2011年7月26日火曜日

天にある満たし

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(新約聖書 コロサイ2:9~10)

これまでキリストが天の啓示であると申し上げてきました。しかし、キリストは天の満たしでもあるのです。もし神が、御心を、すなわちキリストにある神のお考えを明らかにされてきたのなら、また神が意図されたすべてを、私たちに人としてあらわれた方の啓示をもたらすことによってなされたのであったら、神はその実現と達成のためにキリストにあるもっとも十分な備えによってそのことを続けて来られたのです。ですから、私たちのあらゆる必要はキリスト・イエスにある(天の)栄光の富に応じて備えられているのです。

キリストにあっては、一つの標準だけでなく、神の基準に達するあらゆる種類の備えがあるのです。神の目的に達するために神の隠されているすべての富は、私たちのためにキリストのうちにあるのです。もしキリストが十分に神のみ心を明らかにされて来たのなら、それは同時にまた十分に神の富をも明らかにされて来たということです。すべての満たしはキリストのうちに宿っており、私たちはキリストにあって満ち足らせられたのです。(コロサイ2:9)

もし神がその神の基準を認識するためにあらゆる備えをなさっておられなかったとしたら、終わりの時に私たちを決して啓示される基準によって裁かれることはできないでしょう。 

(二つのことがらが相伴うのです。終わりに私たちは裁かれます。裁きは神の家において一つは神の御心の啓示から見て、そしてもう一つは神の富の備えの見地からであります。
 次に述べるのが(差し当たりは最後ですが、重要さの点で決してどうでもいいことではありませんが)このことです。キリストはすべてを集め、天にまで移されたのです。)

神の考えは天にあるキリストが中心です。そして神の富は天におられるキリストに集められています。そのことはこの終わりの日に主の民は基本的には天の住民であることを意味します。そして私たちが天の住民になるまでは神の考えに到達したり、キリストにある神の富を知ることは不可能であることを意味するのです。

もし何らかの方法なり(そして今は主の民に話しているのであり、キリスト者のいのちと呼ぶいのちについて話しているのですが)何らかの手段で私たちが地につくものであるなら、その手段で神の考えに到達し、神の富を知ることは不可能なことでしょう。神だけが基本的に天にある富を供給し、実際に与える責任をお取りになります。そして天にある物の計りにあって、それだけに神は責任を取られるのです。もし何らかこの世とつながり、この世の仕組みの一部となり、この地上との関係があるなら、そのこと自身で自ら重みあるものを運び、そのもの自身の源泉を探し、そのもの自身の方法を見通す責任を取らねばなりません。                                   (6頁)

(今日の箇所は That Which Was From The Beginning - Chapter 1の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003294.htmlです。今日の箇所は誤訳がたくさんあると思います。是非、読者の方から訂正の文章を表示していただきたいです。英語のど素人の訳をおめおめとブログとは言え載せていることに恥ずかしさを覚えます。)

0 件のコメント:

コメントを投稿