2011年10月29日土曜日

万物は御子にあって創造されています

今日も日本は快晴でした。用水路の空き地を利用した三層の花の展開です。
すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。(新約聖書 ローマ11:36)

 聖書において二つの契約、新約と旧約によってあらわされているような二つの区分はないということ、ましてや旧約聖書が時代によって細分されていてもその区分さえないということは明確にする必要があります。確かに表現方式において二つあるいはそれ以上のものがありますが、聖書全巻をとおして初めから終わりまでたった一つのことが述べられているに過ぎないのです。

 聖書を摂理によって扱い、異なった時代の異なった特徴を強調する私たちの性向は、まるで類型論や象徴論に夢中になりうるかのように機械的に注意させる結果にこれまでなったかもしれません。だから、私は次のことをもう一度強調したいのです。すなわち神はこういう様々な表現形式によって初めから終わりまで一つの考えによって、しかもただ一つの考えによって行動されるということです。万物は、一貫して、あらゆる時代において、神の御子をあらわし、神の御子に従属しているということです。

 神はご自身の人格や、また贖いや完全な働きの真実さをもって万物を統治されます。それが、 聖書の最初の巻から終わりまでの一つのご人格であり、一つのお働きなのであります。旧約聖書から新約聖書への変化は簡潔であり、間接的なものから直接的なものへの変化に過ぎないのです。また、象徴的なものから象徴されるものへの変化、そして一時的な表現から霊的な真実在への変化であります。それがすべてです。目的や対象の変化ではありません。また基盤や土台の変化でもありません。それはいかなる仕方にあっても原則の変化をあらわすものではありません。

 おそらくあなたがたはそのことを全部知っていると感じているでしょう。しかし、私たちのうちの何人かが今まで認識したことよりもはるかに多くのものがあるのです。たとえばあらゆる神の家長に対するお取り扱いはご自身があなたや私に対して取り扱われるのと同様に原則としてご自身の御子の基盤の上に基づいたことでした。旧約聖書におけるイスラエルは私たちがこの摂理のうちにあるのと同様に神の御子の基盤の上で取り扱われていました。神は決していかなる時も、またいかなる手段によっても、ご自身の御子以外のいかなる基盤の上に立って働かれたことがないのです。

 神の創造的な活動はご自身の御子の地盤の上にあったのです。「御子のうちに、御子を通して、御子によって、御子に向かって、万物は創造されました」(コロサイ 1:16)その時から万物はその基盤の上に始まりましたし、将来キリストにおいて完成されるのです。どんな手段によろうとも、どんな方法によろうとも、神は 働かれ、ご自身の基盤は常に同じだったのです。そして来るべき時代においてその基盤は変わることがないのです。それはキリストという土台です。私たちがこのことを記憶し、そのことについて全くはっきりした態度を取ることは大変重要であります。

(今日の箇所は The Israel of God - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003428.htmlです。)

0 件のコメント:

コメントを投稿