2011年5月31日火曜日

召されることの重大性

あなたは、あなたの生まれ故郷を出て・・・わたしが示す地へ行きなさい。わたしはあなたを祝福しよう。(旧約聖書 創世記12:1~2)

(これらの三つのことば(訳者注:召されること、選ばれること、忠実さ)には意味があります。それらのことばはあるところ(そこは平地であり見習い期間ともいうべきところですが)から別のところへ向かう目盛りを表しているものであるからです。
 私たちが「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選」(注1)ばれている一方、神様との栄誉ある親密性や信任を得ている奉仕に関しては、その選びは「召されたことと選ばれたことを確かなものとする」(注2)お方によるのです。
 神様が私たちを取り扱ってくださるすべては召しによります。いかなる用い方をされようとも、「神様の召し」は個人的なことであり、内なる人によって感じ取られ、かつ認識されねばなりません。肉なる人はその召しの声を聞きます。そうです。パウロと同行した人々と同様です。栄光ある啓示によって地面に倒されるかも知れません。彼らの感覚は召しに伴う外側のしるしのいくらかのものを目撃するかも知れません。しかしパウロが言っているように「彼らには私に語っている方の声は聞き分けられませんでした」(注3))

神様の召しは恵みと真理の双方をふくむものです。真理は分離の働きをします。「出て行きなさい」であります。恵みは約束です。「わたしは祝福しよう、祝福となる」がそれです。人はしばしば神様の「わたしは祝福しよう」という恵みをつかもうとします。それから「出て行きなさい」という主の要求に応じることに失敗するのです。

さて、このことは私たちの救いに関しての第一歩にあてはまるだけでなく、クリスチャン生活の様々な時に新しい啓示と召しをいただくたびに生ずるものです。神様が幾分でも私たちが真理と宣教をより完全で高度な形で受け入れるように召されているのは、証することや主に自分を明け渡すことに関してなのですが、神様が訪れてくださるあれやこれやの形によることは疑う余地がないでしょう。それは主が恵みのうちに導きたいと思っておられることなのです。

このことは時期が定められており、明確で、かつ挑戦的であるのです。使者はどこかわからないところから出た者としてやって来ます。評判や認められることや世間的な名声や名誉はどこにもありません。彼は聞く人々と本質的に緊密な関係を残すに十分なだけ滞在してはじめて、使信を伝えるのです。その結果、伝えてしまったので、聞いた人々にとってはもはや以前とは同じではあり得ないのです。

神様の召しが鳴り響きました。大転換が引き起こされました。結果はぎりぎりまで見分けられるか見分けられないかといういのちと神様が与えてくださるいのちとの間にあることなのです。しかし、通常の場合として、この真理は「出て行くこと」を求めて呼びかけているのです。「出て行く」とは、ある程度の俗受けすることや、比較的のんびりした生活から出ることです。

評判を失う危険性や、名声をなくし、人々の間で人気を失い、「異常」「特別」「極端」「危険」だとレッテルをはられるかもしれません。そのことはあらゆる偏見や伝統との真っ正面からの衝突であり、宗教世界の不人気を意味しております。排除や追放や疑惑に巻き込まれるかも知れません。これらのことは神様のあらゆる召しにともなうことであり、受け入れられる水準を越えて神様とともに前進することであります。これがたましいを追い求める開拓者の支払わねばならない代価であり、神様と人々にとって、もっと役に立つための代価なのであります。

(この代価をこれからも絶対にないであろうと思われるほど支払い、かつ最高級の啓示と不朽とも言える世界中の奉仕の委託を神様からいただいた人(注4)はその生涯の終わりに、「私と同じ心になって、・・・する者はいない」(注5)「私を支持する者はだれもなく」(注6)と言ったのです。このことは彼が間違っていたことを意味しているのでしょうか。誰があえてそう言いはることが出来るのでしょうか。)

(今日の箇所は "Called. Chosen. Faithful." の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003205.htmlです。このところスパークス氏の文章は滅法難しく、ほとんど訳せない状況です。誤訳が相当あるはずです。読者諸氏が了解してお読みくださることを切望します。なお本文章はあと20数行で全文が訳了できるものです。機会を見つけ続編を別サイトに載せたいと思います。なおスパークス氏が引用している聖書箇所は以下の通りだと思われます。念のために注を付けました。注1 エペソ1:4  注2 2ペテロ1:10 注3 使徒22:9 注4 パウロのこと 注5 ピリピ2:20 注6 2テモテ4:16)

2011年5月30日月曜日

これは小さいことだろうか

これらの小さな始まりをさげすんではならない。なぜなら、主がその働きが始まったことを喜んでおられるからだ。(旧約聖書 ゼカリヤ4:10 NLT訳による)

(捕囚として連れて行かれたたくさんの人の中で、わずか4万2千何がしかの人たちだけがバビロンでの快適で安楽な生活を捨て、神様の証が確立できる土地(エルサレム)に戻り犠牲を払う用意がありました。彼らは数として少数で弱く隣人からさげすまれていました。その彼らが荒れ果て、やせ衰えた土地に戻って来たのです。実に「小さな日」でありました。しかし、彼らはさげすまれることはなかったのです。なぜなら、神様が彼らに真から神様の栄光を求めるようにと、後ろから支えておられたからです。)

神様の栄光を証する上でどんな小さなこともありません。私たちはたとえ他者によってさげすまれることがどんなに重要であったとしても、小さいこととして無視してはなりません。かえって神様が人々をご自身の栄光をあらわそうとして召し出された時はいつでも、自分自身の栄誉を求めない人々を選ばれたということに気づかなければなりません。

神様はつねにご自身の栄光の道具とされようとする人々から強いてその栄誉を奪われて来たのです。エジプトの与えるものをすべて持っていたモーセは40年間荒野に退けられ空しくされ、神様の栄光を示す道具となる前に、自らには完全に資格がないと告白するまでになったのです。イスラエル人の中にはこの新しくされた謙遜なモーセを蔑もうとした時がありました。その時、モーセは自らの力で立ち向かおうとしませんでした。しかし神様はすぐにイスラエル人全員にモーセをさげすむことがどんなに正しくないかということを鮮明にされたのです。神様の栄光は天幕の入り口に現われ、人々への挑戦がなされたのです。

主が私たちを充分にからっぽにし、弱く、小さくされるのには、時々年数がかかります。その結果私たちは自らの生活のうちに神様のご栄光を、すなわち神様が私たちを取り扱ってくださったことをよく説明できる事実をあらわすことができるようになるのです。神様が私たちを十分に小さくされ、また十分に空っぽにされるなら、その時は御霊が栄光のうちに働いてくださる機会なのであります。

(今日の箇所は "By My Spirit" の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003204.htmlです。)

2011年5月29日日曜日

人は何によって称賛されるのか

約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。(新約聖書 ヘブル10:23)

(それでは信仰の結果は何ですか。ヘブル人への手紙のこの箇所で二回、このような信仰によって称賛されたということが言われています。まず昔の人々が称賛されました。(11:2)それから終わりの方では彼らがみな称賛された(11:39)とあります。それが彼らが受けたもの、すなわち称賛でした。
 称賛とは何ですか。次の章、12章に私たちは学校で言えば生徒、家庭で言えば子どもだと言われています。父なる神様は私たちを子どもとして扱っておられます。ここでの全議論の大部分は「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはいけない」云々であります。この称賛がなされるためのすべてです。
 私は11章で言及されるケースにあって称賛は彼らが成し遂げたこと、また賢かったこと、また生きている間、彼らがなすことができたことに関係しているというのは事実に当てはまらないと信じています。その面を言えば称賛に当てはまりませんでした。神様は彼らの生活の一部始終を書いておられます。一体何のための記録ですか。彼らが非常に素晴らしいことを成し遂げたからではありませんでした。
 称賛とは彼らが主を信頼した、そしてとことん信頼し抜いたということでありました。彼らは次のようには言いませんでした。「このことは私たちの生きている間には決して悟られないだろう、私たちはなされることを決して見ることは出来ないだろう。役に立たない。私たちよりももっと良い民が必要である」そうは言わなかったのです。
 彼らはあらゆることに直面しました。そして大部分、そのことは人間的には不可能だが、神だけはそれができることを経験したのです。けれどもそのことは彼らを傍観させ、「私は決してこの場にいることはできない、この中で私の出る幕は決してない、このことに関して私はいかなる役にも立たない」と言わせなかったのです。そうではないのです。彼らは神様を信じました。主を信頼したのです。そしてそれから自分を主に全面的に心から明け渡し、神様を信頼する確信のうちに生きたのです。彼らは信仰に導かれ、信仰によってなされるすべてのことをしたのです。信仰はつねに活動的なものです。称賛は、彼らが、たとえどんなに事態が困難になろうとも、主を信頼し、本腰を入れ、主に身柄を預けたことにあったのです。)

信仰は二つの事柄のうちのどちらかを決めるものであります。またそのことが私たちを特徴づけるものとなります。これが押さえるべきポイントであります。私たちが恐るべきまひ状態にあって生きていることはどちらの状態にあっても言えることでしょう。それは混乱、紛糾、理解することの出来ない、ときほぐしたり、分類したり、事態の意味することをまっすぐに、またはっきりと見て知ることの出来ないものです。それは完全な麻痺状態を意味し、ただ両手を腰にあてて立っているだけで、助けも望みもない状態です。でも、それは確信のある信仰が欠如している結果です。

そのような麻痺状態からの生き生きとした解放への唯一の道は神様に対する落ち着いた信頼にあります。その結果、私たちが理解できようとも理解できなくっても、また説明したり説明できなくっても、さらには光がさしてこようがさしてこなかろうが、私たちが神様とともに歩む態度をとるように導かれます。それは、神様が私たちのうちになしてくださったこと、また神様ご自身が私たちに対して、影響を与え、そのことによってどんな方であるかについてはっきりさせられたという基盤に立って神様とともに真っ直ぐ歩むことです。私たちは歩み続けます。

愛する皆さん、私たちは人生の途上で一度ならず、そういう目に会います。私たちが到達するのは外見上は暗闇、絶望、麻痺状態に見えるところにまっすぐ出ていることを認識することです。そこでは、私たちが肩を寄せ合い、「すべてのことは説明できず、途方に暮れる混乱だ、私たちの立場や人の立場からはもつれることばかりだが、神様は誠実なお方だ。それは神様ご自身がわたしはこうだと言われることだ」ともし自らに落ち着いて言い聞かせないなら、いかなる効力も豊かな実を結ぶことも、価値あることもその他のどんなことでも完全に無視されます。

このようにして神様に疑問を持たないで私たちは神様を信じ続けるのです。私たちはなおさら神様に対して失敗や誤りの責任を押しつけたくなるような点においても神様を信じ続けねばなりません。それは、私たちが自らの人生を 本当に正直に神様がなされるままにまかせ、完全に神様のために生き、個人の利害や世俗的な利害からも自由になり、ただ神様のためにだけここにいるという限りにおいてであります。私たちにとってそれは過ちや失敗であったかもしれませんが、主にとって大切なことがらを練り直し、主を信頼し、進んで行かねばならないのです。

(何が代わりとなりますか。それがつねにポイントであります。代わりになるのは何ですか。それは諦めることであり、出て行くことであり、全部自分の立場を失うことです。そして最後にそれを判断する時です。なぜですか。 
 よろしいですか、私たちは主を信頼しなかったのです。すでにご存知のように主は神様が完全であるように私たちが完全であるようにとは求めておられないのです。それは私たちが非常にしばしば達しようとする基準です。私たちは間違いはしなかった、それについて疑問を持たなかった、私たちは全く完全であったので歩む道すべてにわたって、また取るべきあらゆる段階に自信があるという基準であります。
 そうではないのです。あなたも私も決してそうはならないでしょう。アブラハムは過ちを犯しました、モーセもそうでした。すべての人が過ちを犯したのです。エリヤは私たちと同じ感情を持つ男でした。そしてエリヤは「えにしだ」の木の下に身を投げ出して自分が死ぬことを願ったのです。彼らはみなその道を行ったのです。でも、あなたが見るのはここにある記事です。彼らはみな称賛を得たのです。
 ああ、エリヤは称賛を得ました。怒ったので約束の地に入れなかったモーセは称賛を得ました。エジプトに下ったアブラハム、アブラハムとイシュマエル。アブラハムは称賛を得ました。神様が完全であるように完全であろうとつとめないようにしましょう。
 主が望んでおられることは、主に向かう完全な心です。すなわち、私たちが働きを完全になしたことではなく、私たちが主を信頼したことにあるのです。私たちは信仰と出しゃばり、信仰と強情やうぬぼれとは大きな違いがあることをいつも覚えていなければなりません。信仰は無私に基盤があります。信仰の人々はつねに大変へりくだった人たちでありました。そのことは彼らが間違いを犯した時に自ら改めたことに刻印されています。無謬を求めるのでなく、信仰深くあることを求めましょう。)

(今日の箇所は "By Faith..." の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003203.htmlです。訳文が大幅に増えました。引用文のところがどうしても訳し得ず、前後伸ばして訳してみましたが、大分誤訳が多いことと思います。いつも申し上げていることですが、賢明な読者の方で指摘して訂正してくださると助かります。よろしくお願いします。)

2011年5月28日土曜日

あなたがたは知らなくてもよい

いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。(新約聖書 使徒1:7)

私たちは生活の環境や条件が変わり、今おる地位より別の地位につくなら、何かが起こり、神様の目的は実現へと向き始めるだろうと思いがちであります。しかし、主は「いいえ、環境や条件でも、全然ありません。問題はあなたですよ」とおっしゃることでしょう。

一部の人は卒業や按手礼や儀式が問題であり、自分たちが正式な地位につき、承認されれば、その時人生の目的は実現に向かい始めるものと思っています。だからこそ彼らは自分たちが仕事に任職されることや指名されるまで待っているのです。しかし、主は「儀式ではありません。任職でもありません。地位でもありません。あなたですよ。あなたが鍵なのです」とおっしゃいます。

それと平行して、多くの人が組織、社会、宣教団体、自分たちが関与している教会を見て、そこで始められる新しい日や、たとえどんなであろうともその機構が働き始めるなら自分たちの生き甲斐のある仕事が始まるであろうと期待しています。すると、主はおっしゃるのです。「教会でも、宣教団体でも、組織でも、社会でも、機構でもありません。大切なのはあなたです」

(新約聖書の)使徒1章に登場する人々は、自分たちの外側で起こることになる何ものかを期待していました。彼らはそのことを御国の再興と呼びましたが、それは、国民的な、というよりは恐らくは国際的な運動となる秩序を意味していました。それは、彼らが自分たちの立場をそこに見つけ、その任務が割り当てられ、指名され、任務につくことになるという彼らにとっては外形的な新しい秩序だったのです。すると主はすべての彼らのその考えを一蹴されて言われたのです。「いいえ、大切なのはそんなことではないのです。大切なのはあなたです。」それが明らかにされた委細のすべてなのです。私たちはそれぞれ個々人で神様のご計画のうちにあってあらゆるものの鍵となりうるのです。

(今日の文章は "But Ye..." の抜粋引用訳です。原文は http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003202.htmlです。)

2011年5月27日金曜日

小羊の血のゆえに

野いちごの 力を汲みて 目を覚ませ 
兄弟たちは、小羊の血のゆえに彼に打ち勝った。(新約聖書 黙示12:11)

今日、サタンに牛耳られているかなり多くの主の民がいます。それは告発という線上でなされるもので、人々は罪を犯しているという意識のもとに置かれ、確信や平安や希望を奪い取られるのです。そして、こういう人たちはいつまでも自分自身の欠点や罪深さを問題にしており、自分たちがこうありたいと思ってもそうでないことや逆にこうなりたくないと思ってもそうなってしまうというようなことを問題にし、絶えず堂々巡りをしていることがおわかりでしょう。

彼らがサタンから解き放たれるために、父なる神様は自分たちの代わりに(犠牲になられた)御子によって、完全に満足しておられることを生き生きと体験すべきであります。現に彼らは父の御前に自分たちは受け入れられているという立場にあることを知ることです。それが解放の道であり、悪魔を追放する道です。これが反対者である悪魔に打ち勝つ方法なのです。そうです。主イエス様が自分たちの罪のために血を流してくださったという立場に立つことが完全で、多方面にわたる全面的な勝利なのです。

「兄弟たちは、小羊の血のゆえに彼に打ち勝った。」あらゆるこれらの方面で小羊の血が一番であり、すぐれている要因は罪汚れがないという主イエス様のご性質であります。そのような資格を持つ方は他に誰もいません。ああ、神様がキリストとなって来てくださったことはどんなに嬉しいことでしょうか。神様にあなたは罪を請求できますか。神様の勘定書としてあなたは罪を置くことが出来ますか。完全で全くきよいお方で、罪がなく、人となられたお方がキリストのうちにおられる神様でした。その完成のうちに現われる神様のご性質の力によってサタンはその場で倒されるのです。祝福が神様にありますように。

私たちは信仰によってそのありがたい御子の血の力を受けるのです。それが私たちの勘定書を主イエス様が完全に支払ってくださったことです。それが恵みなのです。福音の驚くべき内容です。もし私たちが自己分析を始め自己吟味に入って行くなら、それは恐ろしい仕事、実にひどい仕事であり、際限がないことでしょう。愛する皆さん。考えてもみてください。私たちが自分自身を知っていること全部と神様が私たちを知っておられること全部をですよ。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ・・・」(訳者注:エレミヤ17:9~10)たとえそれら全部が事実であったとしても、あなたも私も今や神の御前で完全に罪なき者として立てるのです。もちろん自分自身のうちにではなく、キリストのうちにあってです。私たちの(罪の)勘定書の代わりに神様によって絶対に罪のない完成されたみわざが置かれているのです。

(昨日は訳に手間取り、私の力では出来ませんでした。今日はその代わりと言っては何ですが、やや乱暴な訳・意訳になりました。ご寛容ください。今日の文章は "Because of the Blood of the Lamb" の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003201.htmlです。)

2011年5月25日水曜日

強められなさい!

昨年もこの薔薇を載せましたが、もう間もなく終わりです。少しアングルを変えて
主にあって、その大能の力によって強められなさい。(新約聖書 エペソ6:10)

主は、私たちが成長するために、またご自身の木々となさろうとして、温室には置かれません。主は嵐や困難から私たちを守られることはなさらないのです。主は私たちが厳しい嵐や困難や試みという焼け焦げるばかりの太陽の下にさらされるのです。

主は私たちのうちにご自身のご性質(永遠、不朽、永続せる神様)によるものを働かせられます。それは容易にまたほとんど運び去らされることのないものです。主はあなたのうちに実質的なものを置いてくださるのです。

ああ、私たちは心配しているのです。クリスチャンになったら楽になるのよとか素晴らしい時になるよとか、あるいは幸せになり生活をエンジョイできるのよとかという誘いが、どんなにしばしばなされているだろうかと。確かにあらゆる神様がくださる喜びを感謝しますが、このことは神の家、神の町にとって真実なのです。つまり主が主の民に向かって働き、主の民を取り込もうと働き求められるのは主御自身のご性質によるそのような実質をもつ、ゆるぎない永続的な忠実さによるということです。

中身があること!ああ、実体のあるクリスチャンにとってはしょっちゅう甘やかしたり、お世話をしたり、追いかけたりする必要はないのです。彼らを続けさせたり、立ち上がらさせようとして迎合する必要もないのです。レバノンの杉のような男女。さらには荒削りされて掘り出された石のように(運ぶのに重く骨のおれるような)、強さが目論まれているものばかりのようなクリスチャンなのです。

私ができることは、もう一度神のみことばにあるものがどんなに大きな位置を占めるかを思い起こさせることだけです。「強くありなさい。主の大能の力によって強められなさい。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」もう一度考えてください。なぜ風がそんなに激しく吹くことが許され、暴風になっているかを理解して欲しいのです。その目的は私たちがのんびりした、安手で安易でもある軽薄な生活から逃れ、実質ある人々となるためなのです。

強さ、試みを通して、困難を通して、強さは・・・古今を通じて忍耐して(身につけられる)ことです。 最後の大きな試練で運び去られていくものがたくさんあります。それですから、もし試練と困難が私たちを深め力を与える唯一の道であるなら、私たちはその時が短縮するようにもっと多くのものを期待しなければならないと思います。

(今日の箇所は Aspects of the City の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003199.htmlです。)

2011年5月24日火曜日

神は御子によって語られた!

神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(新約聖書 ヘブル1:1~2)

むかしのイスラエルの悲劇は何だったでしょうか。もちろん、むかしのイスラエルの悲劇は最終的には彼らが(神様から)退けられたことです。彼らの退けられることは「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます」(訳者注:マタイ21:43)(という聖書の言葉通り)です。そのことは起こりました!今日そうです。取り去られた天の御国、それはそのイスラエルのためでなく、別のもののためなのです!

イスラエルの悲劇は彼らが神のご計画あるいはそのご計画にある動きから退けられているということです。このことが2000年間続いてきました。どれだけの長年月か私たちにはわかりません。恐らくはそうは長くはならないでしょうが、皆さんはそっとしておくことです。

たくさんの皆さんを困惑させるつもりです。皆さんは当分の間イスラエルをそっとしておくことです。もし皆さんがこの地にこれらのことを地上的に解決しようとして降り立つなら恐ろしい混乱に巻き込まれるだけでしょう。 

そのままにしておきなさい。そして神様がしておられることを見なさい。神様は霊的なことをなさっているのです。現世的なことではありません。この「現世的なことではない」という言い方を詳細に述べるには一時間かかりますが。神様の主権に基づく働きにおいて今や天の御国を代行するあらゆる現世権力が困惑し混乱し壊されているのをご覧になっていますか。人々は新約聖書の秩序に従った地方教会を設立しようとしています。今日経験するほど地方教会に混乱を見たことは決してないのです。

彼らは様々な事柄(キリスト教運動、キリスト教機構、キリスト教組織)に着手し制定しようとしています。 しかしそれらはすべて混乱に陥り、お互いにどうすべきかわからないのです。私が誇張しているように思うかも知れませんが、私が言わんとしている意味が分かりますか。神様はキリストを霊的にあらわすためにあらゆる現世的な代行者を見ておられるのです。(※God is breathing upon every temporal representation in order to have a spiritual expression of Christ!)それが私たちが言っていることの核心であります。そしてそれがここで言っていることであります。

(かつてなぜイスラエルが退けられたか不思議に思われたことがありますか。その答えは一語に尽きます。排他主義です。「私たちは神の民である。真理は私たちに始まり、私たちに終わる。もし割礼を受けていなければ、神様とともにいかなるところへも決して行くことができない。割礼を受けていない限り救われない。諸国民は犬である(気の毒なヨナはこの考えに取り憑かれていました)私たちはあらゆる神のことばの初めであり、終わりである。あなたがたが私たちの立場に歩み寄らねばならない、さもなければ出て行くべし」親愛なる方々、もしあなたがその考えから抜け出なければ、神様の位置にいることはないでしょう。
 排他主義—神様がイスラエルを諸国民の中から取り出し、まったく別な民とし、ご自身の特別な民として選ばれた時、そのことは意図されていませんでした。神様はただ神様がどういうお方か、どんなに偉大なお方かを知らせるために彼らを諸国民の間に植民させようとなさったのです。そして(イスラエル人である)ヨナをびっくりさせ、がくぜんとさせたのは神様はつねにイスラエル以外のどの人にも恵み深くあられ、ニネベにも恵みをもってあたることができたということでした。
 だから、この排他主義が貫かれること、新約聖書において主イエス様にとっての悩みにそういうのがあるのです。ユダヤ教という排他主義が悩みであり、そういう戦場があるのです。使徒パウロの生涯の闘いがそれでした。彼はユダヤ教の排他主義というレンガの壁をハンマーで打ちたたいていたのです。そして彼の苦悩のすべてはそれが原因でした。)

この(ようにして生まれた)新しいイスラエルは、むかしのイスラエルよりははるかに偉大です。キリスト、このメシヤはメシヤというイスラエル人の構想よりはるかに偉大であるからです。私たちは新しいイスラエルのとてつもない特質を認識し、伝染病に抵抗するのと同じようにキリストに関連する排他主義に抵抗しなければなりません。

私はキリストの根本的な真理やその人となりを語っているのではありません。私はヘブル人への手紙で紹介されているこのお方の偉大さについて話しているのです。「 神は、・・・この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は御子を何々の相続者とし」何々とは排他的な集まりですか。いいえ「いっさいのもの(万物)」です。

それがパウロの初めから終わりまで書いている偉大な言葉なのです。「いっさいのもの・・・いっさいのもの・・・いっさいのもの」そして最後には「いっさいのものがキリストにあってひとつに集められること」と。もし補足が必要なら、私は決してuniversalism(普遍主義・世界主義)について語っているのではありません。私が語っているのはキリスト以外には何もないという神様の究極的な領域なのであります。(それ以外のものは全部外見上のもの、見かけのものです。その外見がどこであろうとも外見であり、内側には入れないのです。「なぜなら追い出されるのです」それが黙示録の最後の言葉です。「犬ども、(などなど)そして好んで偽りを行なう者はみな、外に追い出される」それは偽りです、だから、外に出されるのです、滅びるのです。)

(今日の箇所は But Ye are Come Unto Mount Zion - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003198.htmlです。昨日に続いて重厚な内容です。後半に昨日出て来た universalismがまた出てきました。1969年のメッセージの聞き書きだということですからスパークス氏の晩年のメッセージの一つなのでしょう。相当大幅に文章が飛んでいますので理解しがたいところがあると思いますが、ご容赦ください。少しでもご理解のためと思い、カッコ書きの部分は増し加えた部分です。なお※の部分はbreathに二つの意味があり、どちらに取るかで意味が全く異なります。私訳でこのようにしましたが、将来変更するかも知れません。それほど訳出に苦労したところです。どなたかのご教示をお願いします。)

2011年5月23日月曜日

人に惑わされないように気をつけなさい

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。(新約聖書 マタイ24:4~5)

私は多少とも長生きをし、長く宣教にあたっていたお陰でこれまで幾度も、すばらしい約束をくださる御霊の自由をいただいて、主とともに誰にも認められる形で歩み続けていた親しい神の民と出会ってきました。ところがそれから彼らが何らかのイズム(主義)に捕われてしまったのです。その結果彼らはそのイズム(主義)の教義から逃れるのが全くお手上げになるのです。何度も何度も私はそれを見てきました。悲劇です!

ここ数年間(訳者注:1967年当時のことです)アメリカやヨーロッパにまさしく忍び込んでいる大きなイズム(主義)があります。このことにあえて言及するのですが、いいでしょうか。それは「Universalism普遍主義」というものです。それがたくさんの人を捕えて来たイズムです!そして一旦その人たちがそれに達すると、あなたがちょっとやそっとでこのような人々をどこか別のところにお連れすることは出来ないのです。

けれども私は彼らがわかります。ああ、彼らには明るい将来があるからです。そしてこのことは彼らの歩む道に沿い微妙に魅力的で魅惑的なものとなってきました・・・また大変訴求力があります。誰もが、究極的には悪魔自身をふくんではいますが、名誉が保たれるのです。あなたはどうなさるおつもりですか。いや応なしに彼らは福音のまさしく核心部のかなりの部分を切り落とし・・・切り詰められることになるのです。

(私は例をあげて説明しているのであって、攻撃をしているだけではありません。私が考えていることをお示しさせていただきたいのです。)あなたはこれらのことは大間違いだと思われるかも知れませんが、それほどの間違いでない事柄があるのです。 間違ってはいないのです。実にそれらは全く正しいのです。しかしそれらはそれを採用した人々にとって、すべての始まりであり、すべての目的となっているのです。

あなたはどうすることもできません。彼らは大きな地盤、神様がこの時にあたって完全な計画をお持ちであるという地盤を喪失し、最善であっても部分的なことに過ぎないことに、はまりこむようになったのです。Judaism(ユダヤ教)のように・・・拘束され、行き詰まり、この特別な事柄のまわりをぐるぐるまわっているのです。あなたにはわかっていただけるでしょうが、このことは何世紀間にもわたって、キリストの満たしに対する敵となっている事柄でありますので、私たちにとり、ひとつの警告であるべきなのです。それはそういう性質のものです。

世にはたくさんの反キリストがいますが、あなたもおわかりのように、反キリストは尻尾を持ち、熊手を持つ偽の恐ろしい生き物ではありません。そうではなく、反キリストはキリストの位置を装うものなのです。悪魔自身は光の天使に変わり、たくさんいるのです。そして人間の生まれながらの判断や力で真偽を見分けることは出来ません。キリストと反キリストは全く似通っているように見えるのです。注ぎの油が教えてくださる以外に見分けをつけられません。

あなたが受け入れられた注ぎの油が、あなたが何か偽りあるものと接触するようになった時、もし注ぎの油が本当に支配しているなら、言葉でなく内側で「用心しなさい」と語ってくださるのです。あなたはここにははっきりしない何かがある、ここには透き通るものがない、ここには安全でいられないという感覚を持つのです。「私はこのことについて幸福を感じられないのです。このことについて私は少しも幸福に思わない、と言う以外に理由を話せないのです。・・・私のうちに『用心しなさい』と言う方がおられるのです」

私は、今日のような惑わしと誤導とあらゆるすべてがある時にあって、もっとも必要とすることは霊的な識別力だと確信しています。その識別力はこんなふうにして聖霊を知ることによるのであり、その聖霊が警告を与えることのできるお方なのです。

(今日の箇所は The Cross of Our Lord Jesus Christ - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003192.htmlです。 今日の箇所はもっとも読み応えのあるところです。残念ながら訳がそれにともなっていませんし、5章全体から飛び飛びに抜粋してあるのでこれを読んだだけではお分かり願えないのではないかと恐れています。なおこの文章はスパークス氏の1967年のメッセージの聞き書きで3章にあたるところは音声が聞き取れないと書いてあり、載せてありません。この題名のものは1章から7章にわたっており70頁内外のものです。全文是非読みたいと思いました。恐らくこのサイトには音声も載せられているのではないでしょうか。確かめていませんが・・・)

2011年5月22日日曜日

御子を宣べ伝えるのは啓示に従うのみ

異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき・・・(新約聖書 ガラテヤ1:16)

パウロの時代以来、キリスト者の活動の大変多くの部分が運動を押し進め、教えを広め、制度に関する諸関心を発展させることでありました。(しかし、本来)それは運動ではありませんし、地上に運動を確立し、追随者や信奉者や構成員、支援を獲得するためでもありません。たとえその制度を教会と呼ぼうとも、それは制度ではありません。教会はイエス・キリストの啓示から離れては、神様の考えの中に存在しません。それは神様の愛される御子であるキリストがその教会という存在によってどれだけ明らかであるか、その尺度に応じて判断されるものです。

もし、証というものが特別な教えの形態や体系化された教義を意味するならば、証ではありません。そうです。証ではありません。私たちが「証」について話す時、私たちがどんなことを意味しているのか注意を払うことにしましょう。私たちは心の中でにいくつかの真理を配列し、一定の言い回しで表現されているそのような真理で、言葉の形式を持っているので「証」について語っていると思うかも知れません。しかし、それはその意味で証ではありません。

それは宗派ではありません。宗派を超越しているのでもありません。宗派間のことでもありません。キリスト教ではありません。「働き」ではないのです。ああ、私たちはいつも「働き」について話します。たとえば「その働きはどのように続いていますか」とか。私たちは働きに身をささげ、働きに関心を持ち、働きのために出かけます。それは布教活動ではないのです。

それはキリストです!「御子を宣べ伝えさせるため」もしそのことが中心となり卓越したままであるなら、あらゆるこれらの恐ろしい、打ち壊すようなねたみも、決して出る幕がないことでしょう。今日のキリスト教界に存在するあらゆる不幸な混乱は決して起こらないでしょう。不幸な混乱は、活動自身の特別なもの、運動、布教活動、教え、証、仲間意識がキリストに取って代わってきたからです。人々はそれを押し進めるために、またその計画を立て確立するために出て行きました。そのことは悔い改められていないでしょう。それにもかかわらず、今日、キリストよりも私たちの働きだというのが本音なのです。

今や、愛する皆さん、心の内側からする啓示こそあらゆることがらの治療です。私が言うのは余りにも厳しいことでしょうか。また物事を徹底的に追求し過ぎなのでしょうか。それらのすべてが存在するのは内側に照射するキリストの適切な啓示が欠けていることを表しているのです。

(今日の箇所は The Centrality and Supremacy of Christ の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003191.htmlです。今日の箇所も随分と冒険した訳になっています。あるいは幼児さながらの訳かも知れません。練達した英語力のある方の指導を仰ぎたい思いです。なお3/28の文章は今日の文章に続く文章です。)

2011年5月21日土曜日

主を知ることができますように

昨夕、久しぶりに訪れた元荒川の土手。文教大学図書館からの帰り道。
私の定められた目的は主を知ることです(新約聖書 ピリピ3:10)

この人の書きものには彼がどれだけ主イエス様に傾倒したかをあらわしている数語があります。全体の文脈は彼が言ったように自らを「捕え」てくださったお方に対して、心からする素晴らしいほとばしるばかりの言葉です。そして彼は短い一文章の半ばにすべてを集中しています。「私が彼を知ることができるように」と。

この表明された大きな望みについて印象的なことはそれがなされた時です。ここにはその当時までのいかなる人間よりも偉大なイエス・キリストの啓示をすでに受け、知った一人の人がいます。その知識とは彼が「御子を私のうちに啓示することをよしとされた」と言って以来始まったことです。その始まりは彼を驚かせ、御霊の指示を把握しようとして荒れ地へと彼が送られたものでした(訳者注:ガラテヤ1:17参照)。

のちに彼は「第三の天にまで引き上げられ、説明できないこと、すなわち(彼が言ったことには )語ることを許されていないことを示されました」(注:2コリント12:2以下参照)これらの二つの経験をめぐり、またその間に絶えずキリストを知ることが増し加えられている跡があります。何と言っても、ここで、すなわち彼の生涯の終わり近くにあって、彼は心を込めて叫んでいるのです。「私が主を知ることができますように」と。

このことについて最も控えめに言っても、目に見えるキリストが、最も偉大な能力と理解力を持つ人にまさっているお方で、実に大変偉大なキリストであったということです。これは私たちの知っており理解している限りのキリストとは大変巨大な対照が際立っているものです。キリストには私たちがかつて見たよりもどれだけはるかに多くのものがあることでしょうか。(しかし私たちは節を分析しなければなりません。一節は主な言葉によって分けられ、4つのフレーズで言い表わすことができます。・・・

(今日の文章は An Apostle's Supreme Ambition の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003190.htmlです。)

2011年5月20日金曜日

あなたはわたしの邪魔をするものだ!

何と言う花なのだろう。いつも出入りする玄関の隙間にこんな花が咲いていた
あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(新約聖書 マタイ16:23)
 
(さて、主がここでペテロに言っておられることは、きわめて暗示的であり、私が思いますのに大変な助けになることです。「あなたは私の邪魔をするものだ」主はこの闘いをすでに戦い抜かれ、ご自身の立場をお取りになり、両足を父なる神様の主に対する御意志の道、つまり十字架を選んで御国に達する道へと踏み込んでおられたのです。それは主にとって決して容易な道ではありませんでした。ただ単に十字架につけられる、殺されるだけだったのでなく、罪とされ、神様に見捨てられるという苦しみのともなうものであります。
 その道は容易な道ではありませんでした。そしてそれに向かうためにご自身を厳しく支えねばならないものでした。もしそうしなければ、主に影響を与えようとして次々やってくるどれもがそれを解決し根気強くあたらねばならない新たな必要をもたらすものだったからです。このようにしてそのことは主にとって困難で厳しいものであり、決して助けとはならなかったという意味で、主の邪魔になったのです。
 ペテロに関して言えば、彼は自分が言っている意味を知らないで(主を)助けようとして意図されたことかも知れません。しかしその背後に主はすでに解決済みの争点、過去の闘い(訳者注:荒野での誘惑における闘いのこと)が引き起こしたものに過ぎないこと、それゆえに父なる神様の御意志を意志として進まれる主の邪魔をし、その道をもっと困難にしようと立ちふさがるものだと見抜かれたのです。)

私が思いますのに、そのことは私たちに包括的に、また神様の御意志に関連する多くのことがらの上で一つの立場が取られねばならないことを強調しているのです。私たちはそのような立場を大変明確にかつ積極的に取らねばなりません。そしてそれから時々あれやこれやの方法で敵であるサタンの努力が私たちの心を変えたり、その道を歩もうとする私たちを弱くさせたり、別の誘いをなしたり、様々な争点や利害の光の中で考え直させようとするだろうということを認識していなければなりません。

私たちはこのような反対、障害、妨害に遭遇することでしょう。しかしそれに対して極めて無情にならねばならないのです。ある意味で、主がペテロを取り扱われた方法は、無情なものでした。まさしくそれに直面しての主の態度にはいささかも弱さはなかったのです。そのことの本質を見抜かれて、主は、もし自分がその誘いに屈してしまうなら、エルサレムにも十字架へも赴けないだろうということをはっきりと知っておられたのです。

私たちがこれこれは神の御意志の道であると決着をつけたかどうかが問題です。そしてそれから、生起するあれやこれやは長い目でみて私たちが達し得ず、神様の御意志を行なえないことを意味するのでしょうか。もし、そうなら、きわめて無慈悲に扱い、その道から出て、私たちはそれを追いやらねばなりません。十字架は私たちのところに多くのつながりと様々な言い分のうちにやってくるのです。

それからもし私たちが本当に(主が)ペテロにされたように、霊的な力のところへと切り抜ける意志があるなら、敵であるサタンの取っている立場は絶えず見捨てられねばならないですし、拒絶されねばなりません。敵が私たちを破壊し、また破壊する力を与えるものは敵から奪い取られねばなりません。私たちは敵にその立場を与え、私たちに関する神様の目的を打破しようとして起こって来るどんなことに対しても無慈悲であらねばなりません。この天と陰府の力との闘い、神様とサタンとの闘いは私たち一人一人のたましいのなかで続くものです。しかし私たちにとっては慰めがあるのです。それは私たちには永遠に生きておられとりなしをしてくださるいと高き祭司(主イエス・キリスト)がおられるということです。私たちには私たちのために主イエス様が絶えずとりなしをしていてくださるという最大の強みがあるのです。

(今日の箇所は The Battleground of the Soul の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003189.htmlです。ちょっとしんどいきびしい内容ですが、マタイ16:13~25、ルカ22:31~34の聖書そのものをお読みくださるようにお勧めします。)

2011年5月19日木曜日

あなたがたの中におられるキリスト

時がついに満ちて、この時のみこころが実行に移され、・・・いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる・・・(新約聖書 エペソ1:10)

エレミヤ書のその部分(エレミヤ31:31~34)は今やキリストにあって実現を見ています。主が言われた新しい契約は全然違ったものとなるということでした。つまり主がイスラエルをエジプトから脱出させた時に、イスラエルと結ばれた契約によるのでなく、イスラエル人自身の内に、その彼らの心のうちに書き込まれたものであるということです。
私たちは主イエス様ご自身が、あらゆる契約条項を体現化したものであることを知っています。そしてその契約は主御自身の血で証印が押されているのです。「あなたがたの中におられるキリスト」とはその契約がふくむものは全部心の内側のもの、内側の力となり、神様が心の内側に啓示されるものとなっています。「キリストがあなたがたの内に住んでいる」と使徒は言いました。そして神様が啓示することを喜ばれた奥義とは「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」です。

一つの大局的かつすべてのものを体現化した真理があります。その真理はもし本当に私たちの心の完全な統率を獲得し私たちのすべての考えを支配したならば、つまり意志や感情や精神をとりこにしたらならば、本当にすべてのものを変えることでしょう。それはちょうど新しい契約が古い契約からの大転換であることを示すようなものです。

すべてのものを体現化する偉大な真理はこれです。すなわち、神様はキリストでないものは何ものも残さないと決意されており、今その目的に向かって働いておられます。それは一方ではキリストでないすべてのものをこの世界から除去するためであり、他方ではキリストであるもので全宇宙を満たすためであります。そのことは神様がキリストでないものはたとえどんなものでも受け入れられないかあるいは認められないことを意味しています。

しかし反面、キリストであるものには、ご自身のものである証拠の印を押されることを意味しています。そしてすべてはキリストの基準次第です。そのことが本当に私たちの心に力となるときとは大変なことです。その力をそのことはまさしく表しています。それは神様が私たちを扱われる一切を説明します。それは私たちの様々な問題にとっての鍵であります。それはただちに私たちが神様ご自身の目的というハイウエーに置かれることであります。

(今日の箇所は Christ in Youの抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003188.htmlです。短文ではありますが、訳はきわめて私には難しく、歯が立ちませんでした。)

2011年5月18日水曜日

主は私たち一人一人に型紙を持っておられる

このところ、庭に薔薇がそれぞれ、一斉に咲き乱れています。今日の薔薇です。
しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。(旧約聖書 イザヤ64:8)

私たちは主の御手の中にあり、悪魔の手の中にいるものではありません。私たちは主の御手のうちにあります。だから、私たちは主の御手のうちにあって、主が背後におられることをご存知である陶器師であるお方の手の中にいるのです。

先ず第一に器は陶器師のうちにあります。そしてそれからゆくゆくは陶器師が器の中にいるのです。言いたいことは、陶器師が(作業を)始める以前に器は陶器師の心の中にあり、心の中で極めて明確に描かれているということです。その器の型は外にあるものでなく、すでに陶器師の中で完成されたものなのです。そしてそれから彼は仕事に取りかかります。やり終える時、陶器師は彼が骨折った器の中にいるのです。のうちにあったものが器となったのです。

私たちは人々の働きについて言います。「私はそれを作った人を見ることができる。それは全く彼らとそっくりだ。」「 それはそのようにものを作る誰それさんとそっくりだ。」そうです、主は主の働きの中におられるのです。主は主が造られる器の中におられます。そしてそれはまさしく主がなしておられることなのです。

時にはその粘土は形をなさない固まりに押しつぶされ、ちぎられなければなりません。そのことは主が示そうとしておられる全部を示すものではありません。欠陥や割れ目があるので主はそれを押しつぶして形のないものにされるのです。ひとつの形のないかたまり。けれども再び作業が始まるや以前あったよりももっと完全なもの、すなわち主御自身がうちにおられるものになるのです。

願わくは、主が私たちに試練がどんなものであってもそれに耐える恵みを与えてくださいますように。その試練が、たとえ嵐や炎熱や酷熱のようなものかあるいは主の御手による圧搾のようなものであったとしても、それらのすべては私たちが動揺されることがないように、また地獄も揺り動かすことができないように、主の御力が敵のあらゆる力を圧倒する勝利を示すところへと連れて行ってくださるためであるからです。

(今日の箇所は Rooted and Grounded の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003187.htmlです。 この文章は前回のこの項目の文章の次に位置し、全体としては掉尾を飾る文章です。従って前の文章の訳も読んでいただけると、より文意が通ずると思います。なお今日の標題は「泉あるところⅡ」で二三日前に紹介しました友人が「ものつくり」の達人でしたが、それにちなむものになりました。彼は何よりも型紙をつくることがその作業の最初であり、それが彼の創造の喜びを支えているもののようでした。ましてやまことのいのちの与え主が私たち一人一人にそのご計画をもとに働いていてくださらないはずはありません。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された」(創世記1:27)

2011年5月17日火曜日

御霊におゆだねしましょう

御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。(新約聖書 1コリント2:15)

(救いはたましいが救われることだけではなく、そのたましいがキリストの満たしを経験するまでの道を歩き始めることです。みことばと御霊のどんな宣教もその目的に支配されているのです。だから(人が)救われるだけでいつまでもそこにとどまっているのは、みことばの目的が失敗しており、聖霊の働きが十分でないのです。私たちが「主の働き」と呼ぶ、この世のいかなるところにも出て行くことは、私たちがこのことによって支配されることを意味していなければなりません。

すなわち、できる限り、そこではキリストの満たし以下の何ものもないということであり、キリストがすべてであり、そこではすべてのうちにキリストがあるということです。それが最終の、絶対的な終着点であります。キリストとの分離も分担も一切ないのです。すべてのものであり、すべてのうちにあるキリストでなければならないのです。

私たちはそれが聖霊の目標であり目的であることをはっきり知るとき、いのちを持ち、明確化された宣教を経験します。それはすべてに妥当します。もしあなたが主のものであるなら、あなたの生活は主のことばと聖霊に支配されねばなりません。もしそうでないなら、あなたの主との関係はどこか間違っているのです。あなたの働きがたとえどんなものであろうとも(両親として家庭にあるものであっても、また家の仕事をするものであっても、商売のうちにあっても)もしあなたがそこで個人的なことに関して、主と交わりがあるなら、あなたの生活はキリストを代表するものであるにちがいありません。それが宣教です。

もし私たちが生活の全分野にそのことを持ち込むなら、事態は大変別なものとなることでしょう。それはあらゆる動機に挑戦し、あらゆる考察を支配し、あらゆる争いに解決を与えるにちがいありません。(一部訳は省略)物事はこのポイント、すなわちすべてのものであるキリストとすべてのうちにおられるキリストというものだけで試されるに違いありません。)

私たちは絶えず問わねばなりません。「このことはキリストがすべてなのだろうか、それとも私は自分のやり方を望んでいるのだろうか。私は自分の感情や意欲や好悪に支配されるのを許しているのだろうか、それともキリストがすべてであるのだろうか。私の力の範囲内のことに関してキリストがすべての中におられるか。」そのことは日々の細かい点にいたるまで支配されていなければなりません。私たちは腹を立てたりイライラする時、そこを離れ、その闘いを戦い抜いて、「主よ、あなたはこのことでもすべてでなければなりません。私の思いがどんなに影響されようとも構いません」と言わねばなりません。

そして、日々の生活と経験の細々したことからもっと広い領域にいたるまで、また主の大切なしもべであるところに至るまで、みことばと御霊に支配されなければなりません。みことばと御霊は一つの目的を持ちます。すなわちすべてのすべてであるキリスト、すべての中におられるキリストということです。

そのことを認識すれば、私たちはこのさらなることが必要だと知るのです。霊的とか霊的な人々はどんなことを意味するかを定義するのは極めてしばしば難しさを感じさせるものです。説明するよりは経験する方がもっと良いことである事柄の中の一つです。しかし差し当たりは、霊的な人とはみことばと御霊によって支配される人だと、こんなふうに、極めて簡潔にまた極めて無難かつ健全に定義され得るものです。また内外のすべてにおいてキリストがすべてであり、すべての中にあるということです。それが本当の意味で霊的ということです。

(今日の文章は Filled Unto All the Fullness of God - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003186.htmlです。訳せないところがありその文章はカットしてあります。ご了承ください。( )書きのところは4月29日のところと同じ箇所でした。自分で読んでいて前に読んだ記憶が途中からよみがえってきました。自分でいうのもおかしなものですが、その日の訳の方が生き生きしている感じです。不思議なものです。あとになったから訳が上達するというものでもないのですね。)

2011年5月16日月曜日

Christ is implanted!

このかしら(=キリスト)がもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。(新約聖書 コロサイ2:19)

信者とはどのような人ですか。神様の見地からすれば、信者はその内側にキリストが埋め込まれている人であります。そして神様は決してキリストを限定的にごらんになっておられません。神様はつねにキリストを完全な仕方でごらんになります。キリストが私たちの(霊の)いのちが誕生するおりに埋め込まれている時、それはあたかも神様がキリストを断片的な方法で埋め込まれたかのようなものではありません。神様のお考えは目的が初めと密接に関わりがあるべきであり、キリストがすべてであり、すべてのうちにキリストがあるべきだというものであったのです。

それが、なぜ改宗はそれ自身が決して目的ではないか、という理由です。改宗は神様の完全な目的に向かう最初の段階に過ぎません。それ(キリストの満たしにあるということ)が神様の見地からする信者の性質を特徴づけているものです。あなたがたはそうすることはできません。どんな決意のカードを切ったとしても実行不可能です。あなたがたは決して男性や女性にある決心をさせ、キリスト教の教義の定められた条項に知的に同意するように勧めることによって彼らをクリスチャンにすることはできません。たとえその教義が主イエスが人の子であることやその働きを述べることに関して完全に正確であったとしても、です。

その個人を構成するもの、まさしく存在の中心にふさわしく、キリストとの生きた結びつき、キリストの埋め込みがなければなりません。それ以外のいかなるものもニセの改宗であります。それが存在のまさしく中心にキリストがおられるということであり、それはまさしく外縁にまでキリストが広がっていく見方をともなうものであります。それが信者の性質であります。

あなたがたはおわかりでしょう。組織化された手段や方法によって、本当に神様のすべてであることをどれだけ伝えようとしても、哀れな絶望に終わるということです。ただ(信者の)成長が必要であります、(信者で)あることが必要であります。ああ、しかしそうであるなら、力があり、壊されず、妨害されないのです。何ものもキリストの道に立ちふさがることはできません。(しかし)それは地獄を目覚めさせ、悪魔の活力を奮起させるのです。悪魔は他のすべての教義、働き、告白を意に介しません。それは往々にして悪魔の目的に大きな策略、偽りとして仕える可能性があるのです。しかし、キリストを受け入れなさい、キリストに支配していただきなさい、キリストを認識しなさい。そうすれば、その時、あなたがたはキリストに敵対する、この全世界のあらゆる力(悪魔の力)に直面するのです。

(今日の箇所は The Essential Newness of the New Creation - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003185.htmlです。)

2011年5月15日日曜日

恐るべきは、わたしの「高ぶり」

果敢に薔薇の花弁から蜜を吸う蜂、われらもまたこのようにして生きる者だ。だが・・・
見よ。世の罪を取り除く神の小羊。(新約聖書 ヨハネ1:29)

世の罪とは何でしょうか。それは「高ぶり」です。あなたはそうは思われないかもしれません。またそのように現実に見られないかもしれません。けれども私はあなたにもう一度熟慮し、知っていただきたいのです。罪と呼ばれることはすべてこの「高ぶり」のあとを行くものでないかどうか、またこの「高ぶり」ということばこそ罪の別の表現でないかどうかということをです。

「高ぶり」の根源は何に対するものなのでしょうか。「高ぶり」とは何でしょうか。それはいのちにともなう自我です。活発に動き回る自我です。それが高ぶりの根っこにあるものであり、その枝の数々であり、実であります。どんなにそれらはあることでしょう。ねたみ、どん欲、怒り、そして残りのすべてです。怒りはどのようにして高ぶりなのでしょうか。

いいでしょうか、怒りは、もし聖くなく、純粋でなく、小羊であるイエス様の怒りのように血の流される聖い怒りでなく、自分自身や自分の利害によって動かされる怒りであるなら、自我の怒りであります。だから私たちの怒りはしばしば私たちの自己防衛であり、私たちの利害や関心が脅かされることに対する反応であります。反逆、強情、偏見、そして私たちの恐怖の大部分は全部「高ぶり」のあとに続くものです。私たちは何を心配しますか。また何に恐れるのですか。もし私たちがその恐れを調べたのであったら、なぜ怖がるのですか。

もし私たちが完全に個人的な関心から引き離されているなら、すなわち、もし私たちが完全に主に明け渡し、自分自身の考えから自由にされているなら、私たちの恐れの多くはなくなるのではないでしょうか。(だから、そうでもないと、)私たちはその状態を続けるのかもしれません。けれども私たちは人間の性質や高ぶりについて大がかりに分析することにふけりたくないのです。私たちがこれまで高ぶりは根であり、その根に続く数えきれない実があることを示して来たことで十分説明したことになります。※

だから、願わくは、これが、なぜ主がこれまで一方では私たちが自己充足に関して何も残るものがないまでに、この悪事(高ぶり)を克服し、壊し、空にし、粉々に砕かれ、他方では主御自身を与え、増すようにしてくださったか、また今もしていてくださっているのかということに関する説明のことばでありますように。今やこれはことばではなく、恐らく素晴らしい霊感からくるものでしょうし、大変重要なことばであると私は感じています。

これは個人として私たちの真実であるに違いありません。また共同しての謙遜でもあるに違いありません。これが主がご自身をゆだねられる方法であります。主は私たちに私たちの肉の性質を養うようなものや、生まれながらのいのちを充実させ強化するようなものは何もお与えになりません。主は私たちをそれ(高ぶり)が影響するところで、私たちを守るやり方で支えてくださることでしょう。このように聖書を見るとき、どんなに素晴らしく聖書は生きたものとなることでしょうか。

(今日の箇所は Pride and Its Undoing の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003184.htmlです。やはり訳のおかしなところが随所にあると思いますので、ご自身で点検されますように。なお※のところは次の文章までの間に大切な一頁余にわたる「高ぶり」に関連する聖書のみことばとその話が続きます。デボーションサイトの原文ではカットされているところで訳しませんでしたが、大切なところです。原文をお読みなさることをお勧め致します。取りあえずみことばだけでもと思い、それを記しておきます。箴言16:5、詩篇138:6、イザヤ14:13,14、イザヤ57:15、詩篇25:9、イザヤ66:2、マタイ5:5、民数記12:3、ピリピ2:5、ピリピ2:9)

2011年5月14日土曜日

「時」ということ

いつも係留されている舟、いまだにこの舟が川面を走るのを見た時はない!
神様は時が満ちるにおよんで、ご自分の御子をお遣わしになりました。(新約聖書 ガラテヤ4:4)

時が満ちる時がやってきました。私たちがアブラハムの場合にその信仰がどのように神様の時との関連でもたらされたかを知るのは難しいことではありません。アブラハムにとって時の要素はまさに身に迫ったものでありました。恐らく、彼の信仰にとってもっとも鋭く深刻な要因の一つであったことでしょう。

何度も何度も私たちは神様がふさわしい時を選ばれることに関して、アブラハムの信仰の試みをおりあるごとに思い出します。実に一つの観点から私たちは彼の生活全般を要約し、最後にはその特別な要因ゆえに信仰の勝利に向かったと言うかもしれません。(しかし)完全な神様の感覚からすれば、彼は決して生涯、神様の約束を受け入れなかったのです。生涯の終わりに彼は依然としてその約束の実現を見ていなかったのでした。

もし彼の信仰が退いたとしたら、彼は自然に次のような態度を取ったことでしょう。つまり事は随分長期にわたり、彼の生涯において実現されなかったので、そのことが彼の側では恐らく重大な誤り、間違った期待、何かの導きの間違い、などなどと映ったはずです。

しかし、まさしくその終わりに臨んで、ヘブル人への手紙が実際的な立場をあらわすものとして受け取られるなら、彼はそれでも信じていたのです。アブラハムはそれゆえに神様は目的を実現する時を備えておられると信じたのです。そして彼自身の生涯において、たとえその時が来なくっても、その時は必ず来るのだと信じたのです。

しかし彼の生涯の間、神様の目的の全領域の範囲内で時の要因を試す例がありました。そしてその要因に基づいてテストされて神様の約束は実現されたのであります。(それが私たちがつかみたい原則であります。私たちはその際立った例示を、恐らくイサクの約束とのつながりで持つことでしょう。その約束が実現されるまでには少なくとも15年がかかったように見えるのです。)

(今日の文章は Waiting God’s Time の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003183.htmlです。)

2011年5月13日金曜日

天に属する民

天を向く 山帽子雨 も光も 上から受ける 術(すべ)心得て
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけです。(新約聖書 マタイ23:9)

恐らくは、あなたも私もまた主の民も、いずこにあっても、終わりの時に何よりも知っていなければならないことの一つは私たちが天に属するものであるという事実でありましょう。あらゆることにおいて試されることでしょう。しかし、その試みは目的を治めているのは始めにあるという法(のり)によって、すべてが主の御名を必要とするものであります。

始めから、主の民は天国の民であり、キリストによって天にある彼らのためにはすべてが備えられており、天にあるキリストから引き出されるものでした。すべての彼らの支配、道筋、力はキリストから生じ、天にあるのと同じように、キリストのうちにありました。主は戻って来られ、再三再四その始めによってすべてのものを試され、終わりには、その試みは非常に厳しく適用されるのです。私たちはことがらのうわべの形を見ている者です。それらは地上のものであり、人が造り、人が組み立てたものであり、霊的なものの模造品か代用品であって、まさしくその根本において壊れ、ふるわれるものであります。私たちの働きである組織は壊されるものであります。国家においてもその枠組みは破壊されることでしょう。ただひとつ残されるものは主の民に他なりませんが、彼らもまた恐らく散らされることでしょう。

その時、この中でどれだけが地上にあってキリスト(のもの)であるかが試されることでしょう。もし、頼るものが、秩序や教会や機構であり、さらにはそれが集会や修養会であっても、その多くのものがそれ自身がキリスト者生活を支えるもののように見えるものだったとすれば、それらが消え去り、壊される時、疑問がわきあがってくることでしょう。ここにキリストのどれだけが存在するのか、またキリストの基準は何であり、天におられるキリストとはどんな人なのか、と。

あなたがたは、かつてそれがどれほど弟子にとっての危機であったかを知っています。弟子たちは三年間主とともにありましたが、表面的な分離(にもかかわらず)、依存、感覚的な生身の体にあるつながりがありました。日々の生活の中で彼らは幾分かは大言壮語を言うこともできましたし、大きな罪の告白や信仰の告白をすることができました。また主については主がどなたであるか、主について自分たちがどう思っているか、何を信じているか、自分たちは主に何をしたいかを公然と言うことができました。

その時に、主が彼らから取り去られたのです。一体何が残されましたか。(もはや)キリストはおられません。いのちはありません。生きる目的がありません、すべてのものがなくなったのです。感覚的ないのちが消え失せ、外面的な秩序が終わり、何ものも残されなかった時、彼らは絶望し、その信仰は失せ散じました。

今日もそのことは大いに考えられます。私たちに破滅がやって来る、もはや主のために何をすることもできず、みことばを読むことも祈ることさえできなくなります。そして、通常の祈祷課題もこなすことができず、もはや主の民と会うこともできなくなると、やっとどれだけ多くのものがあるか知るのです。主の民のほとんどは、今やそこにさしかかっているのです。(地上の大きな広がりを越えて神の民は動かされ、散らされ、表面的なあらゆるものを剥奪されるのです。

問題は、なぜ主はそれを許されるのか、であります。主が賢明なお方であり、力があり、恵み深いお方であるなら、なぜそうなさるのか、であります。それは、どれだけ天上のキリストが神の民にとって大きいものであるか、そして地上の物事の秩序に、キリスト者の秩序においてさえ、どれだけ多く依存して来たかを悟るためであります。


「初めからあったもの・・・小さい者たちよ。今は終わりの時です。・・・神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」皆さんはこのつながりを理解していますか。もし終わりに、最後の時に、それが初めからあったもののようであるなら、いつまでも続くでしょう。けれどももしそうでなかったら、それは消えるでしょう。この主との天的な関係についての全体的な問いは大変大きな事実を探るものであります。その事実とはキリストがあらゆるものを天に移すということ、及び、主との天的な結びつきの中にあるいのち以外はいかなるいのちも、どんな時にも試みに立ちおおせることはできないということです。

私たちは主に対して、主が、もし本当にそれが真実であるなら、これを取り、私たちを探ってくださるようにと求めたいです。私たちの幾人かは満足することでしょう。なぜなら、私たちはこのことは正確には主が私たちを取り扱っておられることだと知るからです。なぜ孤独があるのですか。なぜ試みがあるのですか。なぜ霊的な生活に寂しさがあるのですか。私たちを事がらから、キリスト者の事がらでさえ、そこから救出して、主御自身のもとへ行かせるためであります。その結果、キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるという神様の目的が叶えられるためであります。事ではありません。キリストです。キリスト教ではありません。キリストです。キリスト者の働きではありません。キリストであります。)

(該当箇所http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003182.htmlよりやや長目に訳しましたが、この文章はまさしく That Which Was From The Beginning - Chapter 1 の第1章の末尾にあたる文章です。)

2011年5月12日木曜日

主が与えられる訓練

古利根川に架線する東武野田線の鉄橋下にたむろする鴨
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者となります。(新約聖書 ヤコブ1:4)

私たちは、神様の導きに対して二つのうち一つを選ぶことができます。苦く、不愉快で厳しいものか、それとも訓練によって大きくされ、成長させられるか(のどちらか)です。それは許容量が大きくなり、将来ずっと神様の主権の下に支配される道具となるようにと、広いところへ連れて行かれることに関することであります。

私たちの歴史に起こる出来事はいつも推測できないものです。けれども私たちの説明できることがたとえ第二原因であろうとも、主が支配権を持っておられるということです。そして主は、時々世にもっとも恐ろしいことを惹起させ私たちを当分の間は圧倒することを許す値打ちがあると考えられるのです。そのことで主の御名と利害が苦しむように見えるのに対して、主は主の民をそれを通して成熟の場所へと連れて行かれるのです。彼らは自分たちのための主を知るようになります。

このような恐ろしい事柄を通して、私たちは主が主の子どもたちの人生において主御自身というはるかに価値あるものを生み出しておられるということを知るのです。これが主の正しさであり、主の正当性が主張されるゆえんです。主は何か別の方法でことをなすことができたら、主はそうなさります。 長い目で見て、主は主の民の間で霊的な成熟をはかられるのです。主は彼らを自分を知るところにまで連れて行かれるのです。

主は私たちが主を知るところ、すなわち、知るためには訓練されねばならないという感覚を持つところにまでに達することを望まれるのです。 主は私たちに恵みを与え、私たちが主の偉大な目的という光のうちにあってすべてことが処理されることを受け入れるようにしてくださるのです。

(文章は Maturity - The Lord’s Desire For His People の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003181.htmlです。短文ではありますが、結論部分にあたる末尾にあたるところです。訳は再検討の余地があるものです。)

2011年5月11日水曜日

わたしから学びなさい

薔薇の花 満面に笑み 人に寄せ ただひたすらに 犠牲となりし
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(新約聖書 マタイ11:29)


キリスト者の最大の仕事はキリストを学ぶことにあります。このことは単なる学びが主題ではないのです。皆さんにお尋ねしたいです。あなたの人生の最大の願いは何ですか。私の願いと同じものでしょうか。私の心にある最大の願いは(長く生きれば生きるほどその願いが強く強くなっているのですが)主イエス様を理解することです。


私には主イエス様についてわからないことが余りにも沢山あるのです。私はいつも主イエス様についてどのように扱っていいか分からないことに反する思いが出て来るのです。それらは決して知的な問題ではなく、霊的なことなんです。心の問題なのです。なぜ主イエス様はおっしゃり、確かなことをなさったのですか。なぜ、主はご自身と同じように私を扱われるのですか。主はつねに私には余りにも深すぎるのです。だから私は主を深く知りたいのです。人生にとって最も大切なことは主イエス様を理解することです。


いかがでしょうか。私たちは地上にいますが、主は私たちにご自身を少しでももっとよく理解させようとなさっているのです。ことばの材質は新しくはならないでしょう。昔からよく知られている聖句でしょう。おそらく私たちはヨハネによる福音書を大変よく知っていると思っているでしょう。 でも、皆さんはそうかもしれませんが、私は知っていないのです。私は、この福音には私が知っているどんなことよりももっと深い真理と価値がふくまれていることを日々発見しているのです。


弟子であることの一つの仕事は、主を知ること、さらに、主が弟子たちにするように求めておられることをなすことです。「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」(マタイ11:29)イエス様は天にある知恵をご自身の者である人に教えるために来られたのです。私たちは人の子であるイエス様によって天にある知恵を知るのです。それは単に主が言われることにとどまりません。主がわたしは何々であると言われるご存在そのものであります。真の教師であるどんな人も多くを語る人ではありません。その人が語る時、その人自身について何かを与える人であります。

(今日の箇所は Discipleship In The School Of Christ - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003180.htmlです。 )

2011年5月10日火曜日

十字架による三つの分岐点

矢車草
あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。(新約聖書 コロサイ2:10)

十字架は完全で最終的な原理です。たとえ十字架が多くの側面を持つとしてもです。十字架が完全で最終的な原理なのです。完全で最終的である十字架は聖書の始めにふさわしいものであったことを見ましょう。

十字架は原理として最初から絶対的なものでした。あなたがたと私が自分たちの生活を十字架の日のこの時に戻し、十字架にある神様の満たしを経験する限りにおいて、私たちはこれ以上もはやありえないという程度までこの漸進的な発展と満たしのいのちを知るようになるのです。

十字架は大きな分かれ目です。十字架は人々を三つの種類に分けます。先ずはいのちを決して得ない人と、いのちを得る人とに大きく分ちます。男性であろうと女性であろうと、とにかくいのちを得ることは、主の十字架を受け入れることに完全にかかっているのです。しかし、さらに分離があります。いのちを得る人と、いのちの満たしに進む人とが分たれるのです。そこには極めてはっきりとした分離があるのです。あなたが理論を好もうが好まなかろうが、それは事実なのです。

いのちの道にある多くのクリスチャンがいます。すなわちその人たちはいのちの道にすでに入ったのですが、いのちの満たしにまで進まない方々です。それが新約聖書がまことに必要としていることです。(新約聖書は)いのちに入った人々がいのちの満たしにまで進むことをさせようとしているのです。十字架はこのような人々をも分つのです。なぜなら、私たちが十字架によっていのちの道にやって来るのに対して、十字架によってはじめていのちの満たしにも入れるからです。そしてそれがもう一つの事柄—より完全に、より深く十字架を自らに適用することであります。

だから十字架は三つの種類の人、すなわち主のいのちを持たない人、主のいのちを持っている人、持つだけでなく、主のいのちに満たされるまで進んでいく人の三種類に分つのです。

(今日の文章は The Cross and the Way of Life - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003179.htmlです。「十字架といのちの道」と訳すのでしょうか、この主題での記事は過去、1/1、1/7「自我、このやっかいなもの」、3/3「主に仕えるとは?モーセの場合」、3/30「十字架の原則」、4/2「自我が砕かれること」とこれまで5回登場しています。しかも前後矛盾もいいところですが、principleを3/30では「原則」と訳しておきながら、今回は堂々と「原理」と訳しています。3/30を比較のために読まれると、より「十字架の原則・原理」でスパークス氏が何を言いたかったかが、理解していただけるのでないでしょうか。)

2011年5月9日月曜日

ヘブル人への手紙の概要とは

一羽の雀と十一羽の鳩。ちょっとした珍しい組み合わせですね。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(新約聖書 ヘブル4:12)

この手紙を通して正しく表現されている神様の考えの全体は霊的な満たしにあります。キリスト教をふくめていかなる宗教にあっても、たましいと霊、感覚的なことと霊的なこととが混在し混同していて、それは過去ユダヤ教とクリスチャンが対立し、今では組織化されたキリスト教が行なっているように、ユダヤ教の運命に支配されているのです。もし、私たちがキリスト教を築き上げるために人々のたましいの豊かさを当てにするなら、「あらゆることが神様から出ている」ことを認識せず、すなわちすべてのことが先ず神様から生じ、霊的な人とのつながり、つまり新しく生まれ変わった人が神様の器や運び手となることを重視しないなら、—たとえ私たちの組織がどんなに巨大なものであったとしても、大きな「揺さぶり」が来る時、(耐えられず)倒壊してゆきます。

キリスト教は今や多くのユダヤ教の特徴を備え、まさしく築き上げられるものであります。すなわち、外形的な秩序、形態、式服、称号、建物、それに真理の修得について厳密に固定された枠組みがあります。そのことは、天的な観点で見るなら、全くナンセンスであり、児戯ですらあります。それがたとえ神様の子どもによって大変重要視されていても、です。この手紙は神様がこの世から連れ出し、ご自分のものとしてくださり、それゆえ御国の一員であると長い間確信している人々に宛てられたものであります。

手紙はキリストの光によってその人たちの性質や歴史を説明しようとします。またその手紙が示すところによりますと、そのような人々でさえ地的なこと、この世的なことと分離し、そうしたために「屈服」させられたのですし、クリスチャンでさえ、もし彼らの父祖たちがユダヤ教においてなしたことをキリスト教で繰り返すなら再び転覆させられることでしょう。ここには解説されている類型にはるかにまさるものがあります。その解説は罪と裁きからの救いに関して受け入れられるものです。それは根本的で避けることのできない天的な関係であり、宗教的な感覚においてさえ生まれながらのいのちと内面的に切り離された主の民のいのちです。

(今日の箇所は “God Hath Spoken” - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003178.htmlです。後半の部分は訳出が困難で、意味が不明瞭です。この文章も「神語りたもうた」と題する末尾の文章で、結論部分になっています。それゆえ訳は全体を見て、おさめるべきなのでしょうね。)

2011年5月8日日曜日

変わることがないと言われるお方

いつの間にか日没が遅くなり、季節の変化を覚える。東京に出て、帰っての古利根川。
主であるわたしは変わることがない。(旧約聖書 マラキ3:6)

              罪人を脱出させるキリスト
みじめな人の叫びを聞いてください。「私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっています」その上がり下りの生活にあって、解決を求め、失敗し、あげくの果てに叫びます。「ああ、私はほんとうにみじめな人間です。だれが私を救い出してくれるのでしょうか。・・・私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」
みじめな人にどんな道がありますか。キリストに捕えられることです。その人が闘い、解決し、努力することではありません。それは、今日はよりよくなろうと決心するのですが、元に戻り、その日の終わりには後悔しなければならないというものです。決して決してそんなものではありません。それはキリストに堅く信頼し、その道から出て積極的な勝利の地に降り立つことです。あなたはその方法に組するのです。
神様が御子に栄誉を与えられます。そして私たちの御子にある信頼をほめあげてくださいます。「死んで。そうです、それだけでなく、再びよみがえられるのが、キリストです。」勝利あるお方。「あなたのうちにおられるキリスト」「・・・すべての支配と権力のかしら」これがまだ救われていない人にとって、必要な事実です。
もし私たちがこの(キリストの)強さへと心が変えられるなら、私たちは始めからより強められた信者となったことでしょう。もし私たちが最初救われた時、このことを知ってさえいたら、そのあとずっと喜び踊る者となったことでしょう。ああ、この上ない救いの説教がなされますように!あなたが子孫に完全にキリストのこの働きを伝える時、完全に異なった改宗を得るのです。あなたの罪が赦され、天の御国にまで行くこと、決して地獄でないことが伝えられるだけでなく、—恐らくそれよりはもう少し、いやそれよりはるかに大切なことなのです。それは、もし私たちがキリストの働きの完全さを伝えさえすれば、大多数の人がなしているよりもはるかにすみやかに(キリストにある)成人へと前進し到達する改宗者を得ることになるということです。(略)
                 説教者はこのことを知らなければならぬ
それが信者にとって必要なことです。私はそれが働き人にとって、魂を扱わなければならない福音の説教者にとって必要だと言いたいです。もしあなたがこのことを伝えるなら、もちろん、あなたはありきたりの説教者とはならないでしょう。あなたは今までよりも地獄があなたに敵対して出て来ること、主の民の中で多くの人があなたに敵対する者に変わることを知るでしょう。しかしそれは必要なことなのです。
異教徒の場合を取り上げます。異教徒にあって私たちが経験することは明白でさえあっても、同じことが文化の開けた人々の場合にあってはそんなに明白ではなく、文明や多くのキリスト教的伝統で覆いつくされてしまうのです。しかし異教徒の場合には極めて明白なのです。何が異教の信仰の持ち主の多くの方にとって問題になるのでしょうか。彼らはこれまでのところ、罪からの赦し、救い、主イエス様を信ずることにおいて関心を示しますが、ああ、霊の世界、悪霊、暗闇の権力に追いかけられる恐怖を体験するのです。
そのことが続き、非常にしばしば、それが彼らを引きずり下ろし、もとの拘束へと引き戻すのです。それはその恐怖や父祖たちの伝統を壊すことの恐怖や霊の力がもたらす恐怖のためです。その恐怖が彼らに起こり、彼らを征服し、彼らは再び恐怖の虜となり、主の道を離れ元に戻るようになるのです。
しかし、もし、私たちが彼らに聖霊の力にあって「暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださる」主の宣言を最初にもたらすことができさえするならば、異なる結果を見るのです。そのことを彼らに受け取らせてください。愛する皆さん。同じことは異教徒の国においてと同じようにこの国のここにも定着しているのですが、私が先ほど申し上げましたように、それは隠されているのです。

暗闇の権力は異教徒の間にあるのと同様にここにおいてもまさしく生き生きと働いています。同様の福音が必要なのです。あなたはキリストがカルバリの丘で人の背後に働く霊の力に抗して働かれた様を心に銘記するにいたるまでは、完全な救いがなしとげられなかったということに気づくことでしょう。私たち信ずる者は主の敵が再び私たちを恐怖のとりこにさせようとしていることを知っています。暗闇の権力は私たちにとってまことに現実的なものであります。

私たちにはその経験がありますが、もし私たちが降伏したら、私たちの終わりとなることでしょう。主は私たちが暗闇の権力と衝突するようにされます。もし私たちがそれに対して降伏し、それを受け入れるなら、私たちは打ち負かされます。もし、私たちが主のものであるなら、キリストがうちにおられ、キリストは卓越しておられるのです。たとえ私たちが何も感じなかったり、非常に悪い感情を持っても、続けなければなりません。最後だと思われるような時も、私たちは言う必要があります。私たちはそれは神様が(してくださる)事実だからそのように言い、神様が(してくださるという)事実を確信し始める時、私たちは勝利するのです。

信ずる者は、敵が自分たちを暗闇の権力の軍門にくだらさせようとしていることを知っています。神様の真理に立ちなさい。神様は私たちの感情も、思想も変えられません。 この私たちのものであるいのちのすべては変化に支配され、天候の変化よりもすばやく変化するのですが、主はそのなかにあって変わらざる方として治められるのです。主イエス・キリストは「きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

だから、もし主が私たちのうちにおられるなら、主はとどまるために来られたのです。そして、勝利は信仰(そのことを信じ、立ち、維持すること)のうちにあります。私たちはその究極的で完全な決着をもたらさねばなりません。主は全ての主であります。「すべての支配と権威のかしらです」サタンは時々自分が支配者の位置に、また卓越した者であることを私たちに信じさせようとします。しかしカルバリの丘以来彼は立てず、私たちが(動揺することなく)立つのです。

(今日の文章は The Centrality and Supremacy of the Lord Jesus Christ - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003177.htmlです。この文章は35頁にわたる文章の末尾の文章です。そのため理解しづらいと思い、その前の文章も思い切って訳出しましたが、かえって煩わしさばかりが目立つようになりました。また訳も必ずしも適切ではありませんので、いつものように原文を確かめていただくように切望します。なお全文は見出しで示せば、第1章「主イエス・キリストの中心性と卓越性」、第2章「一人一人の信者にとっての主イエス・キリストの中心性と卓越性」、第3章「キリストのからだである教会にとってのキリストの中心性と卓越性」、第4章「すべての支配と権力のかしらであるキリストの中心性と卓越性」となり、なかなか大切な内容の文章となっています。)

2011年5月7日土曜日

万物は御子にあって造られた!

草原を 餌求めたる セキレイの つがいと歩む われ神ともに
人にはできないことが、神にはできるのです。(新約聖書 ルカ18:27)

万事はこの一事(簡単そうに見えるかもしれませんが)にかかっています。それはもしキリストが今おられるなら(そのことは神様がおられるということ以外の何事をも意味していないことですが)いかなることもいかなる瞬間にも可能であるということです。あなたはいつか事態が改善することを待ちこがれているのですか。しかしそれは時間の問題ではありません。イエス様のせいなのです。主は言われます。「わたしは時です。瞬間、瞬間、永遠です。あなたは時に関してどんなことも心配する必要はありません。あなたはわたしを受け入れなさい。そうすればあなたは朝にはほとんど死んでいても、その日が過ぎるまでには生きているでしょう」

「わたしは、よみがえりです。いのちです。」マリヤは言いました。「私は終わりの日に主がよみがえることを知っています」というのは、マリヤの言った「よみがえり」は時のことだったのです。※ ああ、そうではないのです。復活はまさしく(主が言われた)その時だったのです。(主がパンのかたまりを取られた時、私が思っているのと同じことを賛美歌が言っています。「主はパンのかたまりを取られた。時は春だった。主が砕かれた時、秋だった」)ひとかたまりのパンを砕くのに時を要するのと同じくらい、あなたは種まきから収穫まで時を過ごすのです。「あなたがたは刈り入れ時が来るまでに、まだ四ヶ月あると言っていませんか」(ヨハネ4:35)「わたしはここにいます。わたしがここにいる時はどんな瞬間も収穫の時になるのです」それは時の問題、環境の問題ではないのです。

私たちは神様と関わっています。そして神様は私たちの人間生活で知られているいかなるものにも全然拘束されないのです。主がおられるいかなる瞬間にも永遠が住まうのです。万物は主がおられるどの瞬間とも切っても切れない関係にあるのです。

あの百人隊長は申しました。「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべはなおりますから」「あなたに来ていただく必要はありません。距離も時間も問題ではありません。ただおことばをお聞かせください。必ずそうなりますから。」主は言われた「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません」

おことばが発せられました。そしてそのことが起こった時を調べてみると、主が話されたまさしくその時に同時に実現していることが分かったのです。主は万物をご自身の手に握っておられます。そしてこの方が「わたしの時は・・・」とおっしゃるのです。だから、時が来るとき、遅延は一切ないのです。

ああ、私たちはそのことをもっと知り、確信して生き、状況に降伏してはなりません。決して人間的な見地から避け得ないものとして諦めてはならないのであります。むしろ、こう言うべきです。「私たちには主がおられます。主は私たちの将来です。主は私たちの環境そのもののお方であります」と。いかなるものも現存する主といかなる時も行をともにしているのです。

(今日の箇所は Knowing God in Christ - Chapter 9 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003145.htmlですが、9章の末尾にあたる文章です。スパークス氏が9章で表そうとされていることは集会の性質と秩序にはどうしても主のよみがえりの位置に各人が立ち、それゆえによみがえりの価値をそれぞれが経験するのだということです。そしてそれは集会の中で経験しうるものだということです。さらに後半では霊的であることが神秘的であることと全く異なるものであることをキチンと説明されます。それにしても繰り返される次の言葉は極めて印象的であります。We need a resurrection position unto resurrection values. 主はよみがえられて40日間弟子たちに語られたことはこのことでなかったかと語られています。※これらはマリヤの言葉とされていますが、マルタのことばのように思います。有名なヨハネ11:24を指すのだとしたらですが、あと一点細部において、すなわち福音書のマルタの言葉によれば、よみがえりの対象は彼女の兄弟ラザロを指しているので、私には文中のスパークス氏の表現とは直接は異なるように思うのですが、私の浅見のせいかもしれません。読者のなかで私の誤謬を指摘してくださるとありがたいです。)

2011年5月6日金曜日

私の罪の物差し

「立てば芍薬、座れば牡丹」のしゃくやく。こんな見事な花が近所のお庭にあった。
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。—主の御告げ。— 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(旧約聖書 イザヤ55:8~9)

神様のものごとに関する思いは私たちの思いと全く異なります。私たちは神様が決して許さない、認めないであろうことを、よく許したり認めたりします。神様は事態に関して完全に違う観点を持っておられます。私たちが物事をあるやり方で裁くのに対して神様は別のやり方で裁かれます。私たちが神様の立っておられるところまで来ることが必要です。

ああ、私たちはよく言ったものです。あれこれの事柄には何の害も加えるものはない。ああそこには悪いものは何もない。あれこれ見渡して、私たちは自分の基準を採用します。そして恐らくはそれは他の人々からの基準でもあるでしょう。私たちは人々がそうするのを知っています。神の働きをする何人かの傑出した人々を取り上げて見なさい。彼らの生活は確かなものでした。模範として、また倣うべきものとして、だから採用されてきました。ああ、そこには害を加えるものはありません。あれこれをご覧なさい、と。ところが私はまさしくその理由ゆえに破滅させられた多くの生活や宣教の例を見て来たのです。

問題はこうです。主はそれについて何と言われるのか、ということです。神様はおっしゃいます。わたしの前を歩みなさい! いかなる人の模範も、いかなる人の基準の前も歩んではなりません。「その中に害を加えるものはありません。しかじかの人がそうします。それが全く常識です」いいえ、そうではないのです。「わたしの前を歩め」と主はおっしゃるのです。私たちはこのことを霊において、内なる人において理解しなければなりません。それは最上の道徳水準よりもさらに深いのです。

さもなければ聖書にある存在には全然問題点がないことになります。もし私たちの道徳水準が神様が満足されるところにまで達し得るならば、なぜ私たちはそんなに扱われ、再構成されねばならないのですか。それは私たちの知性よりも、また理性よりもさらに深いのです。あなたは知性や理性によって神様の水準に達することは出来ないのです。全然出来ないのです。ああ、あなたはいかなる理性の力によっても神様の水準に必ず達しうるのだと思わないでください。あなたは決して達することができないでしょう。

ここにいたるのは聖霊の啓示によるだけです。キリストは御霊によって私たちの心に現われねばならないのです。イエス様がおっしゃることに何の問題もありません。「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」もし私たちが自分の知力でそこに達することができるなら、と言われるのですか、でもそれは全然無理です。それは私たちの心のうち、すなわち内なるところにキリストの啓示が及ばなければならないからです。これが霊的な事柄であります。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」すなわち霊とまことは一緒に手を携えるものなのです。霊的であること、すなわち神からのものだけが真理(まこと)であります。そうです!それだけが真理なのです。

(今日の箇所は Truth in the Inward Parts の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003176.htmlです。第二パラグラフの訳が自信がありません。気をつけてお読みください。さて、ここに書かれていることは全文を読まない方には、やや観念的に聞こえるかもしれません。しかし聖書記事の中でもっとも大切なことが書かれているのだと私は思います。たとえば、私の「罪」の物差しは人間の基準、自分自身を弁解する基準に他なりませんでした。それは主の光のなかに出る時、そうでないことがわかったのです。主の光とは聖書の言葉です。ダビデ王のバテ・シェバ事件はその顛末がいずれも聖書に描かれていますが、そのダビデ王自身の罪の悔い改めは今日の記事の根底にあるものであります。関心のある方は詩篇51篇をお読みください。前回記事4/21「Thou desirest truth in the inward parts」は今日の箇所と同じ文章の抜粋です。)

2011年5月5日木曜日

Boundless Heavenly Resources

三日連続で薔薇になりました。なお昨日のは薔薇は薔薇でも「はまなす」でした。
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(新約聖書 ヨハネ1:16)

私たちは自らの生活や奉仕(宣教、天からの召しである仕事)において、キリストとの結びつきの中で、天から無尽蔵でかつ枯渇することのない豊かさを経験するのです。これが強さの最大の秘訣であります。

この豊かさは、キリストが人の子としてお取りになったのと同じ位置に私たちがいるなら生ずるすばらしであり、とてつもない強さの源であります。その位置こそ限りなく天から豊かさが与えられるところであることを私たちは知っています。私が考えますのに、私たちはそのような地点に漸進的にして初めて達するのであり、決して一時に達するのではありません。私たちが訓練の道を歩むことによって初めてそのところまで来ることが出来るのです。その訓練とは私たちが完全に依存するという形を取るものであります。まだ訓練自身の目的である空になることも壊すこともなく、神様の恵みがともなっているのですが、その神様の恵みとは私たちが空になりさえすればキリストの豊かさがふんだんに注がれるものであるのです。

消極面はもちろんのこと積極面があります。神様は究極的な目的であるお方として消極的な事柄の信者ではありません。けれども神様が壊し、空っぽにされるのは積極面で何かをなさるのです。その積極面はたえず私たちを驚かしますが、私たちはいつも次のように言わねばならないのです。「そうだ、あれは主だったのだ。自分たち自身のせいでなかったのだ」と。私たちは漸進的にその訓練の道をたどってくるのであり、あらゆる人の力よりはるかにまさる天からの豊かさが備えられていること、そしてこれらの豊かさこそ最も適切なものであると知るのです。

これが霊性を構成するものです。すなわちこれが生活や奉仕を霊的にするのです。天から豊かさを引き出し、天から出た者としてそのいのちを生きるのです。それが霊的であることです。霊的ないのちと霊的な歩みにより成り立っているのです。その豊かさは自身からもこの世からも引き出されません。全部上から引き出されるのです。その支配は地上の人間や世からのものではありません。上からのものであります。万事は上から完全に来るものであり、全く人からのものではありません。したがって結果としてその生活と働きは霊的なものになるのです。

( 今日の文章http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003175.htmlはたまたま以前訳したものと同じ箇所になっていましたが、それを無視して再訳しました。以前の箇所は2/18「無尽蔵な天の祝福をくださる父なる神様」となっています。文章全体は Boundless Heavenly Resources です。)

2011年5月4日水曜日

バランスよく知る主の恵み

昨日は白い薔薇、今日は赤い薔薇に一点集中しました。これもバランス?
あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み(新約聖書 コロサイ1:27)

私たちは天におられるキリストと信者のうちに住んでおられるキリスト、すなわち客観的であることと主観的であることとに関してはことばで説明することは難しいと感じております。私たちが適切な真理のバランスを保つ必要があるのは極めて重要なことです。私たちの悩みの大変多くのものは真理のある面におけるバランスを失した強調にあるからです。真理を知ることは良いことであり、真理を喜ぶことも良いのですが、真理が私たちを悩ませる可能性もまぎれなくあるのです。真理、もっと言えば霊的な真理に向かうところに多くの危険性が横たわっています。そしてこれらの危険性に落ちこんでしまった主の民が少なからずいます。それは彼らが光が乏しいことのゆえに悩んでいるのではなく、彼らの光が適切に整序されバランスが保たれなかったことのゆえに大変な悩みの中にあるということです。

このようなわけで私たちが正しい見方や関係を通して事態をつかむことが大変必要になります。どちらかの方を優先することは必ず霊的な損害、ひいてはきわめてしばしば破滅にまでつながることになります。主によって引き上げられ用いられた多くの道具である人々の歴史は結果として力と効率をなくした悲しい物語であります。その原因はバランスを失した強調に悩まされ、ある真理がそれを補完するものとの関係からはみ出たところに置かれたことによるものであります。

もし私たちが主観的なことを過度に強調するなら、キリストの栄光から、あるものを奪い取ります。逆に客観的なことを過度に強調すると神の目的から、あるものを奪い取ることになります。キリストにある神の働きとキリストにある神の目的がともに大切であります。これら両者がそれぞれところを得なければなりません。主よ、願わくは私たちに理解力をお与えください。そして私たちが安息の地に入り、あらゆる神様の祝福の近くに潜んで待ち伏せている危険の数々から守られ解放されますように。

(今日の文章http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003174.htmlはA4版で9頁になる文章の文頭と文末が載せられているに過ぎません。中身は述べられていません。饅頭にたとえれば中のあんこはすべて省略されています。いずれかの機会にあんこの部分がこのサイトで紹介されると思いますが、是非すぐお知りになりたい方は Christ in Heaven and Christ Within をご参照ください。なお例により、訳はあまり信用できません。是非原文で点検されますように。なお参考のために、引用聖句を載せておきます。エペソ1:20、コロサイ1:27、ローマ6:1~6、ローマ8:1~2、ローマ8:33~34です。)

2011年5月3日火曜日

透明な光であるお方

バラが二年ぶりに一斉に咲き揃いました。「白薔薇よ 面は光に 根は土に」
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。(新約聖書 1ヨハネ1:5)

光は透明性を持ちます。光は清いものです。完全に純粋です。正直です。その性格は開けっ広げです。光は何ものも隠しません。その全ての働きと性質は物事を隠す性質とは正反対です。隠すべきものは何も持ちません。すべてのものは露にされます。全部明らかにされます。別の言葉で言えば、うそ偽ることがありません。どんなことも覆い尽くすことを好みません。さもなくばあるものがそのもの本来のものと別の姿を持つことを装ったり、信じさせたりすることを好みません。光は一つであり、二重の基準を持ちません。光には二枚舌は通用しません。だから光はまさしく光なのです。光があるところには、「暗いところが少しもない」のです。

ことばということばの全語彙をたどってみると、どんなにたくさんの陰や暗闇があることでしょう。御霊は十字架の働きによってそのすべてに息の根を止めさせるために来られたのです。十字架において、すべては主イエス様である人の子で終わらせられたのです。十字架の意味は私たちの生活のうちに成果を表し、その暗闇の国に属する全てのものが除去されます。その結果私たちにおいてもまた暗いところが少しもなくなるのです。

そのことは果たして私たちが考えることになっていますか。それは私たちが聖霊をいただき、受け入れ、満たされるという時にです。おそらくここでもう一度私たちの考えが少し再修正されることが求められているのでしょう。聖霊は光であることはもちろんのことそれ以外の多くの働きがあるからです。聖霊は力の御霊であります。そして叡慮の御霊であります。そうです。聖霊はたくさんの他のものでもあるのですが、それら全部を備える方なのです。

だから私たちは御霊のご性格を力や賜物や働きにおいてそれらを私たちが知っている以上にこれらのものを「示威的」なものとしてはいけません。もし聖霊があなたや私のうちに本当に働かれるなら、聖霊は私たちがいかなる恐れを抱くこともなく、またいかなるごまかしを引き出すこともなく「検証される」ことに耐える者となさることでしょう。私たちの生活や動機は御霊の検証に耐えることが出来るでしょう。

(今日の箇所は The Holy Spirit, the Church, and the Nations - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003173.htmlです。)

2011年5月1日日曜日

心の目をあけてください

長野県御代田地方は今桜が満開です。
私は祈っています。あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか知ることができますように。(新約聖書 エペソ1:18)
(霊的照明は神のご目的の基礎であります。私たちは自分の頭脳を使った単なる調査や探求によって霊的事柄を知り、キリストの満たしを体験するということは決してありません。必要なことは聖霊が与えてくださる啓示を通してキリストを知ることです。イエス様の証が、おことばを通しての霊的な照明や啓示であったのと同じです。イエス様の証は決して固定的なものではありません。あなたがたが「これがイエスの証であります」と言い、公式化するようなものではありません。

イエス様の証は(父なる神様によって)明らかにされたことであります。イエス様の証とは「天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」(使徒7:56)です。ステパノはその証のために死にました。「正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです」(使徒26:13)その内面的な意味はみことばを離れたものではなく、みことばを通して聖霊によってあたえられるものです。それは手紙よりもっとすごいものです。いのちだからです。あなたに次のように言わせるものです。私は随分長い間聖書を読んで来たが、以前にはその方(聖霊なる神様)には会っていませんでした、と。)

聖霊が教会に関して明らかにすること(聖霊による照明)は、大変難しく、主を体験的に知っていない人にはどなたにも説明することができません。しかし主を体験的に知っている人に対しては説明は不要であります。すべての点でこれだけの違いが生ずるのです。あなたはエペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ローマ人への手紙について、キリストが教会のからだであるとして説教することはできるかもしれません。また本の中に書いてあることを読むこともできるでしょう。しかしそのことをまだ本当には体験していないことはあり得るのです。

それがある日、天が開け、突然そのことがあなたの霊にのぞみ、あなたがそれを見、そしてあらゆる種類の調整が生活に必要になったとしましょう。あなたは次のように言うでしょう。「私は教会には宗派や国籍の違いは何もないのを見ました。私はすべての信者が一つであることを信じました・・・」そうです。あなたは全部が全部そのように言うことができるのです。しかしまだあります。

そのあるものは啓示によって始めて体験できるのです。あなたは別のことを体験し、それによってちょっとかなり遠くまで行くようになるでしょう。しかしそのことをもっと求めてごらんなさい。そうすればあなたはさらに前進することになります。あなたはそのことにより、新たな戦い、犠牲を経験しますが、新しいところへ移されているのです。そのことは神様の目的にとって必要だからです。

こういうことを申し上げ、指摘し、強調しておりますのは一つのことであります。あなたはおっしゃるでしょう。「あなたはどのようにしてそこに達しましたか。私たちはあなたがおっしゃりたいことを見ています。全部はっきりしているのですが、達していないのです」 よろしいですか、もしあなたが本当に二心をお持ちでないなら、また完全に主と一つになり、見えるように見られ、主とまちがいなく、ともに事を処理なさるなら、一日のうちにではないかもしれませんが、ゆっくりと、確実に、静かに、新しい(御霊の)理解の世界へと移られてゆくのです。

そしてあなたはご自分の見方が変わっていることに気がつかれるでしょう。あなたの価値基準が変化します。あなたの見方が変わります。数ヶ月を要するかもしれませんが、その終わりにはあなたはおっしゃるでしょう。「私は変わりました。あることが私に起こったのです。今まで受け入れていたことがもはや受け入れられなくなりました」

ひょっとして一瞬間のうちにそうなられるのかもしれません。どのようにしてその時が来るかは全くどうでもいいことです。大切なことは霊的照明ということです。(冒頭のみことばにあるように)使徒が手紙を出した人々に持って欲しいと祈ったのはこのことなんです。私たちも祈りましょう。私たちに霊的照明が与えられるように、また主の民のすべてにこの照明が与えられるようにと。

(今日の箇所は以前の1/28と全く同じ箇所でした。スパークス氏サイト編集者の何らかの意図があるか知れません。前回、「訳すのが大変難しかった箇所です。参考のために数行前から訳してみました。誤訳が多いと思います。問題に感ぜられる方は下記の原文に直接当たってみてください。」http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003026.html
と書きましたので再挑戦し訳し直そうとしましたが、訳し直すことが出来ませんでしたので、このまま再録します。なおこの文章はスパークスのFilled Unto All the Fulness of God Chapter 2 からの抜粋です