2011年5月21日土曜日

主を知ることができますように

昨夕、久しぶりに訪れた元荒川の土手。文教大学図書館からの帰り道。
私の定められた目的は主を知ることです(新約聖書 ピリピ3:10)

この人の書きものには彼がどれだけ主イエス様に傾倒したかをあらわしている数語があります。全体の文脈は彼が言ったように自らを「捕え」てくださったお方に対して、心からする素晴らしいほとばしるばかりの言葉です。そして彼は短い一文章の半ばにすべてを集中しています。「私が彼を知ることができるように」と。

この表明された大きな望みについて印象的なことはそれがなされた時です。ここにはその当時までのいかなる人間よりも偉大なイエス・キリストの啓示をすでに受け、知った一人の人がいます。その知識とは彼が「御子を私のうちに啓示することをよしとされた」と言って以来始まったことです。その始まりは彼を驚かせ、御霊の指示を把握しようとして荒れ地へと彼が送られたものでした(訳者注:ガラテヤ1:17参照)。

のちに彼は「第三の天にまで引き上げられ、説明できないこと、すなわち(彼が言ったことには )語ることを許されていないことを示されました」(注:2コリント12:2以下参照)これらの二つの経験をめぐり、またその間に絶えずキリストを知ることが増し加えられている跡があります。何と言っても、ここで、すなわち彼の生涯の終わり近くにあって、彼は心を込めて叫んでいるのです。「私が主を知ることができますように」と。

このことについて最も控えめに言っても、目に見えるキリストが、最も偉大な能力と理解力を持つ人にまさっているお方で、実に大変偉大なキリストであったということです。これは私たちの知っており理解している限りのキリストとは大変巨大な対照が際立っているものです。キリストには私たちがかつて見たよりもどれだけはるかに多くのものがあることでしょうか。(しかし私たちは節を分析しなければなりません。一節は主な言葉によって分けられ、4つのフレーズで言い表わすことができます。・・・

(今日の文章は An Apostle's Supreme Ambition の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003190.htmlです。)

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