2011年11月5日土曜日

聖霊に従いましょう

ピラカンサス by yuriko.O
神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。(新約聖書 使徒10:15)

もし神の子どもがキリストを交わりの土台としさえするなら、霊的な満たしを妨げ、現在の弱さがどれだけ多かろうとも、限界と敗北は除去され、大きな妨害者はその地から追われることでしょう。それからこの満たしの原理が機能し、いくつかの重要な調整が必要であるもう一つの方向があります。それは

聖霊がご支配される余地

を残すということであります。この大変重要な事柄の上に「使徒の働き」という聖書中の本は基礎づけられたものでありました。主イエス様がニコデモに「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」と言われたと き、その原理をはっきり述べられました。ペンテスコの日には「天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり」ました。あなたは今までまことにそのよう な激しい風が吹いてくるところにおられたことがおありですか。
 まさに激しい風に関するそのことがらはあらゆる他の支配権からその統治を奪い、しきたり、伝統、一般受けすること、また傾向や固定観念なしに選びがあるように始まるということです。激しい風(訳注:聖霊?)が続く間、それが支配者です。それがその時存在した方法です。しかし気分を害し、ショックを受け、あきれかえった人々がいました。彼らはその結果、そのような方法は神からのものでは決してあり得ないと言いました。少し後にペテロ自身がこの聖霊の原理に反対して主と論争したほどです。
 主はペテロに示されました。彼がその瞬間それがどんなものであるかを見ていなくても、主が押し広げられる道は限界を超える方向にあったり、あらゆる彼の伝統や確立された宗教的な決まりを破りさえするところにあるということでした。主は異邦人のところにはいっていくペテロにとって、一人のもっとも正統で保守的なユダヤ人としてきよくないもの、すなわち「あらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥」を食べるように求められるようになるだろうことを知っておられました。それは明らかにモーセやレビ 記11章に優越して代わられるべきことでさえあったのですが、しかし主は彼にそうするように求められました。
 ペテロは「主よ。それはできません。」(使徒10:14)と矛盾する言い方でで言いました。しかし主はひるがれませんでした。その結果、ペテロは自分をいぶかる人々に説明して
 
「どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう」(使徒11:17)と言いました。さて私たちがここで考えていることはそのことであります。御霊の支配に抗したのはある場合においてはペテロの固定化された伝統であり、同じことがペテロがしたことに抗して「彼を非難した」(使徒 11:2)エルサレムにいる人々の場合だったのです。後の機会にもペテロは同じ昔の伝統の誘惑に陥り、パウロはそのことについて非常に強く非難せずにはおれませんでした。

その要点は主が霊的な成長のためになさっておられたことでした。しかし引き起こされる障害は御霊の支配する余地がないというこの準備がなされていないことでありました。もし神の子どもやしもべがそれぞれの神との隠れた歩みや過程にあって認知され確立された組織によらず、それとは異なった新しい外見上はすべての容認され固められている、ならわしやつきあいに背く道を始めるように導かれるなら、エルサレムで起こったこと、つまり猜疑心や、非難や反対が何度も繰り返されるのです。

敬愛する友である皆さん、いいですか、私たちはこれに打ち勝って自らをコントロールしなければなりません。さもないと私たちは「神に敵対する」者となるか、「聖なるお方を制限する」者ということになるでしょう。福音書と使徒の働きを再度読んで下さい。そして読み進まれるとき、「あれやこれやは受容され長期に わたって確立された神の秩序に背くものとしてどのように解釈することができるのか」という質問をしてください。あなたは、キリストにことごとく反対する人たちやパウロの宣教を不可能にする目的をもって世界中追跡したユダヤ教の人々の仲間にはいらないうちは離れては行かないでしょう。それらの人々は彼らがそう信じて疑うことがない神の確立された秩序のためにきわめて熱心でした。あなたは昔から神のあらゆる運動は人々が神の秩序だと信じていることとの対立であ り、関係する人々は悪魔の働きをするものとみなされてきたということを認めませんか。

それはキリス トにとってもそうでしたし、使徒たちにとってもそうだったのです。神が何度も何度も神の民を彼らの固定化された習慣の枠組みを無視することによって霊的に成長するように動かれた時があったのです。考えを欠き、また適用を誤ったスローガンを用いたり聖句の断片をまちがって適用することはいともたやすいことで す。(そのうちには「実によって彼らを見分けることができる」マタイ7:20ことがあるのです)非常にしばしば、そのような損害を与える短剣を胸に突き刺すようなことがおこるのは、新しく、非日常的なあるいは大変不思議な方法によって神の子どもがとりあつかわれるのにふさわしく主に余地を与えるのに失敗するためだけです。

ピリポは大きな信仰復興の働きのど真ん中、その場から立ち去ります。彼は突然姿が見えなくなります。そして砂漠に一人の人として当分の間孤立させられるのです。しかしそれは御霊の支配下にあったことです。そして私たちはピリポを批判し、悪くなったと言うよりはむしろ全部の話が数年後に書かれるまで待つべきです。
 
だから、私たちは、あらゆる霊的成長のために、当座は理解できないこと、新しいこと、不思議なことを神がなさる余地を残さねばならないということを知るのです。もし私たちが主を自分たちの固定的な判断に結びつけるなら、主が私たちを霊的に成長させたいと考えられることから外れるだけです。
 
「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1:46)とは善人がそこからは一歩たりとも自由になれなかったありふれた偏見でした。そしてその偏見が主ご自身に劣らないお方に降りかかったのです。

(今日の箇所は Hindrances to Fullness of Life の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003435.htmlです。)

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