2011年7月23日土曜日

絶えず父なる神に問われる御子

高崎・少林山達磨寺内
わたしは、自分からは何事も行なうことができません。(新約聖書 ヨハネ5:30)

(キリストは全く私心のない心を原動力とされています。キリストには自我原理がないのです。キリストは地上にある生活をその基盤として受け入れておられました。その基盤に試みがなされたのです。そしてその基盤の試練を通して完成されたのです。それはいかなる点においても、いかなる時においても、またいかなる緊張下にあっても、自らにしたがって行動し動き、選択をし、決定するかどうかという試練でした。また(父なる神から)独立し分離したお方として、絶えず自ら話し、行動し、動き選択するだろうか、あるいはいかなる方法で自らを表すかという試練でした。)

主の生涯の試練の背景を構成した一つの問題は、この人はひとりで行動するのだろうか、ひとりで話すのだろうか、ひとりで選ぶのだろうか、ひとりで決定するのだろうか、ひとりで動くのだろうか、というものであったことだとあなたが認めるなら、あなたは主イエス様の場合のあらゆるものの核心部にたどり着いているのです。そして主の答えはいつも自分からは何もしません、でありました。「子は自分からは何事も行なうことができません」(訳注:ヨハネ5:19ほか)「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません」(訳注:ヨハネ14:10)

ありとあらゆる種類の訴えが主を迫害するために彼に向かってなされたが、それは瞬間の衝動に基づくものであったり(訳注:兵士たちの言動?)、成功報酬を約束するように見えた交渉にたいする応答であったり(訳注:ユダとの関係か?)、最も信頼するに値する知恵のように見えた議論によったのです。それらは主自らが出て、動き、行動し、話し、何かをなすように誘うものでした。

(こういう誘惑の機会となった人々によって、そのことがそのように理解されたのか、そうでなかったかはともかく、このことは明らかに悪魔、すなわち、彼らを用いつつあった扇動者のたくらみでありました。)

時には、情況が必要であったり、また時には主のお働きの結果(訳注:十字架にかかるということ?)のお約束があったり、主がとっておられる道(主の兄弟が、主を信じていず、主に向かって、エルサレムに上って自分をあらわせと言って、上るのを遅らせられた主を叱った時のように)が全く無知であることをあらわすことにより、(悪魔の)暗示が影響を及ぼしたことでしょう。

兄弟たちに向かって主は言われました。「私はこの祭りにはまだ上って行きません」そしてそれから、兄弟たちが上って行った後、そんなにもすぐに、主もまた上られたのです。しかし、主は普通の理由にうながされて上られたのではなかったでしょう。主はこのことは誰でもしていることだったからという理由だけでこのことをなさらなかったし、誰もが祭りに上って行ったので、主も当然上って行かねばならないということによって強く促されたのでもありません。

九十九人の人がそうしたからと言って百番目の人がそうしなければならないという言い分にはなりません。私たちは多くの人が行動を決定する要請によって動かされるものではありません。そうするのは一般的なことです。誰もがまたそうしています。それはそうするように認められることです。いいえ、そうではないのです。私の父は私にこのことをするように求めておられますか。それが絶えず私たちの歩みを支配しなければならない問題であります。

主イエス様の場合、常時、主に反対の道を採用させ、父なる神に尋ねたり、父に直接導かれることなしに、つまり、まるで彼が自らの主人であったかのように、また他の所でアピールする必要がなかったかのように、個人の立場で行動する土台がありました。ところが、主にあっては個人的で独立的であったことは何もありませんでした。今話しているのは、罪深い個人性や積極的な個人性のようなものを単に話しているのではなく、独立した行動、つまり最上の目的のために、かなりふさわしい意図を持つ良い動機のために取られた行動について話しているに過ぎないのです。そうです。このすべてはなされてよいものですが、父からの積極的な言葉は別としてです。(Yes, all this may be done, but apart from the positive word from the Father.)たとえどれほど動機が良くてもそれが独立した考えを生み出すのです。

(キリストの心は聖霊による油注ぎに支配され、その油注ぎによって動機が起こされ、つねに聖霊が動かれるのを待っているのです。それがキリストです。精神も心も意志も、父なる神の考え、願い、意志に統制されているのです。)                                                           

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003291.htmlです。英文を併記したところは訳がおかしいと自分で思っているところです。識者のご教示を賜りたいです。)

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