2011年11月2日水曜日

義とする務め

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(新約聖書 ヨハネ6:63)

( いのちと死の問題

みことばが死の務めといのちの務めについて厳密にかつ正確に言わないことは不思議です。しかし、みことばは「罪に定める務め」と「義とする務め」と言っているのです。いのちが何であるかはわかることです。いのちの言及はあるのです。)
 
御霊が言及される時はいつでも御霊がいのちと関連していることにあなたは注意していますか。そう言われるとき、いのちは義のことなのです。「義とする務め」がいのちの務めを意味したり、また罪に定められる恐れやさばきもなく、顔におおいをかけないでいのちにあって(主の前に)立てることを意味しているのです。この真理を認識することは最も重要です。基本的です。私たちの信仰のいろはの一つであります。

小手先のことのように聞こえるかも知れませんが、主の民は教えを必要としています。奨励を持つことはいいことです。私たちが証を持たねばならないこともいいことです。主のみことばが時々私たちに完全な宣言とならねばならないのもいいことですが、私たちは主の民として、それだけでなく信仰において健全な教えと基盤を必要としているのです。

今日たくさんの主の民がいます。彼らは基盤がしっかりしていないため自らの立脚点に立つのはほとんど不可能だということを知っています。結局彼らの主との関係はきわめて情動的なものであり、一種の興奮状態にあり、信仰の基盤を調べると良く根付いてはいないのです。敵がやって来て嵐が彼らを見舞うと彼らは自分がどこにいるかわからないのです。私たちの救いにおいて興奮状態や情動さらにはもっと上辺だけの要素は恐ろしい反対の緊張に置かれたり、それに加わるに敵がとがめると土台が露呈し破綻がたくさん出るのです。もし彼らが主を信頼しつづけるなら彼らが失われることはありません。しかし彼らが救いを満喫している限り、彼らは失います。

だから私たちがみことばに徹底的に教えられることが必要です。そしてこれは 私たちが心と精神において完全に明白であり、霊において確信をもたねばならないことの一つです。そのいのちとは、何をさておいても、主との顔におおいをつけない交わりのいのちであり、死に勝利し罪定めを無効にするいのちです。いのちは義、すなわち義の務めに根ざしているのです。私たちは神の前で完全な確信と信頼をもって次のように言うことが可能であるに違いありません。「主よ、私がキリストから離れていることは確かです。しかし私がキリストと信仰のつながりによっていることは、あなたご自身の義によって私が義であるということです。私は滅ぼされませんし、罪定めのもとにおかれることもあり得ません。」あなたは神にその基盤の上に立って申し立てることができます。もし私たちがそのように話して良いのならばですが。神は私たちがその基盤の上で神を試すように招いておられます。

(そのようにしばしば主は私たちを引き出してまさしくその線に置こうとされ、そのような状態に置かれることが許されます。あなたは主がアブラハムに低地の町々を破壊されようとしていることを告げられたとき、アブラハムが神に次のように申し立てたことを覚えているでしょう。「あなたは正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。・・・正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことをあなたがなさるはずはありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」

かなりたくさんのことばを用いてアブラハムは「もしあなたが滅ぼされるならその結果はご自身を滅ぼされることになるでしょう」と神に申し立てたのです。その結果、神のアブラハムに対する答えは「もしそれが本当ならわたしはそうはしない。さばきは少しでも正しさがあれば下され得ない。たとえそのあらわれがどんなに小さくとも、わたしの目から見て最も小さい義であってもわたし自身の性質からしてさばかず、最後まで保留する」であります。そして私たちは「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、(義人ロトを救い出されました。2ペテロ2:7)神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」(創世記 19:29))

(今日の箇所はSpiritual Ministry - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003432.htmlです。)

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