2011年7月24日日曜日

根深いサタンのわな

群生する野のゆり、良き香りが鼻をつんざく。ブルーノ・タウトはここで過ごす。
ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。(新約聖書 1コリント10:14)

(ご存知のように、偶像崇拝は、時と所を問わず、たとえそれ自身がどんなに良いことであっても、神よりも、すなわち主御自身よりも、そのことが目的になるような時に、原理的に存在するものです。)

害になるものだけでなく、それ自体で良いことがたくさんあります。その良いことは、それにもかかわらず、主御自身に代置されることが容認されており、そのためにその傾倒ぶりが見られる人のうちに偶像崇拝の原則が形となって現われ得るのです。

あるクリスチャンとかクリスチャンの団体に接触してごらんなさい。そしてその接触を主御自身についてよりももっと多いつながりになるように一層行なってごらんなさい。主御自身の評価の可能性に対して全く盲目にさせ、組織を重視する油断ならない反抗があることに気がつくでしょう。教派や、宣教師の団体や、キリスト者の働きの一部に大変専心することができますが、その結果、主によるいかなるすぐれた評価の余地もなくなるのです。そのこと自身が目的となり、生きる目標となってしまい、主があなたをご自身のうちへともっと進ませたいと望まれるとき、障害となるのがその良いキリスト者の働きや団体や伝統や人間同士のつながりであります。そうです。それが原則的な偶像崇拝です。

どんなに過去、主はこのようなことを何度も何度もすさまじい強打でもって打ちのめさねばならなかったがわかります。そのこと自身は良いものでしたが、それはご自分の民を個人的に救うためでした。(16頁)

主より何が先行しますか。神が人の生活の目標として確立しようと求めておられるのはご自身であって、ご自身との関係のある事柄ではありません。もう一度申し上げますが、もしあなたがひとつのことに触れるなら、たとえあなたが人々が主御自身に向かわせることを視野に入れて接触していても、恐らく何か大変激しいものに遭遇するでしょう。そのことを別の言葉で言い換えるならば、もし主に向かうように訴えることが人々にとってはあれこれや他のことを捨てなければならない結果になるように見えるなら、その時、戦いがあるのです。その戦いとはサタンが永遠に偶像崇拝のキャンペーンをはり、キリスト者の間で、たとえそれ自身がどんなに良いことであっても、主御自身にかわることに関係するように足元を固めてしまうということです。そしてもしあなたが霊的な感覚をお持ちなら、ただ単に確立された組織に遭遇することでなく、恐ろしい霊的な力に向かい合っているということです。

それは本当でしょうか。本当のことなのです。もし私が今までそのことに直面したことがなかったのなら、もしあなたの宣教が彼らと接触していても、キリスト教組織の背後にある大きな力を信じることもなかったでしょう。あなたはあなたに向かって来る何ものかに遭遇するのです。それは単なる物事でも人々でもありません。それは今にもあなたのいのちそのものを殺しかねないものです。愛する皆さん。これが原則的かつ基本的な偶像崇拝なのです。なぜなら究極的な結果は主でさえ主の心が注がれており、主の民を主の望むところへと霊的に連れて行くことができないからです。彼らはそれほど主のことに深く結びつけられているのです。彼らは主のことと主御自身の間を識別できないのです。(17頁)

(今日の箇所は The Cross, the Church, and the Conflict - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003292.htmlです。今日から引用頁を記入することにしました。( )内の小文字のところはいずれも読者の便を図って原文よりも訳を足し加えているところです。)

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