2017年2月1日水曜日

世を愛されたイエス様

鴨二羽の 堤に上がり 啄ばむは 地中の餌 水乏しきか

というのは神は世を愛されたから・・・(新約聖書 ヨハネ3:16)

 この小さなことば「というのは」には大層な重みがかけられています。――「というのは神は大変世を愛された」とあるとおりです。さて、ヨハネの福音書3:16は福音の心であると言っていいでしょう。けれどもこの聖句ははるかにそれ以上であります。なぜならこの聖句は世界の(に対する神の)心そのものであるからです。この創造された世界の万物の背後には(神の)心があるからです。単なる人の心、意志、計画、理性、力、命令ではなく、(主の)御心そのものがあるからです。

 創造のうちには計画があり、世界の背後には心があり、意志が存在に働いていることを証明しようとすることに私たちは慣れ親しんでいるでしょうか。そうすることはすべて大変良いことであり正しいことです。しかし私たちは、いつもすべての背後に心があり、他のいかなる物よりも心があると悟るようにとは求められていません。(しかし)理性、意志、計画は心から来るものです。万物は神の御心に起因します。

 神の考えや神の助言についてこれまで言ってきました。物事の核心に近づけば近づくほど、核心部にある正しさは心であるという事実に惹きつけられるようになるでしょう。私たちが最終的に問題にするのは心です。決して理性を満足させる説明でもなく、力の誇示でもなく、心です。それも力のある心です。そしてそのことば(力ある心)を正しく用いるとすればそれは「愛」ということになるでしょう。

 心のない人について話題にしましょう。これらの人は愛が意味するものをすべて備えていないということです。愛がこれらの人々の考えや行動や動機を支配していません。これらの人々は愛の異邦人であります。それですから、私たちにとって心は愛を意味します。私たちが万物の背後や中心に心があると言う時には同時に愛があると言おうとしているのです。

(今日の該当箇所は以上である。例のとおり以下のサイトの訳である。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003030.html
 しかし、読者諸子はこの文章のまわりくどい言い方に異議を感ぜられるかもしれない。しかしこの文章は His Great Love - Chapter 1  の冒頭部に過ぎない。実はこの文章の後半部に以下の叙述がある。

 闘い<ゲッセマネの祈りの闘い>は過ぎ去りました。状態は確固としたものになりました。彼らは夜中に松明に灯をともしながら、足音も高く駆け足で、鞘から抜き出された剣を手にして主イエス様を連行しにやって来ました。イエス様を裏切った裏切り者は「私は彼が行く所を知っている。私は彼とともにいたから私はわかるのだ。あなたがたを彼のところに連れて行ける。あなたがたが彼を弟子たちの一人と見誤らないように、私は彼に口づけをする。それが合図だ。」とあらかじめ話しました。

 かくして、彼らは祭司長たちと指導者たちの一団となって、背後に憎しみを携えながらやって来ました。しかし主イエス様は巌のように微動だにされません。逆に主イエス様の前で彼らはたじろいだのです。「あなたがたは誰を探していますか」「ナザレのイエスだ」「わたしがそれです」すると「彼らは後ずさりし、地に倒れました」再度主は言われます。「あなたがたは誰を探していますか」「ナザレのイエスだ」「わたしがそれだと話したではありませんか。もしわたしを探しているならここにわたしがいます。わたしを連れて行きなさい。他の者は自由に立ち去らせてやりなさい。」主イエス様は指導者や祭司長の前でまたピラトの前でどんなに巌のように平静でまた沈着で最後まで正しかったことでしょうか。多くの争いと憎しみと興奮と心配を終わらせ、あなたがたを落ち着かせる、勝利せる愛がそこにはあるのです。それが主イエス様でした。

 次に主の主ご自身との関係を見てご覧なさい。それは次の一語に要約できます。「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残すところなく示された」(ヨハネ13:1)イエス様は恐らく(裏切り者の)ユダを愛しておられたことでしょう。ユダがその一団をイエス様のところに連れてきた時にイエス様は彼を見て「裏切り者!悪党め!醜い男よ!」と言われなかったことにあなたは注目すべきです。

 そうでなく「友よ!」とおっしゃったのです。私はそれがユダを自殺に向かわしめるのに値したと思います。「イエス様は私を友と呼ばれた。しかし主は私が何をするのか知っておられたのだ!」主イエス様は最後までご自身のものを愛されました。そうです。私たちは自らを知って、この愛の不可思議さに同意されないでしょうか。

追記 以上は2011.2.1に訳して本ブログに掲載したものであるが、今日から日付を追って再録し、6年前に訳し損ねた日の分は新たに訳し追加掲載することにする。写真を見て6年前にもやはりこのように鴨を身近に見ていた。しかし今よりはもっと自らが生き生きしていたのだと思わされた。)

0 件のコメント:

コメントを投稿