2011年5月12日木曜日

主が与えられる訓練

古利根川に架線する東武野田線の鉄橋下にたむろする鴨
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な者となります。(新約聖書 ヤコブ1:4)

私たちは、神様の導きに対して二つのうち一つを選ぶことができます。苦く、不愉快で厳しいものか、それとも訓練によって大きくされ、成長させられるか(のどちらか)です。それは許容量が大きくなり、将来ずっと神様の主権の下に支配される道具となるようにと、広いところへ連れて行かれることに関することであります。

私たちの歴史に起こる出来事はいつも推測できないものです。けれども私たちの説明できることがたとえ第二原因であろうとも、主が支配権を持っておられるということです。そして主は、時々世にもっとも恐ろしいことを惹起させ私たちを当分の間は圧倒することを許す値打ちがあると考えられるのです。そのことで主の御名と利害が苦しむように見えるのに対して、主は主の民をそれを通して成熟の場所へと連れて行かれるのです。彼らは自分たちのための主を知るようになります。

このような恐ろしい事柄を通して、私たちは主が主の子どもたちの人生において主御自身というはるかに価値あるものを生み出しておられるということを知るのです。これが主の正しさであり、主の正当性が主張されるゆえんです。主は何か別の方法でことをなすことができたら、主はそうなさります。 長い目で見て、主は主の民の間で霊的な成熟をはかられるのです。主は彼らを自分を知るところにまで連れて行かれるのです。

主は私たちが主を知るところ、すなわち、知るためには訓練されねばならないという感覚を持つところにまでに達することを望まれるのです。 主は私たちに恵みを与え、私たちが主の偉大な目的という光のうちにあってすべてことが処理されることを受け入れるようにしてくださるのです。

(文章は Maturity - The Lord’s Desire For His People の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003181.htmlです。短文ではありますが、結論部分にあたる末尾にあたるところです。訳は再検討の余地があるものです。)

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