2011年7月14日木曜日

挑発という炎

青空に 百日紅 鮮やかに 思わず仰ぐ 天の宇宙 
わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、 どんなに願っていることでしょう。あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。(新約聖書 ルカ12:49,51)

(避けることのできない怒りの炎でした。聖霊がやって来、炎が下され、地を移動し始めるや否や恐ろしい反対の暴動が起こったのです。)

もし、皆さんも私も御霊の男であり女でありたいのなら、気ままな生き方は送れないでしょう。地獄の憎しみはそこに集中するでしょうから。ただちに衝突が生じ、聖霊が私たちにますますその道を示し、神の御心に導けば導くほど、私たちがこの反対や敵意をますます見いだすのは当たり前だからです。そしてその対立は私たちと世との間だけでなく、時々主の民自身の仲間のうちにも生ずるのです。皆さんは時々なぜだと不思議に思われることでしょう。

皆さんは新約聖書を読むに連れて、「これらの人々はどうかしたのですか。なぜ彼らはそんなに狼狽して悩まねばならないのですか。そしてこういうことがなぜそんなに自然になされねばならないのですか。困難にもめげず、またそんなにも理不尽なのですか」と不思議に思われることでしょう。しかしそこにある通り、それが事実なのです。それは避けられないことであります。

ご存知の通り、このように、主がなすために来られ、今もしておられることは、いかなる中立状態も認め得ないものなのです。あれかこれかになるのです。賛成するか反対するかです。燃える炎のような目(訳注:黙示 1:14)、ここには再度、炎が登場しているのですが、その目は微温的なことやラオデキヤの人々の性格のようないかなるものも(訳注:黙示3:16)許しません。炎にはつねに明確な要素があり、積極的な状態を生み出すのです。

もし、すべてのことが全部うまく行き、穏便で何の妨害も悩みも敵意も反対もなければ、皆さんは聖霊が非常に犠牲の大きい、そのような積極性を目的として、それだけたくさん働くのかという疑問に対する理由を持つのです。主とともになのかそれともそうでないかであり、その間には何もありません。遅かれ早かれ結果は出されることになります。

だから、主はそのことが主がなすために来た理由だと言われるのです。このことは思わぬ出来事であったり、悪化したり失敗だったりする事態ではありません。これがまさしく主が地に炎を投ぜんがために来られたことであります。これらのことは炎がもたらす避け得ない結果なのであります。

(今日の箇所は The Cross and the Way of Life - Chapter 1 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003282.htmlです。)

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