2011年11月26日土曜日

神の王国の基盤の真実さ

北海道・摩周湖の白鳥 by Yuriko.O
自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。(新約聖書 ヨハネ7:18)

 あなたも私もいつかは神と顔を合わせることになります。私たちは文字どおり永遠に神と顔と顔とを合わせるようになります。その時、質問が出てくることでしょう。神はいかなる点においても私たちが失格だとされたのではなかったのでしょうか、と。私たちはどんな細かい点においても、主よ、あなたは私の期待にこたえてくださいませんでしたね、あなたはご自分のことばに忠実でいらっしゃいませんでしたねと、果たして言うことができるでしょうか。過去において、いかなる存在であっても、神に対して神の真実さや、誠実さに関して何らかの疑問を持つ、そのような批判を持ち出せるような立場にあるとは到底考えられないことです。

 聖霊は私たちをあらゆる真理に導くために真理の御霊として送られてきました。それゆえに、神と私たちの間にはたとえどんなことがあっても、神の完全な誠実さ、ご自身とあらゆることばに対する真実さに関するいかなる(疑いの)影も存在しないことでしょう。聖霊はそのためにやって来られたのです。もしそれが本当なら、聖霊は、キリストの学校のあらゆる弟子たちに、真実でなく純粋でないものをすべて削ぎ落とし、神の絶対的に完全な正当性があらわにされる日に、神の前に住み得る基盤の上に、すべてのそのような弟子たちが立てるように事を運んでくださることでしょう。

真の基盤のために必要なこと

 しかし、このことがそうなるためには、あなたも私も聖霊の教えのもとに非常に誠実に取り扱われねばならないのです。また、私たちは神の前に完全に整えられるところに到達していなければなりません。そして、そのところにおいては聖霊にすべて聞き従い、聖霊に逆らったり拒絶したりするものが私たちのうちに全然ないということです。逆に私たちは、聖霊に、取り扱われ、整えられる必要のある生活上のいかなることがらにも触れていただいて、最も大きな影響を受けてもいいように、完全に心を開き、受け入れる用意をしているのです。聖霊はそのために地上に来ておられるのです。

 私たちのうちになされることが認められている聖霊のそのような働きに代置するものがあるとすれば、私たちは私たち自身が間違ったところに位置していることに気づくでしょう。しかしその代置するものが余りにも代償が大きすぎるので、間違った位置に自分がいるとは気づくことができないほどなのです。たとえそれだけが確かな事項だとしてもです。(The alternative to such a work of the Holy Spirit being allowed to be done in us is that we shall find ourselves in a false position, and it is far, far too costly to find ourselves in a false position, even though it only be on certain points. )これが私たちが住んでいる偽りの世界、たくさんのうそに塗り固められる世界なのであります。この世界の全構成は嘘です。そして大多数の人がそのことを知らないですし、自分たちは正しいと思っている人のまさしくその性質のうちにあることなのであります。彼らはニセの基盤の上に世界を築こうと務めているのです。 神の王国は全然別なのです。それはイエス・キリスト、真理なるお方の上に築かれるのです。

(今日の箇所は The School of Christ - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003472.htmlです。英文を併記したところは特に訳に自信のないところです。)

2011年11月25日金曜日

神のよみがえりの力

火曜日の朝の伊吹山、この日、富士山はあいにく雲が覆い山頂が見えなかった。
(どうか、)あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、(略)神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ(なさいました)(新約聖書 エペソ1:18〜20)

復活は卓越せる奇跡です。死は神のみわざ、神の似姿、神の目的に反対する最大の力です。同時に死はこの宇宙において人に逆らう最大の力です。人の労働や、人の望み、人の幸せに歯向かいます。死はあるがままに造られたものの最後のことばです。神を除いて、この世界には死ほど偉大な力を持つものはありません。死が介入し、その働きをなしたとき、死を反古にしたり、破壊することのできるものは何もありません。悪魔の権限において死の力にまさる力は存在しません。これが死者からのキリストのよみがえりに言及して、みことばが「神のすぐれた力」(エペソ1:19)と書かれている理由です。死があらゆる悪の力、すなわち、罪、苦しみ、悲しみ、そして破壊に立ちまさるとき、神の類まれな、何物も寄せつけない答えだけが唯一の望みであり、ただひとつの答えなのであります。

新約聖書における復活ほど他のいかなるものにまさって重要で栄光あるものの占める位置はありません。まことに復活が実現されるまでは他のどんなものも空しく無価値だと称えられるのです。復活はありとあらゆる証とはたらきにとって価値を与えるように提示されているのです。死、霊的な死(存在が終わることではありません)、実は肉体の死はほんの小さな側面でしかあり得ないのですが、死はサタンの領域です。しかし復活は神のキリストにある権限です。

繰り返しますが、復活はあらゆる形態、観点の死に対する答えです。神の御子、イエス・キリストにある解答なのです。そのことを言い終えましたので、続いて、新約聖書に啓示されている次のことがらは、イエス・キリストにあるこの卓越した真理が神の霊的な家族に生まれ変わるすべての人が神の世継ぎで あることを保証するものであることを覚えましょう。神の子として真に生まれ変わったすべての人に与えられる相続権であります。

しかし、そのことが霊的に真実であることを経験する要点は、私たちがベタニヤのマルタが、あのような啓示による矯正を受けながら、なした過ちを犯してはならないということです。彼女は自分の兄弟に関して、こう言ったのです。「私は、(終わりの日の)よみがえりの時に、彼がよみがえることを知って おります。」(訳注:ヨハネ11:24)よみがえりは何も信者にとって将来のことではなく、主イエスを信じ、受け入れる瞬間のことなのです。よみがえりの順序というものは今や先ずは人間の霊のよみがえりであり、最後によみがえりのからだなのです。このことはその意味を悟るのに多年を要するかも知れませんが、いかなる新生したクリスチャンにとっても、今更述べる必要のないことであるのです。

(今日の箇所は Horizoned by Resurrection - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003471.htmlです。文章は原文に添って読みやすいように、なるべく文意を変えずに一部表現を変えました。ご了承ください。)

2011年11月24日木曜日

天にある霊的祝福

日曜、月曜と各地で虹が見られた。これはふるさと高宮で月曜日に見た虹。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(新約聖書 エペ ソ1:3〜4)

さて、このみことばは教会に宛てて書かれていることを忘れないようにしましょう。文字どおり、キリストにあって天にあるあらゆる霊的な祝福をもって祝福したと言っています。世界の基の置かれる前から選ばれたこと、そしてイエス・キリストをとおして子として世継ぎになるようにあらかじめ定めれたことが、天にあるあらゆる霊的な祝福をもって祝福されてきたのです。 それが神のご自身にとっての考え、つまり十分包括的で絶対的な考えとしての満たしであります。ところが私たちはまだあらゆるこのような祝福を受け継いではいません。それは神が祝福を与えられなかったからではなく、私たちが祝福をいただくまで成長しなかったからです。私たちはキリストにあってあらゆることに成長していないのです。それが私たちの話している要点であり、神の考え、つまりはキリストの量りに達して欲しいという勧めであります。

神の考えとは何でしょうか。キリストの完全な量り、キリストの似姿に満たされることです。それが私たちにとっての神の考えです。神の考えをしっかりつかみましょう。信仰によってこういう考えを適用し、神の考えに信頼しましょう。この考えに一致するように求めましょう。そして聖霊とこの方の力により、神の考えが私たちのうちに生きて働くように、私たちを形造り、組み立てていただきましょう。それが神の目的なのです。目的は私たちにキリストの完全な量りをもたらすためにあるのです。

私たちがなさねばならないすべてのことは、そのことを明確な事実ではあるが、大変な義 務をあらわすことを示すものとして述べることであります。私たちは大きな責任のもとにへりくだることなしにはそのようなことを話したり聞いたりすることはできないのであります。もしこれがみことばを通してキリストのうちにある天からの神の啓示であり、私たちの心には聖霊によるものであれば、その時私たちには非常に重要な責任が伴うのです。責任について話す必要があるでしょうか。私たちのための神の考えは本当に私たちの心のうちに言いようのない感謝と崇敬の思いにひたらせないはずはないのではないでしょうか。聖書中にある「みこころのままに」(訳注:エペソ1:5)つまり主のよろこびという召命と関連するこれらの別のことばを認識するべきではないでしょうか。あなたは覚えておられるでしょう。ヨシュアとカレブが地を探って報告したとき「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ」と言ったことを。それが私たちがここでとりあげていることに他ならないことなのです。キリストが神の満たしの地であります。そして私たちがその満たしに入れるのは神のみこころによるのです。

(今日の箇所は The Church of the Firstborn - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003454.htmlです。)

2011年11月11日金曜日

主が第一に求めておられること

昨日、吉川市で見かけた珍しい花
知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(旧約聖書 エレミヤ9:23〜24)

なぜ主は私たちがこうなさるはずだと思うあれやこれやをなさらないのですか。それは証拠や証明を求めるたましいの働きがあるからです。そしてこれがその理由 なのです。すなわち、もし明らかに大きく印象を与えるようなクリスチャンの働きによって築き上げられるものが何かあるなら、クリスチャン大衆はワッとそれに群がるからです。そこには大きな組織があり、足元からする大きな運動があり、すべてが目に見える領域のうちにあることなのです。そうでなければ、示威運動があり、はっきりとした証拠と見られることがあるなら、群衆はそんなところにひきつけられていくのです。

敵は示威運動やしるしの分野における聖霊のニセの働きによってたくさんの人々を魅了することができます。私たちは非常に影響を受けやすいので、取りついてしまうにちがいありません。そしてそれが指導者たちを支配したのとまさしく同じ原理なのです。彼らは十字架の原理を適用するようにとは心の準備がなされていなかったのです。すなわち完全に自己を空しくすること、つまり主ご自身以外のどんなものも終わりにしてしまうということです。

預言者たちがつねに話していた一つのこととは何でしたでしょうか。それは主を知ることについてでした。預言者の時代に主の民の間に不足していたことは主を知ることでした。主が彼らのためになさることを主に求める備えのある人はたくさんいましたが、しかし主ご自身に関しては・・・ああ、それは別のことでした。

主はあなたや私に何を求めておられますか。主は第一に私たちが行動することを求めておられますか。今日、神からのものである思想はおもに神のためになされることがら、私たちが従事する働きなどに関係しています。それは対象的、外形的なものをともなうものであります。しかし主は私たちがどれだけのことをするかについては関心を持っておられません。主がはるかに関心を持っておられるのは、私たちがなすことが少しであろうとたくさんであろうともどんな微小部分も主を知る知識から出るべきだということです。どんな程度にあっても、あなたが他の働きをなすのと同じように、キリスト者の働きや活動にあっては主のためになされるのです。 しかしそれがあなた自身の神を知る深い知識から始められないのかもしれないのです。主は何にもまして私たちが神を知るようにと関心を持っておられるので す。

(今日の箇所は Prophetic Ministry - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003441.htmlです。意訳する余り、誤訳があるかも知れません。しかし、かつてのことではあれ、ブログ「泉あるところⅡ」でご一緒にお読みしているヴォーリスさんの働きを聖書から照射するのには格好の学びではないでしょうか。)

2011年11月9日水曜日

御霊によって心を裂いていただきましょう

焦点を違えました。ざくろの弾けたところを撮りたかったのです
かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。(新約聖書 ローマ2:29)

知性や感情について真理であることは意志の領域においても真理であります。多くの人々にとって、我が道を行く意志があります。人々は地位を得、それを粘り強 く固持し、死守します。彼らはしっかりと掴み、全く手放すことはできません。彼らはみことばによって自らの地位を支えるでしょうし、みことばにまさる「啓示」を用いてまで支えることでしょう。その彼らの意志があらゆる混乱の原因であります。彼らの生活に対する神の全計画を遅らせ後退させる原因はまさしくそこにあります。すなわち彼らの選択、彼らの地位、彼らのやり方、彼らの生まれながらの強い自我、こういうものは決して壊されて来なかったのです。だからそこでこそ割礼が行われねばならないのです。
 割礼は実に様々な方法に適用されるのです。

十字架は、霊的なその割礼の道具として、この自我に段々さらに深く適用されねばなりません。なぜなら自我には終着駅がないようにみえるからです。しかしそれは痛みを伴う、暗い側面です。別の面では何が起こりますか。それはキリストのためになされる機会ではないのですか。本当の子孫、キリストの子孫が成長し、ますますはっきりするようになります。私たちがこれまでずっと考察してきた性格、すなわち知性や感情や意志の強さと正反対のものは柔和です。キリストは言われました。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ11:29)このことをあくまでも追求しなさい。そうすれば、あなたは主のご存在のまさしく深みのうちに完全に異なったものがあったことを必ず認識できることでしょう。

私はこれまで、私たちが、自己表現、自己憐憫、自意識、自己満足など無数の形のうちにあるこの自己原理の全領域を数え上げることは不可能だと言ってきまし た。クリスチャン生活や主にささげることにおいてさえも、私たちは、他の人々がどれだけ献身し、どれだけ謙遜であるかを知れば知るほど幸せなのです。そしてそれが自我です。可愛そうな(こんなことばを使ってもいいのでしょうか)四六時中立ち上ってくる悪臭を放ってやまない自我であります。と言いますのは、 神の本当の子どもは自分を忘れます。そしていかなる道にあっても自意識がないのです。もし他の人々が神の子について何か良いことを指摘しても、彼らはそのことを了解しなかったでしょうし、そのことに気づいていなかったのです。

彼らは誰かが自分たちについて何か良いことを言ったとしたらびっくりするでしょう。彼らはそのことを意識していないのです。そして他方で人々が批判し、失敗を指摘したら、彼らは次のように言うだけです。「そうです。私にはわかります。私が主から離れたのです。」( “Yes, I know: I had that out with the Lord,”)とか「私は今すぐそのことを主の前に出します。私はそのことについて正直でありたいです」( “I have got that before the Lord right now. I am not deceiving myself about that.” )これが天にある本当の子どもなのです。

そういうわけで、私たちは続けることができればいいのです。それが割礼の意味です。その光の中で、本当の意味、本当の原則が、一人のパリサイ人が、すなわちアブラハムの子が「私は他のだれよりもいい」と言うこととか、誰もが見たり聞いたりするように長い祈りをすることを評価するのです。アブラハムの子ども!あなたは主が彼らに言われたことを全部覚えているでしょう。ああ、彼らは何と的がはずれていたことでしょう。しかし、私たちは批判したり、非難しないようにしましょう。それはまさしく私たちを探ることです。そうではないですか。パウロは割礼は何も意味がない、無割礼も何も意味がない、(大事なのは)新しい創造だと言っています。本当の割礼は肉のものではなく、心に対するものです。主は私たちに切り裂かれた心を下さいます。そして究極的にはこの(自我からの)分離が追求されるようにと恵みを下さるのです。

(今日の箇所は The Israel of God - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003439.htmlです。英文を示しましたところは訳に自信のないところです。久しぶりにオースティン・スパークス氏の文章に接しました。この視点で私たちは別のブログ「泉あるところⅡ」で紹介しているヴォーリスさんを見ることも必要なのではないでしょうか。)

2011年11月5日土曜日

聖霊に従いましょう

ピラカンサス by yuriko.O
神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。(新約聖書 使徒10:15)

もし神の子どもがキリストを交わりの土台としさえするなら、霊的な満たしを妨げ、現在の弱さがどれだけ多かろうとも、限界と敗北は除去され、大きな妨害者はその地から追われることでしょう。それからこの満たしの原理が機能し、いくつかの重要な調整が必要であるもう一つの方向があります。それは

聖霊がご支配される余地

を残すということであります。この大変重要な事柄の上に「使徒の働き」という聖書中の本は基礎づけられたものでありました。主イエス様がニコデモに「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」と言われたと き、その原理をはっきり述べられました。ペンテスコの日には「天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり」ました。あなたは今までまことにそのよう な激しい風が吹いてくるところにおられたことがおありですか。
 まさに激しい風に関するそのことがらはあらゆる他の支配権からその統治を奪い、しきたり、伝統、一般受けすること、また傾向や固定観念なしに選びがあるように始まるということです。激しい風(訳注:聖霊?)が続く間、それが支配者です。それがその時存在した方法です。しかし気分を害し、ショックを受け、あきれかえった人々がいました。彼らはその結果、そのような方法は神からのものでは決してあり得ないと言いました。少し後にペテロ自身がこの聖霊の原理に反対して主と論争したほどです。
 主はペテロに示されました。彼がその瞬間それがどんなものであるかを見ていなくても、主が押し広げられる道は限界を超える方向にあったり、あらゆる彼の伝統や確立された宗教的な決まりを破りさえするところにあるということでした。主は異邦人のところにはいっていくペテロにとって、一人のもっとも正統で保守的なユダヤ人としてきよくないもの、すなわち「あらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥」を食べるように求められるようになるだろうことを知っておられました。それは明らかにモーセやレビ 記11章に優越して代わられるべきことでさえあったのですが、しかし主は彼にそうするように求められました。
 ペテロは「主よ。それはできません。」(使徒10:14)と矛盾する言い方でで言いました。しかし主はひるがれませんでした。その結果、ペテロは自分をいぶかる人々に説明して
 
「どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう」(使徒11:17)と言いました。さて私たちがここで考えていることはそのことであります。御霊の支配に抗したのはある場合においてはペテロの固定化された伝統であり、同じことがペテロがしたことに抗して「彼を非難した」(使徒 11:2)エルサレムにいる人々の場合だったのです。後の機会にもペテロは同じ昔の伝統の誘惑に陥り、パウロはそのことについて非常に強く非難せずにはおれませんでした。

その要点は主が霊的な成長のためになさっておられたことでした。しかし引き起こされる障害は御霊の支配する余地がないというこの準備がなされていないことでありました。もし神の子どもやしもべがそれぞれの神との隠れた歩みや過程にあって認知され確立された組織によらず、それとは異なった新しい外見上はすべての容認され固められている、ならわしやつきあいに背く道を始めるように導かれるなら、エルサレムで起こったこと、つまり猜疑心や、非難や反対が何度も繰り返されるのです。

敬愛する友である皆さん、いいですか、私たちはこれに打ち勝って自らをコントロールしなければなりません。さもないと私たちは「神に敵対する」者となるか、「聖なるお方を制限する」者ということになるでしょう。福音書と使徒の働きを再度読んで下さい。そして読み進まれるとき、「あれやこれやは受容され長期に わたって確立された神の秩序に背くものとしてどのように解釈することができるのか」という質問をしてください。あなたは、キリストにことごとく反対する人たちやパウロの宣教を不可能にする目的をもって世界中追跡したユダヤ教の人々の仲間にはいらないうちは離れては行かないでしょう。それらの人々は彼らがそう信じて疑うことがない神の確立された秩序のためにきわめて熱心でした。あなたは昔から神のあらゆる運動は人々が神の秩序だと信じていることとの対立であ り、関係する人々は悪魔の働きをするものとみなされてきたということを認めませんか。

それはキリス トにとってもそうでしたし、使徒たちにとってもそうだったのです。神が何度も何度も神の民を彼らの固定化された習慣の枠組みを無視することによって霊的に成長するように動かれた時があったのです。考えを欠き、また適用を誤ったスローガンを用いたり聖句の断片をまちがって適用することはいともたやすいことで す。(そのうちには「実によって彼らを見分けることができる」マタイ7:20ことがあるのです)非常にしばしば、そのような損害を与える短剣を胸に突き刺すようなことがおこるのは、新しく、非日常的なあるいは大変不思議な方法によって神の子どもがとりあつかわれるのにふさわしく主に余地を与えるのに失敗するためだけです。

ピリポは大きな信仰復興の働きのど真ん中、その場から立ち去ります。彼は突然姿が見えなくなります。そして砂漠に一人の人として当分の間孤立させられるのです。しかしそれは御霊の支配下にあったことです。そして私たちはピリポを批判し、悪くなったと言うよりはむしろ全部の話が数年後に書かれるまで待つべきです。
 
だから、私たちは、あらゆる霊的成長のために、当座は理解できないこと、新しいこと、不思議なことを神がなさる余地を残さねばならないということを知るのです。もし私たちが主を自分たちの固定的な判断に結びつけるなら、主が私たちを霊的に成長させたいと考えられることから外れるだけです。
 
「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1:46)とは善人がそこからは一歩たりとも自由になれなかったありふれた偏見でした。そしてその偏見が主ご自身に劣らないお方に降りかかったのです。

(今日の箇所は Hindrances to Fullness of Life の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003435.htmlです。)

2011年11月4日金曜日

霊的な前進とはみことばに従うことなり

私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。(新約聖書 ヘブル6:1)

はじめのところにとどまっていないで、前進しましょう。それでは前進するというのはどういうことを意味するのでしょうか。もちろん、私たちにとって、それは霊的な方法で前進するということです。私たちは新しい主の摂理の中にいます。そしてこれは霊的な主のお取り扱いです。しかし私があなたに前進の意味についてお示ししたい一つのことがあります。それはイスラエルにとっては地上的なことではありましたが、荒野の彼らの真実な姿がありました。同じことは霊的に道において私たちにとっての真実な姿であるということです。

もし、あなたがヘブル人へのこの手紙をもう一度読むなら次のことを知るでしょう。霊的に前進するとは主が言われたことを実践することであるということです。あなたは私たちが主によって語られたようには前進していないことを良く自覚していますか。今はそれは極めて奇妙な言い分のように聞こえるでしょう。しかし、主は私たちにご自身で話すことができるのです。私たちは主のことばをいただき、主が私たちに与えることができる教えを全部持ち、神の真理を全部知り、多年にわたってそのすべてを持っていたかも知れません、しかしそれを全部持っていても、私たちは依然として立ち尽くしたままで前進していないかもしれないのです。そうです。それは主が言われたことを知ったことにはならないのです。問題はそれを実践することです。主が言われたことを行うこと、それが前進する唯一の道であります。

それでは私たちはどのように前進するのですか。私たちは静かに腰を下ろして「さあ、主は私たちに今まで何を言われたのか」と言います。恐らく過去4、5週間以上、あるいは過去数年以上そうであるかも知れません。主はこのところやあるいは主の多くのしもべを遣わしてあなたに語られてきました。今や主のみことばを読むことによって、あなたは山ほどのたくさんの真理を知っているかもしれません。しかし、あなたは前進しないのです。主は私たちとともにいたいと望んでおられるように、主は私たちとともにはおられないのです。

主の臨在は力です。主の臨在はいのちです。主の臨在は聖さであります。ああ、主の臨在はすべてに重要です。しかしそのことはすべてにおいて極めて実践的であります。主は理論の存在を受けつけられません。主は教科書的なことでさえその存在を受けつけられません。主はきわめて実践的な主なのです。だから主の私たちに対する態度はこうです。ご覧なさい。わたしはあなたにこのことを言いました。あなたはそれを聞きました。恐らくあなたはそれを喜んだでしょう。またそれが真理だと信じたことでしょう。あなたは、主にそのことを感謝しています。しかし私たちはそれについてこれまで何を実践してきましたか。

(今日の箇所は "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 34 の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003434.htmlで す。抜粋が全文章の途中で終わっているので、これだけでは何か物足りないものを感じられる方もおられるでしょうが、くわしくは原文をさらにお読みください。)

2011年11月3日木曜日

驕慢は御国に人を入らせない

今日の富士山、手前は富士川(by yuriko.O )

神は、この世の知恵を愚かなものにされた。(新約聖書 1コリント1:20)

(さて、今やそれが取り上げられる一つの立場であります。そして洗礼を授けられる人々がなしていること(訳注:つまり水の中に沈むということ)は、それがその人々が取った立場であるということを実際的な方法で鮮明にすることであります。彼らが見い出していることは、単に教義の形式に従うのでなく、彼らがまさしく生き生きとした状態に入ったこと、そしてそれ以来主がこのことの含意(訳注:ロマ6:4参照)を良しとされるということです。
 主は言われます。それは(訳注:古い人は)死にました。あなたはそれを持って行くことはできない、墓からそれを持ち出したり、戻したりはできません。そして彼らは主が御子の死に終わったものとみなすことを明確に示しておられるに過ぎないことをいつも知ることでしょう。しかし、もちろん、死の側面においてこれらのことがらに対する主の態度や立場を受け入れる時はいつでも、私たちは自身を取り除く度合いに応じて、より一層キリストを体験するということです。
 私はあなたがたに是非認識していただきたいのです。それは最も賢い人から最も愚かな人にいたるまでも、私たちのうち誰もが本当にキリストを受け継ぐとき、もう一度すべてのことをあらゆる面にわたって学ばなければならないということであります。)

私たちがこの世が与える知識なり情報を大変たくさん持っているというのは本当でしょうが、知識においてや他のいかなるやり方においても最も賢明で豊かな人も、キリストを受け継ぐ人は霊的なことについてのABCを学ばねばならないということです。

(彼らはそのことに気づくでしょう。あらゆる事柄が幼児クラスから、霊的生活のゆりかごから学ばれねばなりません。私たちが主のところに来て、知っていることを考えることは役に立ちません。)

私たちが何も知らないということを知らされるにはそう時間がかからないでしょう。

主は言われました。「金持ちが神の国にはいるのはどんなにむつかしいことでしょう」と。私は考えるのですが、もし主が当時おられたところと別の世界におられたなら、つまり西側の世界におられたら、恐らくこう言われたのではないでしょうか。知識を持っている彼らが神の国にはいるのはどんなにむつかしいことでしょう、と。西側の世界の叡慮や知性、鼻にかける知識は御国にとって大きな障害です。御国は何かを知るためには備えられていません。

パウロがユダヤ教の世界から脱出した時、絶えず、この世の叡慮が大きな障害であると言っていた種類のものがそれだったのです。ユダヤ人にとっては富の線に 沿った利得、異邦人にとっては知識の線に沿った驕慢が障害だったのです。そして生まれながらの性質に属するものはどんなものも破棄されるべきであります。 なぜならそれは私たちが御国を受け継ぐ障害であるからです。私たちは主との交わりのうちに長く過ごせば過ごすほど、自分が何も知らないことをますます知るのです。私たちが持っている一かけらの知識も私たちは全く何も知らないということであり、私たちは絶えず少しでも知りたいと望むだけであります。

霊的知識には王道はありません。私たちは最初から良いスタートを切り、行く道に沿うたびに主のことを学ばねばなりません。私たちが若いクリスチャンとして出発するとき、私たちは何かを知っていると思い込むでしょう。しかしそれは若気の至りというものです。私たちはもう一度最初からやり直して学びつづけるので す。私たちが生まれながら備えている知識はそれがどんなものであってもそれはこの際、価値がないのです。霊的知識とは異なるものです。私たちはもう一度初めからやり直し始めたのです。しかしその立場を受け入れるとき、すなわち、私には学ぶべきことがすべてだ、私は心を開き、学びたい、私は何も知らない、そういう時、主は教えることができるのです。主は私たちに始めるとはどんな意味があるか、そして十字架の意味は私たちの古き人にとっての終わりであり、新しい人にとっての始まりであることを示しておられるのです。

(今日の箇所は Foundations - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003433.htmlです。今日の訳は7/10「死、それが神が始められるところです」の続きの箇所ですので併せて読んでいただくと文意はよりいっそうはっきりすると思います。)

2011年11月2日水曜日

義とする務め

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(新約聖書 ヨハネ6:63)

( いのちと死の問題

みことばが死の務めといのちの務めについて厳密にかつ正確に言わないことは不思議です。しかし、みことばは「罪に定める務め」と「義とする務め」と言っているのです。いのちが何であるかはわかることです。いのちの言及はあるのです。)
 
御霊が言及される時はいつでも御霊がいのちと関連していることにあなたは注意していますか。そう言われるとき、いのちは義のことなのです。「義とする務め」がいのちの務めを意味したり、また罪に定められる恐れやさばきもなく、顔におおいをかけないでいのちにあって(主の前に)立てることを意味しているのです。この真理を認識することは最も重要です。基本的です。私たちの信仰のいろはの一つであります。

小手先のことのように聞こえるかも知れませんが、主の民は教えを必要としています。奨励を持つことはいいことです。私たちが証を持たねばならないこともいいことです。主のみことばが時々私たちに完全な宣言とならねばならないのもいいことですが、私たちは主の民として、それだけでなく信仰において健全な教えと基盤を必要としているのです。

今日たくさんの主の民がいます。彼らは基盤がしっかりしていないため自らの立脚点に立つのはほとんど不可能だということを知っています。結局彼らの主との関係はきわめて情動的なものであり、一種の興奮状態にあり、信仰の基盤を調べると良く根付いてはいないのです。敵がやって来て嵐が彼らを見舞うと彼らは自分がどこにいるかわからないのです。私たちの救いにおいて興奮状態や情動さらにはもっと上辺だけの要素は恐ろしい反対の緊張に置かれたり、それに加わるに敵がとがめると土台が露呈し破綻がたくさん出るのです。もし彼らが主を信頼しつづけるなら彼らが失われることはありません。しかし彼らが救いを満喫している限り、彼らは失います。

だから私たちがみことばに徹底的に教えられることが必要です。そしてこれは 私たちが心と精神において完全に明白であり、霊において確信をもたねばならないことの一つです。そのいのちとは、何をさておいても、主との顔におおいをつけない交わりのいのちであり、死に勝利し罪定めを無効にするいのちです。いのちは義、すなわち義の務めに根ざしているのです。私たちは神の前で完全な確信と信頼をもって次のように言うことが可能であるに違いありません。「主よ、私がキリストから離れていることは確かです。しかし私がキリストと信仰のつながりによっていることは、あなたご自身の義によって私が義であるということです。私は滅ぼされませんし、罪定めのもとにおかれることもあり得ません。」あなたは神にその基盤の上に立って申し立てることができます。もし私たちがそのように話して良いのならばですが。神は私たちがその基盤の上で神を試すように招いておられます。

(そのようにしばしば主は私たちを引き出してまさしくその線に置こうとされ、そのような状態に置かれることが許されます。あなたは主がアブラハムに低地の町々を破壊されようとしていることを告げられたとき、アブラハムが神に次のように申し立てたことを覚えているでしょう。「あなたは正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。・・・正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことをあなたがなさるはずはありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」

かなりたくさんのことばを用いてアブラハムは「もしあなたが滅ぼされるならその結果はご自身を滅ぼされることになるでしょう」と神に申し立てたのです。その結果、神のアブラハムに対する答えは「もしそれが本当ならわたしはそうはしない。さばきは少しでも正しさがあれば下され得ない。たとえそのあらわれがどんなに小さくとも、わたしの目から見て最も小さい義であってもわたし自身の性質からしてさばかず、最後まで保留する」であります。そして私たちは「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、(義人ロトを救い出されました。2ペテロ2:7)神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」(創世記 19:29))

(今日の箇所はSpiritual Ministry - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003432.htmlです。)

2011年11月1日火曜日

神を見えなくさせる力

散歩途中の野菜畑の一角に菊が五つ固まりほどあった。創造主の色の配慮よ!
イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。 (新約聖書 2コリント3:14)
 霊的盲目である(訳注:神を信じられない)ことの理由

原因については一つ二つのことば(が考えられます)「この世の神がくらませた」その句には二つのことがらがあります。まずこの盲目とは結局は単なる自然なことではなく、超自然的なことであります。生まれつき盲目であると言うのはすべてを言ったことにはなりません。そうなのです、この盲目についてはそれよりもはるかに邪悪なものがあるのです。超自然的な盲目ではありますが、邪悪な超自然的な盲目であります。それは悪魔の働きです。それが一方で霊的な視力が与えられるには常にそのような恐ろしい闘いがなぜ伴うのかという理由であります。

誰も闘いなしには、また価を払うことなしには、そして恐ろしいまでの苦悩なしには、決して本当に御霊によって見え、理解するようにとはならないのです。( No one ever really does come to see by the Spirit and understand without a fight, without a price having to be paid, without a terrible amount of suffering.) 真の霊的照明と啓蒙はいかなる部分も犠牲をともなうものです。そのためにパウロは聖徒に関して膝を屈しなければならなかったのです。「私はひざをかがめて」「私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださるように」祈ります。(エペソ1:17)それは祈り抜かれなければならないものであります。エペソ人への手紙が6章で啓示されることと関連が大変重きをなすことに意義があるのです。

「私たちの格闘は主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから神のすべての武具を取りなさい」あれやこれや 「すべての祈りと願いを用いて、どんな時にも御霊によって祈りなさい」(エペソ6:12〜18)「この暗やみ」「絶えず祈る」「私は神があなたがたに神を知る知恵と啓示の御霊を与えてくださるように祈る」ご存知のように全部一つのことです。説明はここに、すなわち「この時代の神」にあるのです。私たちはこの霊的盲目のうちにある超自然的なものと対決しているのです。私たちはまさしく悪魔という全宇宙的な力、すなわち人々を盲目の状態に維持するように働く霊的存在と戦っているのです。)

真に霊的な視力を持つことは小さなことではありません。それは驚くべき勝利をあらわしています。そのことは単に受動的に座っていて、見えるように口が開くこ とによって実現するものではありません。このことに関する訓練がなければなりません。あなたが本当に霊的理解を求めようとする時、この時代の神の完全な力に抗して立っているのです。それは超自然的な闘いです。ですから、真の啓示の宣教となることはいかなる宣教の部分も闘いに巻き込まれます。前にも闘い、渦中にあっても闘い、後々まで闘いがあります。闘いとはそのようなものです。

それで、ここで光について訓練される必要があるのです。それはあなたが聞いているとは言え、聞いたならわかったと鵜呑みにしないことです。その後、あなたは主に対して明確に処理しなければなりません、また、主があなたに打ち破るように求めておられることが始められねばなりません、そしてことばを聞いたからと言って今や知っていると思い込んで自らを欺かないことです。あなたはそれを知らないかもしれないのです。まだ光が生み出されていないかもしれないのです。このことに必要な闘いがあるかもしれないのです。

もし私たちがそれを知るに留まっているのだったら、生活において生ずるたくさんの闘いは、神が私たちの目をご自身に向かって開かせ、御子の光へと私たちを連れ込むための道に私たちをもっと連れて行こうと求めておられるからで す。神は私たちの霊的水準が広げられることを望んでおられます。それに対して敵は反対し、助けることができたとしても助けるつもりはありません。闘いが発生するのです。私たちはそのことを理解できないかも知れませんが、極めてしばしばそのとおりなのです。すなわち主は物事の背後におられます。サタンは言います、もし私がそれを助けることができても彼らは見ないであろう、と。そこで大きな衝突が生ずるのです。この目が見えないことは、ちょうど光が照らされることが超自然的であるのと同様に超自然的なことであります。

(今日の箇所は Spiritual Sight - Chapter 5 の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003431.htmlで す。今日訳出しました部分のうち後半部分が該当箇所になりますが、私の英語力では難しく太刀打ちできません。識者の添削指導が欲しいところです。今日の直接の該当箇所ではありませんが、英文を併記したところは訳文に自信がないところです。)