2011年7月3日日曜日

父と呼びまつる神様

私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。(新約聖書 エペソ3:14~15)

「わたしはよみがえりです。いのちです。・・・父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」(ヨハネ11:25~26,41)これらの二つの聖句の間にあるギャップを橋渡しするにゆがめるものは何もありません。もしあなたがヨハネの福音書の5章に戻られるなら、そのことは完全に正しいと理解されることでしょう。「というのは、父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」(同21節)二つの事柄は一つです。父と御子は復活の力と行動において一つです。
 御子は父がよみがえらせられるという事実の啓示そのものであり、その結果、死は父の家族を壊すことが出来ないのです。父は神の家族をお持ちになり、一度お持ちになるなら、死はそのうちからいかなるメンバーも奪うことはあり得ないのです。父は死の主であり、死の支配者であり、死の征服者です。そしてこの父なる神のまさしく本質そのものによれば、神が死から神の家族を守ることが出来るということであります。そのことは新約聖書の真理をもっとたくさん広げることなのですが、以下ではこの事実を簡潔に書き留めることにします。)

神はこの終わりの時にあって家族を得るように行動しておられ、神の現在のご計画による行動は死によって打ち負かされないものです。神は死によってごまかされることがないお方です。ところが、神の敵である悪魔は家族を得、その家族の死をごまかすことでしょう。それは神ではありません。

この家族は決して死によって分けられませんし、死によって壊されることもありません、死によって死別のようなことを経験しないですし、死によって子どもを失うことも決してないのです。もちろん、家族として私たちがそのことを心から感謝するなら、それは私たちにとって快いことです。この家族にあって私たちは誰をも失わないのですから。

死は地上にあって、事態に手を伸ばすかもしれませんが、霊的な家族は霊的な真実性や父の家のとこしえに続く一体性にあって、もし家族が地上に依然として存在するなら考えられることにまさって、それ以上、一つも引き離されることはないのです。死に痛手を受け、すべてのその心の痛みを経験しなければならないのは私たちの生まれながらの人間的な側面であります。

けれども一体、信者が心から安心することとはどんなことでしょうか。私たちは望みのない人々のようには悲しみません。何が私たちの望みですか。なぜなら、私たちには一人の父がいるからです。その父は死によって決して壊されることもなく、一人のメンバーも失うことのない家族を持っておられるのです。私たちの望みは全家族が誰も失うことなく一緒になることです。その望みは私たちが失うものを何も持たないということです。私たちの望みはとこしえに一緒にいることです。「天上と地上の家族」それが父なる神の意味の一部分です。そしてそれが父がこの終わりの時になしておられること、その種の家庭を得られることであります。

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(ヨハネ15章)この二者は絶えず一緒です。このことは別の言い方が出来ます。偉大な神の家族の霊的な真理を表現する比喩的な方法であります。このことは端的に言えば父は家族の世話をすることに最大の関心を持っておられるということです。15章は信者の世話、すなわち実を結ぶことに関する章です。それは世話をする生活です。私たちはそのことを既成概念に当てはめて考えないようにしましょう。防水区画から始め、公的な称号である牧師や宣教師の世話だと考えないようにしましょう。様々な形態を取り、様々な経路をたどるかもしれませんが、世話は父のいのちの表現であり、父の願いに即応するものであります。
 「わたしの父は農夫です」実を得るためには父は一定の方向を取られます。実はありますが、父は一定の方法を採用することにより、もっと実を得ることが可能であることを知っておられ、もっとも完全に実を結ぶことが出来るまでに成長しなければならない特別な枝に関心を持っておられます。それですから父はある方法を採用されるのです。「主はその愛する者を懲らしめ」とはヘブル人への手紙においてこのことを言い表している言葉です。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義を結ばせます。」父は刈り込みをなさりこらしめられます。それはもっとも完全な手段によって実を結ばせるまで成長させるためです。「わたしはぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」そのようなものとして父は一つのことに関心を持っておられるのです。そしてそれが実を結ぶための最も完全な手段です。
 私たちは神による刈り込みや懲らしめを受けていますか、それとも父により受けていますか。そのことは大変な違いをもたらすものです。)

「神」の精神構造は時々きびしいものです。ところが、私たちは「父」の雰囲気そのものにあっては、きびしい精神構造を受け取ることが出来ません。こういうことはすべてその父の権限内でもたらされるにちがいありません。私たちに対する主のお取り扱いは今や父の処遇であり、家族の線に沿ってなされるのです。それがこの終わりの時に起こっていることです。

(このヨハネによる福音書は神の家族にとっての父の考え、心、意志、関心がどんなものであるかを包み隠さず述べている最高峰の一つであります。)

世界史においてすべての啓示にまさる啓示は私たちが今そのうちにあって生きているという啓示です。すなわち御子、イエス・キリストによって私たちにもたらされた父の啓示であります。将来において私たちが「私たちの父」と言う時、私たちにはより完全な意味がもたらされることでしょう。

 (今日の箇所は Filled Unto All the Fullness of God - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003244.htmlです。スパークス氏によると、ヨハネの福音書では何と「Father」という言葉は111回を下らないそうです。7章全体の題名は「The Father of the Family(神の家族のもとである父)」であります。)

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