼は言いました「私は話すことが出来ません。私は子どもですから」(エレミヤ1:6)預言者、その働きは話すことであったのですが、彼はそれは出来ないと感じたのです。神様の選びはまさに異常なことです。そして私たちは神様が召されていることを必ずしもしたいとか選びたいとか思わないのです。

若い時は、恐らく、主の働きのために大きな考えを持ち、まるで自分が出来るかのように熱心に心が燃えているのですが、歳をとって来るともっと痛切に主に頼らねばならないことを感ずるのです。その時、私たちは生まれながら自分たちがふさわしくないことを知ります。そのようにして神様の選ばれた器である多くの人々は神様ご自身の力そのものによって働きを維持されねばならなくなったのです。

皆さんもご存知のように、それが神様ご自身の選びの主権であります。そして要点はこういうことです。つまり器が選ばれたのは器にあるのではなく、目的にあるということです。クリスチャンとして私たちを結びつけるものは何ですか。今度はこのことに耳を傾けてください。結びつけるのは救いでも贖いでもなく、救いと贖いの内に働く神の力であります。すべて信仰を得ている者は目的をもって存在し、神様が偉大な目的をもって目に見える形で救われたというのが互いの共通認識であります。このことは忘れてはならない非常に大切なことです。

主を信ずる私たちは全員が救われますが、同時に全員が分けられているのです。全員がイエス様のかけがえのない血潮によって贖われるのですが、それぞれは独立した構成員にすぎないのです。けれども、それぞれが一つの目的のために召されているという誰もが持つ感情の内に、どんなに結びつける力があるかを知ってください。信ずる者は一つの共通の幻によって結びつけられているのですから。

(今日の箇所は Into The Mind of God - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003210.htmlです。)

2011年6月1日水曜日

主イエス様の啓示

昨年と同じところに花を咲かせた蛍袋。今年はアングルを変えてみた。
神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(新約聖書 2コリント4:6)

私たちは「神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」という啓示によって信仰に堅く立つ者です。「御子を私のうちに啓示することをよしとされた」(ガラテヤ1:16)

私たちはどのようにして立たせられ、その信仰が確立されることになるのでしょうか。この任に堪え得るにはどのような経験を私たちはするのでしょうか。それはただ主イエス様をこのように心の内側で知ること、すなわち啓示によるのです。しっかり立とうとする人々はこのことが生きた啓示となっている人々です。「神は、私たちの心を照らし」このことは一面であります。が、もう一面があります。「四方八方から苦しめられ、途方にくれ、迫害され、倒されているが、落胆させられない」(2コリント4:6~10 )ということです。私たちは悩まされ、苦しめられている・・・なぜでしょうか。「それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためです」(2コリント4:11)それが耐え忍ぶことではないですか。

四方八方から苦しめられているが、決して押さえつけられない!「あなたは私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。」(詩篇4:1)苦しめられると思われたことを神様はゆとりとなさったのです。投げ捨てられるが、不思議なことに立ち上がることができるのです。なぜでしょうか。またどのようにしてでしょうか。それは「神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった」からです。だから、あなたはその苦難をくぐり抜け、生き延びることが出来るのです。

私たちの心の内には聖霊による主イエス様の啓示以外に何ももたらすものはありません。それは心の内側で主を知ることであります。決して信条や教義に知的に同意することではありません。私たちの存在そのもののうちに生き生きと働く真実な証に他ならないのです。

(今日の箇所は The Cross and the City of God - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003208.htmlです。)