2011年11月24日木曜日

天にある霊的祝福

日曜、月曜と各地で虹が見られた。これはふるさと高宮で月曜日に見た虹。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。(新約聖書 エペ ソ1:3〜4)

さて、このみことばは教会に宛てて書かれていることを忘れないようにしましょう。文字どおり、キリストにあって天にあるあらゆる霊的な祝福をもって祝福したと言っています。世界の基の置かれる前から選ばれたこと、そしてイエス・キリストをとおして子として世継ぎになるようにあらかじめ定めれたことが、天にあるあらゆる霊的な祝福をもって祝福されてきたのです。 それが神のご自身にとっての考え、つまり十分包括的で絶対的な考えとしての満たしであります。ところが私たちはまだあらゆるこのような祝福を受け継いではいません。それは神が祝福を与えられなかったからではなく、私たちが祝福をいただくまで成長しなかったからです。私たちはキリストにあってあらゆることに成長していないのです。それが私たちの話している要点であり、神の考え、つまりはキリストの量りに達して欲しいという勧めであります。

神の考えとは何でしょうか。キリストの完全な量り、キリストの似姿に満たされることです。それが私たちにとっての神の考えです。神の考えをしっかりつかみましょう。信仰によってこういう考えを適用し、神の考えに信頼しましょう。この考えに一致するように求めましょう。そして聖霊とこの方の力により、神の考えが私たちのうちに生きて働くように、私たちを形造り、組み立てていただきましょう。それが神の目的なのです。目的は私たちにキリストの完全な量りをもたらすためにあるのです。

私たちがなさねばならないすべてのことは、そのことを明確な事実ではあるが、大変な義 務をあらわすことを示すものとして述べることであります。私たちは大きな責任のもとにへりくだることなしにはそのようなことを話したり聞いたりすることはできないのであります。もしこれがみことばを通してキリストのうちにある天からの神の啓示であり、私たちの心には聖霊によるものであれば、その時私たちには非常に重要な責任が伴うのです。責任について話す必要があるでしょうか。私たちのための神の考えは本当に私たちの心のうちに言いようのない感謝と崇敬の思いにひたらせないはずはないのではないでしょうか。聖書中にある「みこころのままに」(訳注:エペソ1:5)つまり主のよろこびという召命と関連するこれらの別のことばを認識するべきではないでしょうか。あなたは覚えておられるでしょう。ヨシュアとカレブが地を探って報告したとき「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ」と言ったことを。それが私たちがここでとりあげていることに他ならないことなのです。キリストが神の満たしの地であります。そして私たちがその満たしに入れるのは神のみこころによるのです。

(今日の箇所は The Church of the Firstborn - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003454.htmlです。)

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