2011年10月17日月曜日

管理者精神は永遠なり

久しく留守にしていました。今日から数日、10/7〜10/16の旅を載せます。先ずは眼鏡橋です。
このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。(新約聖書 1コリント4:2)

神様の目から見て、最大の徳は忠実であると私は信じます。忠実さはすべてのものを受け入れます。同時に忠実さは神様ご自身のみこころに従うのです。

この管理者、すなわち使徒パウロを一瞥してください。「デマスは私を捨てました・・・」(2テモテ4:10)「・・・アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。・・・」(2テモテ1:15)忠実さを引き起こすものがどれもこれも駄目になっている時のパウロをご覧なさい。彼は実際にひとり置き去りにされています。彼には今までよりももっとたくさんの敵がいるのです。そして今や悲劇であり悲惨であることは彼の敵のかなり多くの人が彼がもっとも多く仕えた人々であることです。尽したことのない敵がいることはそれほど難しいことでないのに対して、今や彼が尽しきった当の人たちが敵となってしまったのです。しかしあきらめるという考えも、兆しも何らありません。

彼の言葉は 「・・・死に至るまで忠実でありなさい・・・」であります。こういう管理者が忠実なのです。彼が死んだ時、事態は大成功を証明したとあなたなら言えないでしょう。全くそのようには見えなかったのです。パウロの生涯は絶対に外形的には汚名をそそぐことはありませんでした。(しかし)果たしてそうでしょうか。彼は孤独な人として大体において死にました。しかし忠実でした。「・・・管理者には、忠実であることが要求されます。」

けれども他の人を富ますことは、その要求を満たすことに続くものであります。それがたとえどんなに犠牲があろうとも。パウロは死んでいないのです!私はパウロが自身の宣教から生じたものをすべて知っており、また彼の宣教が私たちにとって重要であることを願うのみであります。主は私たちに主のしもべをとおして出会わせてくださいました。そして私たちはパウロをとおしてでなければ、決して決してキリストの満たしのもっとも深いところや基底部のいかなるところにも近づけませんでした。

私たちは進み続けるでしょう。そしてもし私たちが今の人生の二倍三倍生きるとしても私たちがパウロの管理者としての忠実さに依然として負うことが多いことに気づくことでしょう。それが幾世紀も続いて来たのです。

それが忠実な管理者精神です。そしてたとえ管理者が地上の管理責任から解き放たれて召されたとしても、その管理者精神は続くのです。忠実さがいつも私たちの途方もない夢にまさって報われるのです。願わくは、主が、時々忠実さが私たちに完全な失敗に見えたとしても、私たちに忠実さを守らせてくださいますように。主が私たちを良き管理者にしてくださるからです。

(今日の文章は The More Excellent Ministry - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003416.htmlです。昨日御代田でベック兄のメッセージをお聞きしたばかりですが、全くその続きのようなスパークス氏のメッセージです。)

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