2011年10月4日火曜日

よみがえりのキリストの力

友人がフィレンツェの思い出に焼きつけた試作品、土台はご主人が九十九里浜の流木を裁断したという
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(新約聖書 2コリント4:10)

今や私たちのからだにとってよみがえりのキリストに価値があるのです。キリストのよみがえりのいのちは、今やからだに力を与えることができるのです。 それは差し当たってからだをキリストの栄光あるからだに似たものに変えることでなく、奉仕のためにからだを生き返らせるのです。死ぬべきからだに、よみがえりのいのちが与えられるのです。よみがえりのいのちは慎重に当てられ、選ばれ、引き出されねばなりません。私が体調がすぐれず、へたへたと座り込むほど弱くなり、「ああ、主よ、来てください。私を元気にし、立ち直らせ、良くしてください。」と言う時、よみがえりのいのちは役に立ちません。主は決してそうはなさらないのです。私が、絶望的な弱さ、体力の減衰、完全に無能力を味わうような時、主がくださるいかなるものも、主が私にご自身をつかまえさせるように働かれた結果としては導かれませんでした。主は決して来てくださいませんでしたし、突然私にいのちが満たされ、充満され、よみがえりの思いにもさせられることもありませんでした。

私は非常にしばしば主が、聞こえる声でな く、提案や助言という良きもので、いのちをつかみなさい、わたしのいのちを自分のものとしてつかみなさい、と言われた素晴らしい時を経験しました。話された言葉ではありませんでしたが、暗示がこの結果に対してありました。それは私自らがこの状態(訳注:アダム的な状態)と縁を切り、いのちを求めてキリストをつかむようになった時です。そしてそれがもっと進んだ奉仕の期間のための再生となったのです。主は私たちをロボットのようには取り扱われません。主は私たちが主のよみがえりのいのちの基盤の上に立ってご自身と協力するようにさせられるのです。

よみがえりのキリストの全ての価値は、私たちが主のよみがえりのいのちを落ち着いて確信をもってつかむことによって見出されるのです。それはたとえ体やたましいや霊であろうとも、「縁を切ったアダムよ」と言うだけであり、必要はどんなことであろうともキリストに立つしかないのです。それは霊に対してでしょうか。精神に対してでしょうか、心に対してでしょうか、意志に対してでしょうか、体に対してでしょうか。本質的な唯一のことはその一つ一つの状態に対して確信をもってキリストに立つということです。

こうして最初にお話したところに戻ってきます。すなわち、経験にとってキリストの全領域とは私たちのうちにあるよみがえりのいのちとそれをつかみ、その上に立つことに依存しているということです。主は私たちにそのことが意味することをよりたくさん示してくださるのです。

(今日の文章は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003400.htmlです。誤訳があると思います。全文から意訳につとめたところもありますが。)

0 件のコメント:

コメントを投稿