2011年5月17日火曜日

御霊におゆだねしましょう

御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。(新約聖書 1コリント2:15)

(救いはたましいが救われることだけではなく、そのたましいがキリストの満たしを経験するまでの道を歩き始めることです。みことばと御霊のどんな宣教もその目的に支配されているのです。だから(人が)救われるだけでいつまでもそこにとどまっているのは、みことばの目的が失敗しており、聖霊の働きが十分でないのです。私たちが「主の働き」と呼ぶ、この世のいかなるところにも出て行くことは、私たちがこのことによって支配されることを意味していなければなりません。

すなわち、できる限り、そこではキリストの満たし以下の何ものもないということであり、キリストがすべてであり、そこではすべてのうちにキリストがあるということです。それが最終の、絶対的な終着点であります。キリストとの分離も分担も一切ないのです。すべてのものであり、すべてのうちにあるキリストでなければならないのです。

私たちはそれが聖霊の目標であり目的であることをはっきり知るとき、いのちを持ち、明確化された宣教を経験します。それはすべてに妥当します。もしあなたが主のものであるなら、あなたの生活は主のことばと聖霊に支配されねばなりません。もしそうでないなら、あなたの主との関係はどこか間違っているのです。あなたの働きがたとえどんなものであろうとも(両親として家庭にあるものであっても、また家の仕事をするものであっても、商売のうちにあっても)もしあなたがそこで個人的なことに関して、主と交わりがあるなら、あなたの生活はキリストを代表するものであるにちがいありません。それが宣教です。

もし私たちが生活の全分野にそのことを持ち込むなら、事態は大変別なものとなることでしょう。それはあらゆる動機に挑戦し、あらゆる考察を支配し、あらゆる争いに解決を与えるにちがいありません。(一部訳は省略)物事はこのポイント、すなわちすべてのものであるキリストとすべてのうちにおられるキリストというものだけで試されるに違いありません。)

私たちは絶えず問わねばなりません。「このことはキリストがすべてなのだろうか、それとも私は自分のやり方を望んでいるのだろうか。私は自分の感情や意欲や好悪に支配されるのを許しているのだろうか、それともキリストがすべてであるのだろうか。私の力の範囲内のことに関してキリストがすべての中におられるか。」そのことは日々の細かい点にいたるまで支配されていなければなりません。私たちは腹を立てたりイライラする時、そこを離れ、その闘いを戦い抜いて、「主よ、あなたはこのことでもすべてでなければなりません。私の思いがどんなに影響されようとも構いません」と言わねばなりません。

そして、日々の生活と経験の細々したことからもっと広い領域にいたるまで、また主の大切なしもべであるところに至るまで、みことばと御霊に支配されなければなりません。みことばと御霊は一つの目的を持ちます。すなわちすべてのすべてであるキリスト、すべての中におられるキリストということです。

そのことを認識すれば、私たちはこのさらなることが必要だと知るのです。霊的とか霊的な人々はどんなことを意味するかを定義するのは極めてしばしば難しさを感じさせるものです。説明するよりは経験する方がもっと良いことである事柄の中の一つです。しかし差し当たりは、霊的な人とはみことばと御霊によって支配される人だと、こんなふうに、極めて簡潔にまた極めて無難かつ健全に定義され得るものです。また内外のすべてにおいてキリストがすべてであり、すべての中にあるということです。それが本当の意味で霊的ということです。

(今日の文章は Filled Unto All the Fullness of God - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003186.htmlです。訳せないところがありその文章はカットしてあります。ご了承ください。( )書きのところは4月29日のところと同じ箇所でした。自分で読んでいて前に読んだ記憶が途中からよみがえってきました。自分でいうのもおかしなものですが、その日の訳の方が生き生きしている感じです。不思議なものです。あとになったから訳が上達するというものでもないのですね。)

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