2011年10月28日金曜日

聖なる国民

三須臾の赤い実、春先には黄色い花を咲かせ、晩秋にはこのような実をならせるのですね
あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。(新約聖書 1ペテロ2:9)

クリスチャン生活の始まりは新生と呼ばれるものです。あるいはもっと正確に言えば、上から生まれると呼ばれるものです。そのことは一体どんなことを意味しているのでしょうか。外形的にあらわすならイサクの誕生と死からのよみがえりが意味していたことを全部意味していることです。つまりこのことは私たちの新生そのものによって私たちがやみの力から解放されて神の愛のあらわれである御子の支配する御国へ移されていることを意味しているのです。新生、改宗(それをあなたがどのように呼ぼうとも)によってクリスチャン生活の始まりはそもそも二つの王国の完全な分離の上にあるのです。一方の国から他方の国への移行であります。一つは私たちが生まれ、肉の性質に属する汚れが支配する国です。他方は聖なるものが支配する、「あなたがたは聖なる国民である」という、この世から分離されて神へと移される国であります。新生は始まりにおいてこのことがどんなに完全であるかという点で間違いなく明確にされたことを意味しております。

主イエス様はこのことについて人々と分離されていたこと、つまり完全に切り離されたことは疑いありません。主は危険を冒されたのです。あなたがたは恐らく言うことでしょう。なぜ彼ら(訳注:迫害する者?)から逃げなかったのか、彼らの気分を害する危険を冒したのか、なぜ彼らを失望させ「除け、除け、除け」と絶えず言わせたのか、と。 主は真実ゆえに、つまり次の恐ろしい真実ゆえにこのことについて必要上あらゆる危険を冒されたのです。すなわちあなたがたがいかなる方法においても神に敵対するこの世の国にしがみついている限りあなたにはできない、決して天の御国を継ぐことはできないということです。

二つのものは一緒になり得ないのです。一つは汚れています。もう一方は聖いのです。そして新生によって私たちは紅海のように、ヨルダン川のように、そして主イエス様の十字架と同様に(訳注:越えるのに)広い、非常に広い境界線を横断するのです。新生・・・私たちが手に入れ、導かれたのは聖いいのちです。神に向かって聖別されるきよいいのちです。神に向かう完全な分離なのです。それは聖さのうちを歩むことです。

新約聖書は、このことについて、すなわちこの世から分離し、心において、霊において、いのちにおいて聖く歩むことを、どれだけ口を酸っぱくして言わなければならないこととしていることでしょうか。そして、もし私たちがそれを知ったら、聖霊の支配下にあるクリスチャン生活において教育、霊的教育および訓練のかなり大きな割合は、混合されている事どもを処理することでなければならないのです。混合は二つの世界を何とかやりくりしようとしていることから生じるからです。

主は生活と証が弁別されることを、本当の意味での弁別を求めておられます。私たちの生活、この世にあってつながりを持ち、交わりなどを持つあなたや私の生活は私たちが属する領域や属するお方と一部の隙間もないように完全に分けられていますか。誤らせるものはありませんか。それとも混合があり妥協がありこの世や悪魔の支配下にある人々と良好な関係を続けていますか。もしそうなら私たちは恐ろしく損害を受ける立場にあります。私たちは失うのです。商売やその仕事で働くところで私たちはどんな種類の証を持っていますか。私たちは本当に(キリストのからだである神の)教会に属しているのでしょうか、またそのことを重要視しているのでしょうか、それとも行きずりの者なのでしょうか。

私たちの生活には、あの人は、あの女の人は、あの青年は、あのお乙女は全く神に徹しているという何らかの著しい特徴がありますか。あなたが四六時中みるように彼らは神に徹しているということに疑いがないのです。彼らは物事をいい加減にしません、妥協が一切ないのです。このことは厳しいように聞こえますが、必要なことです。

あなたはこうしたことをどう思いますか。友よ、力の秘訣は聖さです。もし私たちの生活に力がないなら、それはどこかに何ほどか神への絶対が欠け、神に向かってのこの分離が欠けており、何らかある種の妥協、すなわち私たちの霊的力と活力を奪い、自分の陣営に下すこの世の君との妥協があったりすることによります。力の秘訣は聖さです。あなたが他のどんなことを忘れようとも、そのことは覚えていてください。

(今日の箇所は A Holy Nation の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003427.htmlで す。今日の文章は訳するのに困難を覚えました。勝手な訳が散見すると思います。ご指摘をいただきたいです。しかし現実の生活の中でこの霊の戦いをこの二三 日体験させていただきました。本日一人の方が主の憐れみによりみもとに召天されました。しかしその素晴らしい恵みとそれを台無しにしようとするこの世の悪の霊の力を体験し、余りにもヴィヴィッドであるスパークス氏のメッセージとの符合に恐れを覚えました。)

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