2011年10月22日土曜日

道を外れているキリスト教世界

新しいカップルの誕生を祝う満席の西軽井沢国際福音センター(10/15)
わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。(新約聖書 黙示録18:4)

礼拝に関する霊的いのちとは何ですか。それは教会の建物ではありません。祭服でも、しきたりでも、儀式でもありません。それらはカルバリとともに無用になっています。そのようなものを少しでもいつまでも持たせることは十字架と矛盾します。今日私たちはどこにいるか考えて見なさい。愛する方々、その手のものを維持するのは主イエス様がもたらされたことをよく理解していないからです。

それでは何が霊的礼拝でしょうか。霊的礼拝はそのすべての背後に戻り、霊的意味を考えることです。もたらされ、いけにえとしてささげられたものは、調べられ、欠陥、傷、汚れ、矛盾があるなら、念入りに二つの要素、二つの色調、二つの種類を調査されました。もし少しでもそのようなしるしが見つけられるなら全部が駄目にされました。しかし、念入りな調査の後、欠陥や傷が全然発見されず、専門家の鋭い目を持つ神の代理者がそれらを「タテレスタイ」、つまり「完全である」と宣言されるとき、それらは神にささげられたのです。そしてこの型に具体化された真理がこれであり、神との唯一の交わりは主イエス様の霊的完全さの基盤の上にあるということでした。

礼拝はもはや動物のいけにえを持ち込むことでなく、心からキリストの完全さを味わうことから持ち上がることであります。それが礼拝です。昔の祭服は単に型や象徴や例にすぎませんでした。聖職者の衣装は神であり人である主イエス様の性質である義と美と栄光の型をその間ずっと語っていたのです。今やそれは信仰によってキリストを理解する人に与えられ、神の義が転嫁され、分与されるのです。キリストにあり神の目を持つ私たちは美と栄光と聖潔という衣装を身につけるのです。それではなぜ一つの方式が永続するのですか。主イエス様はそのすべてをご自身の十字架で片付けられたのです。すべては消え失せています。それが主が霊とまことによって礼拝するということで言わんとされていることです。

宮と天幕は型に過ぎませんでした。その型が語るのは、あがめられるべきかしら、ひとつのからだ、神の宮に加えられるものとして聖徒が霊的に交わることであります。ひもによって一緒に束ねられている天幕の板は聖徒たちが一つの霊、一つのからだに「継ぎ手とひも」で結びつけられているゆえに神の義と聖潔と栄光を分与されていると語っていることに過ぎないのです。採石場で労し、槌や斧の音なしに一緒に運ばれ宮の石が一緒に組み立てられることはただ霊的な住まいのために一緒に築き上げられる生ける石を予兆して語っているだけです。神は今や手で造られた宮にお住みにはなりません。けれども霊的なからだ、すなわちキリストに属する者はキリストと結び合わされたのです。

それではなぜ神が十字架において退けられたものが永続し 「多数である私たちはひとつのからだである」という事実が低い段階にとどまり、高い段階に達することに失敗するのですか。あなたは今日事態が道を外れてい ることを自覚していますか。私はこれがどんなに広がっているかを覚えるものですが、このすべては礼拝とかかわりがあることなのです。

さてこのすべての霊的な意味を認識し知り、そのうちに参入できないで昔のものが維持されるとき、あなたは依然として魂のレベルにとどまり、欺かれるままであることを銘記しなさい。すべてのことが恐ろしいまでに欺かれるのです。それでは、その欺きはどのように働くのでしょうか。こんなふうにしてです。つまり、 かなり多くの善良なクリスチャンは完全に神の啓示を切り離す伝統的な体系に縛られているのです。ただ霊的な啓示を除くのが伝統的な組織・キリスト教体系であります。主イエス様の十字架が神に対する霊における自由をあらわし、主のいのちと光の満たしへと導くのです。それがヘブル人への手紙が書かれた全般的な目的であります。

手紙はその大切な目的のためにあったのです。ここにはキリストにある神との交わりの真の性質に関して、すでに光を受けた人々がいたのです。主イエス様は宮、聖職者、犠牲、聖さん、そして安息日でさえ、その代わりとなられたお方です。安息日はもはや単なる時をあらわすのでなく、人であるお方と関係ができたのです。神はキリストにあってご自身の安息に達せられたのです。あらゆる神のみわざはキリストにあって完成されました。神はキリストが十字架の贖いによって神のみわざを完成したとき、ご自身の安息に入られたのです。

もはや、それは形式や儀式や建物や聖職者やいけにえではありません。すべてキリストです。彼らは(訳注:ヘブル人)それを経験したのです。主は彼らを宗教的、形式的、歴史的、伝統的陣営から引き出させるために召されました。その結果、迫害、追放、孤立、孤独、その他あらゆることが生じたのです。公認の宗教人はそれゆえに彼らに厳しく当たりました。真に霊的であり天的であるために支払わねばならない報酬は大きいものでした、そして今も大きいものです。そして彼らは危険にも昔のものに戻る危機状況にいたのです。ヘブル人への手紙はちょうど彼らをその危機から救い、彼らに十字架、主イエス様のみわざによって生じた大きな変化についてさらに完全に教えるために書かれたのです。一つの体系が過ぎ去って行きました。それは地上の代理者でした。そして別のもの、すなわち天的に真実なものが入って来たのです。

その手紙がどのように「天国にあることがらの模型」と「天的事物そのもの」についてどれほど語っているかおわかりでしょう。ヘブル人への手紙は偉大な結論に達しています。すなわち、「私たちは天的なエルサレムに、注ぎかけの血に、新しい契約の仲介者であるイエスに近づいています」(訳注:ヘブル12:22〜24参照)と。

ところが目にするものは歴史的なキリスト教であり、伝統的なキリスト教であるものが礼拝の魂のレベルのものとして依然として維持されています。その礼拝では特定の窓をあつらえ、特定の音楽と特定の祈りと特定の人々、特定の衣装を備えたもの、その他礼拝を助けるもの全てを備えた建物を持たねばならないのです。すべてこれが神との真の交わりをもたらすものです。それはカルバリ以前の基盤にもどる生き方であり、すべてが魂のものであり、神との内面からする完全に個人的な霊的な交わりをうまい具合に妨害するものであります。

いのちである主を知るために私たちは表面的な体系である(過去の)墓の衣装から自由にならねばなりません。

(今日の文章は Christ the Power of God - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003421.htmlです。抜粋引用がきわめて自由になされていて一部原文の順序を無視していますので、訳文では原文を生かした形で掲載しています。)

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