2017年1月19日木曜日

敵は私たちの自我

わたしは、自分からは何事も行なうことができません。(ヨハネ5:30)

 主の子どもたちが学ばなければならないもっともむつかしい課題の一つはどのようにして神様にゆだねるかであります。それがたとえ正しいことや神様の目的であったとしても、アブラハムがイサクをとおして学ばなければならなかった課題があるにちがいないからです。約束であろうと受け継ぐものであろうと、私たちが神様が与えられたものに直接よりかかるのではなく、信仰による平安と恐れからの解放をもって主ご自身にすがることにあります。もし私たちが主ご自身から物事を受け取ったのなら、主がお与えになるものはさらに大きな熟慮された計画をお持ちにならなければ再び取り上げなさらないという確信のもとに憩うことができます。一方では主が私たちのために決定されたことは何ものも私たちから取り上げることは出来ないということです。しかし、神様の賜物やご目的との関連で私たち自身の意志から生ずる多くの危険があります。

 第一に主にあって、そして主のために維持する代わりにそれを私たちのものとする危険性があります。このことはものすごい人間的な反抗に導くのです。それからねたみがその卑劣な頭をもたげるのに時間はかからないでしょう。ねたみは対になる疑りをともなってごく自然な交わりを破壊します。ねたみは個々人の持ち物、個々人の関心事をもっとも声高に主張しないでしょうか。もし私たちが神様のことにおいて非常に小さな部分でさえどれだけ特権を持っているか、そしてそれがどれほど主の恵みのすべてであるかを悟っていたら、私たちが主ともっとも薄いつながりを持っていたに過ぎないことを感謝するはずです。

 それからさらに私たちは落ち着いた信仰にあって、主に対するだけだとするのと同じように私たちにとって受け入れられ約束され信じられるものと考えているならば、主は見誤ることのないように私たちを守ることがお出来になるのです。神の子どもにとって、もっとも強く神の意志あるいは道だと信じていたことがそうでなく、放棄せねばならなかったと知るようになるのはまれなことではありません。もしその意志のうちに何らかの自らの思いの要素があったなら、これまでもその経験は非常に悪いことが明らかになり、苦さと疑惑の働きを残したのです。

 さらにもう一度神の事柄に関連する強い個人の心や意志はきわめてしばしば人々を律法のとりこにさせます。すなわち私たちだけが神様のご意思を知っていることをほのめかす態度に陥るのです。他の人たちもまたこのことにおいて主の導きのもとにあるのだと信頼しないで、神の家にとって大変必要な導きの一体性が壊されたり無力にされたりするのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003017.htmlです。久しぶりにオースティン・スパークスの霊想にこのブログを通して向かうことにしました。2011年にすでに225日ほど誤訳をふくみながら、訳せていますので、今年はその残りを埋めて行きたいと決心しました。一人でも多くの読者が読んでくださり、ご助言をいただけますと幸いです。)

2017年1月16日月曜日

勝利者の道

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示3:21)

 私たちすべての者は、もし私たちがキリストともによみがえらされているなら、よみがえりのいのちを持っています。しかし、それ以上のものがあります。よみがえりの力はやがて私たちを御座にまで運ぶものですが、すべての者が御座に近づくのではありません。それは「勝利を得る者」であります。カレブはパウロのように、そしてパウロはカレブのように主の民の間にあって通例の生き方に抗しています。大部分の人は受け継ぐものに関し放棄しそこにとどまり腰を据えることに満足しました。未完成の針路、短縮された霊的進歩、神様が示され意図されたものよりもはるかに少ないものを受け取ることでした。大部分の人たちはそのコースを選びましたが、カレブは決して満足せず、大多数の人に抗して立っていました。それはちょうどいつも神様の完全なみこころを代表しない大多数の人に抗したもののようでした。

 霊的なリーダーシップはつねに孤独を伴います。それがリーダーシップの犠牲です。勝利者はつねにより広範囲のキリスト者に関して言うなら、孤独な仲間であり、ほとんどついて来ることができない人と進まねばならないのです。カレブは民衆の声を受け入れることができませんでした。彼の心は余りにも主と結び合っていたからです。彼は全面的に主に従っていてキリスト者生活の一般的通常の水準ではありませんでした。カレブは神様が全き人がどうなるかをあらわしているまさに具現化した人だったと言っても良いでしょう。あなたはカレブを見る時、神様が全イスラエルがそうあるように望まれたが、全イスラエルはカレブの水準には達しなかったことを知っているでしょう。しかし、主はカレブのうちに主の心を満足させるものを得ておられます。主は一人のカレブのうちに主の完全なみこころを認め、それと同じように一人のパウロの中に認めておられるのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003014.htmlです。2017.1.30Translate。) 

2017年1月12日木曜日

生ける神様との生きた交わり

わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。(ヨハネ14:19)

 今日かなり多方面にわたり、かつかなり広い範囲を越える神様との交わりは生きた交わりとはなっていません。神様についての知識はあります。神様を礼拝するかたちはあります。神様とつながる儀式はあります。そうです、神様に祈り、礼拝し、神様を知り、おそらく神様に対する願いを多少なりとも判断する認識もありますが、神様との生き生きとした交わりが不足しています。

 しかし、主が生ける神様であるということは、主と交わっている人は生きているはずであります。主は仰りたいのです。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」と。神様との生き生きした交わりは可能です・・・その交わりはいくつかの死せる儀式をともなう交わりではなく、生けるお方との交わりです。けれども私は訊ねねばなりません。あなたはその生きた交わりをお持ちですか、と。あなたは組織、儀式に追随しているのでしょうか、それとも生ける神様との生きた交わりをお持ちですか、と。主は主とのそのような交わりがずっと生き続けることを強く望んでおられます。

 あなたが生ける神に近づくことを知っていることはたいせつなことです。あなたは正しいか間違っているかどうかはわからないのです。そうです、あなたは生ける神様を持っていて神様に求めるのです。神様は寛大です。神様は近くにおられます。生きていらっしゃいます。あなたは神様と交わることができます。生ける神様と生きた交わりを楽しむのはまさにどのように主が考えておられるかです。

 神様の心からなる強い願いは、あなたが神様を生けるお方であるとみなすべきだということです。「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6)私たちは神様に近づくとき、神様がおられることを信じなければなりません。それは宙を、すなわち空虚で空しい宇宙を探ることではありません。そうでなく、私たちは生けるお方に近づいているのです。そして主がおられることを信じているのです。それに関してあいまいなものは一切ありません。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003010.htmlです。2017.1.29Translate。) 

2017年1月11日水曜日

十字架こそ最大の防御

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ6:14)

 まことに十字架に釘つけられた人々はこの世の危害から完全に守られている。この世が支配するのは十字架がその働きをなしていない時だけである。この世は十字架にかけられた男や女、信ずる者の十字架につけられた仲間を支配しない。十字架はこの世に反対する大きな防御である。もしあなたがこの世の外にいたいのなら、十字架に場所を占めてもらえ。もし十字架がまことにその場所を完全に占めているなら、その時、他のすべてのものもまた整序される。十字架はこの世に対抗する大きな防御である。十字架は悪の力に抗する大きな防壁である。十字架はすべてのものを安穏にし、すべてのことを主のために守る。

 主は立場を明らかにしたいと望んでおられることを知っているだろう。主は主の民にご自身を信頼して欲しいと願っておられる。ところがもし十字架がその場面で働きをなさないなら、主は彼らにご自身をおまかせになさることは不可能である。主はおっしゃる。「わたしがそこで自分を明け渡すのは安全でない。さもないとわたしは彼らの十字架にかからない状況に巻き込まれねばならぬ」

 十字架はあらゆることを主のために安全にする。そして十字架は教会のためにも安全にする。もし十字架が私たちすべてのうちにほんとうに働くなら、私たちはお互いに信頼できる。十字架につけられた男女にとって信頼することは全く心配がない。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003009.htmlである。実に明快なスパークスの文章である。2017.1.28Translate)

2017年1月10日火曜日

イエス様はいのちの賦与者なんです!

万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ1:16)

 神様とともにあるすべてのものにとっての鍵はいのちである。私たちは認識しなければならぬ。キリストの支配権、卓越性、権能、能力 、かしらであることにともなうすべてはキリストのいのちの特権に関するものだ。キリストはいのちを着せられた神の御子である。彼は父なる神様から与えられた権利を持ち、信ずるのと同様である多くの者にいのちを賦与する。それがキリストがなぜかしらであるかの理由である。

 あなたは人々の儀式をつかさどり、人々の最高権威を自認し、人々は大きなことを主張するかもしれぬが、それが何になるか。 あなたが死に直面する時、人々は何をすることができるか。しかし、死に打ち勝ついのちの力をお持ちの方を迎え入れよ。この方はこの地上にあっていかにも謙遜であろうとも、かしらであり、主人であり、主である。あなたは死を前にして世が考えられる限りの最大級のお医者さんを招くことができるかもしれない。しかし、死が襲う時、医者たちは無力である。

 もし、あなたがこの世で能力もなく、訓練も受けていない、取るに足りない一人の小さな人、そしてその人が死に打ち勝ついのちの力を授けられている人を迎え入れるなら、その人はあらゆるこのような他の人々を排し、それらの人々は彼の前に無いに等しくなり、彼こそその場の主となる。

 キリストはかしらである。単なる指図者でなく、いのちに関するかしらである。私たちはこの地上で大変つまらない民で、この世からは全然相手にされない者であるかもしれないが、もし私たちがいのちの満たしであるキリストを持ちさえするならば、私たちは最高位にあって、あらゆる偉大な組織や機構を無きものとする。それは霊的なことであり、キリストの影響である。伝統でも歴史でもなくまた神学理論でもなく、信仰と義をとおしていのちに関して主のご臨在があらわす霊的な力である。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003008.htmlです。理不尽な死、人はその門前にまで行く。しかし神様を認めるまでに至らない。ましてや死が終わりでないことに思いが至らない。昨日はその「死」について考えさせられた一日であったが、まさかこのスパークスの霊想を今朝訳すことになるとは思いもしなかった。ここにも生きて働いておられる主を覚えるのは私の一方的な神様に対する片想いであろうか。本訳出は2011年に敢行した。その後、6年余中断していた。今年はその未了分を訳出して穴埋めをしながら、前に進んでいる。読者諸氏のご理解を切に求む。2017.1.27Translate。)

2017年1月9日月曜日

霊的成長とは何なのか

あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(ヨハネ3:30)

 霊的成長とは何でしょうか。霊的成熟とはどんなことを言うのでしょうか。主にあって生活するとはどんなことでしょう。私は私たちがこのことに関して矛盾した考えを持っていないか恐れるものです。多くの人は霊的成熟とはキリスト教の教義についてより理解が進んでいること、また霊的な真理をさらに大きく把握していること、神様のことについてさらに広く知っていることだと考えています。多くのそのような特徴が成長、進歩、霊的成熟の証拠だとして表わされます。しかし、愛する皆さん、その手のものでは全然ないのです。

 真の霊的進歩と成熟の特質は次のものです。私たちがすっかり小さくなり、主イエス様がはるかに大きくなることです。成熟したたましいとは自分自身の目から見ても自分が小さく、主イエス様が大きくなる人のことです。 それが成長です。

 私たちは非常にたくさんのことを知っており、教義について、教えることについて、真理について、なかんずく聖句について、驚くべき理解力を持っているかも知れません。しかしそのことは霊的にはきわめて小さく、未成熟できわめて子供染みたことです。(子供染みているということと子どものようにありなさいということの間には大きな違いがあります。)ほんとうの霊的成長とはまさしくこのことなのです。「私は衰え、彼は盛んになる」それは主イエス様がますますそうなられることです。あなたはそれによって霊的成長を見分けることができるのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003007.htmlです。2017.1.26Translate)

2017年1月8日日曜日

御霊を通して証しする民

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(2コリント5:15)

 私たちは御霊にしたがってキリストを知ることができるだけです。その結果この主の摂理にあっては、私たちにとってのキリストは私たちがキリストについて知っているかそれともキリストと関係を持つことができるすべてのことは、ただ御霊にあってのみ可能だという意味で霊的です。「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(2コリント5:16)

 キリストは御霊にしたがって知られるのです。私たちの力は霊的なものです。戦いの武器は霊的です。すべてのものは上から私たちのところに来なければなりません。敵の一つの大きな努力、すなわちこの摂理を貫いて何度も何度も成功するものですが、それは神様のものをこの世に対する愛着、この地上に対する愛着、地上ですべてのものをひとかどのものとするために引き降ろし続けて来たことでありました。

 あなたはヨハネを読んであらゆるものがどのように世に引き寄せられていないか、またあらゆるものがどのようにこの世から聖くされ引き上げられるかを知る必要があります。万物はキリストが天におられ、主の民は地上にいるが、地上にいない、地上では知られておらず、この世にあって、しかもこの世にはいない、また世に関する限り、この世にあって認められてもいず、知られもしない不思議な民という事実と結び合わされているのです。しかし、そのまさしく手段によって、そしてそのまさしくその理由、最大の潜在能力に向かって、この宇宙は知っているのです。この地上にあって霊的な隠された秘密の神の民を。

 キリスト教を把握し、型にはめ、作り上げ、組織化し、具体化し、地上で何か力ある運動とすること。人が見たり、認識したり、賛同したりするようなすべての連合をともない、地上に根づくこと。この世の通常の意識に何かの存在として登録すること。そのすべてが神のみことばと正反対であり、霊的ないのちと力の正反対なのであります。

 キリストは天におられます。私たちは天の御国にキリストとともに引き上げられ、移され、御座にともに着座するのです。私たちのこの世の目的は証しだけなのです。その証によって他の人たちは諸国民から引き出され、主の御名を持つ一つの民とされるのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003006.htmlです。今日の英文は省略が多く訳出に難航を極めました。末尾の文章に辿り着き、やっとスパークスの真意がつかめた思いがします。読者諸兄のご指導[誤訳の訂正]をお願いします。ただ最後の文は今日たまたま家庭集会でメッセージする恵みに預かったが、そのおり引用させていただいたベック兄のメッセージ『主のご臨在が外にあらわされていくことこそが主の願い求めておられることです。』と一致する内容があり、今改めてその意味の深さを知った思いでおります。)

2017年1月5日木曜日

根を張り広げよう

ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。(イザヤ37:31)

 主は流され得ないものをお持ちにならねばならない。それは、動かされず、揺り動かされず、それゆえに確かに根こそぎにされ得ないものに違いない。それが主の選ばれた残りの民だ。主はご自身の栄光のために残りの民を持たれねばならない。そして残りの民がそうなるように主はあらゆる手段を用いて、彼らが下に根を張る性質にしたがうようにされる。もちろん上に実を結ぶためだ。

 上に実を結ぶこととは、すなわち天的いのち、天の御座に座ること、そして主とつながっていただく私たちの豊かな実である、働きと戦いについてたくさんのことが語れる。それはひとえに私たちの根が張られて初めて可能なのだ。根が張られるためには私たちは何物も転覆し得ないように根がしっかり根づき揺り動かされるところのない場所へと到達しなければならない。今日そのことは主がご自身の霊的な民とともになしておられることの非常にたくさんの事例を説明することだと私は信じている。

 神の真の子どもが今日強烈な試みを通過し霊的に試されていること、いずこにあってもそうだということはまことである。何故だろう。主は地獄が無能力であり、それによって全宇宙にご自身の権能の力を証明するものをお持ちになっているからである。その権能によって立ち続け抵抗するのだ。もし誰かが今の時代の教会にとって究極の問題は何かと問われたのなら、私なら教会が立ち続けることだと言いたい。そしてそれはものすごいことを言っているのである。それは確かに限定したことだと皆さんはおっしゃるだろう。しかし、皆さんはそれ以上のことをもっと期待しないのだろうか 。つまり進歩、前進、一掃する動きをだ。教会は身を粉にして最後まで立ち続け、その働きが勝利となるであろう。

 あらゆるものがあなたのまわりで大吹雪のように吹き荒れる時、すべてが暗くなり怪しげになり、神様までもが遠くになり、おられないかのようになり、信仰が試され、右左と攻撃され、表面上はあなたが行動し、あきらめ、倒れ、降参し、立たんがために水準を下げるあらゆる理由が存在する。しかし信仰にあって動かされないことが最大の可能性のある勝利となる。私たちは深い経験を通過しており、敵がそれをなしているが、主は敵を妨げられない。しかし私たちは私たちの神の御力をさらに完全に知り、あらゆる以前の動揺にまさってさらに深く根を下ろすようになる。こうして主は揺り動かされない民を持とうと探し求めておられる。彼らに対しては傲慢と高慢をもって誇示する地獄は何も出来ないからだ。「のがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。」それが主が必要とされることなのだ。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003003.htmlです。)

2017年1月4日水曜日

地だけではなく天も揺り動かす

この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。(ヘブル12:27)

  ヘブル人への手紙が示している方向に従えば、エルサレムの破壊にあってユダヤ民族に関して全地は揺り動かされました。神殿はその全世界の焦点のごとく地面に叩き潰されました。大祭司の命のもとに集められていた祭司はなくなりました。神殿の奉仕は費え、国民は統一体としての民でなくなりました。これらはどれも取り除くことができるものでした。

 しかし彼らはどのくらい立ち続けたことでしょう。彼らはどんな力に耐えたことでしょう。彼らが決してなくならないというどんな確信があったことでしょう。彼らは神様と緊密なので決して破壊されないし、終わりではないというどれほどの確信をもっていたことでしょう。彼らは最後の恐ろしい窮地にいたるまでどのように戦いしがみついたことでしょう。しかし全く役に立ちませんでした。

 神様はもはや枠組みも地上の機構も望まれませんでした。それはほんとうの霊性が達成されるまでにあまりにもたくさんの部屋やエネルギーや経費を必要としたからです。結局霊的な価値の割合は余りにも小さく、霊的関心は宗教組織や伝統という迷路の道とは余りにも遠くへだたっているので、やりがいがありませんでした。目的に達する手段は直接的ではありませんでした。つまり手段と目的との間には余りにも大きな距離の開きが存在したのです。ほんとうの神様のご要求に直接触れるものはなく、とりなしがなされるには余りにも離れ過ぎていました。だからそれはなされねばなりませんでした。神様ご自身が維持するよりも揺り動かされたのです。

 揺り動かしがまさしくそうだったのちに残ったもの、それは霊的で天的な道のうちにあるキリストでした。天にいらっしゃるキリスト、御霊によって地上に集まる目的あるいは集まる機会。天におられるキリスト、大祭司そしていけにえとしてのキリスト。地上における神の家の秩序は純粋に霊的で天的なものであり、形式的でも編成されたものでも模造品でもまして物質的なものでもありません。秩序はいのちから成長するのです。そしてそのいのちが神様のものであり、抑制されていないなら、神の秩序は自発的になります。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003002.htmlです。この文章は確かに訳出に苦労しましたが、中々含蓄のある内容を持つものです。ヘブル書12:26、28もお読みいただきたいと思います。題名はそこから取りました。引き続いて、ともに味わいながら、かつ誤訳を指摘してくださるとありがたいです。)

2017年1月3日火曜日

復活の力

私は、キリストとその復活の力を知りたいです(ピリピ3:10)

 復活はつねに私たちがこの世の外側にいることを意味します。主イエス様はよみがえってのち、決して再びこの世に姿をあらわされませんでした。復活は主がある意味でこの世を過ぎ越し、超越されており、この世を凌駕する主の御力は主が世から決別されたことを意味しています。主の環境を支配される能力は主がもはや環境に影響されないからです。復活のいのちは私たちが霊的にこの世の外におり、すぐれた立場にあることを意味しています。

 私たちはキリストの復活の力によってどのように生きたらいいか学ばねばなりません。そうすれば私たちを取り巻く死は私たちを支配するほどには影響力を行使できません。主イエス様との復活のつながりは私たちが私たちを取り囲むすべてである死に影響されないことを意味しています。私たちは死の光景を動かすことができ、死によって痛めつけられ得ないのです。これは、死の真中のいのちにあるあり方を学ばねばならない非常に重要な課題です。

 主イエス様の復活にあって私たちはのろいから、すなわち空しくする死から解放されております。そして私たちは神の目的、空しさがもはやとどまることがないという認識にまっすぐ到達できるところまで引き移されたのです。

 いのちの実は、のろいのうちにある死の力が復活の力で取り消されたので、完全に向かうことができます。罪定めは取り除かれました。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003001.htmlです。)

2017年1月2日月曜日

我が内におられるキリスト

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)

 みことばはキリストはこの古い人から全く引き出されて天にある神の右の座に着かれたと極めて明確に教えています。一方で天にある主の御存在と主と霊的に結び合わされた私たちの存在はすべての霊的な目的と力のために私たちもまたキリストにあって天にいることを示しています。私たちの主イエス様についての偉大な真理、また私たちにもたらされる新しく造られた者の偉大な領域を私たちが本当に霊的に速やかに生き生きとした理解力をいただくように主に求めましょう。そして、日々それを適用し、訓練し、実践しましょう。

 表面的には全く霊的豊かさが全然なく、養われるようでないところにあなたは行かねばならないかも知れません。あなたにはキリストがおられ、あなたの前に全地がまかされていることを覚えなさい。休息、霊的な休息以外には何もない、すべてがいらいらさせられ、心配があり、動揺させられ、傷つけられる場面に入れられねばならないかも知れません。あなたは主の御支配の地におり、キリストのうちにいることを忘れないで下さい。あなたはキリストをあなたの安息なるお方としていただいているからです。あなたは争いや闘争やあなたを倒す敵の恐ろしい働きに入れられるかも知れません。あなたはキリストのうちにあり、キリストは勝利者であり、完璧で究極の勝利であることを覚えていて下さい。

 敵がそのことについてたとえどんなことを言おうとも、そのことは真理としてとどまります。キリストは主に栄光を帰するいのちのために私たちが必要としているすべてです。私たちが新しく造られた者のうちに持っているものはキリストがおられることです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003000.htmlです。 なお題名は引用者が今日の内容にふさわしいのでないかと考えてつけているものです。)

2017年1月1日日曜日

永遠のご計画

神のご計画に従って召された(ローマ8:28)

 神様は非常に大きなご計画をお持ちです。それはとこしえに続く召しとすばらしい罪の贖いによってなのです。非常に大きなご計画・・・大部分のクリスチャンが理解しているよりもはるかに偉大なものであります。恐らくクリスチャンのかなり多くの人々が自分たちは救われていると知っており、そのことを大変喜んでいることほどにはほとんど何も獲得していないと言っても嘘ではないと思っています。比較的に言えば神様の偉大さ、とこしえから続く偉大なご計画「神のご計画に従って召された(ローマ8:28)良きものを本当に経験している人はほとんどいないのです。今は、そのご計画が何であるかを言い、説明しません。事実を述べるだけで十分です。

 私たちは一つの非常に偉大な計画をもって召されています。それはただエジプトや悪魔の掌握から抜け出ることだけでなく、他ならぬ神の御子、イエス・キリストの限りない満たしや永遠の召しという一つのとてつもないご計画をともなっているのです。それは私たちがキリストにあって召されている偉大さであります。しかしどれだけのクリスチャンがほんとうにそのように召されているでしょうか。もし彼らがそうだと知っているなら、その意味を味わっているでしょうか。すなわちこの主のいのちは無尽蔵のいのちであり絶えず新しい展望があるからです。

 私は誇張しているのではありません。天が開かれ、私たちが召されていることがどんなことであるかをもっともっといつまでも体験するのです。それはまさにすばらしいものです。・・・ただ救われ天に達し、あなたの罪が赦され、救いとともにもたらされるお決まりの祝福を持つことだけではありません。あなたの前に、そして私たちに関して「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである(1コリント2:9)。」というすべての神のご計画が永遠の時から永遠の時へと差し伸べられているのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/002999.htmlです。これから、今まで訳されていなかった日の訳を少しずつ掲載して行きます。引き続き読者の方の忌憚のない批判、誤訳の指摘をお願いします。今日のところも自分では果たしてこれでいいのかと思うところがあります。)