2017年2月4日土曜日

今、教会を通して

開花まで じっと耐えいる 椿かな われら家族の お手本なりき
一致した意見ですが、敬虔の奥義は偉大です。(新約聖書 1テモテ3:16)

 私たちは極めてしばしば自分が痛めつけられたり、試みられたり、逆境にあり、サタンに圧迫されているような時には不愉快以外の何事も感ぜられなくなります。それは、すべてのことがらに意味を見い出せないでいるのに反して、神は天使たちに指図を与え、神の支配と権威はすべてのことがらから益を引き出すのだと言われていてもです。

 私たちはそのような事柄に直面するととても愉快にはなれません。しかし私が考えるのに、そのような時、つまり地上で自分たちはとても大きな使命を実現しているように見えない時も、私たちは神様の道具として、今、(神の)支配と権威をあらわすために大きな使命の中を歩んでいると理解すれば、主が与えようとされる益がわかります。

 集会を持つために走り回ったり、主のために奉仕することだけが唯一、教会のメンバーが実現する使命だと考えてはなりません。使命はこのように暗礁に乗り上げているような時、またあらゆる地上での働きを主がストップされ、行動を起こせない痛ましい時にあっても変わらず実現されるのです。そのように活動がストップされているから使命がなくなっているとか、このようなすべての事柄は今は切り捨てられているとか結論してはならないのです。

 このようなみことばがあります。「これは、、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって」(エペソ3:10)。(注意して欲しいのです)将来のことでなく、「今」であります。教会は、主が私たちに取られる大変な厳しさや試練の経験を通して、主なる神様から、イエス・キリストが教会の中でなされることを日々学ぶのであります。

(今日の箇所は The Battle for Life - Chapter 4  からの抜粋です。第4章は1テモテ3・16がそのテキストとして扱われていますが、それぞれ「キリストは肉において現われ」「霊において義と宣言され」「御使いに見られ」「諸国民の間に宣べ伝えられ」「世界中で信じられ」「栄光のうちに上げられ」と6つの点に分けて敬虔の奥義が考察されていますが、この箇所はその三番目「御使いに見られ」からのものです。http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003033.html 

追記:6年前の投稿はいずれの日を見ても、生き生きしているように思う。今、その情熱がない。しかし、6年のちにしか味わえない主の道を通らされているのも事実だ。若き日にもっともっと聖書の示す真実を吸収したかったが・・・)

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