路傍の草花、10月14日 御代田 |
いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。(新約聖書 使徒7:48)
(恐らく私たちが関係していることで、大切な識別をする際に最大の失敗は神秘主義と霊的であることとのちがいに関わることでありましょう。こういうところに世が誤解されるだけでなく、キリスト教も欺かれるところがあるのです。実に自らクリスチャンであると自認する人々の圧倒的多数の人々が一方では神秘主義(美
的感覚にふさわしい)や禁欲主義(自己否定の実践)と他方では霊的であることの識別ができないのです。事実これらのものは二つの全く異なる領域に属し、神のことばはそれらの間をばっさり切り離します。
カインと「カインの道」
について話すとき、すぐ彼の殺人行為、嫉妬と敵意から生じたことを想起することに慣らされています。彼の怒りっぽい、ぐちっぽい、すねる心、機嫌の悪さや神に対する無礼な態度さえあることを思い出すことでしょう。しかし思い出すべき別の側面があります。カインに対して公平であらねばなりません。さもないと全体的な観点を見失います。カインは神を排除したり無視はしませんでした。ことばの通常の用法に従えば神なしとする人ではありませんでした。神の存在を認めていました。それから、彼は神のために祭壇をこしらえたのです。さらに彼は疑いなく、神に嘉納するものとして自ら骨折り苦労した産物の最上のものを選
び、携えたのです。ここには宗教上の献身がありました。カインは美的感覚を全部働かせて礼拝しました。そして、カインは殺害したのです。弟を。ユダヤ人もキリストがおられたとき、同じことをしました。)
キリスト教は大体においてこの感覚、すなわち建物や、儀式や、音楽や、装飾や、照明や、あるいはそれを欠く場合には色調や、雰囲気や衣装などによって成り立ちます。
(しかしカインは神に徹しなかったのです。ユダヤ人も徹しなかったのです。)
霊的な死がその領域を特色づけます。様々な解決に役立つ強い感情や、「高度な」思想や意欲があるかもしれないのに対して、関係する人々の生まれつきの性質には心からの変化はありません。この繰り返される投薬は、それぞれに良い感情を生ずる魂の自己満足の方策を維持するために取られねばならないのです。あらゆる宗教はこの魂的な性質を共通して多かれ少なかれ持っています。その致命的な間違いが、多くの宗教的な人々によってなされてきたのはこういう事情によるのです。彼らは疑いもなく心からの真摯な他の宗教は妨げられるべきでなく、それらのうちに良きものが認められ受け入れられるべきだと主張します。
聖書が霊的であるということと宗教とを混同しているのです。宗教は高いレベルに上り、恐ろしい深みにまで沈めることができるのです。両方をなす同じものであります。しかし、そのものは決して人間のレベル以上には上らないし、決して神に達することはありません。宗教は神の真の考えの最大の敵に成りうるのです。
なぜならそれが悪魔の最善の惑わしであるからです。禁欲主義はまことに唯美主義に過ぎません。There is no more a brief with God for rigors, denials, fastings,
puritanic iciness, etc., as such, than for the opposite. 純真であることは神に機会を与えるかも知れませんが、必ずしも霊的ではありません。好みかもしれないのです。
(どんなに、詩、音楽、芸術において崇高な思想や考えがしばしば道徳的な堕落や不品行を相伴って進み行くことでしょうか。)
どれほど知覚や説明において神秘的なことは真理に近づきうることでしょう。想像力は聖書においてすらどんなに素晴らしいものを見得ることができることでしょう。どんな畏敬や驚きや法悦の興奮が支配的な魂によって聴衆や会衆を射抜くことができることでしょう。しかし、それはすべて神もなく永遠から出るものでもないニセの世界であるかも知れません。それはこの生活をここで練りあげ、単調さから救い出すために懸命であるかも知れません、しかしそこが最後なのです。私たちはどんなに人工的な世界に来ていることでしょうか。音楽が前進し、浪漫的な要素が服飾や金ぴかのもので明らかになり、人間の個性が見せびらかされるとき、どれほど誇りや競争心が自己主張するのか、信じさせるどんな力がその環境に入ってくるかを良く見なさい。まことに人工的な世界です。私たちはずっとその中にいました。そして後にその反動を知るのです。
どれほどその結果はうつろで空しいことでしょうか。死海のなれの果てともいうべきことです。このメロドラマの悲劇はかなり多くの人にとってそれが「現実の生活」であるということです。この魂の世界が悪魔の模造品であります。宗教に関係しようと、しなかろうとそのことが明らかになるところはどこでも全部ニセものなのです。
宗教や哲学や真理の体系であったり、道徳上あるいは倫理的な教義として受け入れらている「クリスチャンの信仰」は、偉大な理想の一時的な励みになるかも知れません。しかしこれはいのちの再生あるいは霊の新しい誕生の結果によらないことでしょう。今日世にはそのような「クリスチャン」がたくさんいるでしょうが、彼らの霊的な効能はゼロであります。
(今日の文章は What is Man? - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003420.htmlです。英文は訳せなかったところです。今日の箇所はスパークス氏が聖書をとおして明らかにしている人間の構成要素である「霊」と「たましい」のちがいに思いを馳せるとき理解がスムーズに行くのではないでしょうか。特に最後のパラグラフの前にはおよそ二頁分の文章があります。その辺を補って訳したかったのですが、今回は原文がそうなので、それに従いました。よりくわしく読まれたい方は全文お読みなさることをお勧めします。それにしてもこの「人とは何者でしょうか」とも読めそうなこの文章は全部で11章のA4版にして77頁のものです。全文読みたい文章の一つです。)
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