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いわゆる「放蕩息子の帰還」1606年 レンブラント・エッチング |
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(新約聖書 ヘブル1:1〜2)
神は過去、「いろいろな方法」で、つまり、さまざまな部分だけでなく、さまざまな様式で語られたとヘブル人への手紙は言っています。余り長く時間をとると旧約聖書に戻って神が語られたすべての様式を見ることはできないでしょう。神は無数の異なった手段によって、時にはことばによって、時にはわざによって語られました。その方式は実に「さまざま」でした。しかし、ここで宣言されていることは終わりに神が一つの方法、一つのすべてを包含する方法で語られたということです。それは神の御子のうちにあります。神の御子は、終わりに語られる神の一つの包含的な方法であります。一方では誰もイエス・キリストを離れては神から何も得られないでしょう。神は御子にある以外には全く語ることを拒絶なさるのです。もし神があなたに言いたいことが何であるかを知りたいのなら、あなたは御子のところに行かねばなりません。もう一方でイエス・キリストにあるなら私たちは神がつねに言おうとされることをすべて知るのです。
(特に若いクリスチャンに申し上げたいのです。私は長年かけて聖書を読み学んできました。全く正直にお話するのですが、今日この本・聖書は全く私の分を越えたものです。もしそのことが本当でなかったら、私は決してこのヘブル人への手紙には戻らなかったでしょう。長年この手紙から説教もし学びもしてきました。しかし今日この手紙は私をはるかに越えているのです。果たして私たちはこの手紙を「ヘブル人への手紙」と言っていて、いいのでしょうか。「この手紙に啓示されている主イエス」と言うのがもっと正確でありましょう。)
そうです。私たちが依然として理解しようとしていることよりもはるかにもっと神は御子にあって語っておられることをこの手紙をとおして知るからです。私たちはイエス・キリストから離れて何も持たないのです。イエス・キリストを離れるものは何も必要としません。
(手紙は神の愛が神が子に用いるむちにあらわれると言っています。神はいつも良いこと、最善なことを快適な形にまかされません。先日薬を飲まねばならなかった
小さな男の子のことを聞きました。そのことは(その子に取って)あまり愉快なことではありませんでした。彼の父親は言いました。「この薬にはビタミンがたくさんあります。」男の子は言いました。
「お父さん、なぜ全部いいものはいやなものに入れられねばならないのですか。なぜアイスクリームに入れることができないのですか」主はいつもいいものをアイスクリームに入れられるわけではありません。時にはビタミンはいやな薬の中にあるのです。
さてそのことはこの手紙が言っていることにぴったりです。神が私たちをそのようにお取り扱いになるとき、私たちを罪に帰せられるのではありません。神は私た
ちを解放するために働かれます。ただ、もしあなたがここにあるこれらの話があなたを救うのだと思っているなら、あなたは誤解しているのです。それらは神がなさっていることを説明するものに過ぎません。神は理論によっては決して救われません。)
あなたはキリスト教の教義についてかつて書かれたものをことごとく読むことはできましょうが、相変わらず同じ男性あるいは女性であり得るのです。神の方法は
(それとちがって)非常に実際的です。神は経験によって私たちを教えるのです。その経験は時には非常に理解しにくく、ヘブル人の手紙のここでは(訳
注:12:7)「子の訓練」と言われています。
主イエス様が私たちの心に何度もこれらのことを焼きつけて下さいますように。神はそれでもなお御子のうちにあって語っておられます。そして神の語りかけは御子の仲間(兄弟)を得るためであります。この天からの召しを受ける仲間、キリストの仲間(聖徒)は厳しい学校に入り、多くの厳しい課程を学ばなければならないでしょう。しかしそれらを学んで一人一人が主イエス様にあって受け継ぐものがどれほど偉大であるかを理解するようになることでしょう。
(これにつけくわえたいのです。私の経験によれば、誰も苦難なしには本当に霊的な知識を身につけられないということです。頭の知識について話しているのではありません。内なるいのちにある主を本当に知ることについて話しているのです。苦難を抜きにそのことを知るにいたったと言う人を私は誰も知りません。恐らくそれは口に出すのも憂鬱なことでしょう。しかしそこに神のみことばにある法則があるのです。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。」(2
コリント4:7)そしてこの土の器が試練と苦悩をとおしてどんなに貧しいものかを学びますが、一方で主がどんなに素晴らしいかを学ぶのです。
ヘブル人への手紙は言います。「後になると」(それは、懲らしめのあとです)「平安な義の実を結ばせます。」(12:11)何というすばらしい聖句でしょう。これらの実は懲らしめの線に沿って、そして苦難の方法によって生ずるのです。そのように私たちも使徒が苦難のうちに喜んだに違いないその恵みを求めましょう。)
(今日の箇所は The On-High Calling - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003382.htmlです。このOn-high callingは1963年スイスの年会で語られたものの記録のようですが、珠玉の文章が11章に分けて記録されています。是非とおして全部読みたいものです。)
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