2011年11月4日金曜日

霊的な前進とはみことばに従うことなり

私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。(新約聖書 ヘブル6:1)

はじめのところにとどまっていないで、前進しましょう。それでは前進するというのはどういうことを意味するのでしょうか。もちろん、私たちにとって、それは霊的な方法で前進するということです。私たちは新しい主の摂理の中にいます。そしてこれは霊的な主のお取り扱いです。しかし私があなたに前進の意味についてお示ししたい一つのことがあります。それはイスラエルにとっては地上的なことではありましたが、荒野の彼らの真実な姿がありました。同じことは霊的に道において私たちにとっての真実な姿であるということです。

もし、あなたがヘブル人へのこの手紙をもう一度読むなら次のことを知るでしょう。霊的に前進するとは主が言われたことを実践することであるということです。あなたは私たちが主によって語られたようには前進していないことを良く自覚していますか。今はそれは極めて奇妙な言い分のように聞こえるでしょう。しかし、主は私たちにご自身で話すことができるのです。私たちは主のことばをいただき、主が私たちに与えることができる教えを全部持ち、神の真理を全部知り、多年にわたってそのすべてを持っていたかも知れません、しかしそれを全部持っていても、私たちは依然として立ち尽くしたままで前進していないかもしれないのです。そうです。それは主が言われたことを知ったことにはならないのです。問題はそれを実践することです。主が言われたことを行うこと、それが前進する唯一の道であります。

それでは私たちはどのように前進するのですか。私たちは静かに腰を下ろして「さあ、主は私たちに今まで何を言われたのか」と言います。恐らく過去4、5週間以上、あるいは過去数年以上そうであるかも知れません。主はこのところやあるいは主の多くのしもべを遣わしてあなたに語られてきました。今や主のみことばを読むことによって、あなたは山ほどのたくさんの真理を知っているかもしれません。しかし、あなたは前進しないのです。主は私たちとともにいたいと望んでおられるように、主は私たちとともにはおられないのです。

主の臨在は力です。主の臨在はいのちです。主の臨在は聖さであります。ああ、主の臨在はすべてに重要です。しかしそのことはすべてにおいて極めて実践的であります。主は理論の存在を受けつけられません。主は教科書的なことでさえその存在を受けつけられません。主はきわめて実践的な主なのです。だから主の私たちに対する態度はこうです。ご覧なさい。わたしはあなたにこのことを言いました。あなたはそれを聞きました。恐らくあなたはそれを喜んだでしょう。またそれが真理だと信じたことでしょう。あなたは、主にそのことを感謝しています。しかし私たちはそれについてこれまで何を実践してきましたか。

(今日の箇所は "That They May All Be One, Even As We Are One" - Meeting 34 の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003434.htmlで す。抜粋が全文章の途中で終わっているので、これだけでは何か物足りないものを感じられる方もおられるでしょうが、くわしくは原文をさらにお読みください。)

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