「チェリーセージ」と言うらしい、二三日前の庭の花。 |
知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。(新約聖書 1コリント8:1〜3)
(私たちは私たちもふくまれている地上の神の民を見回して、なぜ、私たちが今ここに生かされているかに関して私たちの考えを整理する必要があります。なすべきことがあるかもしれません。しかし神は私たちがなすことよりも私たちがどうあるかにはるかに関心を持っておられます。ですから私たちは再度奉仕とは何かをすっかり学ぶ必要があります。しかし今私はそのことを追求するつもりはありません。ただ次のことは言いたいのです。神に対する奉仕は根本的に霊的であるということです。別のことばで言い換えますとキリストご自身が神を満足させるために神の創造された世界に持ち込まれる手段であります。私たちはキリストをいかなる人の生活にも説教によってお連れすることは出来ないということを知っています。あなたはもうそのことを体験されましたか。あなたが出席された修養会からキリストのどれだけがものになりましたか。私があなたに言っていることがあなたのうちにキリストを再生できるという欺きに私は組するものではありません。私たちは時代の終わりについては話せるかも知れません。しかし私たちの説教はキリストを生み出せないのです。私たちがこのことに関してお互いに助けることができるのは神は何をすることを求めておられるかを理解することだけです。
神の御霊だけが私たちをキリストの形にすることができます
だから私たちは目的に関してこの第二の事柄に戻りましょう。神が視野に置いておられ、みわざをなさる考え、目的があります。しかしこのところに聖霊は絶対必要な仲介者として間違いなく完全に入って来てくださるのです。
「御霊は・・・とりなしをなさる・・・神にしたがって」
神の「ご意志」ということばは聖書ではイタリック体で印字されています。原文ではないからです。神を知り、神の考え、神の心を知る御霊は神にしたがって働かれ、私たちのうちに働いておられます。私たちは、父よ、と叫ぶ子ども、養子の御霊を受け入れたのです。私たちは神の息子として宣言されるべき神の子どもでありますが、このすべてのことは聖霊が働き、言うに言われないうめきをもって執り成していてくださるからです。「御霊は私たちの弱さを助けてくださる」彼はそばに来てくださいます。御霊お一人がキリストを再生し私たちがキリストの似姿に一致させることができるのです。
しかし、私たちはずっとその奉仕は説教や教えやあれやこれやの様々なことをなすことだと考えてきました。しかしそれは御霊の手段に過ぎません。このことについて欺かれないようにしましょう。もし聖霊が働かれないなら集会出席もそれ以上のどうということもないことでしょう。言われていることは全部極めて真実であるかも知れません。しかしあなたがそれを全部知っても神の目的には達したことにはならないでしょう。このことにおいて私たちは聖霊に砕かれるのです。その中心には私たちが耳にする全てにまさる本当の訓練のための必要があるのです。)
事実はこうなのです。私たちは自らのありのままの状態にまさって霊的な知識(ここで意味しているのは知識、真理の知識です)において長足の進歩をとげるかもしれません。しかしそれから恐ろしい状況下では長年積み重ねて来た全ての知識が私たちの助けにならないということを発見し、ショックを受けるのです。事態に突き当たっ
て、「私は持っていると思っていた真実なものを獲得していない、それらは私の役に立たない。私は今まさしく本当の個人的な主ご自身の生ける知識の土台に戻らされているのだ」と言わねばならないのです。
もちろんその時の危険は身につけて来た教えを全部捨てて、この教えは価値のないものだと言うことです。それは確かに価値のないものでしょう。しかし、私たちは心の中で神の考えを知ることと神の目的を実現するために聖霊がお用いになるその知識との間にはあらゆる相違があることを認識しなければなりません。このようにして私たちは細かい点に至るまで(主ご自身の生ける知識の土台に)戻り、主による本当の取り扱いを経験しなければなりません。私たちの態度はどんな時も、「主よ、どうぞ私が聞いたことが聞かされたことであるに過ぎないことが明らかになる時まで私を助けてください。そして神の目的に達することを聖霊の働きの礎としてください」というものであらねばなりません。(Our attitude
every time must be, "Lord, do save me from ever coming to the time when what I
have heard proves only to have been a thing heard; make it a basis of Holy
Spirit activity to reach the Divine end.")
もしあなたがこのことを確信することができるなら、そのことは大きな解放となることでしょう。なぜ神の民が悩むのですか。それはそれぞれが御子の姿に一致するためなのであります。私たちにはそうなるために大混乱する世界がもちろん必要ではないでしょう。しかし、神はあらゆる状態をその目的のために用いられま
す。そして世界の揺り動かしが必要である主の民がたくさんいることは、かなり悲劇的であります。主の民はキリスト教の外部性に関してその全機構や組織と大変緊密であります。それゆえ崩壊・破壊があり、全ての事業に関して大きな疑問を引き起こす以外の何ものでもないものが神の御霊が本当に働き始めるところへと人々を連れ出すのです。その神の働きは主の民のうちになそうとして来られた働きであります。
(今日の箇所は Conformed to the Image of His Son の
抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003429.htmlで
す。これまで引用文以外に増し加えたものは小文字で示しましたが、これからは大文字で示し、前後にかっこをつけます。ご了承ください。英文を併記しましたところは特に誤訳の恐れのあるところです。ここだけではありませんが・・・)