2017年2月6日月曜日

御声を聞く耳をください!

4歳と 書かせてと兄 妹を 愛する数字 4人の長だ
彼らは(エルサレムに住む人々とその指導者たち)・・・安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず(新約聖書 使徒13:27)

 読者に思い出していただきたいことがあります。それは、この冒頭の聖句のメッセージが聖書を支配している一つの原則から成り立っているということです。それはどういうことかと申しますと、聖書のことばは読むことにとどまらず、主の御声を確かに聞くことの方がより深いということです。みことばを聞いても御声を聞きそこなうことが過去にもあったし、今もあるということです。

 みことばは主の意思表示です。しかし御声はそれ以上に主の真意をじかに伝えるものです。このことはイザヤ書6:9のような主の意思表示の場合にすでに明らかにされていることです。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』これが使徒13:27で言及されている背景にある(私たちの心の)状態です。

 時々クリスチャンでさえ、また指導的な立場にあるクリスチャンが御霊に対して耳を閉ざしているため、行なったり言ったりすることがふらふらしていて驚くべきことがあります。それはそれらの人々が「そのことは真実でない」と御霊が内からささやいていてくださるようには歩まないで、完全なウソであったり、他の人や主の関わってくださることに対して、言うに言われない危害を加えるもっとも致命的な報告を取り上げ、伝えることになっているからです。そのことはクリスチャンの教理信条として、聖霊に信頼するということのうちにふくまれているかもしれませんが、真理の御霊が本当かウソかを心の中に明らかにしてくださるのはいつかを知ることとは全く別のことであります。

 ただ、「(救われるために)残された者」と「勝利者※」の両者ともにこの「御声を聞く」ことによって証印を押されていることは意義深いことです。イエス様は人の生死の究極的な核心をこの「人の子の声(単なることばでなく)を聞く」ことに置かれました。「安息日」ごとに人々はみことばを聞いたのですが、御声としては聞かなかったのですから。

エゼキエルは今も私たちに向かって御霊のために耳を必要としているということを言わなければなりません。サムエルの耳を与えてくださいと祈りましょう。

「ああ、私にサムエルの耳をください。
主なる神様、開かれた耳を
あなた様のことばのささやきをことごとく
聞き取れる生きた、またすばやく聞き取れる耳を!」

(今日の箇所はThe Voices of the Prophets - Chapter 10 の抜粋の私訳である。訳の怪しいところが一部ある。読者は下記引用箇所で直接確かめられたし。初版は1965~67年の雑誌に載せられたもの。※は黙示録の「勝利を得る者」と「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」とが続けて引用されていることにつながっている。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003035.html 


追記:6年後の今日遅くなってしまい、この文章を6年ぶりにアップするだけだが英文を今一度じっくり読みたいと思わされた。それにしてもまさかこの日も二人の孫たちの誕生日の余韻が続いているとは。そしてそれをブログに掲載しているとは・・・。明日は我が誕生日である。)

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