2011年11月25日金曜日

神のよみがえりの力

火曜日の朝の伊吹山、この日、富士山はあいにく雲が覆い山頂が見えなかった。
(どうか、)あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、(略)神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ(なさいました)(新約聖書 エペソ1:18〜20)

復活は卓越せる奇跡です。死は神のみわざ、神の似姿、神の目的に反対する最大の力です。同時に死はこの宇宙において人に逆らう最大の力です。人の労働や、人の望み、人の幸せに歯向かいます。死はあるがままに造られたものの最後のことばです。神を除いて、この世界には死ほど偉大な力を持つものはありません。死が介入し、その働きをなしたとき、死を反古にしたり、破壊することのできるものは何もありません。悪魔の権限において死の力にまさる力は存在しません。これが死者からのキリストのよみがえりに言及して、みことばが「神のすぐれた力」(エペソ1:19)と書かれている理由です。死があらゆる悪の力、すなわち、罪、苦しみ、悲しみ、そして破壊に立ちまさるとき、神の類まれな、何物も寄せつけない答えだけが唯一の望みであり、ただひとつの答えなのであります。

新約聖書における復活ほど他のいかなるものにまさって重要で栄光あるものの占める位置はありません。まことに復活が実現されるまでは他のどんなものも空しく無価値だと称えられるのです。復活はありとあらゆる証とはたらきにとって価値を与えるように提示されているのです。死、霊的な死(存在が終わることではありません)、実は肉体の死はほんの小さな側面でしかあり得ないのですが、死はサタンの領域です。しかし復活は神のキリストにある権限です。

繰り返しますが、復活はあらゆる形態、観点の死に対する答えです。神の御子、イエス・キリストにある解答なのです。そのことを言い終えましたので、続いて、新約聖書に啓示されている次のことがらは、イエス・キリストにあるこの卓越した真理が神の霊的な家族に生まれ変わるすべての人が神の世継ぎで あることを保証するものであることを覚えましょう。神の子として真に生まれ変わったすべての人に与えられる相続権であります。

しかし、そのことが霊的に真実であることを経験する要点は、私たちがベタニヤのマルタが、あのような啓示による矯正を受けながら、なした過ちを犯してはならないということです。彼女は自分の兄弟に関して、こう言ったのです。「私は、(終わりの日の)よみがえりの時に、彼がよみがえることを知って おります。」(訳注:ヨハネ11:24)よみがえりは何も信者にとって将来のことではなく、主イエスを信じ、受け入れる瞬間のことなのです。よみがえりの順序というものは今や先ずは人間の霊のよみがえりであり、最後によみがえりのからだなのです。このことはその意味を悟るのに多年を要するかも知れませんが、いかなる新生したクリスチャンにとっても、今更述べる必要のないことであるのです。

(今日の箇所は Horizoned by Resurrection - Chapter 6 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003471.htmlです。文章は原文に添って読みやすいように、なるべく文意を変えずに一部表現を変えました。ご了承ください。)

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