2017年2月7日火曜日

内省は敗北につながる

サイネリア 喜びという 花言葉
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い(新約聖書 マタイ11:30)

 親愛なる皆さん。もし何らかの真理を知ったためにあなたが自分自身に目を向け、内省的になり、霊的な点で自分のことばかり考えるようになったとすれば、その真理たるやまちがって理解されたと言えるでしょう。あなたはそのことのゆえにもっとも霊的な立場にいると言うかもしれませんが、あなたの理解が全く間違っているのです。

 キリストが十字架でなした偉大な働きは決してどんな人をもみじめにさせるために目論まれたものではありません。もちろんそれは言わないですむことです。しかし主を信じた後も、自分たちの生活のうちにある罪の問題を通してみじめになっている人がたくさんいます。私はその数が増えることを恐れる者です。いつも、もっと完全な啓示やもっと深い真理(それをたとえ完全な成長に進む領域と呼ぼうとも)とこのような内省的な事柄との間に大変明確な一線を引いていただきたいものです。

 ある人々はもっと霊的になるためには、もっと霊的な生活に対して意欲的になり、その完成につとめ、心をそのことに集中しなければならないと考えているようですが、実際はもっとも鼻持ちならない人間になり、喜びはそれらの人々からは消え失せてしまっているのです。私はたとえどんなに深いことであろうとも、またどんなに重要で素晴らしいことであろうとも、聖霊の啓示によってあなたがたをみじめにさせることは何も起こらないと確信しているものです。

 聖霊によるイエス・キリストの啓示(そしてそれ以外の啓示はありませんが)は決して魂をみじめにするものではありません。もし一人のクリスチャンが霊的な事柄に関してみじめでいるなら何かまちがいがあるのです。それは勝利は神のものであり、神はキリストにあって完全に究極的に勝利されたという一つの偉大で完全な真実を理解することができず、戦いにおいてその勝利の分け前に預かっているように召されていないのか、それとも続けて起こされる真理をまちがって理解し、負うべき大変な重荷があるものとなってしまっているのかのどちらかです。主イエスは言われました。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」

 The Battle Which is Not Yours の抜粋引用の私・試訳です。文章全体は2歴代誌20:1~27が読まれ、コロサイ2:15「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」などが引用されています。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003036.html 

追記:6年前の誕生日の質素な様子のようである。それにしてもこの文章も英文を読み直して訳し直したいが中々そこまでの余裕がないのが残念である。少しずつこのペースで改訳をする日をつくりたい。)

2017年2月6日月曜日

御声を聞く耳をください!

4歳と 書かせてと兄 妹を 愛する数字 4人の長だ
彼らは(エルサレムに住む人々とその指導者たち)・・・安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず(新約聖書 使徒13:27)

 読者に思い出していただきたいことがあります。それは、この冒頭の聖句のメッセージが聖書を支配している一つの原則から成り立っているということです。それはどういうことかと申しますと、聖書のことばは読むことにとどまらず、主の御声を確かに聞くことの方がより深いということです。みことばを聞いても御声を聞きそこなうことが過去にもあったし、今もあるということです。

 みことばは主の意思表示です。しかし御声はそれ以上に主の真意をじかに伝えるものです。このことはイザヤ書6:9のような主の意思表示の場合にすでに明らかにされていることです。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』これが使徒13:27で言及されている背景にある(私たちの心の)状態です。

 時々クリスチャンでさえ、また指導的な立場にあるクリスチャンが御霊に対して耳を閉ざしているため、行なったり言ったりすることがふらふらしていて驚くべきことがあります。それはそれらの人々が「そのことは真実でない」と御霊が内からささやいていてくださるようには歩まないで、完全なウソであったり、他の人や主の関わってくださることに対して、言うに言われない危害を加えるもっとも致命的な報告を取り上げ、伝えることになっているからです。そのことはクリスチャンの教理信条として、聖霊に信頼するということのうちにふくまれているかもしれませんが、真理の御霊が本当かウソかを心の中に明らかにしてくださるのはいつかを知ることとは全く別のことであります。

 ただ、「(救われるために)残された者」と「勝利者※」の両者ともにこの「御声を聞く」ことによって証印を押されていることは意義深いことです。イエス様は人の生死の究極的な核心をこの「人の子の声(単なることばでなく)を聞く」ことに置かれました。「安息日」ごとに人々はみことばを聞いたのですが、御声としては聞かなかったのですから。

エゼキエルは今も私たちに向かって御霊のために耳を必要としているということを言わなければなりません。サムエルの耳を与えてくださいと祈りましょう。

「ああ、私にサムエルの耳をください。
主なる神様、開かれた耳を
あなた様のことばのささやきをことごとく
聞き取れる生きた、またすばやく聞き取れる耳を!」

(今日の箇所はThe Voices of the Prophets - Chapter 10 の抜粋の私訳である。訳の怪しいところが一部ある。読者は下記引用箇所で直接確かめられたし。初版は1965~67年の雑誌に載せられたもの。※は黙示録の「勝利を得る者」と「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」とが続けて引用されていることにつながっている。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003035.html 


追記:6年後の今日遅くなってしまい、この文章を6年ぶりにアップするだけだが英文を今一度じっくり読みたいと思わされた。それにしてもまさかこの日も二人の孫たちの誕生日の余韻が続いているとは。そしてそれをブログに掲載しているとは・・・。明日は我が誕生日である。)

2017年2月5日日曜日

あなたは主のうちを歩んでいるか

幼子の 描線なり 寿ぐ日 弟生まれ 妹は4年前 (長女夫妻に第四子誕生)
神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる(新約聖書 ローマ8:28)

 (マルコの福音書によれば、イエス様が主のしもべとしていつも明確な行動をなさっていることが特徴としてあげられます。マルコに特徴的なことばは「すぐに」というものです。福音書にはおよそ(このことばが)40回登場し、しもべはどうあるべきかを示唆しています。もし私たちも主とそのご奉仕の通りに行動するならば、時間は無駄にならないでしょう。全精神は主にささげられねばなりません。そうすることにより人生は主に対する従順の目的が刻印されるのです。主との結びつきの中で、私たちの態度も必ず「すぐに」行動するはずです。)

 だから主イエス様はご自身の人生がこのように主に結び付けられている目的意識のゆえに強さを引き出しておられたのです。疑いもなく、私たちもその目的意識、つまり神の召しはわがものなりという意識から強さを授かるのです。それが、(悪魔という神の)敵が絶えず、そうではないと言って私たちをくじけさせる理由です。敵は私たちが目標に達しようとすると、疑問を起こすためにあら捜しをし、そして私たちにあなたがたの働きはむなしいと言うのです。もし敵が私たちの人生からその目的意識を奪い続け、証や働き、はたまた私たちがこうむっている苦しみの価値を疑わせるなら、私たちは強さをなくし、敵は勝ち誇ることでしょう。

 イエス・キリストはどんな場合にも神の強さを維持しておられました。それはご自身が父なる神様から遣わされたことから一歩も離れられず、父の目的を堅く保っておられたからです。もし私たちも人生の目的をしっかりとらえ、天からの召しをいつも仰ぎ見ているなら、強さを維持できます。しかし、そうではなく、もし私たちが自分自身の野心を実現しようとしたり、自らの計画通りに事を運ぼうとしたり、そのような動きをし続けるなら、私たちは神様からの力は何もいただけません。

 強さが維持されるために基本的なことは私たちがあくまでも神様の目的のうちにいるということを知っているということです。私たちの奉仕はつねに神の目的の結果であらねばなりません。私たちが神のご計画のうちにいると認識していることが最も大切なことです。私たちは自分自身を否定しなければなりません。神様のご目的の内には個人的な様々な関心の入る余地はありません。「神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」それが神の目的のために召されている信者たちに示されている(神からする)明確な発言です。私たちは主イエス様が知っておられるのと同じように、神の目的のうちに自らがあるということを明確に知らねばなりません。

Christ Our All - Chapter 10  からの抜粋の私訳である。このメッセージの序によると1935年の12月にスイスのGümligenで語られたものである。引用本文は以下のサイトである。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003034.html 

追記:6年後の今日、同じ日に生まれた姉弟の誕生会が昨日持たれた。二人は10歳と6歳になったわけだ。さらに何年か後に彼らがこのブログを読んで人生を真剣に生きるヒントを得て欲しいと切に思う。 )

2017年2月4日土曜日

今、教会を通して

開花まで じっと耐えいる 椿かな われら家族の お手本なりき
一致した意見ですが、敬虔の奥義は偉大です。(新約聖書 1テモテ3:16)

 私たちは極めてしばしば自分が痛めつけられたり、試みられたり、逆境にあり、サタンに圧迫されているような時には不愉快以外の何事も感ぜられなくなります。それは、すべてのことがらに意味を見い出せないでいるのに反して、神は天使たちに指図を与え、神の支配と権威はすべてのことがらから益を引き出すのだと言われていてもです。

 私たちはそのような事柄に直面するととても愉快にはなれません。しかし私が考えるのに、そのような時、つまり地上で自分たちはとても大きな使命を実現しているように見えない時も、私たちは神様の道具として、今、(神の)支配と権威をあらわすために大きな使命の中を歩んでいると理解すれば、主が与えようとされる益がわかります。

 集会を持つために走り回ったり、主のために奉仕することだけが唯一、教会のメンバーが実現する使命だと考えてはなりません。使命はこのように暗礁に乗り上げているような時、またあらゆる地上での働きを主がストップされ、行動を起こせない痛ましい時にあっても変わらず実現されるのです。そのように活動がストップされているから使命がなくなっているとか、このようなすべての事柄は今は切り捨てられているとか結論してはならないのです。

 このようなみことばがあります。「これは、、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって」(エペソ3:10)。(注意して欲しいのです)将来のことでなく、「今」であります。教会は、主が私たちに取られる大変な厳しさや試練の経験を通して、主なる神様から、イエス・キリストが教会の中でなされることを日々学ぶのであります。

(今日の箇所は The Battle for Life - Chapter 4  からの抜粋です。第4章は1テモテ3・16がそのテキストとして扱われていますが、それぞれ「キリストは肉において現われ」「霊において義と宣言され」「御使いに見られ」「諸国民の間に宣べ伝えられ」「世界中で信じられ」「栄光のうちに上げられ」と6つの点に分けて敬虔の奥義が考察されていますが、この箇所はその三番目「御使いに見られ」からのものです。http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003033.html 

追記:6年前の投稿はいずれの日を見ても、生き生きしているように思う。今、その情熱がない。しかし、6年のちにしか味わえない主の道を通らされているのも事実だ。若き日にもっともっと聖書の示す真実を吸収したかったが・・・)

2017年2月3日金曜日

十字架に示される「逃れ」の町

初春の 思いを運び ゆかしきか 大阪からの 絵葉書なりき(今日は旧正月)
もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。(新約聖書 ガラテヤ6:1)

 もし私たちが本当に十字架でなされたこと、すなわちご主自身の満たしが与えられ、敵が征服された偉大さを霊的に何らかでも理解するようになったら、私たちは狭量な人間にはなり得ず、キリストにある立場の偉大さゆえに寛容になるに違いない。

 それは端的にはこんな風な働きである。主が十字架でなしてくださったことの理解が大きくなればなるほど、他の人々に対して益々寛容になるにちがいない。また、益々忍耐強くなり、悪に対してすぐ悪で返すようにはならず、忍耐が容易になり、悪に耐えるようになるということだ。

 もし、私たちが悪いと感じる事柄に対してお互いにすぐかっとなるならば、それは極めて限定されたカルバリ理解にちがいない。(そうではなく、人の罪を)きわめて大きく見過ごすように、また大変寛大になるにちがいない。私たちは、喜ぶべき霊的地位、すなわち天に引き上げられる地位に置かれるから、恵みが勝利の凱歌をあげねばならない。こういう「逃れの町」は最高であるに違いない。恵みが天にあっては支配するからである。

 キリストにあって天に達する時でさえ、過ちに対してなされる備えがある。罪がない完全さのようには見えない。天に移される時でさえ、すべての欠陥や過ち、大失態や損害がなかったかのようには見えない。悪くなったことに耐えるには依然として恵みが必要であるかのように見える。それで、私たちが霊的にその位置に達する時でさえ何らかの悪があるにちがいない。主は、それゆえ恵みがあるとおっしゃる。

http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003032.html  Filled Unto All the Fulness of God - Chapter 13 の訳である。 今日は久しぶりに家庭集会が開かれ様々な地方から多くの方々が集ってくださった。メッセージは「パウロに学ぶ喜びの秘訣」と題して、5つの喜びが語られた。引用聖句はピリピ4:12~13であった。今日の箇所はさしずめその中で語られた第一番目「主から救いの恵みを受けたことの感謝の喜び」に該当する、と言えようか。ちなみに他の4つは順番に掲げると②罪と律法から解放される喜び③神の栄光を現わす喜び④主の苦しみにあずかることを通して神の愛を確信した喜び⑤天の御国をめざす喜び、再び来られる主を待望む喜び、であった。同時に70歳になられ、この3、4年余りのご経験を通して大きく主イエス様への救いへと導かれた方のお証もお聞きすることができた。

追記:6年前のこの投稿を見て、この日に家庭集会が持たれたことを知った。残念ながら最後に触れている方がどなたか思い出せない。様々な資料を探してもわからなかった。自らの好い加減さにあきれる。そこへ行くとこのすばらしい絵はがきをくださったことは覚えている。しかし残念ながらこの方とはこれっきりになってしまい、今日に到っている。)

2017年2月2日木曜日

神の愛される台所

一瞬、リスが! エジンバラのwest princess street gardenの一角
より頼んでいるあなたがたには尊いものです(新約聖書 1ペテロ2:7)

 もしあなたと私がもっと光を、もっと啓示を獲得するなら、人々は私たちのうちに、啓示や光をいただいていない人々とくらべてキリストをより一層見ることになるのでしょうか。神様は私たちがそのような力を得ることをお許しになりません。なぜなら、父なる神様は御子を除いては決して動かれないからです。父なる神様は理論や教えや教理や私たちが啓示と呼んでいるようなものには決して動かれません。ただご自身の生ける御子が明らかになる範囲内にとどまっておられるのです。

 私たちは主イエス様により頼みましょう。他のいかなるものよりもあなた様をあらわしたいという強い願いが私たちのうちに起こされますように。偉大な真理を宣べ伝えることでもなく、また説教者や教師やそれに類似した何者かになるのでもなく、主イエス様をあらわしたいのです、と願いましょう。

 神の家の上層部に余りにも多くの時間住み過ぎないようにしましょう。神の家は一つです。地下もあれば台所もあります。私たちはいつでも最上部すなわち大変天的であり霊的であり抽象的でありかつ真理の高く引き上げられたところでは、台所の実際的なことがほったらかしにされるようには住みたくないものです。もし家に入って、二階に連れて行かれ大変きらびやかに素晴らしい装飾のあつらえられたところを見せられ、それから台所に降りて二階で見たことと全く不釣合いな汚れたところをとにかくきれいにするとしたら、一体あなたは何と言うでしょうね。ここには良くないものがある、ふさわしくないと言いますか。

 霊的な生活にも台所の側面があります。実際的で日々の退屈な事柄のすべてにおいて主の麗しさはちょうどキリストにあって天高くいるのと同じ程度にあるのです。上だけで生活することのないようにしましょう。下で生きねばなりません。そのことは神のことばが語っている通りです。それがパウロがエペソ人への手紙で語ったことです。

 彼は手紙の半分で天について書き、それから章を分かつことなく、まっすぐ手紙を書き進めました。「私は・・・召されたあなたがたが、その召しにふさわしく歩むことを勧めます」(エペソ4:1)そしてそれから夫たち、妻たち、子どもたち、両親たち、主人たち、女主人たち、召使たちについて(書きました)それは台所に降りて来て天からの栄光をもたらすものです。大変重要な側面です。大切なことはこの地上でも見出されねばなりません。「天と同じように地にも」(マタイ6:10)

(今日のところも大変訳しづらかったところです。誤訳があると思いますし、どうしても訳せなかったところは飛ばしました。是非原文にお当たりください。ただこの章は4章目に当たるところの抜粋ですが、1、2章前にはスコットランドの山を見ての話がありますのでメッセージがなされたのがスコットランドのような気がしました。またキャンベル・モルガン博士のヨブ記についての話の言及がありますし興味はつきませんでした。訳には反映していませんが、Features Of Zion - Chapter 4 も中々すぐれた読み応えのあるメッセージです。引用はいつもどおり
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003031.html 

追記:6年前のこの訳文、また文章を見ると実に多くの「宝」を味わうことなく、今日に至ったのかがよくわかります。ここでスパークスが言わんとしていることは大変重要であると思います。まして1、2章も私自身が目を通しているとは自分でも信じられない思いでいます。)

2017年2月1日水曜日

世を愛されたイエス様

鴨二羽の 堤に上がり 啄ばむは 地中の餌 水乏しきか

というのは神は世を愛されたから・・・(新約聖書 ヨハネ3:16)

 この小さなことば「というのは」には大層な重みがかけられています。――「というのは神は大変世を愛された」とあるとおりです。さて、ヨハネの福音書3:16は福音の心であると言っていいでしょう。けれどもこの聖句ははるかにそれ以上であります。なぜならこの聖句は世界の(に対する神の)心そのものであるからです。この創造された世界の万物の背後には(神の)心があるからです。単なる人の心、意志、計画、理性、力、命令ではなく、(主の)御心そのものがあるからです。

 創造のうちには計画があり、世界の背後には心があり、意志が存在に働いていることを証明しようとすることに私たちは慣れ親しんでいるでしょうか。そうすることはすべて大変良いことであり正しいことです。しかし私たちは、いつもすべての背後に心があり、他のいかなる物よりも心があると悟るようにとは求められていません。(しかし)理性、意志、計画は心から来るものです。万物は神の御心に起因します。

 神の考えや神の助言についてこれまで言ってきました。物事の核心に近づけば近づくほど、核心部にある正しさは心であるという事実に惹きつけられるようになるでしょう。私たちが最終的に問題にするのは心です。決して理性を満足させる説明でもなく、力の誇示でもなく、心です。それも力のある心です。そしてそのことば(力ある心)を正しく用いるとすればそれは「愛」ということになるでしょう。

 心のない人について話題にしましょう。これらの人は愛が意味するものをすべて備えていないということです。愛がこれらの人々の考えや行動や動機を支配していません。これらの人々は愛の異邦人であります。それですから、私たちにとって心は愛を意味します。私たちが万物の背後や中心に心があると言う時には同時に愛があると言おうとしているのです。

(今日の該当箇所は以上である。例のとおり以下のサイトの訳である。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003030.html
 しかし、読者諸子はこの文章のまわりくどい言い方に異議を感ぜられるかもしれない。しかしこの文章は His Great Love - Chapter 1  の冒頭部に過ぎない。実はこの文章の後半部に以下の叙述がある。

 闘い<ゲッセマネの祈りの闘い>は過ぎ去りました。状態は確固としたものになりました。彼らは夜中に松明に灯をともしながら、足音も高く駆け足で、鞘から抜き出された剣を手にして主イエス様を連行しにやって来ました。イエス様を裏切った裏切り者は「私は彼が行く所を知っている。私は彼とともにいたから私はわかるのだ。あなたがたを彼のところに連れて行ける。あなたがたが彼を弟子たちの一人と見誤らないように、私は彼に口づけをする。それが合図だ。」とあらかじめ話しました。

 かくして、彼らは祭司長たちと指導者たちの一団となって、背後に憎しみを携えながらやって来ました。しかし主イエス様は巌のように微動だにされません。逆に主イエス様の前で彼らはたじろいだのです。「あなたがたは誰を探していますか」「ナザレのイエスだ」「わたしがそれです」すると「彼らは後ずさりし、地に倒れました」再度主は言われます。「あなたがたは誰を探していますか」「ナザレのイエスだ」「わたしがそれだと話したではありませんか。もしわたしを探しているならここにわたしがいます。わたしを連れて行きなさい。他の者は自由に立ち去らせてやりなさい。」主イエス様は指導者や祭司長の前でまたピラトの前でどんなに巌のように平静でまた沈着で最後まで正しかったことでしょうか。多くの争いと憎しみと興奮と心配を終わらせ、あなたがたを落ち着かせる、勝利せる愛がそこにはあるのです。それが主イエス様でした。

 次に主の主ご自身との関係を見てご覧なさい。それは次の一語に要約できます。「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残すところなく示された」(ヨハネ13:1)イエス様は恐らく(裏切り者の)ユダを愛しておられたことでしょう。ユダがその一団をイエス様のところに連れてきた時にイエス様は彼を見て「裏切り者!悪党め!醜い男よ!」と言われなかったことにあなたは注目すべきです。

 そうでなく「友よ!」とおっしゃったのです。私はそれがユダを自殺に向かわしめるのに値したと思います。「イエス様は私を友と呼ばれた。しかし主は私が何をするのか知っておられたのだ!」主イエス様は最後までご自身のものを愛されました。そうです。私たちは自らを知って、この愛の不可思議さに同意されないでしょうか。

追記 以上は2011.2.1に訳して本ブログに掲載したものであるが、今日から日付を追って再録し、6年前に訳し損ねた日の分は新たに訳し追加掲載することにする。写真を見て6年前にもやはりこのように鴨を身近に見ていた。しかし今よりはもっと自らが生き生きしていたのだと思わされた。)

2017年1月19日木曜日

敵は私たちの自我

わたしは、自分からは何事も行なうことができません。(ヨハネ5:30)

 主の子どもたちが学ばなければならないもっともむつかしい課題の一つはどのようにして神様にゆだねるかであります。それがたとえ正しいことや神様の目的であったとしても、アブラハムがイサクをとおして学ばなければならなかった課題があるにちがいないからです。約束であろうと受け継ぐものであろうと、私たちが神様が与えられたものに直接よりかかるのではなく、信仰による平安と恐れからの解放をもって主ご自身にすがることにあります。もし私たちが主ご自身から物事を受け取ったのなら、主がお与えになるものはさらに大きな熟慮された計画をお持ちにならなければ再び取り上げなさらないという確信のもとに憩うことができます。一方では主が私たちのために決定されたことは何ものも私たちから取り上げることは出来ないということです。しかし、神様の賜物やご目的との関連で私たち自身の意志から生ずる多くの危険があります。

 第一に主にあって、そして主のために維持する代わりにそれを私たちのものとする危険性があります。このことはものすごい人間的な反抗に導くのです。それからねたみがその卑劣な頭をもたげるのに時間はかからないでしょう。ねたみは対になる疑りをともなってごく自然な交わりを破壊します。ねたみは個々人の持ち物、個々人の関心事をもっとも声高に主張しないでしょうか。もし私たちが神様のことにおいて非常に小さな部分でさえどれだけ特権を持っているか、そしてそれがどれほど主の恵みのすべてであるかを悟っていたら、私たちが主ともっとも薄いつながりを持っていたに過ぎないことを感謝するはずです。

 それからさらに私たちは落ち着いた信仰にあって、主に対するだけだとするのと同じように私たちにとって受け入れられ約束され信じられるものと考えているならば、主は見誤ることのないように私たちを守ることがお出来になるのです。神の子どもにとって、もっとも強く神の意志あるいは道だと信じていたことがそうでなく、放棄せねばならなかったと知るようになるのはまれなことではありません。もしその意志のうちに何らかの自らの思いの要素があったなら、これまでもその経験は非常に悪いことが明らかになり、苦さと疑惑の働きを残したのです。

 さらにもう一度神の事柄に関連する強い個人の心や意志はきわめてしばしば人々を律法のとりこにさせます。すなわち私たちだけが神様のご意思を知っていることをほのめかす態度に陥るのです。他の人たちもまたこのことにおいて主の導きのもとにあるのだと信頼しないで、神の家にとって大変必要な導きの一体性が壊されたり無力にされたりするのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003017.htmlです。久しぶりにオースティン・スパークスの霊想にこのブログを通して向かうことにしました。2011年にすでに225日ほど誤訳をふくみながら、訳せていますので、今年はその残りを埋めて行きたいと決心しました。一人でも多くの読者が読んでくださり、ご助言をいただけますと幸いです。)

2017年1月16日月曜日

勝利者の道

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示3:21)

 私たちすべての者は、もし私たちがキリストともによみがえらされているなら、よみがえりのいのちを持っています。しかし、それ以上のものがあります。よみがえりの力はやがて私たちを御座にまで運ぶものですが、すべての者が御座に近づくのではありません。それは「勝利を得る者」であります。カレブはパウロのように、そしてパウロはカレブのように主の民の間にあって通例の生き方に抗しています。大部分の人は受け継ぐものに関し放棄しそこにとどまり腰を据えることに満足しました。未完成の針路、短縮された霊的進歩、神様が示され意図されたものよりもはるかに少ないものを受け取ることでした。大部分の人たちはそのコースを選びましたが、カレブは決して満足せず、大多数の人に抗して立っていました。それはちょうどいつも神様の完全なみこころを代表しない大多数の人に抗したもののようでした。

 霊的なリーダーシップはつねに孤独を伴います。それがリーダーシップの犠牲です。勝利者はつねにより広範囲のキリスト者に関して言うなら、孤独な仲間であり、ほとんどついて来ることができない人と進まねばならないのです。カレブは民衆の声を受け入れることができませんでした。彼の心は余りにも主と結び合っていたからです。彼は全面的に主に従っていてキリスト者生活の一般的通常の水準ではありませんでした。カレブは神様が全き人がどうなるかをあらわしているまさに具現化した人だったと言っても良いでしょう。あなたはカレブを見る時、神様が全イスラエルがそうあるように望まれたが、全イスラエルはカレブの水準には達しなかったことを知っているでしょう。しかし、主はカレブのうちに主の心を満足させるものを得ておられます。主は一人のカレブのうちに主の完全なみこころを認め、それと同じように一人のパウロの中に認めておられるのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003014.htmlです。2017.1.30Translate。) 

2017年1月12日木曜日

生ける神様との生きた交わり

わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。(ヨハネ14:19)

 今日かなり多方面にわたり、かつかなり広い範囲を越える神様との交わりは生きた交わりとはなっていません。神様についての知識はあります。神様を礼拝するかたちはあります。神様とつながる儀式はあります。そうです、神様に祈り、礼拝し、神様を知り、おそらく神様に対する願いを多少なりとも判断する認識もありますが、神様との生き生きとした交わりが不足しています。

 しかし、主が生ける神様であるということは、主と交わっている人は生きているはずであります。主は仰りたいのです。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」と。神様との生き生きした交わりは可能です・・・その交わりはいくつかの死せる儀式をともなう交わりではなく、生けるお方との交わりです。けれども私は訊ねねばなりません。あなたはその生きた交わりをお持ちですか、と。あなたは組織、儀式に追随しているのでしょうか、それとも生ける神様との生きた交わりをお持ちですか、と。主は主とのそのような交わりがずっと生き続けることを強く望んでおられます。

 あなたが生ける神に近づくことを知っていることはたいせつなことです。あなたは正しいか間違っているかどうかはわからないのです。そうです、あなたは生ける神様を持っていて神様に求めるのです。神様は寛大です。神様は近くにおられます。生きていらっしゃいます。あなたは神様と交わることができます。生ける神様と生きた交わりを楽しむのはまさにどのように主が考えておられるかです。

 神様の心からなる強い願いは、あなたが神様を生けるお方であるとみなすべきだということです。「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6)私たちは神様に近づくとき、神様がおられることを信じなければなりません。それは宙を、すなわち空虚で空しい宇宙を探ることではありません。そうでなく、私たちは生けるお方に近づいているのです。そして主がおられることを信じているのです。それに関してあいまいなものは一切ありません。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003010.htmlです。2017.1.29Translate。) 

2017年1月11日水曜日

十字架こそ最大の防御

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ6:14)

 まことに十字架に釘つけられた人々はこの世の危害から完全に守られている。この世が支配するのは十字架がその働きをなしていない時だけである。この世は十字架にかけられた男や女、信ずる者の十字架につけられた仲間を支配しない。十字架はこの世に反対する大きな防御である。もしあなたがこの世の外にいたいのなら、十字架に場所を占めてもらえ。もし十字架がまことにその場所を完全に占めているなら、その時、他のすべてのものもまた整序される。十字架はこの世に対抗する大きな防御である。十字架は悪の力に抗する大きな防壁である。十字架はすべてのものを安穏にし、すべてのことを主のために守る。

 主は立場を明らかにしたいと望んでおられることを知っているだろう。主は主の民にご自身を信頼して欲しいと願っておられる。ところがもし十字架がその場面で働きをなさないなら、主は彼らにご自身をおまかせになさることは不可能である。主はおっしゃる。「わたしがそこで自分を明け渡すのは安全でない。さもないとわたしは彼らの十字架にかからない状況に巻き込まれねばならぬ」

 十字架はあらゆることを主のために安全にする。そして十字架は教会のためにも安全にする。もし十字架が私たちすべてのうちにほんとうに働くなら、私たちはお互いに信頼できる。十字架につけられた男女にとって信頼することは全く心配がない。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003009.htmlである。実に明快なスパークスの文章である。2017.1.28Translate)

2017年1月10日火曜日

イエス様はいのちの賦与者なんです!

万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ1:16)

 神様とともにあるすべてのものにとっての鍵はいのちである。私たちは認識しなければならぬ。キリストの支配権、卓越性、権能、能力 、かしらであることにともなうすべてはキリストのいのちの特権に関するものだ。キリストはいのちを着せられた神の御子である。彼は父なる神様から与えられた権利を持ち、信ずるのと同様である多くの者にいのちを賦与する。それがキリストがなぜかしらであるかの理由である。

 あなたは人々の儀式をつかさどり、人々の最高権威を自認し、人々は大きなことを主張するかもしれぬが、それが何になるか。 あなたが死に直面する時、人々は何をすることができるか。しかし、死に打ち勝ついのちの力をお持ちの方を迎え入れよ。この方はこの地上にあっていかにも謙遜であろうとも、かしらであり、主人であり、主である。あなたは死を前にして世が考えられる限りの最大級のお医者さんを招くことができるかもしれない。しかし、死が襲う時、医者たちは無力である。

 もし、あなたがこの世で能力もなく、訓練も受けていない、取るに足りない一人の小さな人、そしてその人が死に打ち勝ついのちの力を授けられている人を迎え入れるなら、その人はあらゆるこのような他の人々を排し、それらの人々は彼の前に無いに等しくなり、彼こそその場の主となる。

 キリストはかしらである。単なる指図者でなく、いのちに関するかしらである。私たちはこの地上で大変つまらない民で、この世からは全然相手にされない者であるかもしれないが、もし私たちがいのちの満たしであるキリストを持ちさえするならば、私たちは最高位にあって、あらゆる偉大な組織や機構を無きものとする。それは霊的なことであり、キリストの影響である。伝統でも歴史でもなくまた神学理論でもなく、信仰と義をとおしていのちに関して主のご臨在があらわす霊的な力である。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003008.htmlです。理不尽な死、人はその門前にまで行く。しかし神様を認めるまでに至らない。ましてや死が終わりでないことに思いが至らない。昨日はその「死」について考えさせられた一日であったが、まさかこのスパークスの霊想を今朝訳すことになるとは思いもしなかった。ここにも生きて働いておられる主を覚えるのは私の一方的な神様に対する片想いであろうか。本訳出は2011年に敢行した。その後、6年余中断していた。今年はその未了分を訳出して穴埋めをしながら、前に進んでいる。読者諸氏のご理解を切に求む。2017.1.27Translate。)

2017年1月9日月曜日

霊的成長とは何なのか

あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(ヨハネ3:30)

 霊的成長とは何でしょうか。霊的成熟とはどんなことを言うのでしょうか。主にあって生活するとはどんなことでしょう。私は私たちがこのことに関して矛盾した考えを持っていないか恐れるものです。多くの人は霊的成熟とはキリスト教の教義についてより理解が進んでいること、また霊的な真理をさらに大きく把握していること、神様のことについてさらに広く知っていることだと考えています。多くのそのような特徴が成長、進歩、霊的成熟の証拠だとして表わされます。しかし、愛する皆さん、その手のものでは全然ないのです。

 真の霊的進歩と成熟の特質は次のものです。私たちがすっかり小さくなり、主イエス様がはるかに大きくなることです。成熟したたましいとは自分自身の目から見ても自分が小さく、主イエス様が大きくなる人のことです。 それが成長です。

 私たちは非常にたくさんのことを知っており、教義について、教えることについて、真理について、なかんずく聖句について、驚くべき理解力を持っているかも知れません。しかしそのことは霊的にはきわめて小さく、未成熟できわめて子供染みたことです。(子供染みているということと子どものようにありなさいということの間には大きな違いがあります。)ほんとうの霊的成長とはまさしくこのことなのです。「私は衰え、彼は盛んになる」それは主イエス様がますますそうなられることです。あなたはそれによって霊的成長を見分けることができるのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003007.htmlです。2017.1.26Translate)

2017年1月8日日曜日

御霊を通して証しする民

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(2コリント5:15)

 私たちは御霊にしたがってキリストを知ることができるだけです。その結果この主の摂理にあっては、私たちにとってのキリストは私たちがキリストについて知っているかそれともキリストと関係を持つことができるすべてのことは、ただ御霊にあってのみ可能だという意味で霊的です。「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(2コリント5:16)

 キリストは御霊にしたがって知られるのです。私たちの力は霊的なものです。戦いの武器は霊的です。すべてのものは上から私たちのところに来なければなりません。敵の一つの大きな努力、すなわちこの摂理を貫いて何度も何度も成功するものですが、それは神様のものをこの世に対する愛着、この地上に対する愛着、地上ですべてのものをひとかどのものとするために引き降ろし続けて来たことでありました。

 あなたはヨハネを読んであらゆるものがどのように世に引き寄せられていないか、またあらゆるものがどのようにこの世から聖くされ引き上げられるかを知る必要があります。万物はキリストが天におられ、主の民は地上にいるが、地上にいない、地上では知られておらず、この世にあって、しかもこの世にはいない、また世に関する限り、この世にあって認められてもいず、知られもしない不思議な民という事実と結び合わされているのです。しかし、そのまさしく手段によって、そしてそのまさしくその理由、最大の潜在能力に向かって、この宇宙は知っているのです。この地上にあって霊的な隠された秘密の神の民を。

 キリスト教を把握し、型にはめ、作り上げ、組織化し、具体化し、地上で何か力ある運動とすること。人が見たり、認識したり、賛同したりするようなすべての連合をともない、地上に根づくこと。この世の通常の意識に何かの存在として登録すること。そのすべてが神のみことばと正反対であり、霊的ないのちと力の正反対なのであります。

 キリストは天におられます。私たちは天の御国にキリストとともに引き上げられ、移され、御座にともに着座するのです。私たちのこの世の目的は証しだけなのです。その証によって他の人たちは諸国民から引き出され、主の御名を持つ一つの民とされるのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003006.htmlです。今日の英文は省略が多く訳出に難航を極めました。末尾の文章に辿り着き、やっとスパークスの真意がつかめた思いがします。読者諸兄のご指導[誤訳の訂正]をお願いします。ただ最後の文は今日たまたま家庭集会でメッセージする恵みに預かったが、そのおり引用させていただいたベック兄のメッセージ『主のご臨在が外にあらわされていくことこそが主の願い求めておられることです。』と一致する内容があり、今改めてその意味の深さを知った思いでおります。)

2017年1月5日木曜日

根を張り広げよう

ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。(イザヤ37:31)

 主は流され得ないものをお持ちにならねばならない。それは、動かされず、揺り動かされず、それゆえに確かに根こそぎにされ得ないものに違いない。それが主の選ばれた残りの民だ。主はご自身の栄光のために残りの民を持たれねばならない。そして残りの民がそうなるように主はあらゆる手段を用いて、彼らが下に根を張る性質にしたがうようにされる。もちろん上に実を結ぶためだ。

 上に実を結ぶこととは、すなわち天的いのち、天の御座に座ること、そして主とつながっていただく私たちの豊かな実である、働きと戦いについてたくさんのことが語れる。それはひとえに私たちの根が張られて初めて可能なのだ。根が張られるためには私たちは何物も転覆し得ないように根がしっかり根づき揺り動かされるところのない場所へと到達しなければならない。今日そのことは主がご自身の霊的な民とともになしておられることの非常にたくさんの事例を説明することだと私は信じている。

 神の真の子どもが今日強烈な試みを通過し霊的に試されていること、いずこにあってもそうだということはまことである。何故だろう。主は地獄が無能力であり、それによって全宇宙にご自身の権能の力を証明するものをお持ちになっているからである。その権能によって立ち続け抵抗するのだ。もし誰かが今の時代の教会にとって究極の問題は何かと問われたのなら、私なら教会が立ち続けることだと言いたい。そしてそれはものすごいことを言っているのである。それは確かに限定したことだと皆さんはおっしゃるだろう。しかし、皆さんはそれ以上のことをもっと期待しないのだろうか 。つまり進歩、前進、一掃する動きをだ。教会は身を粉にして最後まで立ち続け、その働きが勝利となるであろう。

 あらゆるものがあなたのまわりで大吹雪のように吹き荒れる時、すべてが暗くなり怪しげになり、神様までもが遠くになり、おられないかのようになり、信仰が試され、右左と攻撃され、表面上はあなたが行動し、あきらめ、倒れ、降参し、立たんがために水準を下げるあらゆる理由が存在する。しかし信仰にあって動かされないことが最大の可能性のある勝利となる。私たちは深い経験を通過しており、敵がそれをなしているが、主は敵を妨げられない。しかし私たちは私たちの神の御力をさらに完全に知り、あらゆる以前の動揺にまさってさらに深く根を下ろすようになる。こうして主は揺り動かされない民を持とうと探し求めておられる。彼らに対しては傲慢と高慢をもって誇示する地獄は何も出来ないからだ。「のがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。」それが主が必要とされることなのだ。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003003.htmlです。)

2017年1月4日水曜日

地だけではなく天も揺り動かす

この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。(ヘブル12:27)

  ヘブル人への手紙が示している方向に従えば、エルサレムの破壊にあってユダヤ民族に関して全地は揺り動かされました。神殿はその全世界の焦点のごとく地面に叩き潰されました。大祭司の命のもとに集められていた祭司はなくなりました。神殿の奉仕は費え、国民は統一体としての民でなくなりました。これらはどれも取り除くことができるものでした。

 しかし彼らはどのくらい立ち続けたことでしょう。彼らはどんな力に耐えたことでしょう。彼らが決してなくならないというどんな確信があったことでしょう。彼らは神様と緊密なので決して破壊されないし、終わりではないというどれほどの確信をもっていたことでしょう。彼らは最後の恐ろしい窮地にいたるまでどのように戦いしがみついたことでしょう。しかし全く役に立ちませんでした。

 神様はもはや枠組みも地上の機構も望まれませんでした。それはほんとうの霊性が達成されるまでにあまりにもたくさんの部屋やエネルギーや経費を必要としたからです。結局霊的な価値の割合は余りにも小さく、霊的関心は宗教組織や伝統という迷路の道とは余りにも遠くへだたっているので、やりがいがありませんでした。目的に達する手段は直接的ではありませんでした。つまり手段と目的との間には余りにも大きな距離の開きが存在したのです。ほんとうの神様のご要求に直接触れるものはなく、とりなしがなされるには余りにも離れ過ぎていました。だからそれはなされねばなりませんでした。神様ご自身が維持するよりも揺り動かされたのです。

 揺り動かしがまさしくそうだったのちに残ったもの、それは霊的で天的な道のうちにあるキリストでした。天にいらっしゃるキリスト、御霊によって地上に集まる目的あるいは集まる機会。天におられるキリスト、大祭司そしていけにえとしてのキリスト。地上における神の家の秩序は純粋に霊的で天的なものであり、形式的でも編成されたものでも模造品でもまして物質的なものでもありません。秩序はいのちから成長するのです。そしてそのいのちが神様のものであり、抑制されていないなら、神の秩序は自発的になります。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003002.htmlです。この文章は確かに訳出に苦労しましたが、中々含蓄のある内容を持つものです。ヘブル書12:26、28もお読みいただきたいと思います。題名はそこから取りました。引き続いて、ともに味わいながら、かつ誤訳を指摘してくださるとありがたいです。)

2017年1月3日火曜日

復活の力

私は、キリストとその復活の力を知りたいです(ピリピ3:10)

 復活はつねに私たちがこの世の外側にいることを意味します。主イエス様はよみがえってのち、決して再びこの世に姿をあらわされませんでした。復活は主がある意味でこの世を過ぎ越し、超越されており、この世を凌駕する主の御力は主が世から決別されたことを意味しています。主の環境を支配される能力は主がもはや環境に影響されないからです。復活のいのちは私たちが霊的にこの世の外におり、すぐれた立場にあることを意味しています。

 私たちはキリストの復活の力によってどのように生きたらいいか学ばねばなりません。そうすれば私たちを取り巻く死は私たちを支配するほどには影響力を行使できません。主イエス様との復活のつながりは私たちが私たちを取り囲むすべてである死に影響されないことを意味しています。私たちは死の光景を動かすことができ、死によって痛めつけられ得ないのです。これは、死の真中のいのちにあるあり方を学ばねばならない非常に重要な課題です。

 主イエス様の復活にあって私たちはのろいから、すなわち空しくする死から解放されております。そして私たちは神の目的、空しさがもはやとどまることがないという認識にまっすぐ到達できるところまで引き移されたのです。

 いのちの実は、のろいのうちにある死の力が復活の力で取り消されたので、完全に向かうことができます。罪定めは取り除かれました。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003001.htmlです。)

2017年1月2日月曜日

我が内におられるキリスト

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)

 みことばはキリストはこの古い人から全く引き出されて天にある神の右の座に着かれたと極めて明確に教えています。一方で天にある主の御存在と主と霊的に結び合わされた私たちの存在はすべての霊的な目的と力のために私たちもまたキリストにあって天にいることを示しています。私たちの主イエス様についての偉大な真理、また私たちにもたらされる新しく造られた者の偉大な領域を私たちが本当に霊的に速やかに生き生きとした理解力をいただくように主に求めましょう。そして、日々それを適用し、訓練し、実践しましょう。

 表面的には全く霊的豊かさが全然なく、養われるようでないところにあなたは行かねばならないかも知れません。あなたにはキリストがおられ、あなたの前に全地がまかされていることを覚えなさい。休息、霊的な休息以外には何もない、すべてがいらいらさせられ、心配があり、動揺させられ、傷つけられる場面に入れられねばならないかも知れません。あなたは主の御支配の地におり、キリストのうちにいることを忘れないで下さい。あなたはキリストをあなたの安息なるお方としていただいているからです。あなたは争いや闘争やあなたを倒す敵の恐ろしい働きに入れられるかも知れません。あなたはキリストのうちにあり、キリストは勝利者であり、完璧で究極の勝利であることを覚えていて下さい。

 敵がそのことについてたとえどんなことを言おうとも、そのことは真理としてとどまります。キリストは主に栄光を帰するいのちのために私たちが必要としているすべてです。私たちが新しく造られた者のうちに持っているものはキリストがおられることです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003000.htmlです。 なお題名は引用者が今日の内容にふさわしいのでないかと考えてつけているものです。)

2017年1月1日日曜日

永遠のご計画

神のご計画に従って召された(ローマ8:28)

 神様は非常に大きなご計画をお持ちです。それはとこしえに続く召しとすばらしい罪の贖いによってなのです。非常に大きなご計画・・・大部分のクリスチャンが理解しているよりもはるかに偉大なものであります。恐らくクリスチャンのかなり多くの人々が自分たちは救われていると知っており、そのことを大変喜んでいることほどにはほとんど何も獲得していないと言っても嘘ではないと思っています。比較的に言えば神様の偉大さ、とこしえから続く偉大なご計画「神のご計画に従って召された(ローマ8:28)良きものを本当に経験している人はほとんどいないのです。今は、そのご計画が何であるかを言い、説明しません。事実を述べるだけで十分です。

 私たちは一つの非常に偉大な計画をもって召されています。それはただエジプトや悪魔の掌握から抜け出ることだけでなく、他ならぬ神の御子、イエス・キリストの限りない満たしや永遠の召しという一つのとてつもないご計画をともなっているのです。それは私たちがキリストにあって召されている偉大さであります。しかしどれだけのクリスチャンがほんとうにそのように召されているでしょうか。もし彼らがそうだと知っているなら、その意味を味わっているでしょうか。すなわちこの主のいのちは無尽蔵のいのちであり絶えず新しい展望があるからです。

 私は誇張しているのではありません。天が開かれ、私たちが召されていることがどんなことであるかをもっともっといつまでも体験するのです。それはまさにすばらしいものです。・・・ただ救われ天に達し、あなたの罪が赦され、救いとともにもたらされるお決まりの祝福を持つことだけではありません。あなたの前に、そして私たちに関して「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである(1コリント2:9)。」というすべての神のご計画が永遠の時から永遠の時へと差し伸べられているのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/002999.htmlです。これから、今まで訳されていなかった日の訳を少しずつ掲載して行きます。引き続き読者の方の忌憚のない批判、誤訳の指摘をお願いします。今日のところも自分では果たしてこれでいいのかと思うところがあります。)