2011年9月30日金曜日

まことの神が示される彼岸の世界

この地に住み着いて、かれこれ30数年経つが、この一帯は初見であった。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。小さい者たちよ。今は終わりの時です。(新約聖書 1ヨハネ2:17〜18)

(ヨハネは終わりの時に対して「小さい者たちよ。今は終わりの時です。」(1ヨハネ2:18)と書きました。それなのに、彼はその終わりの時に始めを持ち出したのです。「初めからあったもの、・・・」(1ヨハネ1:1)しかしヨハネがこういう時のしるしを感じている一方、彼は永遠なることに関心を払っています。ですから私たちは始めへの言及と終わりの時への言及の間にいつまでものこるものに対する言及がなされていることを知るのです。「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(1ヨハネ2:17)したがってヨハネの手紙には、始まりがあり、最後の時があり、「永遠」が書かれているのです。
 そのことに言及するのは手紙がふくんでいる全てのことはそのことと密接な関係があるからです。そしてこの手紙においてはこの終わりの時の特別な性格と目的の全要素があり、終わりの時に神がいつまでものこるものを産み出そうと意図されていることがあるのです。もちろん、ヨハネの手紙にはパウロをとおして私たちに示されたような奥義の完全な順序はありません。しかし私たちは終わりの時のすべての霊的な要素、神の私たちに対する取り扱いを支配している重要で根本的な霊的実在を手にしているのです。
 たとえば、まことの人の子としてのキリスト、かしらとしてのキリス トです。交わりという点ではキリストにある神と私たちは一体であります。また、私たちはイエス・キリストの血潮、神の御子、みことばと御霊という重要で支配的な実在を知ります。さらに永遠のいのちという重大で基礎的な原理、反キリストのうちにあるサタンの偽りの働き、信者の交わり、お互いの間の愛について言われていること、きよいいのちを知るのです。確かにこれらはこの特別な終わりの日に人々とともに神の働きをしなければならない重要な要因であり霊的な要素であります。
 第一の私たちの考察はこの文頭の意義にかかわることです。「初めからあったもの」私たちは終わりが初めによって支配されていることを大変注意深く認識する必要があります。そのことを考慮に入れ、心に留めることは大変重要なことです。「小さい者 たちよ。今は終わりの時です。・・・」終わりの時に関連して、初めからあったものが完全に現されるのです。ヨハネが見ていることは明確にかつ容易に体験され得るということです。別のことばで言えば、ヨハネはこう言っているのです。「小さい者たちよ、私たちは終わりに来ています、終わりの地点に立っています。今私たちは到達したもの全てが初めからのものであることを知りたいのです。それは終わりの時に初めの良いもののうちに立っていることができるようになるためです。また初めに出現したものが終わりに損なわれることもなく、弱められることもなく、完全に明確にここにあるようにというためです。
 ヨハネの言わねばならない全てのことは(小さな範囲に大変多くのことが集約されているのですが)初めにあったものを詳細に調べることですが、その始まりは終わりの民にあっては損傷することなく見出されることが約束されているのです。その道筋を取るように導かれるに際して彼は事実上次のように言うのです。「私たちは将来さばかれます。すべてのものが始めにあったことによって終わりの時にさばかれるのです。私たちは終わりの時にその基準に達しなければなりません。そして終わりの時にその光の中に十分立ち続けなければならないのです。」
 さあ、それでは手短に出来る限り、その重要性を把握出来るように分けて考えましょう。(中略)

 今日もそのことは大いに考えられます。私たちに破滅がやって来る、もはや主のために何をすることもできず、みことばを読むことも祈ることさえできなくなります。そして、通常の祈祷課題もこなすことができず、もはや主の民と会うこともできなくなると、やっとどれだけ多くのものがあるか知るのです。主の民のほとんどは、今やそこにさしかかっているのです。)

地上の大きな広がりを越えて神の民は動かされ、散らされ、表面的なあらゆるものを剥奪されるのです。問題は、なぜ主はそれを許されるのか、であります。主が賢明なお方であり、力があり、恵み深いお方であるなら、なぜそうなさるのか、であります。それは、どれだけ天上のキリストが神の民にとって大きいものであるか、そして地上の物事の秩序に、キリスト者の秩序においてさえ、どれだけ多く依存して来たかを悟るためであります。


「初めからあったもの・・・小さい者たちよ。今は終わりの時です。・・・神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」皆さんはこのつながりを理解していますか。もし終わりに、最後の時に、それが初めからあったもののようであるなら、いつまでも続くでしょう。けれどももしそうでなかったら、それはなくなることでしょう。この主との天的な関係についての全体的な問いは大変大きな事実を探るものであります。その事実とはキリストがあらゆるものを天に移すということ、及び、主との天的な結びつきの中にあるいのち以外はいかなるいのちも、どんな時にも試みに立ちおおせることはできないということです。


私たちは主に対して、主が、もし本当にそれが真実であるなら、これを取り、私たちを探ってくださるようにと求めたいです。私たちの幾人かは満足することでしょう。なぜなら、私たちはこのことは正確には主が私たちを取り扱っておられることだと知るからです。なぜ孤独があるのですか。なぜ試みがあるのですか。なぜ霊的な生活に寂しさがあるのですか。私たちを事がらから、キリスト者の事がらからでさえ、そこから救い出して、主御自身のもとへと行かせるためであります。その結果、キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるという神様の目的が叶えられるためであります。事ではありません。キリストです。キリスト教ではありません。キリストです。キリスト者の働きではありません。キリストであります。

(今日の箇所は That Which Was From The Beginning - Chapter 1  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003383.htmlで す。この文章はこのブログでも何度か登場したもので、今日の該当箇所はこの文章全体の末尾に当たるものですが、すでに5月13日に「天に属する民」という題で訳しているものです。その後4ヶ月は 経っているのですが、訳業は進歩せず、逆に今日の時点で訳してもそれ以上の訳が見出せませんでしたので、その部分は再録することにしました。ただしこの一 章の冒頭部分を今回は増し加え小さい文字で掲載してあります。お読みいただければ幸いです。なお中略の部分で小見出しで以下のことが語られています。「始まりが終わりの支配的基準である」The Beginning Remains the Governing Standard to the End )「特に強調しなければならないこと」(A Special Emphasis)「神の始まりであるキリスト」(Christ as God’s Beginning)「天の啓示」(A Heavenly Revelation )「天にある満たし」(A Heavenly Fulness )「キリストはすでにすべてのものを集め、天に移されている」(Christ has Gathered up Everything and Transferred it into Heaven))

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