2011年5月16日月曜日

Christ is implanted!

このかしら(=キリスト)がもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。(新約聖書 コロサイ2:19)

信者とはどのような人ですか。神様の見地からすれば、信者はその内側にキリストが埋め込まれている人であります。そして神様は決してキリストを限定的にごらんになっておられません。神様はつねにキリストを完全な仕方でごらんになります。キリストが私たちの(霊の)いのちが誕生するおりに埋め込まれている時、それはあたかも神様がキリストを断片的な方法で埋め込まれたかのようなものではありません。神様のお考えは目的が初めと密接に関わりがあるべきであり、キリストがすべてであり、すべてのうちにキリストがあるべきだというものであったのです。

それが、なぜ改宗はそれ自身が決して目的ではないか、という理由です。改宗は神様の完全な目的に向かう最初の段階に過ぎません。それ(キリストの満たしにあるということ)が神様の見地からする信者の性質を特徴づけているものです。あなたがたはそうすることはできません。どんな決意のカードを切ったとしても実行不可能です。あなたがたは決して男性や女性にある決心をさせ、キリスト教の教義の定められた条項に知的に同意するように勧めることによって彼らをクリスチャンにすることはできません。たとえその教義が主イエスが人の子であることやその働きを述べることに関して完全に正確であったとしても、です。

その個人を構成するもの、まさしく存在の中心にふさわしく、キリストとの生きた結びつき、キリストの埋め込みがなければなりません。それ以外のいかなるものもニセの改宗であります。それが存在のまさしく中心にキリストがおられるということであり、それはまさしく外縁にまでキリストが広がっていく見方をともなうものであります。それが信者の性質であります。

あなたがたはおわかりでしょう。組織化された手段や方法によって、本当に神様のすべてであることをどれだけ伝えようとしても、哀れな絶望に終わるということです。ただ(信者の)成長が必要であります、(信者で)あることが必要であります。ああ、しかしそうであるなら、力があり、壊されず、妨害されないのです。何ものもキリストの道に立ちふさがることはできません。(しかし)それは地獄を目覚めさせ、悪魔の活力を奮起させるのです。悪魔は他のすべての教義、働き、告白を意に介しません。それは往々にして悪魔の目的に大きな策略、偽りとして仕える可能性があるのです。しかし、キリストを受け入れなさい、キリストに支配していただきなさい、キリストを認識しなさい。そうすれば、その時、あなたがたはキリストに敵対する、この全世界のあらゆる力(悪魔の力)に直面するのです。

(今日の箇所は The Essential Newness of the New Creation - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003185.htmlです。)

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