2011年5月29日日曜日

人は何によって称賛されるのか

約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。(新約聖書 ヘブル10:23)

(それでは信仰の結果は何ですか。ヘブル人への手紙のこの箇所で二回、このような信仰によって称賛されたということが言われています。まず昔の人々が称賛されました。(11:2)それから終わりの方では彼らがみな称賛された(11:39)とあります。それが彼らが受けたもの、すなわち称賛でした。
 称賛とは何ですか。次の章、12章に私たちは学校で言えば生徒、家庭で言えば子どもだと言われています。父なる神様は私たちを子どもとして扱っておられます。ここでの全議論の大部分は「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはいけない」云々であります。この称賛がなされるためのすべてです。
 私は11章で言及されるケースにあって称賛は彼らが成し遂げたこと、また賢かったこと、また生きている間、彼らがなすことができたことに関係しているというのは事実に当てはまらないと信じています。その面を言えば称賛に当てはまりませんでした。神様は彼らの生活の一部始終を書いておられます。一体何のための記録ですか。彼らが非常に素晴らしいことを成し遂げたからではありませんでした。
 称賛とは彼らが主を信頼した、そしてとことん信頼し抜いたということでありました。彼らは次のようには言いませんでした。「このことは私たちの生きている間には決して悟られないだろう、私たちはなされることを決して見ることは出来ないだろう。役に立たない。私たちよりももっと良い民が必要である」そうは言わなかったのです。
 彼らはあらゆることに直面しました。そして大部分、そのことは人間的には不可能だが、神だけはそれができることを経験したのです。けれどもそのことは彼らを傍観させ、「私は決してこの場にいることはできない、この中で私の出る幕は決してない、このことに関して私はいかなる役にも立たない」と言わせなかったのです。そうではないのです。彼らは神様を信じました。主を信頼したのです。そしてそれから自分を主に全面的に心から明け渡し、神様を信頼する確信のうちに生きたのです。彼らは信仰に導かれ、信仰によってなされるすべてのことをしたのです。信仰はつねに活動的なものです。称賛は、彼らが、たとえどんなに事態が困難になろうとも、主を信頼し、本腰を入れ、主に身柄を預けたことにあったのです。)

信仰は二つの事柄のうちのどちらかを決めるものであります。またそのことが私たちを特徴づけるものとなります。これが押さえるべきポイントであります。私たちが恐るべきまひ状態にあって生きていることはどちらの状態にあっても言えることでしょう。それは混乱、紛糾、理解することの出来ない、ときほぐしたり、分類したり、事態の意味することをまっすぐに、またはっきりと見て知ることの出来ないものです。それは完全な麻痺状態を意味し、ただ両手を腰にあてて立っているだけで、助けも望みもない状態です。でも、それは確信のある信仰が欠如している結果です。

そのような麻痺状態からの生き生きとした解放への唯一の道は神様に対する落ち着いた信頼にあります。その結果、私たちが理解できようとも理解できなくっても、また説明したり説明できなくっても、さらには光がさしてこようがさしてこなかろうが、私たちが神様とともに歩む態度をとるように導かれます。それは、神様が私たちのうちになしてくださったこと、また神様ご自身が私たちに対して、影響を与え、そのことによってどんな方であるかについてはっきりさせられたという基盤に立って神様とともに真っ直ぐ歩むことです。私たちは歩み続けます。

愛する皆さん、私たちは人生の途上で一度ならず、そういう目に会います。私たちが到達するのは外見上は暗闇、絶望、麻痺状態に見えるところにまっすぐ出ていることを認識することです。そこでは、私たちが肩を寄せ合い、「すべてのことは説明できず、途方に暮れる混乱だ、私たちの立場や人の立場からはもつれることばかりだが、神様は誠実なお方だ。それは神様ご自身がわたしはこうだと言われることだ」ともし自らに落ち着いて言い聞かせないなら、いかなる効力も豊かな実を結ぶことも、価値あることもその他のどんなことでも完全に無視されます。

このようにして神様に疑問を持たないで私たちは神様を信じ続けるのです。私たちはなおさら神様に対して失敗や誤りの責任を押しつけたくなるような点においても神様を信じ続けねばなりません。それは、私たちが自らの人生を 本当に正直に神様がなされるままにまかせ、完全に神様のために生き、個人の利害や世俗的な利害からも自由になり、ただ神様のためにだけここにいるという限りにおいてであります。私たちにとってそれは過ちや失敗であったかもしれませんが、主にとって大切なことがらを練り直し、主を信頼し、進んで行かねばならないのです。

(何が代わりとなりますか。それがつねにポイントであります。代わりになるのは何ですか。それは諦めることであり、出て行くことであり、全部自分の立場を失うことです。そして最後にそれを判断する時です。なぜですか。 
 よろしいですか、私たちは主を信頼しなかったのです。すでにご存知のように主は神様が完全であるように私たちが完全であるようにとは求めておられないのです。それは私たちが非常にしばしば達しようとする基準です。私たちは間違いはしなかった、それについて疑問を持たなかった、私たちは全く完全であったので歩む道すべてにわたって、また取るべきあらゆる段階に自信があるという基準であります。
 そうではないのです。あなたも私も決してそうはならないでしょう。アブラハムは過ちを犯しました、モーセもそうでした。すべての人が過ちを犯したのです。エリヤは私たちと同じ感情を持つ男でした。そしてエリヤは「えにしだ」の木の下に身を投げ出して自分が死ぬことを願ったのです。彼らはみなその道を行ったのです。でも、あなたが見るのはここにある記事です。彼らはみな称賛を得たのです。
 ああ、エリヤは称賛を得ました。怒ったので約束の地に入れなかったモーセは称賛を得ました。エジプトに下ったアブラハム、アブラハムとイシュマエル。アブラハムは称賛を得ました。神様が完全であるように完全であろうとつとめないようにしましょう。
 主が望んでおられることは、主に向かう完全な心です。すなわち、私たちが働きを完全になしたことではなく、私たちが主を信頼したことにあるのです。私たちは信仰と出しゃばり、信仰と強情やうぬぼれとは大きな違いがあることをいつも覚えていなければなりません。信仰は無私に基盤があります。信仰の人々はつねに大変へりくだった人たちでありました。そのことは彼らが間違いを犯した時に自ら改めたことに刻印されています。無謬を求めるのでなく、信仰深くあることを求めましょう。)

(今日の箇所は "By Faith..." の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003203.htmlです。訳文が大幅に増えました。引用文のところがどうしても訳し得ず、前後伸ばして訳してみましたが、大分誤訳が多いことと思います。いつも申し上げていることですが、賢明な読者の方で指摘して訂正してくださると助かります。よろしくお願いします。)

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