2011年5月14日土曜日

「時」ということ

いつも係留されている舟、いまだにこの舟が川面を走るのを見た時はない!
神様は時が満ちるにおよんで、ご自分の御子をお遣わしになりました。(新約聖書 ガラテヤ4:4)

時が満ちる時がやってきました。私たちがアブラハムの場合にその信仰がどのように神様の時との関連でもたらされたかを知るのは難しいことではありません。アブラハムにとって時の要素はまさに身に迫ったものでありました。恐らく、彼の信仰にとってもっとも鋭く深刻な要因の一つであったことでしょう。

何度も何度も私たちは神様がふさわしい時を選ばれることに関して、アブラハムの信仰の試みをおりあるごとに思い出します。実に一つの観点から私たちは彼の生活全般を要約し、最後にはその特別な要因ゆえに信仰の勝利に向かったと言うかもしれません。(しかし)完全な神様の感覚からすれば、彼は決して生涯、神様の約束を受け入れなかったのです。生涯の終わりに彼は依然としてその約束の実現を見ていなかったのでした。

もし彼の信仰が退いたとしたら、彼は自然に次のような態度を取ったことでしょう。つまり事は随分長期にわたり、彼の生涯において実現されなかったので、そのことが彼の側では恐らく重大な誤り、間違った期待、何かの導きの間違い、などなどと映ったはずです。

しかし、まさしくその終わりに臨んで、ヘブル人への手紙が実際的な立場をあらわすものとして受け取られるなら、彼はそれでも信じていたのです。アブラハムはそれゆえに神様は目的を実現する時を備えておられると信じたのです。そして彼自身の生涯において、たとえその時が来なくっても、その時は必ず来るのだと信じたのです。

しかし彼の生涯の間、神様の目的の全領域の範囲内で時の要因を試す例がありました。そしてその要因に基づいてテストされて神様の約束は実現されたのであります。(それが私たちがつかみたい原則であります。私たちはその際立った例示を、恐らくイサクの約束とのつながりで持つことでしょう。その約束が実現されるまでには少なくとも15年がかかったように見えるのです。)

(今日の文章は Waiting God’s Time の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003183.htmlです。)

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