2011年5月3日火曜日

透明な光であるお方

バラが二年ぶりに一斉に咲き揃いました。「白薔薇よ 面は光に 根は土に」
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。(新約聖書 1ヨハネ1:5)

光は透明性を持ちます。光は清いものです。完全に純粋です。正直です。その性格は開けっ広げです。光は何ものも隠しません。その全ての働きと性質は物事を隠す性質とは正反対です。隠すべきものは何も持ちません。すべてのものは露にされます。全部明らかにされます。別の言葉で言えば、うそ偽ることがありません。どんなことも覆い尽くすことを好みません。さもなくばあるものがそのもの本来のものと別の姿を持つことを装ったり、信じさせたりすることを好みません。光は一つであり、二重の基準を持ちません。光には二枚舌は通用しません。だから光はまさしく光なのです。光があるところには、「暗いところが少しもない」のです。

ことばということばの全語彙をたどってみると、どんなにたくさんの陰や暗闇があることでしょう。御霊は十字架の働きによってそのすべてに息の根を止めさせるために来られたのです。十字架において、すべては主イエス様である人の子で終わらせられたのです。十字架の意味は私たちの生活のうちに成果を表し、その暗闇の国に属する全てのものが除去されます。その結果私たちにおいてもまた暗いところが少しもなくなるのです。

そのことは果たして私たちが考えることになっていますか。それは私たちが聖霊をいただき、受け入れ、満たされるという時にです。おそらくここでもう一度私たちの考えが少し再修正されることが求められているのでしょう。聖霊は光であることはもちろんのことそれ以外の多くの働きがあるからです。聖霊は力の御霊であります。そして叡慮の御霊であります。そうです。聖霊はたくさんの他のものでもあるのですが、それら全部を備える方なのです。

だから私たちは御霊のご性格を力や賜物や働きにおいてそれらを私たちが知っている以上にこれらのものを「示威的」なものとしてはいけません。もし聖霊があなたや私のうちに本当に働かれるなら、聖霊は私たちがいかなる恐れを抱くこともなく、またいかなるごまかしを引き出すこともなく「検証される」ことに耐える者となさることでしょう。私たちの生活や動機は御霊の検証に耐えることが出来るでしょう。

(今日の箇所は The Holy Spirit, the Church, and the Nations - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003173.htmlです。)

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