2011年11月11日金曜日

主が第一に求めておられること

昨日、吉川市で見かけた珍しい花
知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。(旧約聖書 エレミヤ9:23〜24)

なぜ主は私たちがこうなさるはずだと思うあれやこれやをなさらないのですか。それは証拠や証明を求めるたましいの働きがあるからです。そしてこれがその理由 なのです。すなわち、もし明らかに大きく印象を与えるようなクリスチャンの働きによって築き上げられるものが何かあるなら、クリスチャン大衆はワッとそれに群がるからです。そこには大きな組織があり、足元からする大きな運動があり、すべてが目に見える領域のうちにあることなのです。そうでなければ、示威運動があり、はっきりとした証拠と見られることがあるなら、群衆はそんなところにひきつけられていくのです。

敵は示威運動やしるしの分野における聖霊のニセの働きによってたくさんの人々を魅了することができます。私たちは非常に影響を受けやすいので、取りついてしまうにちがいありません。そしてそれが指導者たちを支配したのとまさしく同じ原理なのです。彼らは十字架の原理を適用するようにとは心の準備がなされていなかったのです。すなわち完全に自己を空しくすること、つまり主ご自身以外のどんなものも終わりにしてしまうということです。

預言者たちがつねに話していた一つのこととは何でしたでしょうか。それは主を知ることについてでした。預言者の時代に主の民の間に不足していたことは主を知ることでした。主が彼らのためになさることを主に求める備えのある人はたくさんいましたが、しかし主ご自身に関しては・・・ああ、それは別のことでした。

主はあなたや私に何を求めておられますか。主は第一に私たちが行動することを求めておられますか。今日、神からのものである思想はおもに神のためになされることがら、私たちが従事する働きなどに関係しています。それは対象的、外形的なものをともなうものであります。しかし主は私たちがどれだけのことをするかについては関心を持っておられません。主がはるかに関心を持っておられるのは、私たちがなすことが少しであろうとたくさんであろうともどんな微小部分も主を知る知識から出るべきだということです。どんな程度にあっても、あなたが他の働きをなすのと同じように、キリスト者の働きや活動にあっては主のためになされるのです。 しかしそれがあなた自身の神を知る深い知識から始められないのかもしれないのです。主は何にもまして私たちが神を知るようにと関心を持っておられるので す。

(今日の箇所は Prophetic Ministry - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003441.htmlです。意訳する余り、誤訳があるかも知れません。しかし、かつてのことではあれ、ブログ「泉あるところⅡ」でご一緒にお読みしているヴォーリスさんの働きを聖書から照射するのには格好の学びではないでしょうか。)

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