2011年7月11日月曜日

キリスト、この方に安息があります

私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。(新約聖書 ヘブル4:11)

ヘブル人の書き手が言うには、入ることに失敗した人々は安息にはいることに失敗したということです。福音が前もって伝えられていた人々がはいることに失敗したのです。そのことは注目に価します!福音は人々に語られていたのです。こういう人々は福音が前もって伝えられていた人ばかりです。

福音とは何ですか。そのつながりの中で質問に答えるのは、私たちに安息を与えるキリストです。それが福音です。私たちの安息であるキリストの福音はイスラエル人には型として宣べ伝えられていました。その福音を前もって語られていた人々が安息にはいることに失敗したのです。それで使徒は言います。「私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」

彼らは落後しました。神は別の日を設けて言われます。「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない・・・」福音は神の安息にはいるために信ずる者に宣べ伝えられているのです。主イエス様はこのことを「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」と言われて信仰の初期段階に置かれたのです。天におられるキリストが私たちの霊の安息であり、心の安らぎなのです。

安らぎの本質って何でしょうか。それは心の満足と確信です。もしあなたがたとえどんなにたくさんの仕事をしなければならないとしても満足しているなら、あなたは心の安らぎのうちにあるのです。さらにもしあなたが仕事がうまくいくと全く確信しているなら、あなたは確信のうちにあり、心の安らぎを経験しているのです。

私たちにとって、すべてのことは、先駆者としてはいり、私たちの安息となってくださっているキリストに基盤があるのです。私たちは骨折り、自分自身を注ぎ出し、また燃焼し、燃え尽きることでしょう。しかしそのすべてにあって真の心の平安があり得るのです。私たちは攻撃され、あらゆる方面から圧迫され、投げ捨てられ、試みられることでしょう。しかしキリストが依然として私たちの安息として残り得るのです。

というのは、先ず第一にキリストが破壊する力(訳注:悪魔の死の力)を打破されたので、これらのことどもは私たちの破壊とはならないことを知っているからです。次に私たちの骨折りは空しく終わらないのです。なぜならキリストは勝利のうちに死を飲み込まれたからです。キリストが私たちの安息なのであります。

(今日の箇所は The Essential Newness of the New Creation - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003275.htmlです。)

0 件のコメント:

コメントを投稿