2011年5月6日金曜日

私の罪の物差し

「立てば芍薬、座れば牡丹」のしゃくやく。こんな見事な花が近所のお庭にあった。
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。—主の御告げ。— 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(旧約聖書 イザヤ55:8~9)

神様のものごとに関する思いは私たちの思いと全く異なります。私たちは神様が決して許さない、認めないであろうことを、よく許したり認めたりします。神様は事態に関して完全に違う観点を持っておられます。私たちが物事をあるやり方で裁くのに対して神様は別のやり方で裁かれます。私たちが神様の立っておられるところまで来ることが必要です。

ああ、私たちはよく言ったものです。あれこれの事柄には何の害も加えるものはない。ああそこには悪いものは何もない。あれこれ見渡して、私たちは自分の基準を採用します。そして恐らくはそれは他の人々からの基準でもあるでしょう。私たちは人々がそうするのを知っています。神の働きをする何人かの傑出した人々を取り上げて見なさい。彼らの生活は確かなものでした。模範として、また倣うべきものとして、だから採用されてきました。ああ、そこには害を加えるものはありません。あれこれをご覧なさい、と。ところが私はまさしくその理由ゆえに破滅させられた多くの生活や宣教の例を見て来たのです。

問題はこうです。主はそれについて何と言われるのか、ということです。神様はおっしゃいます。わたしの前を歩みなさい! いかなる人の模範も、いかなる人の基準の前も歩んではなりません。「その中に害を加えるものはありません。しかじかの人がそうします。それが全く常識です」いいえ、そうではないのです。「わたしの前を歩め」と主はおっしゃるのです。私たちはこのことを霊において、内なる人において理解しなければなりません。それは最上の道徳水準よりもさらに深いのです。

さもなければ聖書にある存在には全然問題点がないことになります。もし私たちの道徳水準が神様が満足されるところにまで達し得るならば、なぜ私たちはそんなに扱われ、再構成されねばならないのですか。それは私たちの知性よりも、また理性よりもさらに深いのです。あなたは知性や理性によって神様の水準に達することは出来ないのです。全然出来ないのです。ああ、あなたはいかなる理性の力によっても神様の水準に必ず達しうるのだと思わないでください。あなたは決して達することができないでしょう。

ここにいたるのは聖霊の啓示によるだけです。キリストは御霊によって私たちの心に現われねばならないのです。イエス様がおっしゃることに何の問題もありません。「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」もし私たちが自分の知力でそこに達することができるなら、と言われるのですか、でもそれは全然無理です。それは私たちの心のうち、すなわち内なるところにキリストの啓示が及ばなければならないからです。これが霊的な事柄であります。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」すなわち霊とまことは一緒に手を携えるものなのです。霊的であること、すなわち神からのものだけが真理(まこと)であります。そうです!それだけが真理なのです。

(今日の箇所は Truth in the Inward Parts の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003176.htmlです。第二パラグラフの訳が自信がありません。気をつけてお読みください。さて、ここに書かれていることは全文を読まない方には、やや観念的に聞こえるかもしれません。しかし聖書記事の中でもっとも大切なことが書かれているのだと私は思います。たとえば、私の「罪」の物差しは人間の基準、自分自身を弁解する基準に他なりませんでした。それは主の光のなかに出る時、そうでないことがわかったのです。主の光とは聖書の言葉です。ダビデ王のバテ・シェバ事件はその顛末がいずれも聖書に描かれていますが、そのダビデ王自身の罪の悔い改めは今日の記事の根底にあるものであります。関心のある方は詩篇51篇をお読みください。前回記事4/21「Thou desirest truth in the inward parts」は今日の箇所と同じ文章の抜粋です。)

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