何層にも及ぶ雲海、遠くに八ヶ岳、手前は浅間山麓の樹林と畑(10/16) |
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。(新約聖書 1ヨハネ5:11)
(ヨハネ3:10〜11、1テサロニケ1:9、ヘブル9:14、ローマ9:26、2コリント3:3、6:16、マタイ16:16、1テモテ4:10、1テモテ3:15、ヘブル12:22、3:12
あらゆるこれらの聖句、生ける神との実際生活上の様々な観点を扱っているすべてのものに詳細に触れないで、全般的なことを小さな範囲に集約し、いくつかの簡単で直接的で正確な適用をお話しすることにつとめます。
生けるお方
第一に認識すべきことは私たちが関わらなければならない神は生ける神であるという事実です。おそらくそれはそれほど驚くべきこと新鮮なことだとは思われないでしょうが、私が信ずるのに、それに関しては、その他のあらゆるものに関しても、私たちが概して遠ざけられて来た意味を認識するために目覚めることは可能だということです。
私たちが関係する神は生ける神です!上掲の聖句が示すように、恐らく私たちのほとんどの者が知るべき理由を持ってきたように、その事実は二つの側面を持ち、二つの意味を告げるものです。一方では心のうちの正直な者にとってはかりしれない心地よさがあるという事実です。そもそも私たちが真心から生ける神に向かうとき、恐らく生ける真の神に向いていることを知ることは最大の出来事でしょう。
テサロニケ人について、彼らが偶像の神々から「生けるまことの神に仕えるために」立ち返ったことを読むことができます。使徒はこういう信者の間でそのことが意味していたことを喜んだのです。と言いますのは、テサロニケ人へのこれらの手紙は、もし、いのちがある手紙でなければ、何物でもないからです。
そういうことを思って読んでごらんなさい、そうすれば、テサロニケの人々がいのちにあって生き生きとした歩みをしていることが分かるでしょう。随所に生き生きとした証、喜びの証、感動する証のしるしがあります。そうです、あふれるばかりの、それが遠くまで、しかも故郷を離れた遠くまで達するほどの感動があり、それらをふくめて彼らの信仰があらゆる教会で話されたのです。使徒が彼らについて言及する必要はなかったのです。それは彼らをとおして、ことばが遠くまで広く伝えられて行ったからです。彼らにとって発見の意味を持ったのは、他の宗教でもなく、他の教えの体系でもなく、他の人々との交わりでもなく、彼らが立ち返った生ける神にあったのです。物事でなく生けるお方にあったのです。)
私たちの証がどういうものであるかに関しては、完全に私たちがどれだけ主を理解しているかにかかっています。もし私たちの気持ちが教えや伝統や解釈や人間のつながりやキリスト教に向いているなら、何かを見失うことになります。しかし、もし生ける神に向いており、主が生ける神であることを悟っているなら、いのちを得ることができます。すべてが初めからまさしく経験において生き生きするのです。そのように言っても決して過言ではありません。
最初に目覚めることを言いましたが、私たちのうちのある者は目覚めるのが遅過ぎるのです。私たちを眠らせる事態は(たとえ、落ち着かず、不満足感があり、左右に揺れていたり、ため息やうめいきをついたりすることを除けば大半は眠っていたことを知らなくとも)キリスト教や生活においてかなり早くから神の民のことどもと関係して来たという事実がありました。キリスト教や主との交わりは幼児期にもたらされたものでして、それは全部全く慣れ親しんでいたまわりにある主の事柄の組織体系の事柄となって来たのです。祈りをするように、集会に行くようになどはずっと教えられてきました。ところが、ある日、この神が生ける神であるという事実に目覚めたのです。永らくあるやり方で主とつながって来たのですが、主は私たちにとって個人的なものでなく、生ける神ではなかったのです。
もし許しを請う必要があるなら、そのような初歩の段階に戻ることを許してください。というのは私たちの間にある関係はその種のものであるいくつかであることは全くあり得るからです。恐らくあなたは主と関わりのある事柄と関係を持っていたことでしょうが、個人的に内面的に生ける神を喜べるかとかあなたにとって生けるお方であるかどうかの質問に対してはどうだったのでしょうか。私たちはそこに戻って始めねばなりません。もし聖霊がそのことをこれまで真実にしてくださったり、
過去にあなたの経験において真実にしてくださらなかったのならこのすべてのことはあなたにとっては無であります。私はよくわかるのですが、かなり多くの方の生活における事実にとっては、主のことと長年関係して来たが突然主が生けるお方であるという事実に目覚めさせられる日がやってくるというのが真実であるということです。それはそのことを悟るようになる時に私たちにとってかなりたくさんのことをふくむものです。様々な観点からそのことは私たちにとってすべてを意味するのです。今や私たちは主のものなのです!私たちは主を知っているのです!
(今日の箇所は
The Living God
の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003422.htmlです。冒頭で著者が掲げる聖句は一つ一つ調べると励まされます。すべて「生ける神」をふくむ聖句です。その「生ける神」が読者の方にも聖霊によって生き生き体験されるようにと祈る者であります。)
0 件のコメント:
コメントを投稿