2011年7月27日水曜日

光の授与者イエス

道ばた、溝(どぶ)の上に勢揃いしていたペチュニア
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(旧約聖書 イザヤ9:2)

光が私たちの上に入り込んで来ることとはどんなに大きな出来事でしょうか。また陸地や海に存在しなかった光、上からの光、霊的な光が入って来る時、どのように私たちを暗やみから引き出し、栄光で満たし、見方を変えることでしょうか。主イエス様はその神の光の集約です。主イエス様が神の光なのです。 もし、私たちの目が開かれ、主イエス様がどんなに大切なお方か知るようにさえなったら、どんなに大きな違いとなることでしょうか、どんなふうに束縛から解放されることになるのでしょうか。

必要なことは神の御子には神的な光の授与者の大権が着せられているのだということを知ることです。なぜなら、御子は光だからです。暗やみに、ちょうど、光が入って来て、暗やみを追い出すのは御子あってのことです。それが御子の栄光です。あなたは神の御子の栄光を知ることができます、御子を礼拝することができます。あなたの目が開かれているからです。

御子は今ここにおられます。ちょうど、よみがえりであり、いのちであるお方である御子はいかなる瞬間においてもよみがえりであるのと同じです。それは単に最後の日に限っていないのです。

覚えていらっしゃるでしょう。マルタは言ったのです。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っています」すると、主は事実上次のように言われたのです。「やめなさい、わたしがよみがえりです、いのちです。わたしはここに今いるのです。終わりの日はよみがえりに関して今かも分かりません。わたしが今いるなら、時はどうでもよいのです。今がよみがえりなのです。」(訳注:ヨハネ11:24以降)

そのように主はここにおられます。今や新しい創造の光ととともに新しい創造があるのです。のちに光を得るのでなく、今です。それは外からの栄光ある関与によるのです。

世の始まる前から父とともに持っておられたイエス・キリストの栄光、御子の栄光がそれなのです。すなわち主はただひとり光をもたらす神の大権、力をお持ちなのです。誰も光を与えることはできません。その光を獲得することは不可能です。光は主の賜物です、主のみわざです。それが主の栄光なのです。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003295.htmlです。この6章は「キリストの神の御子としての栄光を見ることの大切さ」が「いのち」と「光」と「主の支配権」についてわかりやすく書かれていて、叙述にぐんぐん引かれて行くところですが、残念ながら訳者の力及ばず、このような訳になってしまいました。誤訳があると思います。変だと思われる方は是非原文をお確かめください。)

2011年7月26日火曜日

天にある満たし

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(新約聖書 コロサイ2:9~10)

これまでキリストが天の啓示であると申し上げてきました。しかし、キリストは天の満たしでもあるのです。もし神が、御心を、すなわちキリストにある神のお考えを明らかにされてきたのなら、また神が意図されたすべてを、私たちに人としてあらわれた方の啓示をもたらすことによってなされたのであったら、神はその実現と達成のためにキリストにあるもっとも十分な備えによってそのことを続けて来られたのです。ですから、私たちのあらゆる必要はキリスト・イエスにある(天の)栄光の富に応じて備えられているのです。

キリストにあっては、一つの標準だけでなく、神の基準に達するあらゆる種類の備えがあるのです。神の目的に達するために神の隠されているすべての富は、私たちのためにキリストのうちにあるのです。もしキリストが十分に神のみ心を明らかにされて来たのなら、それは同時にまた十分に神の富をも明らかにされて来たということです。すべての満たしはキリストのうちに宿っており、私たちはキリストにあって満ち足らせられたのです。(コロサイ2:9)

もし神がその神の基準を認識するためにあらゆる備えをなさっておられなかったとしたら、終わりの時に私たちを決して啓示される基準によって裁かれることはできないでしょう。 

(二つのことがらが相伴うのです。終わりに私たちは裁かれます。裁きは神の家において一つは神の御心の啓示から見て、そしてもう一つは神の富の備えの見地からであります。
 次に述べるのが(差し当たりは最後ですが、重要さの点で決してどうでもいいことではありませんが)このことです。キリストはすべてを集め、天にまで移されたのです。)

神の考えは天にあるキリストが中心です。そして神の富は天におられるキリストに集められています。そのことはこの終わりの日に主の民は基本的には天の住民であることを意味します。そして私たちが天の住民になるまでは神の考えに到達したり、キリストにある神の富を知ることは不可能であることを意味するのです。

もし何らかの方法なり(そして今は主の民に話しているのであり、キリスト者のいのちと呼ぶいのちについて話しているのですが)何らかの手段で私たちが地につくものであるなら、その手段で神の考えに到達し、神の富を知ることは不可能なことでしょう。神だけが基本的に天にある富を供給し、実際に与える責任をお取りになります。そして天にある物の計りにあって、それだけに神は責任を取られるのです。もし何らかこの世とつながり、この世の仕組みの一部となり、この地上との関係があるなら、そのこと自身で自ら重みあるものを運び、そのもの自身の源泉を探し、そのもの自身の方法を見通す責任を取らねばなりません。                                   (6頁)

(今日の箇所は That Which Was From The Beginning - Chapter 1の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003294.htmlです。今日の箇所は誤訳がたくさんあると思います。是非、読者の方から訂正の文章を表示していただきたいです。英語のど素人の訳をおめおめとブログとは言え載せていることに恥ずかしさを覚えます。)

2011年7月25日月曜日

主が臨在されるところ

Ich liebe die japanishe kultur と読める。人の悲しい性である。(高崎、洗心亭)
いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。(新約聖書 使徒7:48)

キリスト教は始めには存在しなかった巨大な集積物となってしまいました。今日見るところのキリスト教は非常に複雑なものです。人の手により神のことがなり、彼ら自身の判断に沿ってこの大きなものを築こうとしてきたのです。ですから、ことごとく混乱があり、分離が生じ、複雑になっているのです。キリスト教の中で歩むことは本当に難しいです。キリスト教がそれ自身の大きな障害となってしまったのです。(51頁)

この国(訳注:フィリピン)のあちらこちらをまわり、またこの町(訳注:マニラ)もまわられると、屋根に十字架をかかげた大きな宗教建造物をご覧になるでしょう。そして人々がこれらの建物に入って行くなら、お互いに挨拶を交わします。皆さんが大変敬虔に見えます。そして人々もこの建物は大変神聖だと思います。もしあなたがそこで何かで邪魔をしようものなら、不敬虔だと言われます。けれども神様にとってそのことは全く意味のないことです。

神様にとって大切な唯一のことは素晴らしい建物でも、その堂内の素晴らしいことでも、屋根の上に掲げられている十字架でさえありません。大事なただ一つのこととは神様がそこに臨在されるかどうかです。神ご自身は今この場所におられますか。

(神様にとって、もし神様が臨在されるところでないなら、他のどんなところとも違わないのです。もちろんここにいらっしゃる皆さんのほとんどは今朝そのことに同意されますでしょう。)

けれども、神の家に来ることについてこのように話される集会に集って話を聞いている私たち自身はどうでしょうか。恐らく彼らはこの集会所にやって来る時、「今朝、神の家に出かけるのです」と言うことでしょう。そして祈る時には「今朝、神の家におられて大変うれしいです。主の家にいることは素晴らしいです」と言うでしょう。一体何がある場所を神の家とするのですか。この場所を聖別するのは何でしょうか。いやしくも神聖であるというなら、何が神聖にするのでしょうか。建物ではありません。神聖な建物でもありません。ここに参集している人々の集まりでもありません。そこを神聖にするのは主が臨在されるということです。

主は場所とか集まりとかに関心は持たれません。主がご自身の場所を喜んで臨在できる場所かどうかが唯一の関心事なのです。今、あの荒野の天幕はどこにあるか知りたいと思います。地下深いどこかに埋められていると思います。ソロモンの立派な神殿は今どこにあるかとも思います。しかしそれを見つけようとするのは時間の浪費だと私は思います。ご存知の通り、神様はこういうものを埋めてしまわれたのです。

(いいでしょうか、それらは非常に神聖でした。だから神様はそれらを保持しなければならなかったはずです。しかし神様はそうなさらなかったのです。天幕が本当の意味を実現しなくなった時、神様にとってもはや神聖でなくなったのです。神殿が本当の目的を達成するのをやめた時、神様だけはそれを放置なさいました。神様は異邦人がやってきて壊すままにされました。主のご目的・ご計画は主の御臨在であります。)(52~53頁)

キリストのものでないすべての物は解除されます。誤解しないでください。キリスト教のあらゆる体系は着々とキリストにしたがって試みられつつあるのです。

(キリスト教はただそれがどれだけ神様の聖霊の働きなのかキリストにしたがって試されるのです。やがてもう一度主は言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」(訳注:ヘブル12:26)揺り動かされるものは将来取り除かれるのです。揺り動かされないものがいつまでも残るのです。それではいつまでもあるものは何でしょうか。荒野の天幕ではありません。イエス・キリストです。すべて、キリストにあるすべてだけがいつまでも残るのです。(56~57頁)

(今日の箇所は "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 9 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003293.htmlです。)

2011年7月24日日曜日

根深いサタンのわな

群生する野のゆり、良き香りが鼻をつんざく。ブルーノ・タウトはここで過ごす。
ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。(新約聖書 1コリント10:14)

(ご存知のように、偶像崇拝は、時と所を問わず、たとえそれ自身がどんなに良いことであっても、神よりも、すなわち主御自身よりも、そのことが目的になるような時に、原理的に存在するものです。)

害になるものだけでなく、それ自体で良いことがたくさんあります。その良いことは、それにもかかわらず、主御自身に代置されることが容認されており、そのためにその傾倒ぶりが見られる人のうちに偶像崇拝の原則が形となって現われ得るのです。

あるクリスチャンとかクリスチャンの団体に接触してごらんなさい。そしてその接触を主御自身についてよりももっと多いつながりになるように一層行なってごらんなさい。主御自身の評価の可能性に対して全く盲目にさせ、組織を重視する油断ならない反抗があることに気がつくでしょう。教派や、宣教師の団体や、キリスト者の働きの一部に大変専心することができますが、その結果、主によるいかなるすぐれた評価の余地もなくなるのです。そのこと自身が目的となり、生きる目標となってしまい、主があなたをご自身のうちへともっと進ませたいと望まれるとき、障害となるのがその良いキリスト者の働きや団体や伝統や人間同士のつながりであります。そうです。それが原則的な偶像崇拝です。

どんなに過去、主はこのようなことを何度も何度もすさまじい強打でもって打ちのめさねばならなかったがわかります。そのこと自身は良いものでしたが、それはご自分の民を個人的に救うためでした。(16頁)

主より何が先行しますか。神が人の生活の目標として確立しようと求めておられるのはご自身であって、ご自身との関係のある事柄ではありません。もう一度申し上げますが、もしあなたがひとつのことに触れるなら、たとえあなたが人々が主御自身に向かわせることを視野に入れて接触していても、恐らく何か大変激しいものに遭遇するでしょう。そのことを別の言葉で言い換えるならば、もし主に向かうように訴えることが人々にとってはあれこれや他のことを捨てなければならない結果になるように見えるなら、その時、戦いがあるのです。その戦いとはサタンが永遠に偶像崇拝のキャンペーンをはり、キリスト者の間で、たとえそれ自身がどんなに良いことであっても、主御自身にかわることに関係するように足元を固めてしまうということです。そしてもしあなたが霊的な感覚をお持ちなら、ただ単に確立された組織に遭遇することでなく、恐ろしい霊的な力に向かい合っているということです。

それは本当でしょうか。本当のことなのです。もし私が今までそのことに直面したことがなかったのなら、もしあなたの宣教が彼らと接触していても、キリスト教組織の背後にある大きな力を信じることもなかったでしょう。あなたはあなたに向かって来る何ものかに遭遇するのです。それは単なる物事でも人々でもありません。それは今にもあなたのいのちそのものを殺しかねないものです。愛する皆さん。これが原則的かつ基本的な偶像崇拝なのです。なぜなら究極的な結果は主でさえ主の心が注がれており、主の民を主の望むところへと霊的に連れて行くことができないからです。彼らはそれほど主のことに深く結びつけられているのです。彼らは主のことと主御自身の間を識別できないのです。(17頁)

(今日の箇所は The Cross, the Church, and the Conflict - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003292.htmlです。今日から引用頁を記入することにしました。( )内の小文字のところはいずれも読者の便を図って原文よりも訳を足し加えているところです。)

2011年7月23日土曜日

絶えず父なる神に問われる御子

高崎・少林山達磨寺内
わたしは、自分からは何事も行なうことができません。(新約聖書 ヨハネ5:30)

(キリストは全く私心のない心を原動力とされています。キリストには自我原理がないのです。キリストは地上にある生活をその基盤として受け入れておられました。その基盤に試みがなされたのです。そしてその基盤の試練を通して完成されたのです。それはいかなる点においても、いかなる時においても、またいかなる緊張下にあっても、自らにしたがって行動し動き、選択をし、決定するかどうかという試練でした。また(父なる神から)独立し分離したお方として、絶えず自ら話し、行動し、動き選択するだろうか、あるいはいかなる方法で自らを表すかという試練でした。)

主の生涯の試練の背景を構成した一つの問題は、この人はひとりで行動するのだろうか、ひとりで話すのだろうか、ひとりで選ぶのだろうか、ひとりで決定するのだろうか、ひとりで動くのだろうか、というものであったことだとあなたが認めるなら、あなたは主イエス様の場合のあらゆるものの核心部にたどり着いているのです。そして主の答えはいつも自分からは何もしません、でありました。「子は自分からは何事も行なうことができません」(訳注:ヨハネ5:19ほか)「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません」(訳注:ヨハネ14:10)

ありとあらゆる種類の訴えが主を迫害するために彼に向かってなされたが、それは瞬間の衝動に基づくものであったり(訳注:兵士たちの言動?)、成功報酬を約束するように見えた交渉にたいする応答であったり(訳注:ユダとの関係か?)、最も信頼するに値する知恵のように見えた議論によったのです。それらは主自らが出て、動き、行動し、話し、何かをなすように誘うものでした。

(こういう誘惑の機会となった人々によって、そのことがそのように理解されたのか、そうでなかったかはともかく、このことは明らかに悪魔、すなわち、彼らを用いつつあった扇動者のたくらみでありました。)

時には、情況が必要であったり、また時には主のお働きの結果(訳注:十字架にかかるということ?)のお約束があったり、主がとっておられる道(主の兄弟が、主を信じていず、主に向かって、エルサレムに上って自分をあらわせと言って、上るのを遅らせられた主を叱った時のように)が全く無知であることをあらわすことにより、(悪魔の)暗示が影響を及ぼしたことでしょう。

兄弟たちに向かって主は言われました。「私はこの祭りにはまだ上って行きません」そしてそれから、兄弟たちが上って行った後、そんなにもすぐに、主もまた上られたのです。しかし、主は普通の理由にうながされて上られたのではなかったでしょう。主はこのことは誰でもしていることだったからという理由だけでこのことをなさらなかったし、誰もが祭りに上って行ったので、主も当然上って行かねばならないということによって強く促されたのでもありません。

九十九人の人がそうしたからと言って百番目の人がそうしなければならないという言い分にはなりません。私たちは多くの人が行動を決定する要請によって動かされるものではありません。そうするのは一般的なことです。誰もがまたそうしています。それはそうするように認められることです。いいえ、そうではないのです。私の父は私にこのことをするように求めておられますか。それが絶えず私たちの歩みを支配しなければならない問題であります。

主イエス様の場合、常時、主に反対の道を採用させ、父なる神に尋ねたり、父に直接導かれることなしに、つまり、まるで彼が自らの主人であったかのように、また他の所でアピールする必要がなかったかのように、個人の立場で行動する土台がありました。ところが、主にあっては個人的で独立的であったことは何もありませんでした。今話しているのは、罪深い個人性や積極的な個人性のようなものを単に話しているのではなく、独立した行動、つまり最上の目的のために、かなりふさわしい意図を持つ良い動機のために取られた行動について話しているに過ぎないのです。そうです。このすべてはなされてよいものですが、父からの積極的な言葉は別としてです。(Yes, all this may be done, but apart from the positive word from the Father.)たとえどれほど動機が良くてもそれが独立した考えを生み出すのです。

(キリストの心は聖霊による油注ぎに支配され、その油注ぎによって動機が起こされ、つねに聖霊が動かれるのを待っているのです。それがキリストです。精神も心も意志も、父なる神の考え、願い、意志に統制されているのです。)                                                           

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003291.htmlです。英文を併記したところは訳がおかしいと自分で思っているところです。識者のご教示を賜りたいです。)

2011年7月20日水曜日

召し出された教会の素晴らしさ

あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。(新約聖書 ヘブル13:21)

(パウロは彼の手紙の中で繰り返し「神の計画に沿って」召されている人のことについて語っています。エペソ3:10~11にこれらの明確な宣言の一つがあります。「これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、永遠のご計画に沿ったことです」私たちはそのことを未来時制だと思うかもしれません。しかし明確に「今」と言われています。神は、支配と権威を教えるご自身の教会に、今、事をなしておられるのです。私たちは神が私たちを取り扱っておられるのを眺めている目に見えない霊的存在によって取り囲まれているのです。彼らは私たちが通過しなければならない体験、そしてそれは私たちが神の永遠の計画と一致しているものですが、それらを見ています。
 その計画とは何ですか。その計画は私たちが神の御子の似姿に一致するということです。エレミヤ18:2~3に読むことができます。「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。・・・ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。」支配と権威が、言わば陶器師の家に降りて来て、彼らは眺めているという案配だ。陶器師の手にある器は何ですか。それが教会なのです。しかし天の陶器師は器に満足していません。彼はそれを壊し、そして、新しいものを造らねばなりません。今やその粘土はろくろの上にあり、あらゆる種類の神の取り扱い、働きかけがなされねばならないのです。
 これらの目に見えない霊的存在はどのように天の陶器師が私たちを形造るかじっと見つめているのです。私たちは粘土です。時々陶器師の手の圧迫を感じたり、陶器師が教会を造り直している間は身の切られる思いを経験します。しかしあらゆる私たちの試練、苦しみ、私たちの困惑はただ神が私たちをゴールへ連れて行かれる道に過ぎないのです。彼のすべてのお取り扱いは私たちの上に効果を現し、私たちを変えるのです。そして高きにいます霊的存在はそれを見て、どのようにしてキリストが私たちの上に徐々に徐々に形造られて行くかの神の知恵を知って賛嘆することでしょう。それが私たちの召しであります。)

私たちが神の計画と真っ直ぐつながっているかぎり、神のわざは私たちのうちに行なわれるものです。すべてにまさって大事なことは私たちの働きではありません。神は私たちが神のためになすことよりも私たちのうちにあってなされることに関心をお持ちです。神はしばしば、私たちがたくさんの働きをしているときよりも、何もしないでいる時の方がはるかに目的を成し遂げられるのです。

陶器師の手はモーセが全く何もできなかった荒野にいた時に働いたのです。40年間彼は数匹の羊を世話していたに過ぎませんでした。そのことはそんなに素晴らしいことではありません。モーセが時々自分は何の目的で荒野にいるのか、また自分の人生は果たして価値があるのだろうかと疑問に思ったことは疑いありません。しかし天にある支配と権威はこの大した人物を見、神の知恵に驚いたのです。神はこの男を完全にする方法、その生活において神の道を取らせる方法を知っておられました。それは多くの神のしもべの場合にも真実であります。

神は良きことのために働いておられます。ご自身の器を造っておられるのです。私たちを扱ってくださる神の知恵があります。しかし私たちはそのことを知って、自らの計画や個人的な野心が必要でないことを知らねばなりません。粘土は完全に神の御手にあらねばならないのです。もし私たちが本当に神のためにこの地上生活を送っているのなら、神がご自身の目的を達成し、私たちのうちに神はそのご計画を成し遂げることがおできになるのだと確信させられることでしょう。そこにこそ私たちは力を見いだすのです。

あなたは自分が神の偉大な計画のうちにあることを確信しておられますか。誰もが神の計画の何らかの一翼をなしているのです。パウロが教会について語るとき、次のようにたとえています。「からだ全体は、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ」(訳注:エペソ4:16)てと。からだのどれ一つとっても働きのない部分はありません。めいめいが、また誰もが神の計画のうちにあらねばなりません。ある部分は非常に小さいかもしれません、しかしそれらは等しく重要であります。

私たちは神が私たちを一つの計画をもって召されたことを忘れてはなりません。その計画とは、私たちが自分自身を神に明け渡すことを悟ることであります。神が私たちを召されたことがたとえどんなことであったとしても、その備えをし、それを行ないましょう。生活を送らせる聖霊はつねに目的によって特徴づけられます。そのような生活にあっては私たちが失うものは何もありません。単なる一般論は信じないようにしましょう。それは十分ではありません。私たちの生活に対する神の考えにはかなり明確なものがあります。

すべての個人的な願望は捨てましょう、そして「すぐに」と迫って来る御霊に満たされましょう。神から召されていることを知り、自分たちの生活の目的を明確に認識している人々は明け渡すようになります。もはやこの地上の諸物に対していかなる関心も持ちません。彼らには一刻の猶予もないのです。時を上手に用いねばなりません。

(今や私たちの生活は栄光のうちにある主イエス・キリストと一致します。神の永遠の計画は天において支配と権威が支配するのと同様に宇宙的な次元をともなって広範囲に支配するのです。イエス・キリストの教会は大きな計り知れない神の計画にまかせられています。このことを知ることが力を意味するのです。このことを知れば、私たちは混乱と試練の時に(それを通して神はご自身の計画を働かせておられるのですが)平静でいられるだけでなく、主が言われたように世が私たちから奪い去ることのできない平安と喜びにも満たされるのです。
 私たちには天に召される召しという神の偉大な計画があります。だから私たちの生活には偶然の出来事というものは何もないのです。時は神によって定められているのです。私たちは神の約束の中にいるのです。神の計画はまだ完成していません。キリストがこの地上に来られることはその最初の段階に過ぎませんでした。しかしキリストが天におられるので、今や教会に関する神の計画のより完全な完遂があるのです。ですから、すべてのことにおいて、私たちの天の父なる神の御意志を主を信頼して認めましょう。恵みによってゴールに達することを信じて御霊にあってそのゴールに目を向けていましょう。)

(今日の箇所は Christ Our All - Chapter 10 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003288.htmlです。)

2011年7月19日火曜日

真の福音宣教を求めて

「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。(新約聖書 ヘブル11:26,27)

(もし私たちが論文を書くとしたら、「キリスト教」と呼ばれるものが本当はキリストにとって最大の敵であったと書くことでしょう。そのことは古く、貧弱であるものや悪いものの代わりに別のもっとすぐれた組織が重要だということではないでしょう。 中にはそれはすべておおざっぱに見れば、秩序や技倆や形式の問題であると思い、もし私たちが教会を「新約聖書」の形や秩序に戻るなら万事はうまくゆくだろうというふうに見ている人もいます。)

実際は、一定の事柄が新約聖書の教会を特色づけているのに対して、新約聖書は教会がそれにしたがって設立されたり形成されたりするべき完全な型を与えるのではないということです。新約聖書の教会にとって青写真はありません。新約聖書の教会を形成しようと試みることは、別のものと同じく合法的で教派的でかつ死んだものになるかもしれない別の組織を生み出すのに過ぎません。教会はいのちが湧き出る有機体であります。いのち自身はまさしく信ずる者に働くキリストの十字架から生ずるものです。(もし信ずる者が十字架を経験していないなら、そこには教会の本当のあらわれはいささかもあり得ないのです。)

このことは私たちを特別な地点へと連れて行きます。この近づいて来る試練の洪水から見て是非とも差し迫りしなければならないことは何ですか。洪水はすでにクリスチャンと呼ばれる非常にたくさんの人々や、あまつさえ福音的なキリスト者をも運び去って行ったのですから。確かにたった一つの答えがあります。一方では、信ずる者がみことばに「根を下ろし、地中深くとどま」って実質あるものとして、本当にキリストの身の丈にまで成長するような宣教です。このことが福音宣教を支持するものでなければなりません。そうすれば、その働きは表面的でなく、深くなり、一時的でなく、永続的になり、概括的なものでなく、本質的になるのです!

もう一方で、信ずる者が自らのキリスト教を徹底的に吟味しなければなりません。キリスト教は多かれ少なかれ、伝統であり、憶説であり、外形的な機構であり、共通に受け入れているものに過ぎないですか。それともまことに心の中の「イエス・キリストの啓示による」もの、つまり、神とともに真に歩み、キリストの知識が成長し、御霊のいのちであるものですか。神はそのことを揺るがされないものが将来存在すると言われたのです。私たちが獲得して来たものは揺るがないものとして残りますか?

(今日の箇所は Editor's Letter, Nov-Dec 1952 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003287.htmlです。1952年という年はスパークス氏にとって忘れられない年であったようです。この記事はその一年を振り返っての記事です。この年彼は、飛行機で26000キロ、その働きのために各種の集会で奉仕するために旅行したと語っています。戦後7年、宣教の歴史においても大きな転換期であったようです。文章は一部翻訳が難しく意訳につとめはしょったところがあります。ご了解ください。)

2011年7月18日月曜日

聖霊にところを得しめて

碓井峠(軽井沢から横川へ降りるバス車内から)
あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。(新約聖書 ガラテヤ5:7)

何かが霊的な競争にあって走るのをやめさせて、妨げたのです。このことは極めて深刻で、パウロの心胆を寒からしめることでした。ガラテヤ人の場合にもう一度生まれながらの人間が出て来たようですが、この度は感情の領域に関わることであったようです。ガラテヤ人が、キリストがたとえで土の薄い岩地についておっしゃったことばと一致するそのような気質から出て来たようです。種(訳注:マルコ4:3以下他参照)は急激に熱心に受け入れられたのですが、収穫を生み出すには至らなかったのです。このように熱心にスタートを切り、全く活発に働くのですが、それが持続しない人がいます。ここに述べられたガラテヤ人はそのようでした。

彼らは非常に素晴らしい応答をしたのです。 声高に自らの信仰を主張したのです。ところが非常に急速にその競争から落後したのです。なぜでしょうか。それは、彼らが自らの感情や感覚の上で生きていて、それらは変わりやすいものだったからです。このことは気質の問題かもしれませんが、そして事実そのような性格的なことは私たちのほとんどのうちに見いだし得るでしょう。私たちは訴えに応答し、大きな感情の力のもとにくだり、それから萎えるのです。主イエス様のおことばのうちに「困難や迫害が起こると・・・つまずいてしまいます」(マタイ13:21)とあります。

もし皆さんも私も最後まで耐え忍ぶつもりなら、その時は生まれながらの情動による生活よりももっと大きな力を体験しなければならないことは明白です。ただ一つの望みはパウロが「キリストの愛が取り囲んでいる」と言うようにそのことが私たちにとって本当であることです。この愛の力のことに関しては生来のものと霊的なものとの間には大いに違いがあります。この「取り囲む」と訳されている言葉は、「イエスを監視していた男ども」(ルカ22:63)と言う、イエス様の捕縛の時に用いられた言葉と同じものです。

監視人たちはイエス様を買い取りました。彼らはイエス様を逃させないようにしました。イエス様が賞金で、捕縛する報酬を期待していたのです。だからキリストの愛が私たちをとらえている、つかんでいるということは、私たちの生来の情動を御霊の大きな力によって征服しているということであります。私たちの感情は起こっては消えるものです。感情というものは時々は強いかもしれませんが、また非常に弱くなり得るものです。

もし私たちがキリストの愛という力強い支えについて何も知らないなら、非常に骨の折れる競争の最後までは決して走り抜けないでしょう。なかんずくキリストの満たしとなるものはキリストの愛であります。もし私たちがついにその満たしに至るのなら、それはキリストの愛の力に取り囲まれ、つかまえられることによって初めて可能なのです。「あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げたのですか」その答えは情動の力で走り、神の召しを受けたとき感情に影響されていたので、自らの熱心さで応答するかのように走ったのです。ガラテヤ人への手紙は、主を信ずる者の生活で、聖霊の占める位置がどんなに大切であるかを強調するために上梓されているのです。と申しますのは聖霊お一人だけが私たちがよく走り続けるために必要な愛の力を供給できるお方だからです。

(今日の箇所は God's Purpose in All - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003286.htmlです。)

2011年7月17日日曜日

すべては私たちが啓示を受けることから始まる

これは不思議、もみの木の美しさ、朝目覚めて窓を開けて気づく(長野県御代田)
私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(新約聖書 ガラテヤ1:12)

勝利し、続ける力にとっては、私たちのうちにおられる聖霊による啓示だけが十分でありうるのですが、そのことは現に可能なのです。それは人の霊の内側にある啓示であって、たとえそれがどんなに神についての真理であったとしても、決してその精神的な真理の認識ではないのです。「私は知っている」と言うことが出来る力はかつて聞いたり読んだりしたことでなく、「私は知る」ということです。啓示により知ることは、私たちから何ものも奪い去ることが出来ない経験です。

この聖霊による啓示を持つことが絶対的な基本です。なぜなら私たちは神から出るものを除いて何ものも反対することが出来ない悪霊の力に遭遇しなければならないからです。「あなたは私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました」(訳注:詩篇4:1)とありますが、どのようにしてでしょうか。それは内側にある主のいのちが絶えず現われて来るからです。悩み、試み、悲しみ・・・このようなものに私たちは支配され、そのようなものは全ての人間にとって共通することですが、内側にある「主の力による強さ」によってそれらは凌駕できるのです。

私たちには神を知る知恵によって与えられる主の光があるゆえに強いのです。(エペソ1:19)これは日毎に大きくなる啓示です。パウロはエペソの聖徒たちに書いていますが、それらにはどんなにすばらしい出来事があったことでしょうか。パウロがエペソの人たちと別れるおりの言葉(使徒20:17~38)をごらんになってください。そのような人に向かって「あなたがたが理解する力を持つことができるように」と言い、啓示によってもたらされる神の強力な力の必要性を示しました。敵である悪魔は啓示に強力に抵抗します。悪魔は啓示を駄目にし妨害するためなら手段を選ばないでしょう。

光と力は伴うものです。忍耐力は「私は知る」という啓示によるのです。真理が啓示され、その真理が確立される、このことがサタンとサタンを宿す人に衝撃をもたらします。光が力に先行するのです。主が目を開かれるとあなたは起こっていることがわかります。「あなたの心の目がはっきり見えるようになって、知ることができますように」(訳注:エペソ1:18,19)というのが、開かれた目の結果です。「主イエスをよみがえらされた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせることを知っている」(2コリント4:14)

「わたしはあなたを彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らすために遣わす」(使徒26:18)パウロは主イエス様によって人々の目を開かせて暗やみから光に、そしてサタンの支配から神にあって御国を受け継ぐ者へと立ち返らせるためにメッセージを携えて行くように遣わされました。これが目が開かれた者が受け継ぐものです。主の主権は開かれた目に続くのです。

(今日の箇所は The Cross and the City of God - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003285.htmlです。)

2011年7月16日土曜日

ああ、私たちは何を大切にしているのでしょうか

浅間山の噴火による火山岩を積み重ねたものだろうか、何気なく気になってパチリ
人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。(新約聖書 マタイ19:26)

できないということを眺める上で二つの道があります。すべてのものはあなたが不可能だと考えていることに依存するのです。それは事態の上に立っているか、それとも神の上に立っているかです。人にとって可能でないことは神にとって可能であります。(マタイ19:26)そして神はこのような不可能な事柄に通常の方法で答えられます。というのはそれは通常の方法であるからです。異常な方法はしるしや不思議や極端なできごとであるものです。私たちの感覚に示威的であります。しかし、キリスト者生活にあって通常の方法は、死の働きに打ち勝つ神のいのちが絶えず超越する方法であります。

その奇跡は私たちが認識する以上にはるかに一般的であります。あなたはすべてのものが霊的ないのちに反対している霊的な死の領域で、生活し、働かねばなりません。そしてそこにはあなたを支えるものは何一つとして全然ありません。しかし主にあってそこにいるのです。その雰囲気によってもまたそれらの状態によっても飲み込まれたり、破壊されないのです。それが沈黙のうちに働く神の奇跡です。その時、あなたのいのちは、すべての人のいのちと同じように、死、霊的死という大きな石の存在のうちに置かれているいのちです。

私たちはそれを知っていますが、霊的に生きるように維持され生き続けるのです。それは偉大な奇跡です。日常生活の奇跡です。神が死からよみがえられた証です。

この石はすべて彼らの以前の希望を超越していることの象徴となったのです。主イエスのよみがえりにあって以前の希望が生き返させられたのではなかったのです。彼らの望みは変化を経験しなければならず、その期待も大層変えられねばならなかったのです。要点はキリストのよみがえりにともなって彼らの望みが単に再び生き返ったのではなく、それまでがっかりさせられてきた全ての希望を完全に超越したのであります。

彼らはイスラエルの一時的な贖罪を求めていたのです。だから彼らは別の光でイスラエルの贖罪を見なければならなかったのです。主イエスのよみがえりにおいて(あるいはこんなふうに置き換えてもいいでしょうか)復活のキリストとつながって、私たちの希望は世が与える全ての希望よりはるかにまさっているのです。

私たちは主の死にあって私たちの宝をちりとしなければならないでしょう。私たちにとって望みであったり期待であったり、野心であったり、外見であったりする非常に貴重であるものをことごとく手放さなければならないでしょう。私たちの大切にしている世界は小川の小石と一緒に置かれねばならないでしょう。(ヨブ22:24)

キリストとのむすびつきのよみがえりにあって、私たちが以前望んでいたものよりも、もっと多くのものが返されるのです。神はそのようです。あなたはそれは言葉であり、非常に美しく響くと言うかもしれませんが、本当ですか。いいでしょうか私は霊的ないのちと歩みをいやしくも何ほどかでも持っておられる方に訴えているのです。

あなたは疑いもなくすべてのものを手渡さなければならない深い暗やみの試練の時を通過したことがあるでしょう。非常に大切であったものを祭壇に置き、それを主に明け渡さなければならない危機に到達したことがあったでしょう。もし主がそれをあなたに戻さなかったとしたら、あなたは何らかの霊的な富、何らかの霊的に良いこと、また「そうなんです。それだけの価値があった」と言わしめる霊的な方法でもっと多くの何らかのものを、受け継がなかったですか。あらゆる消え失せた望みや期待に対する十字架を通しての主のお答えは、そして神のご性質そのもののうちにあって、墓に横たえられたものよりももっと多くのものがあるにちがいないのです。それがまさしく復活のキリストの原理であります。主は以前存在された(もし私が誤解されずにそんな言い方が許されるならですが)よりも、よみがえりにあってはるかに偉大なキリストでありました。

(主は普遍的なお方であり地方的ではありません、霊的であり、肉体によって限定されていないのです。そうです。彼らはより偉大なキリストを受け継いだと言ったことでしょう。もちろん、主は目に見える事実でより偉大なキリストではありませんでした。彼らはつねにそこにあったのだが、以前は決して理解しなかった偉大さを受け継いだのです。それが死とよみがえりの原理(つねに増大し、つねにもっと多くのものとなる)です。
 一粒の麦は地に落ちて死にます。そして多くの実が生ずるのです。以前の希望を超越するものがそんなふうにして生ずるのです、前のものが戻って来るのでなく、何かが加えられて戻って来るのです。一時は「残されるものは何もない」と言われるように思えた石が、かつて彼らが考えていた以上に巨大で大きなものを増し加える象徴となったのです。)

(今日の箇所は The Problem of the Stone の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003284.htmlです。今日の箇所を通してヨブ22:24を知りました。私は今日の写真に重ね合わせてこのみことばを反芻しました。)

2011年7月14日木曜日

挑発という炎

青空に 百日紅 鮮やかに 思わず仰ぐ 天の宇宙 
わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、 どんなに願っていることでしょう。あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。(新約聖書 ルカ12:49,51)

(避けることのできない怒りの炎でした。聖霊がやって来、炎が下され、地を移動し始めるや否や恐ろしい反対の暴動が起こったのです。)

もし、皆さんも私も御霊の男であり女でありたいのなら、気ままな生き方は送れないでしょう。地獄の憎しみはそこに集中するでしょうから。ただちに衝突が生じ、聖霊が私たちにますますその道を示し、神の御心に導けば導くほど、私たちがこの反対や敵意をますます見いだすのは当たり前だからです。そしてその対立は私たちと世との間だけでなく、時々主の民自身の仲間のうちにも生ずるのです。皆さんは時々なぜだと不思議に思われることでしょう。

皆さんは新約聖書を読むに連れて、「これらの人々はどうかしたのですか。なぜ彼らはそんなに狼狽して悩まねばならないのですか。そしてこういうことがなぜそんなに自然になされねばならないのですか。困難にもめげず、またそんなにも理不尽なのですか」と不思議に思われることでしょう。しかしそこにある通り、それが事実なのです。それは避けられないことであります。

ご存知の通り、このように、主がなすために来られ、今もしておられることは、いかなる中立状態も認め得ないものなのです。あれかこれかになるのです。賛成するか反対するかです。燃える炎のような目(訳注:黙示 1:14)、ここには再度、炎が登場しているのですが、その目は微温的なことやラオデキヤの人々の性格のようないかなるものも(訳注:黙示3:16)許しません。炎にはつねに明確な要素があり、積極的な状態を生み出すのです。

もし、すべてのことが全部うまく行き、穏便で何の妨害も悩みも敵意も反対もなければ、皆さんは聖霊が非常に犠牲の大きい、そのような積極性を目的として、それだけたくさん働くのかという疑問に対する理由を持つのです。主とともになのかそれともそうでないかであり、その間には何もありません。遅かれ早かれ結果は出されることになります。

だから、主はそのことが主がなすために来た理由だと言われるのです。このことは思わぬ出来事であったり、悪化したり失敗だったりする事態ではありません。これがまさしく主が地に炎を投ぜんがために来られたことであります。これらのことは炎がもたらす避け得ない結果なのであります。

(今日の箇所は The Cross and the Way of Life - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003282.htmlです。)

2011年7月13日水曜日

山々の強さをあなたは体験したことがあるか

主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる(旧約聖書 詩篇125:1)

(この福音書におけるこういう特徴の一つに、「山」という言葉の頻出があり、山が度々視野に入れられていたことがわかります。もう一つの特徴は天使の活動と働きです。こういうことは少なくとも上からの何か、地上を離れる何か、原理的に力があり天と結びついている何かを暗示しています。山の頂上は型においても形態においても天とのつながりがありますが、天使の訪れや働きも天とのつながりを意味します。そのことは私たちが神の子にとって大変重要で必要な霊的真理へと導かれる思想です。
 ご存知のように「霊的力」と称していることは、上に昇り、頂点に達し、地上の引き下げる力に打ち勝ち、私たちが段々低く降りて行き、ついには真下に降ろす圧力を征服するものです。この霊的力は他のどんな人よりもキリスト者に向けられるものであることを私たちはよく知っています。降ろされ、さらにもっと下の水準に導かれたり受け入れたりさせる力です。しかも、そうすると、終わりでなくさらに徹底的に下へと降りて行かざるを得ないものです。一旦下り坂に入るとそこに終わりはありません。ほんの少し下ることをゆるすと、もっと下るようになります。終わりは不可抗的に潜行し完全に落ちます。
 私たちを下に引きずり降ろそうとするそのとてつもない力を意識せざるを得ません。その力は、私たちが霊的な支配を行使し、敵である悪魔やもろもろを支配するという高い水準を維持できないようにするものです。そのことを本当に知り、達し、維持される高い位置というものは要塞や強さという点で重要な要素です。そしてそれはなぜ敵(である悪魔)がつねに神の民を力づくで引き下ろそうと求めているかの理由です。皆さんは詩篇125:1から始まるみことばを覚えているでしょう。「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる」)

山々ですか? そして、主は山々のようですか? それって一体何ですか? それは要塞です。強さです。防御壁です。そしてもし要塞化されるものに抗するものが何もないとしたら、要塞の要点とは何でしょうか。

旧約時代にもどると、民が選ばれた土地にやって来た時に、顕著なことは彼らが低い地よりも高地を占領したことです。彼らの占領した町々や都市々々や村々はそのほとんどが幾分高地のところにありました。その理由は彼らの敵が戦車や馬車を持っており、平地においては強さを発揮しましたが、山々に対しては何も出来なかったということです。それゆえに主の民の安全や警備や要塞は高地に住んでいるということによるものでした。それは一つの譬えです。

もし敵があなたを彼のレベルに置くことが出来るなら、彼はあなたを打ち負かしました。それで、彼はあなたを引きずり降ろし、組み伏せ、あなたが自分に対する神の完全な立場と御心以下のものを受け入れるようにさせなければならないのです。そしてそれから彼はあなたを元に戻すのです。それは彼が教会について非常に一般的な言葉で話かけ、教会をすませて来たことです。彼は教会をこの世のレベルに引き下げてきました。彼は教会を地上のレベルまで弱くさせ、完全に崩壊させ、分断し、その力を奪ってきました。

新約聖書において私たちに明らかにされている教会はつねに高い地歩にあります。それが私たちが見ようとしている教会です。エペソ人の手紙には教会は「キリスト・イエスにあって天にある」ものです。教会は高い地歩を歩む大きな力です。大変な防御と保護の要因であります。敵はもしあなたがそこに留まり、降りることを拒絶するなら、あなたに少しも手を触れることは出来ません。ネヘミヤはそのことを経験しました。敵が降りて来い、相談しようと言った時に「私は大工事をしているから、下って行けない」(ネヘミヤ6:3)と言いました。それが(敵である悪魔に対する)操作原理です。

(さて皆さんは今、マタイの福音書のこの場面ではエルサレムを取り囲む山々の上にいるのですよ。皆さんがここで発見することはこれらの山々のすべては教会の難攻不落の状態のいくつかの重要な要素をあらわしているということです。これらの山々のいくつかから容易に主要な原理を取り出すことが出来るのです。
 マタイの5章に入りましょう。その箇所をご覧になり、一節から通過したら、私も皆さんも目を7章の終わりまで走らせる必要があります。なぜなら5章、6章、それに7章はいずれもこの山の上であったことをふくんでいるからです。)

(今日の箇所は The Mountains Around Jerusalem - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003281.htmlです。この魅力的な題名の文章を通して著者は何を語ろうとしているのでしょうか。上述の翻訳はそのさわりに過ぎません。しかし長い間、常識的に知っていた「山上の垂訓」の意義がこんなところにあることを私は今に至るまで知りませんでした。まさに目から鱗の内容の作品です。)

2011年7月12日火曜日

苦しみを通して人は清くされるのです

私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。(新約聖書 2コリント2:4)

(それがこのことば(訳注:suffering?)の心髄にある正しい考えであります。苦しみを通して私たちのものとなるものがあるからです。そうです、それは主のものなのです。そして、それが主の恵みのすべてでありますが、同時に私たちのものとされるのです。
 そしてそのことは私たちが苦労を重ねたことは私たちを非常に用心深くするという意味が確かにあるのです。何かのために心を痛めることを通して人は清くされます。苦しみや痛みであった子どものことを取り上げてみましょう。全然子どものために心を痛めた経験のない他の人はその子についてあらゆる欠点を見、すべての批判をし、良いか悪いか判断し、達観し、言いたいことを言うことが出来ます。しかしその子の母親は全くそのようなものはほとんど見ないでしょう。母親にとってはその欠点などを超越するものがあるからです。
 「あなたはそうおっしゃるかもしれませんが、この子は私にとって大切な子です。私はこの子のために苦しんできました。この子は私の子です。心から愛する子です、骨折って育てた子です。私にはこの子の欠点が目につきますが、それら全部をおおうものがあるのです。苦しみから生まれた心配りの愛があるのです。」
 皆さんは私が何を言おうとしているかお分かりでしょう。)

主にとって貴重で、ご自身の民の財産となさりたいと思っておられるものは何もありませんが、それに対する苦しみはあるでしょう。その意味ではそのことを批判する人が苦しみ、苦痛が降り掛かって来るとき、それは初めて彼らのものとなるでしょう。

もし皆さんが事態から切り離され、証や神の働きから切り離されるならあなたは好むままにすべてを批判できます。あなたはそのことと内面的に心のつながりをもっていないので、それを批判するのです。しかし、もし皆さんがその渦中にあり、悩んで来たのなら、また皆さんが関係する犠牲の大きいことだったら、全ての失敗や全ての欠陥以上のものを見ているのです。そのように批判し判断し欠点をあげつらうことのできる人は苦しみにあった経験のない人です。

一方で私たちはあらゆる用語やあらゆる教理やあらゆる真理に精通しているかもしれません。そしてそれは聞いたものであり、まさしく客観的であるかもしれません。私たちはそのど真ん中で生活し、そのことに馴染んでいます。しかし主が私たちのものとなるためにもしそうならなさりたいことは問題を通して私たちが苦労することであります。主は深い内面からするやり方で私たちの心とつながりを持たれたいのです。その結果私たちの誰も次のように言うことは出来ないでしょう。「私はそのことについて全部知っている、そのことについては全部聞いてきたのだ、そのことについてあなたが私に話すことが出来たすべてのことを話すことが出来た」と。

主は、そのことに関しては苦労を通して私たちのものとなるように、犠牲を払って、深いところで痛みをもって、大いに働かれ、その結果私たちは新しい立場に移されるのです。私たちは眺めていて批判するだけの傍観者ではありません。私たちは内側にあり、用心して防御しているものです。私たちはそのことにまさる愛を持っています。苦しみは大きく人を清めます。苦しみは自我を壊します。苦しみはそれが悩みの大部分の原因である利己心を壊します。苦しみをとおして私たちは神から来るものに対して公平な態度をもって接し用心深くなります。そうです。苦しみは人を清くし、この深い内面的なつながりを持つのです。

苦しみは他の特徴をも与えます。それらの特徴とは私たちが欠点に左右されたり、批判的な態度を持つ人になり得ないということだったり、たくさんの罪をかばう愛のあるもとなったりすることです。私たちは一緒に苦しんできました。一緒に苦しむ時にどんなに多くのことが乗り越えられることでしょうか。

(一緒につらい体験をしてきました。それも恐らく何年もでしょう。火の中にも一緒にいました。愛があります。苦しんだからともに奮起するにすぎないのだとする心配りがあります。人々をして彼らは他の人々が必要なのだろうと言わしめるほどです。)

(今日の箇所は The Eternal Reward of Labour and Suffering の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003276.htmlです。これらの文章は5頁ほどの短文ですが、それぞれ含蓄のある内容を持っています。いずれ他日再び別の箇所が引用されて来ることでしょう。その時を楽しみにしたいと思います。念のため文章全体の引用聖句を示しておきます。民数記27:1~7,ヨシュア記15:13~19,ローマ8:17がそれです。一番訳出に困った単語はjelous,jelousyです。ここではあえて「ねたみ」を採用しませんでした。ご了解ください。)

2011年7月11日月曜日

キリスト、この方に安息があります

私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(新約聖書 ヘブル4:11)

ヘブル人の書き手が言うには、入ることに失敗した人々は安息にはいることに失敗したということです。福音が前もって伝えられていた人々がはいることに失敗したのです。そのことは注目に価します!福音は人々に語られていたのです。こういう人々は福音が前もって伝えられていた人ばかりです。

福音とは何ですか。そのつながりの中で質問に答えるのは、私たちに安息を与えるキリストです。それが福音です。私たちの安息であるキリストの福音はイスラエル人には型として宣べ伝えられていました。その福音を前もって語られていた人々が安息にはいることに失敗したのです。それで使徒は言います。「私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」

彼らは落後しました。神は別の日を設けて言われます。「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない・・・」福音は神の安息にはいるために信ずる者に宣べ伝えられているのです。主イエス様はこのことを「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」と言われて信仰の初期段階に置かれたのです。天におられるキリストが私たちの霊の安息であり、心の安らぎなのです。

安らぎの本質って何でしょうか。それは心の満足と確信です。もしあなたがたとえどんなにたくさんの仕事をしなければならないとしても満足しているなら、あなたは心の安らぎのうちにあるのです。さらにもしあなたが仕事がうまくいくと全く確信しているなら、あなたは確信のうちにあり、心の安らぎを経験しているのです。

私たちにとって、すべてのことは、先駆者としてはいり、私たちの安息となってくださっているキリストに基盤があるのです。私たちは骨折り、自分自身を注ぎ出し、また燃焼し、燃え尽きることでしょう。しかしそのすべてにあって真の心の平安があり得るのです。私たちは攻撃され、あらゆる方面から圧迫され、投げ捨てられ、試みられることでしょう。しかしキリストが依然として私たちの安息として残り得るのです。

というのは、先ず第一にキリストが破壊する力(訳注:悪魔の死の力)を打破されたので、これらのことどもは私たちの破壊とはならないことを知っているからです。次に私たちの骨折りは空しく終わらないのです。なぜならキリストは勝利のうちに死を飲み込まれたからです。キリストが私たちの安息なのであります。

(今日の箇所は The Essential Newness of the New Creation - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003275.htmlです。)

2011年7月10日日曜日

死、それが神が始められるところです

ブラックベリー、あと何日で熟れるか?
愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(新約聖書 エペソ4:15)

(さて、それは(死は)多くの人にとってすべてお馴染みになっている古い地盤です、しかし絶えず忘れてはならないことでもあります。それは土台です。もし私たちが完全に十分据えられた土台を持たないなら、止まることになるでしょう。)

私たちは長年主の子どもであった多くの神の子どもを知っています。彼らは主のために多く働いてきました。しかし止まるようになったのです。動きが取れなくなったのです。なぜでしょうか。どういうわけか、ある方法で、ある点において彼ら自身の何か、つまり彼らの古い自我が頭をもたげて来て、明らかになり、その道筋に入って来たのです。それは古い心のあるものや古い好みや願いや感情のあるものかもしれません。ともかくそういうものが彼ら自身の歩みにあるのです。それはその主の歩みにあるのです。

必要とされることは彼らが再び死なねばならないということです。しかし彼らはたとえどんなことであっても、それが明らかになったことに関して、きっぱりとキリストにある死を受け入れ、そのことを捨て、その罪と死の法則から解放されねばならないのです。「死んだ行いからの回心」(訳注:ヘブル6:1)それはまさしく使徒がこのようなヘブル人に言っていることです。

あなたがたは歩みを止めました。あなたがたは全く進み続けることを止めたのです。あなたがたは遥か遠くまで行き、今やある点に達しました、そして長年その位置からはほんの少しも動かなかったのです。あなたがたは土台を通過したことはなく、完全な成長に達するまで進み続けていないのです。あなたがたは一度もそれを解決したことがないのです。キリストが死んだとき、あなたがたも全てそのことに対して死んだのです。あなたがたがキリストのところに来た時、宗教的にも別な方法でも古い創造の全体系や秩序を終わらせたのです。キリストは律法の終わりであり、古い創造の終わりであり、そして、新しいすべてのものの始まりです。古い真理の繰り返しにうんざりしないでください。それらは土台として極めて重要です。そしてこれは根本的なことです。

私たちは今やそれを受け入れようと受け入れなかろうと、好もうと好まなからざろうと神の土台が有効であることを知るように運命づけられているのです。これは真理です。誰も依然として古い創造によって古い創造の水準にしばられながら、神とそのことがらに関して絶対に進むことはないでしょう。この新しいいのちの道は余りにも狭いので、私たちは自分自身を持ち込むことは出来ないのです。自分自身を背後に退けねばならないのです。

(今日の箇所は Foundations - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003264.htmlです。「Death—God's Starting-place」と題する文章の冒頭部分です。そして前回のFoundationの文章の続きになっています。)

2011年7月9日土曜日

再び、お願いします!見えるようにしてください!

ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。(新約聖書 ヨハネ9:25)

もし、あなたがたと私がある段階に達していることに完全に満足しており、私たちがまだ全然経験していないことが全く必要だとは感じないのなら、果たして前に進むのでしょうか。もちろんそんなことはないのです。私たちが進み続けるためには、主は私たちが主を見、新しい方法で主を知るのに必要なところへ私たちを連れて行かねばならないのです。そしてそのことは目的地に行くすべての行程でまさしくそうであるに違いありません。

主が私たちの目を開かれるように、見ること、何度も繰り返し見ることの危機の連続があるのです。すると私たちは以前見えなかったのに今は見えますと言うことが出来るのです。そのようにしてそれは私たちの研究や学びや私たちの本の知識ではありません。私たちの心の目に光がともされることによる、知恵と啓示の御霊によるのです。権威に着目させることになる、その見えるということは、それほど必要不可欠なものなのであります。それが今日要求されている要素であり、特性であります。ただ単に見るために見るのではなく、新しく権威に心を留めさせるものであります。

今日権威の声はどこにありますか。本当に権威をもって話す人はどこにいますか。私たちは生活のあらゆる分野にわたって、権威の声に大変恋い焦がれているのです。教会は霊的な権威の声を渇望しています。あわせて預言の欠乏に飢え渇いています。「主はかく語り給えり」と。世界もまた権威の欠乏に飢え渇いているのです。その権威は見た人々とともにあるものです。生まれながら盲目であった人が見えるようになった証、すなわち「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」には、全イスラエル、すなわち伝統と教えに満ちたイスラエルにまさる権威があります。

そしてそれがそのような重さをもたらされた主イエス様にまつわることがらではないでしょうか。というのは「イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」(マタイ7:29)律法学者たちは権威者でした。もし誰かが律法の注釈を願うなら、人々は律法学者のところに行ったのです。しかし主は権威あるお方として語られ、決して律法学者たちのようではなかったのです。その権威とは一体どこにあるのでしょうか。まさしくその権威をもって万事について主は言明できたのです。私はそのことを確信します。それは私がそれまでに読んだり、話を聞いたり、学んで来たことではありません。それは力をともなうものです。そしてそれは次のことです。

私は知っています! 私は見たのです!

主は私たちのすべてを目が開かれた者としてくださるのです。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003263.htmlです。)

2011年7月8日金曜日

復活のキリストの意味と価値を知る重要性

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(新約聖書 ローマ6:5)

(復活のキリストは人の内側の表現、体験にとって、真実なものとして示されます。主のよみがえりのいのちは私たちのうちにあるのです。キリストは主のいのちといのちの御霊によって私たちのうちにおられるのです。復活のキリストの内面的な意味と価値は信じる人々のうちにある主のいのちの再現であります。それが私たちのうちにキリストのいのちがあらわされるということです。
 私たちのうちに働くその再現の法則は私たち自身が死なねばならないことであり、死に場を受け入れ、その結果あらゆる個人のいのち、関心がまったく捨てられ、放棄され、キリストがすべてとなることです。それがパウロが「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(訳注:ガラテヤ2:20)と言った意味です。ここには生み出されるキリストが言い表されています。それは、キリストのものでないあらゆる生活が十字架に差し出され、死んでしまっているからです。主イエスの墓に入り、その墓から出てよみがえったのです。)

私たちはキリストとその死にあって一体であり、私たちは終わり、キリストが始めとなり、始めからキリストがすべてとなるのです。そのことは基礎的なことであることはもちろんですが、漸進的なことでもあります。その意味するところは包括的でありますが、また漸進的でもあるのです。私たちはそのことの満たしを行為において受け入れねばなりません。今や死せるキリストとの結びつきを受け入れて、そのことをかなり明確にし意識的な立場を取らねばなりません。このことは結果的にもはや私たちのおるところがなくなり、私たちが証言する時はいつでも殴られたり、無視されたり、話すことが認められないということであります。私たちは主に仕える決められた行為においてすべてのためにそのことを一旦は受け入れねばなりません。それ以来、自分から出るすべてのものはその十字架とともに容赦もなく倒されるようになり、自分が出て来る時はいつでも立ちおおせなくなります。

私たちは一旦全てに対してその決着をつけ、主とともに包括的で完全な基盤に立ってことを処理した方が良いのです。主がその真実性においてご自身を意義たらしめられることでしょう。それは私たちの理解力でもなく、把握する力でもなく「私」が認められないことだと思うことでもありません。そうではなくキリストが、私たち自身の知識の尺度を通してではなく、私たちについてのキリストの知識によって「私」だと知っておられることによるのです。かつて私たちの考えや想像のうちにあった「私」よりも、もっとたくさんのものとして明らかにされることでしょう。その時、私たちが知っている自我ではなく、キリストが徹底的に知っておられる自我が、その十字架の力のもとに組み敷かれるようになります。そしてこのことを私たちは行為において受け入れるのです。

(それですから、そのことは漸進的になるのです。日々死ぬこと、つねに死にかけている体や、主イエスの死にあって耐え続けることは、結果的にイエスの死が毎日自分が否定されることによって働くことではありますが、私たちの最初の受容の中心点であるのです。しかしそのことが起こるとき、つまり十字架に対してその犠牲を伴う明け渡しが起こるので、キリストのいのちが再現されるのです。キリストご自身のいのちの力によってキリストは盛んになられ、私たちは衰えて行くのです。
 私たちは自身が捨てられるような挑戦に出くわすことは決してないでしょう。その挑戦があり、それに対する応答がなされるのはキリストが増し加わる機会のみであります。そのことを求めるすべてのことを私たちは、復活のいのちにある主のもっと大きな量りである、主の死の意味するところを新鮮な尺度で受け入れるのです。
 その結果、復活のキリストの意味と価値は内面的ないのちとして再現されるのです。そしてそこには他のどんな道もないのです。新約聖書によればそれ以外にキリスト者を生み出す道はないのです。主御自身のものである仲間を増やすことは外側から何かが加わることではありません。十字架に近づき死ぬことによってであります。それが唯一の道です。キリストとともに死に、キリストとともによみがえらされた以上のいかなる根拠をも持たないのがキリスト者であります。この根拠のないキリスト者はいないのです。)

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 11 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003262.htmlです。相変わらず訳がごたごたしていますが、非常に重要な内容であることに変わりはありません。前後訳を増し加えましたので、この文章は11章中の「The meaning and value of Christ risen as an inward life」の全訳です。右側のラベルでこの項目「The risen lord and the things which cannot be shaken」を見ていただくとおわかりのように、今回の訳で8回目の登場です。全文通して読む必要があることを示されています。読者の中で余力のある方は是非挑戦なさってください。)

2011年7月7日木曜日

あなたはいつ死んだのですか?

クチナシの花(地方庁舎前) 今や政治はどこに向かって漂流するのか
キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した。(新約聖書 ローマ8:2)

(私は今週小さな本を手にしました。その本の表紙の題名にかなりびっくりさせられました。恐らくあなたがたの多くの方々もその本を知っておられるでしょうね。「いつあなたは死んだのですか」その本の最初の数語を見ただけですが、著者は言うのです。「どなたにも問わねばならない不思議な質問」、そしてそれからしばらくして彼が言っているのは「あなたは主イエスが十字架で死んだのと同じずっと昔に死んだのです」ということです。
 私はもちろん彼がそれについて何を言わなければならなかったか、それに続いて何を言おうとするのかわかります。それが主が私たちが受け入れるように求めている真理です。主の立場はあなたがたと私が生まれる前、つまり文字通りこの世に来る前に死んだということです。古い創造に関する限り、私たちは死にました、キリストとともに。そして、主は私たちがその立場を受け入れるまでは、私たちに言うことも私たちとともに行動することもどんなことであっても何もなさらないのです。主からのどんな人間に向かっての最初の言葉は「死んだ行いからの回心」(訳注:ヘブル6:1)であります。
 すべては死んでいるのです。あなたがたがたとえどんなことであろうとも、それは宗教やその他のことであってもキリストと一体であるよみがえりを知るまでは、そうなのです。すべてのものはよみがえりのいのちにあるキリストとの交わり結びつきを知るまでは死んでいます。それが神の立場であり、男であろうと女であろうと完全な目的、他方では完全に新しい秩序の始まりに関する限り、それぞれにあらわされた主イエスの十字架が代理となるのです。パウロはこの別の秩序を「新しい霊」と呼んでいます。それは聖霊の新しさでなく、私たちの霊の新しさであり、その私たちの新しい霊が新しいものとなり、そこからあらゆる他の働きが出て来るのです。
 それはパウロ自身の場合にあてはまることです。霊が新しくされることがどんなことを意味するのか例があったとしたら、パウロがそうでした。なぜ急速にパウロにそのことがやってきたのでしょうか。ある日、彼はキリストのメンバーに反対して息せき切って脅迫し殺害に及んでいます、そしてこれらのクリスチャンを粉砕しようと激情をもって出かける途中に、小さなダマスコの集まりを前にして砕かれるのです。その集まりは彼が壊そうとしていたものであり、彼の人生の残りをかけて自分の意のままにしようとしていたものでした。
 それが霊が変わったということです。そうじゃないでしょうか。それが霊が新しくなるということです。そして、あなたはその大きな変化があらゆる方面にわたって明らかになったことを知られるでしょう。このパリサイ人中のパリサイ人のことを考えてごらんなさい。彼の異邦人「犬ども」にとった態度です。(ユダヤ人の目からすれば、ユダヤ人でない者はどんな者でも「犬」だったのでそう呼んでいたのですが・・・)
 そんな血を受けていたこの人が、今では少なくとも異邦人をユダヤ人とともに同等に生活する者とし、自らの人生をこれらの異邦人がキリストを喜ぶようになるまで、絶えざる苦しみを経験してまで与えるようになったのを見てごらんなさい。何かが内側で起こったのです、新しい霊です!その霊だけがある面では数々の死の危機を通過し、もう一方の面ではよみがえりを経験したのです。神だけがなし得る出来事です。その霊の新しさから出ないものはすべて古い創造から出ています。古い創造が生ずるのはいつでも主イエスの十字架という通り抜けられない障壁があることを意味しています。)

どんな古い人でも、それが古い気質であろうとも、また古い判断基準であろうとも、どんなものでも全部出しましょう。もし私たちが神の子であるなら、その点で、障壁が設けられ、抜けることは出来ず、霊的な生活にあって持ちこたえ、戻ってそのことを清算しなければならないことはかなりよく知っているでしょう。それは私たちにとっては世界の他のどんなこととも全く同じ真実なのです。

その瞬間私たちは依然として霊的に立ち、炎の剣が私たちの道を横切るのです。ここにはそこに至る道がありません。それをここへ持って来なさい。そうすればあなたは裁かれます。神の裁きに直面するでしょう。あなたは破産するのです。それは神がそのすべてを随分前に終了されたという事実に反対するものとしてあがってきます。私たちは神の立場を受け入れねばなりません。私たちがそれを受け入れてしまうその時、事態は解決し、その解決は引き続きなされて行くのです。私たちはその立場を取り、その真理を受け入れるのです。

私たちは古き創造である自分自身を現実に終わらせることは出来ませんが、積極的に言うことが出来ます。私は神がみなされるようにみなします。いいでしょうか、それから進んでいくにつれ、神がすべてを死のもとに置かれたことを悟るでしょう。死はそこで休息するのです。そしてもし死がそのかしらをかつてのように示すなら、再び死の宣告に出会います。

もし私たちが主のために生来の強さでもって働き始めるなら、私たちは死に出会い、間もなく私たちの生来の強さは死の軍門に下ることでしょう。もし私たちが神のことを生来の判断力を用い始めるなら、私たちは進むことが出来なくなり、間もなく暗礁に乗り上げ、到達できなくなることでしょう。私たちが神のことに生来の何かを持ち込むことは何かの新しい結果でなく古いもの、古き創造の上に休息するようになされていた死に反抗することでしょう。

私たちがいのちの新しさにあって動き、神の聖霊によって働き、御霊にしたがって歩いている限り、死はなくなり、いのちにあり、たとえどんなに生まれながらにしてハンデがあり弱くっても私たちは御霊にあって進むように目的地にまで到達できます。「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した。」私たちはもはや自由なのです。

(今日の箇所は Foundations - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003249.htmlです。相変わらず文章が難しいです。ふさわしく訳せません。原文からどなたか適切に直していただけないでしょうか。その代わりに( )書きで示しましたものは原文の前にある文章で、訳を付け足したものです。比較的に分かりやすい文章です。小さい文字ですが、こちらの方をよくお読みになり、スパークス氏の文意を少しでも掴んでいただきたいです。この文章全体はWhen did you die?という題です。)

2011年7月6日水曜日

主とともに歩んでキリストを知ることが大切です

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(新約聖書 ヨハネ8:58)

(あなたは主に実を結ぶことに関して様々な方法を尋ねます。すると主は答えられるでしょう。「わたしはぶどうの木です」と。あなたは実を結ぶ木の中にいない限り実を結ぶことはできません。けれども、あなたが主のうちに住んでいるなら、実を結ぶのです。それはどんなものもそうであれば可能であるのと同じように自然なことです。主とつながりをもち続けることを知っているかが問題なのです。主を知ることが大切です。
 こういうすべてのことがらを知ることは私たちに心の平安をもたらすはずです。自分自身を包み隠さずあらわし、霊的な探求のうちに自らを殺すことができるのです。すると主はついにあなたの心に次のように言われます。「もしあなたがわたしを知りさえすれば、実は結ばれるでしょう。緊張することも、闘うことも、苦しむこともなしに過ごせるようになるでしょう。わたしがこの実を結ぶのです。わたしはあなたを通して一致と交わりによって実を結ぶのです。交わりが聖く祝福される秘訣は、ただわたしに憩うこと、わたしのうちに住まうことです」
 もしあなたがぶどうの木の枝がそれぞれ毎日実を結ぶためにうめいたり、苦しんだり、身悶えしているのを目にしたら、全く不自然なものを目にすることになるでしょう。事実としてあなたはそんなものを何も見ないのです。あなたはそこにとどまって実を結んでいるぶどうの木を見るだけです。それが私たちが絶えず信仰の休息として語っていることであります。
 信仰の休息の背後には何がありますか。あなたが、心の中で静まり、私はちょっと休みますと言うとき、自分をまだ受け身の状態にはしていないのです。信仰の休息とは主を知ること、キリストにある神を知ることなのです。というのは私たちが神と一緒に歩まされる道はキリストのうちにあることであり、キリスト抜きではないのです。あらゆる必要に対する答えはこんなふうに主を知ることであります。主の答えはすべてを含意した答えなのです。)

主が小さな言い回しの中に広範囲にわたることをつめて表現される力は驚くべきことです。主は人の必要のすべての領域を理解し、全ての人の心からの叫びに、二つの言葉からなる単純な文章、「わたしは・・・です。」で答えられるのです。

私は復活を求めて叫びます。また、主のいのちを求めたり、何かを起こして欲しいとも叫びます。満たしであったり、感情であったり、活動であったり、エネルギーであったり、「何か」を求めて叫ぶのです。主の答えは「わたしはよみがえりです、いのちです。いつでも、どこでも、それがわたしの心です」

ああ、私たちは主のゆえに「いつでも、どこでも」その主の答えどおり生きているでしょうか。主は私たちが伝わってきた主題や経験や教えから離れることを強く求めておられます。そのような道は多くの害をもたらしてきました。神の民は、いくつかのこと、経験や真理をめぐって、より大きくか、より小さくかに別れます。すべてを包含したりすべてを結びつける現実性が失せるのです。次に、主に対して様々な事態、経験、真理を取り除きなさい。

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」「あなたは理解しないのですか? あなたはわたしが誰だと言うのですか」あなたの心を神が照らされ、長年あなたが主をどのように知って来たかを知るのです。それが主による精査が向かうところです。主は私たちの心をそこで試されるのです。

(今日の箇所は Knowing God in Christ - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003247.htmlです。相変わらず誤訳がたくさんあるはずです。直接原文でお確かめください。この翻訳はあくまでも試案です。)

2011年7月5日火曜日

キリストの御業を信ずるのがキリスト者です

信じます。不信仰な私をお助けください。(新約聖書 マルコ9:24)

(私たちはこのヘブル人への手紙には神がご計画を持たれる神として表現されているのだと言いましたが、神のご計画は御子のうちに中心があり、かつ御子のうちに集約されていることが続いて示されています。それが私たちの前にこの手紙が始めに三つの方法で示していることです。
 先ず第一に御子の人となりです。ちょっと、こちらをご覧ください。「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われ・・・」(訳注:ヘブル1:2~3)あなたは第一章の全体が神の御子の存在で占められていることに気づくでしょう。神は御子について御子がどなたであるかを語っておられます。これはまた何と偉大な御子であることでしょうか。
 次に贖いの用語を用いて御子が表されています。「御子は罪のきよめを成し遂げた」(訳注:ヘブル1:3後半)それはまさしくワンフレーズですが、以下の多くの章は続いてその贖いがどんなものであるかを説明しています。祭司職といけにえに関してこれらのすべての章はその一節と関連しています。神は御子によって贖いを語られるのです。
 三つ目に神は御子によって栄光に関して語られるのです。御子は「神の栄光の輝き」であり、神は「多くの子たちを栄光に」(ヘブル2:10)導かれるのです。なぜなら、「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」(訳注:ヘブル1:3)神は神が今や栄光をあらわされ、ご自身の右の座に着かれたと語られるのです。
 けれども神は御子によって語られただけで、そのままにしておかれる方ではありません。二章では神が人を栄光の座へと導かれることに注目することでしょう。この手紙は人に対するすばらしいメッセージを携えているのです。神が御子によってなされたことは全部人のためなのです。神はこの手紙によってキリストの完成された働きを語っています。その働きこそ人のために完成されているのです。)

ここにあなたと私が立脚しなければならないものがあるのです。個人的には私は絶えずこのところに導かれます。私は自らを信じるようにということを、いまだに完全に学んだことがありません。そうではなく、私はキリストの完成された働きを信じているのです。しかし、時々私はどんな人もそうでありうるように自分自身に関してはみじめになるばかりです。自分があわれなものであるがゆえに、ほとんどお手上げの状態によくなります。もしこの世で私が原因でキリスト者の働きを諦めねばならないものがあるとしたら、それは私自身です。

あなたは私が言わんとすることを理解してくださるでしょうか。ああ、私たちはどれほど自分自身のうちに見いだすものによってがっかりさせられることでしょうか。だから私たちは自らを信じないのです。私たちはキリストの完成された働きを信ずるのです。そしてその神はそのすべての完成された働きを私たちの勘定書となさるのです。神は私たち自身のうちにある私たちを見られないのです。神はキリストによって私たちを見られるのです。神は私たちを見られません。神は私たちのうちにおられるキリストを見られるのです。私たちはそのことを信じていないのではないでしょうか!もし本当に信じていたなら、私たちは自分自身から解き放されて、実に勝利を遂げたキリスト者となることでしょう。

もちろんそのことは私たちがちょっと何ほどか行儀良く振る舞うことを意味してはいません。私たちは間違って話をし行動するかもしれませんが、すべてのキリスト者にとって避難所があるのです。それは恵みの座席ともいうものです。それはなされてはいけなかったことでした。しかし貴重な血が流されているのです。それは血を流されてはいけなかったことでした。しかし血が流されるのです。私たちのために仲立ちをしてくださる大祭司がおられるのです。私たちが必要としているものが全部あるのです。その働きは片付けられ完成されているのです。ああ、私たちキリスト者は自らの信仰を信じなければならないのです。私たちはキリスト者の信仰から出るものを両手でしっかりつかまえねばなりません。
(今日の箇所は The On-High Calling - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003246.htmlです。)

2011年7月3日日曜日

父と呼びまつる神様

私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。(新約聖書 エペソ3:14~15)

「わたしはよみがえりです。いのちです。・・・父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」(ヨハネ11:25~26,41)これらの二つの聖句の間にあるギャップを橋渡しするにゆがめるものは何もありません。もしあなたがヨハネの福音書の5章に戻られるなら、そのことは完全に正しいと理解されることでしょう。「というのは、父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」(同21節)二つの事柄は一つです。父と御子は復活の力と行動において一つです。
 御子は父がよみがえらせられるという事実の啓示そのものであり、その結果、死は父の家族を壊すことが出来ないのです。父は神の家族をお持ちになり、一度お持ちになるなら、死はそのうちからいかなるメンバーも奪うことはあり得ないのです。父は死の主であり、死の支配者であり、死の征服者です。そしてこの父なる神のまさしく本質そのものによれば、神が死から神の家族を守ることが出来るということであります。そのことは新約聖書の真理をもっとたくさん広げることなのですが、以下ではこの事実を簡潔に書き留めることにします。)

神はこの終わりの時にあって家族を得るように行動しておられ、神の現在のご計画による行動は死によって打ち負かされないものです。神は死によってごまかされることがないお方です。ところが、神の敵である悪魔は家族を得、その家族の死をごまかすことでしょう。それは神ではありません。

この家族は決して死によって分けられませんし、死によって壊されることもありません、死によって死別のようなことを経験しないですし、死によって子どもを失うことも決してないのです。もちろん、家族として私たちがそのことを心から感謝するなら、それは私たちにとって快いことです。この家族にあって私たちは誰をも失わないのですから。

死は地上にあって、事態に手を伸ばすかもしれませんが、霊的な家族は霊的な真実性や父の家のとこしえに続く一体性にあって、もし家族が地上に依然として存在するなら考えられることにまさって、それ以上、一つも引き離されることはないのです。死に痛手を受け、すべてのその心の痛みを経験しなければならないのは私たちの生まれながらの人間的な側面であります。

けれども一体、信者が心から安心することとはどんなことでしょうか。私たちは望みのない人々のようには悲しみません。何が私たちの望みですか。なぜなら、私たちには一人の父がいるからです。その父は死によって決して壊されることもなく、一人のメンバーも失うことのない家族を持っておられるのです。私たちの望みは全家族が誰も失うことなく一緒になることです。その望みは私たちが失うものを何も持たないということです。私たちの望みはとこしえに一緒にいることです。「天上と地上の家族」それが父なる神の意味の一部分です。そしてそれが父がこの終わりの時になしておられること、その種の家庭を得られることであります。

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(ヨハネ15章)この二者は絶えず一緒です。このことは別の言い方が出来ます。偉大な神の家族の霊的な真理を表現する比喩的な方法であります。このことは端的に言えば父は家族の世話をすることに最大の関心を持っておられるということです。15章は信者の世話、すなわち実を結ぶことに関する章です。それは世話をする生活です。私たちはそのことを既成概念に当てはめて考えないようにしましょう。防水区画から始め、公的な称号である牧師や宣教師の世話だと考えないようにしましょう。様々な形態を取り、様々な経路をたどるかもしれませんが、世話は父のいのちの表現であり、父の願いに即応するものであります。
 「わたしの父は農夫です」実を得るためには父は一定の方向を取られます。実はありますが、父は一定の方法を採用することにより、もっと実を得ることが可能であることを知っておられ、もっとも完全に実を結ぶことが出来るまでに成長しなければならない特別な枝に関心を持っておられます。それですから父はある方法を採用されるのです。「主はその愛する者を懲らしめ」とはヘブル人への手紙においてこのことを言い表している言葉です。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義を結ばせます。」父は刈り込みをなさりこらしめられます。それはもっとも完全な手段によって実を結ばせるまで成長させるためです。「わたしはぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」そのようなものとして父は一つのことに関心を持っておられるのです。そしてそれが実を結ぶための最も完全な手段です。
 私たちは神による刈り込みや懲らしめを受けていますか、それとも父により受けていますか。そのことは大変な違いをもたらすものです。)

「神」の精神構造は時々きびしいものです。ところが、私たちは「父」の雰囲気そのものにあっては、きびしい精神構造を受け取ることが出来ません。こういうことはすべてその父の権限内でもたらされるにちがいありません。私たちに対する主のお取り扱いは今や父の処遇であり、家族の線に沿ってなされるのです。それがこの終わりの時に起こっていることです。

(このヨハネによる福音書は神の家族にとっての父の考え、心、意志、関心がどんなものであるかを包み隠さず述べている最高峰の一つであります。)

世界史においてすべての啓示にまさる啓示は私たちが今そのうちにあって生きているという啓示です。すなわち御子、イエス・キリストによって私たちにもたらされた父の啓示であります。将来において私たちが「私たちの父」と言う時、私たちにはより完全な意味がもたらされることでしょう。

 (今日の箇所は Filled Unto All the Fullness of God - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003244.htmlです。スパークス氏によると、ヨハネの福音書では何と「Father」という言葉は111回を下らないそうです。7章全体の題名は「The Father of the Family(神の家族のもとである父)」であります。)