2017年2月3日金曜日

十字架に示される「逃れ」の町

初春の 思いを運び ゆかしきか 大阪からの 絵葉書なりき(今日は旧正月)
もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。(新約聖書 ガラテヤ6:1)

 もし私たちが本当に十字架でなされたこと、すなわちご主自身の満たしが与えられ、敵が征服された偉大さを霊的に何らかでも理解するようになったら、私たちは狭量な人間にはなり得ず、キリストにある立場の偉大さゆえに寛容になるに違いない。

 それは端的にはこんな風な働きである。主が十字架でなしてくださったことの理解が大きくなればなるほど、他の人々に対して益々寛容になるにちがいない。また、益々忍耐強くなり、悪に対してすぐ悪で返すようにはならず、忍耐が容易になり、悪に耐えるようになるということだ。

 もし、私たちが悪いと感じる事柄に対してお互いにすぐかっとなるならば、それは極めて限定されたカルバリ理解にちがいない。(そうではなく、人の罪を)きわめて大きく見過ごすように、また大変寛大になるにちがいない。私たちは、喜ぶべき霊的地位、すなわち天に引き上げられる地位に置かれるから、恵みが勝利の凱歌をあげねばならない。こういう「逃れの町」は最高であるに違いない。恵みが天にあっては支配するからである。

 キリストにあって天に達する時でさえ、過ちに対してなされる備えがある。罪がない完全さのようには見えない。天に移される時でさえ、すべての欠陥や過ち、大失態や損害がなかったかのようには見えない。悪くなったことに耐えるには依然として恵みが必要であるかのように見える。それで、私たちが霊的にその位置に達する時でさえ何らかの悪があるにちがいない。主は、それゆえ恵みがあるとおっしゃる。

http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003032.html  Filled Unto All the Fulness of God - Chapter 13 の訳である。 今日は久しぶりに家庭集会が開かれ様々な地方から多くの方々が集ってくださった。メッセージは「パウロに学ぶ喜びの秘訣」と題して、5つの喜びが語られた。引用聖句はピリピ4:12~13であった。今日の箇所はさしずめその中で語られた第一番目「主から救いの恵みを受けたことの感謝の喜び」に該当する、と言えようか。ちなみに他の4つは順番に掲げると②罪と律法から解放される喜び③神の栄光を現わす喜び④主の苦しみにあずかることを通して神の愛を確信した喜び⑤天の御国をめざす喜び、再び来られる主を待望む喜び、であった。同時に70歳になられ、この3、4年余りのご経験を通して大きく主イエス様への救いへと導かれた方のお証もお聞きすることができた。

追記:6年前のこの投稿を見て、この日に家庭集会が持たれたことを知った。残念ながら最後に触れている方がどなたか思い出せない。様々な資料を探してもわからなかった。自らの好い加減さにあきれる。そこへ行くとこのすばらしい絵はがきをくださったことは覚えている。しかし残念ながらこの方とはこれっきりになってしまい、今日に到っている。)

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