2011年11月3日木曜日

驕慢は御国に人を入らせない

今日の富士山、手前は富士川(by yuriko.O )

神は、この世の知恵を愚かなものにされた。(新約聖書 1コリント1:20)

(さて、今やそれが取り上げられる一つの立場であります。そして洗礼を授けられる人々がなしていること(訳注:つまり水の中に沈むということ)は、それがその人々が取った立場であるということを実際的な方法で鮮明にすることであります。彼らが見い出していることは、単に教義の形式に従うのでなく、彼らがまさしく生き生きとした状態に入ったこと、そしてそれ以来主がこのことの含意(訳注:ロマ6:4参照)を良しとされるということです。
 主は言われます。それは(訳注:古い人は)死にました。あなたはそれを持って行くことはできない、墓からそれを持ち出したり、戻したりはできません。そして彼らは主が御子の死に終わったものとみなすことを明確に示しておられるに過ぎないことをいつも知ることでしょう。しかし、もちろん、死の側面においてこれらのことがらに対する主の態度や立場を受け入れる時はいつでも、私たちは自身を取り除く度合いに応じて、より一層キリストを体験するということです。
 私はあなたがたに是非認識していただきたいのです。それは最も賢い人から最も愚かな人にいたるまでも、私たちのうち誰もが本当にキリストを受け継ぐとき、もう一度すべてのことをあらゆる面にわたって学ばなければならないということであります。)

私たちがこの世が与える知識なり情報を大変たくさん持っているというのは本当でしょうが、知識においてや他のいかなるやり方においても最も賢明で豊かな人も、キリストを受け継ぐ人は霊的なことについてのABCを学ばねばならないということです。

(彼らはそのことに気づくでしょう。あらゆる事柄が幼児クラスから、霊的生活のゆりかごから学ばれねばなりません。私たちが主のところに来て、知っていることを考えることは役に立ちません。)

私たちが何も知らないということを知らされるにはそう時間がかからないでしょう。

主は言われました。「金持ちが神の国にはいるのはどんなにむつかしいことでしょう」と。私は考えるのですが、もし主が当時おられたところと別の世界におられたなら、つまり西側の世界におられたら、恐らくこう言われたのではないでしょうか。知識を持っている彼らが神の国にはいるのはどんなにむつかしいことでしょう、と。西側の世界の叡慮や知性、鼻にかける知識は御国にとって大きな障害です。御国は何かを知るためには備えられていません。

パウロがユダヤ教の世界から脱出した時、絶えず、この世の叡慮が大きな障害であると言っていた種類のものがそれだったのです。ユダヤ人にとっては富の線に 沿った利得、異邦人にとっては知識の線に沿った驕慢が障害だったのです。そして生まれながらの性質に属するものはどんなものも破棄されるべきであります。 なぜならそれは私たちが御国を受け継ぐ障害であるからです。私たちは主との交わりのうちに長く過ごせば過ごすほど、自分が何も知らないことをますます知るのです。私たちが持っている一かけらの知識も私たちは全く何も知らないということであり、私たちは絶えず少しでも知りたいと望むだけであります。

霊的知識には王道はありません。私たちは最初から良いスタートを切り、行く道に沿うたびに主のことを学ばねばなりません。私たちが若いクリスチャンとして出発するとき、私たちは何かを知っていると思い込むでしょう。しかしそれは若気の至りというものです。私たちはもう一度最初からやり直して学びつづけるので す。私たちが生まれながら備えている知識はそれがどんなものであってもそれはこの際、価値がないのです。霊的知識とは異なるものです。私たちはもう一度初めからやり直し始めたのです。しかしその立場を受け入れるとき、すなわち、私には学ぶべきことがすべてだ、私は心を開き、学びたい、私は何も知らない、そういう時、主は教えることができるのです。主は私たちに始めるとはどんな意味があるか、そして十字架の意味は私たちの古き人にとっての終わりであり、新しい人にとっての始まりであることを示しておられるのです。

(今日の箇所は Foundations - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003433.htmlです。今日の訳は7/10「死、それが神が始められるところです」の続きの箇所ですので併せて読んでいただくと文意はよりいっそうはっきりすると思います。)

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