2011年10月30日日曜日

神を愛するなら・・・

「チェリーセージ」と言うらしい、二三日前の庭の花。
知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。(新約聖書 1コリント8:1〜3)

(私たちは私たちもふくまれている地上の神の民を見回して、なぜ、私たちが今ここに生かされているかに関して私たちの考えを整理する必要があります。なすべきことがあるかもしれません。しかし神は私たちがなすことよりも私たちがどうあるかにはるかに関心を持っておられます。ですから私たちは再度奉仕とは何かをすっかり学ぶ必要があります。しかし今私はそのことを追求するつもりはありません。ただ次のことは言いたいのです。神に対する奉仕は根本的に霊的であるということです。別のことばで言い換えますとキリストご自身が神を満足させるために神の創造された世界に持ち込まれる手段であります。私たちはキリストをいかなる人の生活にも説教によってお連れすることは出来ないということを知っています。あなたはもうそのことを体験されましたか。あなたが出席された修養会からキリストのどれだけがものになりましたか。私があなたに言っていることがあなたのうちにキリストを再生できるという欺きに私は組するものではありません。私たちは時代の終わりについては話せるかも知れません。しかし私たちの説教はキリストを生み出せないのです。私たちがこのことに関してお互いに助けることができるのは神は何をすることを求めておられるかを理解することだけです。

神の御霊だけが私たちをキリストの形にすることができます

だから私たちは目的に関してこの第二の事柄に戻りましょう。神が視野に置いておられ、みわざをなさる考え、目的があります。しかしこのところに聖霊は絶対必要な仲介者として間違いなく完全に入って来てくださるのです。

「御霊は・・・とりなしをなさる・・・神にしたがって」

神の「ご意志」ということばは聖書ではイタリック体で印字されています。原文ではないからです。神を知り、神の考え、神の心を知る御霊は神にしたがって働かれ、私たちのうちに働いておられます。私たちは、父よ、と叫ぶ子ども、養子の御霊を受け入れたのです。私たちは神の息子として宣言されるべき神の子どもでありますが、このすべてのことは聖霊が働き、言うに言われないうめきをもって執り成していてくださるからです。「御霊は私たちの弱さを助けてくださる」彼はそばに来てくださいます。御霊お一人がキリストを再生し私たちがキリストの似姿に一致させることができるのです。

しかし、私たちはずっとその奉仕は説教や教えやあれやこれやの様々なことをなすことだと考えてきました。しかしそれは御霊の手段に過ぎません。このことについて欺かれないようにしましょう。もし聖霊が働かれないなら集会出席もそれ以上のどうということもないことでしょう。言われていることは全部極めて真実であるかも知れません。しかしあなたがそれを全部知っても神の目的には達したことにはならないでしょう。このことにおいて私たちは聖霊に砕かれるのです。その中心には私たちが耳にする全てにまさる本当の訓練のための必要があるのです。)

事実はこうなのです。私たちは自らのありのままの状態にまさって霊的な知識(ここで意味しているのは知識、真理の知識です)において長足の進歩をとげるかもしれません。しかしそれから恐ろしい状況下では長年積み重ねて来た全ての知識が私たちの助けにならないということを発見し、ショックを受けるのです。事態に突き当たっ て、「私は持っていると思っていた真実なものを獲得していない、それらは私の役に立たない。私は今まさしく本当の個人的な主ご自身の生ける知識の土台に戻らされているのだ」と言わねばならないのです。

もちろんその時の危険は身につけて来た教えを全部捨てて、この教えは価値のないものだと言うことです。それは確かに価値のないものでしょう。しかし、私たちは心の中で神の考えを知ることと神の目的を実現するために聖霊がお用いになるその知識との間にはあらゆる相違があることを認識しなければなりません。このようにして私たちは細かい点に至るまで(主ご自身の生ける知識の土台に)戻り、主による本当の取り扱いを経験しなければなりません。私たちの態度はどんな時も、「主よ、どうぞ私が聞いたことが聞かされたことであるに過ぎないことが明らかになる時まで私を助けてください。そして神の目的に達することを聖霊の働きの礎としてください」というものであらねばなりません。(Our attitude every time must be, "Lord, do save me from ever coming to the time when what I have heard proves only to have been a thing heard; make it a basis of Holy Spirit activity to reach the Divine end."

もしあなたがこのことを確信することができるなら、そのことは大きな解放となることでしょう。なぜ神の民が悩むのですか。それはそれぞれが御子の姿に一致するためなのであります。私たちにはそうなるために大混乱する世界がもちろん必要ではないでしょう。しかし、神はあらゆる状態をその目的のために用いられま す。そして世界の揺り動かしが必要である主の民がたくさんいることは、かなり悲劇的であります。主の民はキリスト教の外部性に関してその全機構や組織と大変緊密であります。それゆえ崩壊・破壊があり、全ての事業に関して大きな疑問を引き起こす以外の何ものでもないものが神の御霊が本当に働き始めるところへと人々を連れ出すのです。その神の働きは主の民のうちになそうとして来られた働きであります。

(今日の箇所は Conformed to the Image of His Son の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003429.htmlで す。これまで引用文以外に増し加えたものは小文字で示しましたが、これからは大文字で示し、前後にかっこをつけます。ご了承ください。英文を併記しましたところは特に誤訳の恐れのあるところです。ここだけではありませんが・・・)

2011年10月29日土曜日

万物は御子にあって創造されています

今日も日本は快晴でした。用水路の空き地を利用した三層の花の展開です。
すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。(新約聖書 ローマ11:36)

 聖書において二つの契約、新約と旧約によってあらわされているような二つの区分はないということ、ましてや旧約聖書が時代によって細分されていてもその区分さえないということは明確にする必要があります。確かに表現方式において二つあるいはそれ以上のものがありますが、聖書全巻をとおして初めから終わりまでたった一つのことが述べられているに過ぎないのです。

 聖書を摂理によって扱い、異なった時代の異なった特徴を強調する私たちの性向は、まるで類型論や象徴論に夢中になりうるかのように機械的に注意させる結果にこれまでなったかもしれません。だから、私は次のことをもう一度強調したいのです。すなわち神はこういう様々な表現形式によって初めから終わりまで一つの考えによって、しかもただ一つの考えによって行動されるということです。万物は、一貫して、あらゆる時代において、神の御子をあらわし、神の御子に従属しているということです。

 神はご自身の人格や、また贖いや完全な働きの真実さをもって万物を統治されます。それが、 聖書の最初の巻から終わりまでの一つのご人格であり、一つのお働きなのであります。旧約聖書から新約聖書への変化は簡潔であり、間接的なものから直接的なものへの変化に過ぎないのです。また、象徴的なものから象徴されるものへの変化、そして一時的な表現から霊的な真実在への変化であります。それがすべてです。目的や対象の変化ではありません。また基盤や土台の変化でもありません。それはいかなる仕方にあっても原則の変化をあらわすものではありません。

 おそらくあなたがたはそのことを全部知っていると感じているでしょう。しかし、私たちのうちの何人かが今まで認識したことよりもはるかに多くのものがあるのです。たとえばあらゆる神の家長に対するお取り扱いはご自身があなたや私に対して取り扱われるのと同様に原則としてご自身の御子の基盤の上に基づいたことでした。旧約聖書におけるイスラエルは私たちがこの摂理のうちにあるのと同様に神の御子の基盤の上で取り扱われていました。神は決していかなる時も、またいかなる手段によっても、ご自身の御子以外のいかなる基盤の上に立って働かれたことがないのです。

 神の創造的な活動はご自身の御子の地盤の上にあったのです。「御子のうちに、御子を通して、御子によって、御子に向かって、万物は創造されました」(コロサイ 1:16)その時から万物はその基盤の上に始まりましたし、将来キリストにおいて完成されるのです。どんな手段によろうとも、どんな方法によろうとも、神は 働かれ、ご自身の基盤は常に同じだったのです。そして来るべき時代においてその基盤は変わることがないのです。それはキリストという土台です。私たちがこのことを記憶し、そのことについて全くはっきりした態度を取ることは大変重要であります。

(今日の箇所は The Israel of God - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003428.htmlです。)

2011年10月28日金曜日

聖なる国民

三須臾の赤い実、春先には黄色い花を咲かせ、晩秋にはこのような実をならせるのですね
あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。(新約聖書 1ペテロ2:9)

クリスチャン生活の始まりは新生と呼ばれるものです。あるいはもっと正確に言えば、上から生まれると呼ばれるものです。そのことは一体どんなことを意味しているのでしょうか。外形的にあらわすならイサクの誕生と死からのよみがえりが意味していたことを全部意味していることです。つまりこのことは私たちの新生そのものによって私たちがやみの力から解放されて神の愛のあらわれである御子の支配する御国へ移されていることを意味しているのです。新生、改宗(それをあなたがどのように呼ぼうとも)によってクリスチャン生活の始まりはそもそも二つの王国の完全な分離の上にあるのです。一方の国から他方の国への移行であります。一つは私たちが生まれ、肉の性質に属する汚れが支配する国です。他方は聖なるものが支配する、「あなたがたは聖なる国民である」という、この世から分離されて神へと移される国であります。新生は始まりにおいてこのことがどんなに完全であるかという点で間違いなく明確にされたことを意味しております。

主イエス様はこのことについて人々と分離されていたこと、つまり完全に切り離されたことは疑いありません。主は危険を冒されたのです。あなたがたは恐らく言うことでしょう。なぜ彼ら(訳注:迫害する者?)から逃げなかったのか、彼らの気分を害する危険を冒したのか、なぜ彼らを失望させ「除け、除け、除け」と絶えず言わせたのか、と。 主は真実ゆえに、つまり次の恐ろしい真実ゆえにこのことについて必要上あらゆる危険を冒されたのです。すなわちあなたがたがいかなる方法においても神に敵対するこの世の国にしがみついている限りあなたにはできない、決して天の御国を継ぐことはできないということです。

二つのものは一緒になり得ないのです。一つは汚れています。もう一方は聖いのです。そして新生によって私たちは紅海のように、ヨルダン川のように、そして主イエス様の十字架と同様に(訳注:越えるのに)広い、非常に広い境界線を横断するのです。新生・・・私たちが手に入れ、導かれたのは聖いいのちです。神に向かって聖別されるきよいいのちです。神に向かう完全な分離なのです。それは聖さのうちを歩むことです。

新約聖書は、このことについて、すなわちこの世から分離し、心において、霊において、いのちにおいて聖く歩むことを、どれだけ口を酸っぱくして言わなければならないこととしていることでしょうか。そして、もし私たちがそれを知ったら、聖霊の支配下にあるクリスチャン生活において教育、霊的教育および訓練のかなり大きな割合は、混合されている事どもを処理することでなければならないのです。混合は二つの世界を何とかやりくりしようとしていることから生じるからです。

主は生活と証が弁別されることを、本当の意味での弁別を求めておられます。私たちの生活、この世にあってつながりを持ち、交わりなどを持つあなたや私の生活は私たちが属する領域や属するお方と一部の隙間もないように完全に分けられていますか。誤らせるものはありませんか。それとも混合があり妥協がありこの世や悪魔の支配下にある人々と良好な関係を続けていますか。もしそうなら私たちは恐ろしく損害を受ける立場にあります。私たちは失うのです。商売やその仕事で働くところで私たちはどんな種類の証を持っていますか。私たちは本当に(キリストのからだである神の)教会に属しているのでしょうか、またそのことを重要視しているのでしょうか、それとも行きずりの者なのでしょうか。

私たちの生活には、あの人は、あの女の人は、あの青年は、あのお乙女は全く神に徹しているという何らかの著しい特徴がありますか。あなたが四六時中みるように彼らは神に徹しているということに疑いがないのです。彼らは物事をいい加減にしません、妥協が一切ないのです。このことは厳しいように聞こえますが、必要なことです。

あなたはこうしたことをどう思いますか。友よ、力の秘訣は聖さです。もし私たちの生活に力がないなら、それはどこかに何ほどか神への絶対が欠け、神に向かってのこの分離が欠けており、何らかある種の妥協、すなわち私たちの霊的力と活力を奪い、自分の陣営に下すこの世の君との妥協があったりすることによります。力の秘訣は聖さです。あなたが他のどんなことを忘れようとも、そのことは覚えていてください。

(今日の箇所は A Holy Nation の 抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003427.htmlで す。今日の文章は訳するのに困難を覚えました。勝手な訳が散見すると思います。ご指摘をいただきたいです。しかし現実の生活の中でこの霊の戦いをこの二三 日体験させていただきました。本日一人の方が主の憐れみによりみもとに召天されました。しかしその素晴らしい恵みとそれを台無しにしようとするこの世の悪の霊の力を体験し、余りにもヴィヴィッドであるスパークス氏のメッセージとの符合に恐れを覚えました。)

2011年10月23日日曜日

生けるお方

何層にも及ぶ雲海、遠くに八ヶ岳、手前は浅間山麓の樹林と畑(10/16)
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。(新約聖書 1ヨハネ5:11)

(ヨハネ3:10〜11、1テサロニケ1:9、ヘブル9:14、ローマ9:26、2コリント3:3、6:16、マタイ16:16、1テモテ4:10、1テモテ3:15、ヘブル12:22、3:12
 あらゆるこれらの聖句、生ける神との実際生活上の様々な観点を扱っているすべてのものに詳細に触れないで、全般的なことを小さな範囲に集約し、いくつかの簡単で直接的で正確な適用をお話しすることにつとめます。

生けるお方

 第一に認識すべきことは私たちが関わらなければならない神は生ける神であるという事実です。おそらくそれはそれほど驚くべきこと新鮮なことだとは思われないでしょうが、私が信ずるのに、それに関しては、その他のあらゆるものに関しても、私たちが概して遠ざけられて来た意味を認識するために目覚めることは可能だということです。
 私たちが関係する神は生ける神です!上掲の聖句が示すように、恐らく私たちのほとんどの者が知るべき理由を持ってきたように、その事実は二つの側面を持ち、二つの意味を告げるものです。一方では心のうちの正直な者にとってはかりしれない心地よさがあるという事実です。そもそも私たちが真心から生ける神に向かうとき、恐らく生ける真の神に向いていることを知ることは最大の出来事でしょう。
 テサロニケ人について、彼らが偶像の神々から「生けるまことの神に仕えるために」立ち返ったことを読むことができます。使徒はこういう信者の間でそのことが意味していたことを喜んだのです。と言いますのは、テサロニケ人へのこれらの手紙は、もし、いのちがある手紙でなければ、何物でもないからです。
 そういうことを思って読んでごらんなさい、そうすれば、テサロニケの人々がいのちにあって生き生きとした歩みをしていることが分かるでしょう。随所に生き生きとした証、喜びの証、感動する証のしるしがあります。そうです、あふれるばかりの、それが遠くまで、しかも故郷を離れた遠くまで達するほどの感動があり、それらをふくめて彼らの信仰があらゆる教会で話されたのです。使徒が彼らについて言及する必要はなかったのです。それは彼らをとおして、ことばが遠くまで広く伝えられて行ったからです。彼らにとって発見の意味を持ったのは、他の宗教でもなく、他の教えの体系でもなく、他の人々との交わりでもなく、彼らが立ち返った生ける神にあったのです。物事でなく生けるお方にあったのです。)

私たちの証がどういうものであるかに関しては、完全に私たちがどれだけ主を理解しているかにかかっています。もし私たちの気持ちが教えや伝統や解釈や人間のつながりやキリスト教に向いているなら、何かを見失うことになります。しかし、もし生ける神に向いており、主が生ける神であることを悟っているなら、いのちを得ることができます。すべてが初めからまさしく経験において生き生きするのです。そのように言っても決して過言ではありません。

最初に目覚めることを言いましたが、私たちのうちのある者は目覚めるのが遅過ぎるのです。私たちを眠らせる事態は(たとえ、落ち着かず、不満足感があり、左右に揺れていたり、ため息やうめいきをついたりすることを除けば大半は眠っていたことを知らなくとも)キリスト教や生活においてかなり早くから神の民のことどもと関係して来たという事実がありました。キリスト教や主との交わりは幼児期にもたらされたものでして、それは全部全く慣れ親しんでいたまわりにある主の事柄の組織体系の事柄となって来たのです。祈りをするように、集会に行くようになどはずっと教えられてきました。ところが、ある日、この神が生ける神であるという事実に目覚めたのです。永らくあるやり方で主とつながって来たのですが、主は私たちにとって個人的なものでなく、生ける神ではなかったのです。

もし許しを請う必要があるなら、そのような初歩の段階に戻ることを許してください。というのは私たちの間にある関係はその種のものであるいくつかであることは全くあり得るからです。恐らくあなたは主と関わりのある事柄と関係を持っていたことでしょうが、個人的に内面的に生ける神を喜べるかとかあなたにとって生けるお方であるかどうかの質問に対してはどうだったのでしょうか。私たちはそこに戻って始めねばなりません。もし聖霊がそのことをこれまで真実にしてくださったり、 過去にあなたの経験において真実にしてくださらなかったのならこのすべてのことはあなたにとっては無であります。私はよくわかるのですが、かなり多くの方の生活における事実にとっては、主のことと長年関係して来たが突然主が生けるお方であるという事実に目覚めさせられる日がやってくるというのが真実であるということです。それはそのことを悟るようになる時に私たちにとってかなりたくさんのことをふくむものです。様々な観点からそのことは私たちにとってすべてを意味するのです。今や私たちは主のものなのです!私たちは主を知っているのです!

(今日の箇所は The Living God の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003422.htmlです。冒頭で著者が掲げる聖句は一つ一つ調べると励まされます。すべて「生ける神」をふくむ聖句です。その「生ける神」が読者の方にも聖霊によって生き生き体験されるようにと祈る者であります。)

2011年10月22日土曜日

道を外れているキリスト教世界

新しいカップルの誕生を祝う満席の西軽井沢国際福音センター(10/15)
わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。(新約聖書 黙示録18:4)

礼拝に関する霊的いのちとは何ですか。それは教会の建物ではありません。祭服でも、しきたりでも、儀式でもありません。それらはカルバリとともに無用になっています。そのようなものを少しでもいつまでも持たせることは十字架と矛盾します。今日私たちはどこにいるか考えて見なさい。愛する方々、その手のものを維持するのは主イエス様がもたらされたことをよく理解していないからです。

それでは何が霊的礼拝でしょうか。霊的礼拝はそのすべての背後に戻り、霊的意味を考えることです。もたらされ、いけにえとしてささげられたものは、調べられ、欠陥、傷、汚れ、矛盾があるなら、念入りに二つの要素、二つの色調、二つの種類を調査されました。もし少しでもそのようなしるしが見つけられるなら全部が駄目にされました。しかし、念入りな調査の後、欠陥や傷が全然発見されず、専門家の鋭い目を持つ神の代理者がそれらを「タテレスタイ」、つまり「完全である」と宣言されるとき、それらは神にささげられたのです。そしてこの型に具体化された真理がこれであり、神との唯一の交わりは主イエス様の霊的完全さの基盤の上にあるということでした。

礼拝はもはや動物のいけにえを持ち込むことでなく、心からキリストの完全さを味わうことから持ち上がることであります。それが礼拝です。昔の祭服は単に型や象徴や例にすぎませんでした。聖職者の衣装は神であり人である主イエス様の性質である義と美と栄光の型をその間ずっと語っていたのです。今やそれは信仰によってキリストを理解する人に与えられ、神の義が転嫁され、分与されるのです。キリストにあり神の目を持つ私たちは美と栄光と聖潔という衣装を身につけるのです。それではなぜ一つの方式が永続するのですか。主イエス様はそのすべてをご自身の十字架で片付けられたのです。すべては消え失せています。それが主が霊とまことによって礼拝するということで言わんとされていることです。

宮と天幕は型に過ぎませんでした。その型が語るのは、あがめられるべきかしら、ひとつのからだ、神の宮に加えられるものとして聖徒が霊的に交わることであります。ひもによって一緒に束ねられている天幕の板は聖徒たちが一つの霊、一つのからだに「継ぎ手とひも」で結びつけられているゆえに神の義と聖潔と栄光を分与されていると語っていることに過ぎないのです。採石場で労し、槌や斧の音なしに一緒に運ばれ宮の石が一緒に組み立てられることはただ霊的な住まいのために一緒に築き上げられる生ける石を予兆して語っているだけです。神は今や手で造られた宮にお住みにはなりません。けれども霊的なからだ、すなわちキリストに属する者はキリストと結び合わされたのです。

それではなぜ神が十字架において退けられたものが永続し 「多数である私たちはひとつのからだである」という事実が低い段階にとどまり、高い段階に達することに失敗するのですか。あなたは今日事態が道を外れてい ることを自覚していますか。私はこれがどんなに広がっているかを覚えるものですが、このすべては礼拝とかかわりがあることなのです。

さてこのすべての霊的な意味を認識し知り、そのうちに参入できないで昔のものが維持されるとき、あなたは依然として魂のレベルにとどまり、欺かれるままであることを銘記しなさい。すべてのことが恐ろしいまでに欺かれるのです。それでは、その欺きはどのように働くのでしょうか。こんなふうにしてです。つまり、 かなり多くの善良なクリスチャンは完全に神の啓示を切り離す伝統的な体系に縛られているのです。ただ霊的な啓示を除くのが伝統的な組織・キリスト教体系であります。主イエス様の十字架が神に対する霊における自由をあらわし、主のいのちと光の満たしへと導くのです。それがヘブル人への手紙が書かれた全般的な目的であります。

手紙はその大切な目的のためにあったのです。ここにはキリストにある神との交わりの真の性質に関して、すでに光を受けた人々がいたのです。主イエス様は宮、聖職者、犠牲、聖さん、そして安息日でさえ、その代わりとなられたお方です。安息日はもはや単なる時をあらわすのでなく、人であるお方と関係ができたのです。神はキリストにあってご自身の安息に達せられたのです。あらゆる神のみわざはキリストにあって完成されました。神はキリストが十字架の贖いによって神のみわざを完成したとき、ご自身の安息に入られたのです。

もはや、それは形式や儀式や建物や聖職者やいけにえではありません。すべてキリストです。彼らは(訳注:ヘブル人)それを経験したのです。主は彼らを宗教的、形式的、歴史的、伝統的陣営から引き出させるために召されました。その結果、迫害、追放、孤立、孤独、その他あらゆることが生じたのです。公認の宗教人はそれゆえに彼らに厳しく当たりました。真に霊的であり天的であるために支払わねばならない報酬は大きいものでした、そして今も大きいものです。そして彼らは危険にも昔のものに戻る危機状況にいたのです。ヘブル人への手紙はちょうど彼らをその危機から救い、彼らに十字架、主イエス様のみわざによって生じた大きな変化についてさらに完全に教えるために書かれたのです。一つの体系が過ぎ去って行きました。それは地上の代理者でした。そして別のもの、すなわち天的に真実なものが入って来たのです。

その手紙がどのように「天国にあることがらの模型」と「天的事物そのもの」についてどれほど語っているかおわかりでしょう。ヘブル人への手紙は偉大な結論に達しています。すなわち、「私たちは天的なエルサレムに、注ぎかけの血に、新しい契約の仲介者であるイエスに近づいています」(訳注:ヘブル12:22〜24参照)と。

ところが目にするものは歴史的なキリスト教であり、伝統的なキリスト教であるものが礼拝の魂のレベルのものとして依然として維持されています。その礼拝では特定の窓をあつらえ、特定の音楽と特定の祈りと特定の人々、特定の衣装を備えたもの、その他礼拝を助けるもの全てを備えた建物を持たねばならないのです。すべてこれが神との真の交わりをもたらすものです。それはカルバリ以前の基盤にもどる生き方であり、すべてが魂のものであり、神との内面からする完全に個人的な霊的な交わりをうまい具合に妨害するものであります。

いのちである主を知るために私たちは表面的な体系である(過去の)墓の衣装から自由にならねばなりません。

(今日の文章は Christ the Power of God - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003421.htmlです。抜粋引用がきわめて自由になされていて一部原文の順序を無視していますので、訳文では原文を生かした形で掲載しています。)

2011年10月21日金曜日

宗教は最大の敵

路傍の草花、10月14日 御代田
いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。(新約聖書 使徒7:48)

(恐らく私たちが関係していることで、大切な識別をする際に最大の失敗は神秘主義と霊的であることとのちがいに関わることでありましょう。こういうところに世が誤解されるだけでなく、キリスト教も欺かれるところがあるのです。実に自らクリスチャンであると自認する人々の圧倒的多数の人々が一方では神秘主義(美 的感覚にふさわしい)や禁欲主義(自己否定の実践)と他方では霊的であることの識別ができないのです。事実これらのものは二つの全く異なる領域に属し、神のことばはそれらの間をばっさり切り離します。
 カインと「カインの道」 について話すとき、すぐ彼の殺人行為、嫉妬と敵意から生じたことを想起することに慣らされています。彼の怒りっぽい、ぐちっぽい、すねる心、機嫌の悪さや神に対する無礼な態度さえあることを思い出すことでしょう。しかし思い出すべき別の側面があります。カインに対して公平であらねばなりません。さもないと全体的な観点を見失います。カインは神を排除したり無視はしませんでした。ことばの通常の用法に従えば神なしとする人ではありませんでした。神の存在を認めていました。それから、彼は神のために祭壇をこしらえたのです。さらに彼は疑いなく、神に嘉納するものとして自ら骨折り苦労した産物の最上のものを選 び、携えたのです。ここには宗教上の献身がありました。カインは美的感覚を全部働かせて礼拝しました。そして、カインは殺害したのです。弟を。ユダヤ人もキリストがおられたとき、同じことをしました。)

キリスト教は大体においてこの感覚、すなわち建物や、儀式や、音楽や、装飾や、照明や、あるいはそれを欠く場合には色調や、雰囲気や衣装などによって成り立ちます。
(しかしカインは神に徹しなかったのです。ユダヤ人も徹しなかったのです。)
霊的な死がその領域を特色づけます。様々な解決に役立つ強い感情や、「高度な」思想や意欲があるかもしれないのに対して、関係する人々の生まれつきの性質には心からの変化はありません。この繰り返される投薬は、それぞれに良い感情を生ずる魂の自己満足の方策を維持するために取られねばならないのです。あらゆる宗教はこの魂的な性質を共通して多かれ少なかれ持っています。その致命的な間違いが、多くの宗教的な人々によってなされてきたのはこういう事情によるのです。彼らは疑いもなく心からの真摯な他の宗教は妨げられるべきでなく、それらのうちに良きものが認められ受け入れられるべきだと主張します。

聖書が霊的であるということと宗教とを混同しているのです。宗教は高いレベルに上り、恐ろしい深みにまで沈めることができるのです。両方をなす同じものであります。しかし、そのものは決して人間のレベル以上には上らないし、決して神に達することはありません。宗教は神の真の考えの最大の敵に成りうるのです。 なぜならそれが悪魔の最善の惑わしであるからです。禁欲主義はまことに唯美主義に過ぎません。There is no more a brief with God for rigors, denials, fastings, puritanic iciness, etc., as such, than for the opposite. 純真であることは神に機会を与えるかも知れませんが、必ずしも霊的ではありません。好みかもしれないのです。
(どんなに、詩、音楽、芸術において崇高な思想や考えがしばしば道徳的な堕落や不品行を相伴って進み行くことでしょうか。)

どれほど知覚や説明において神秘的なことは真理に近づきうることでしょう。想像力は聖書においてすらどんなに素晴らしいものを見得ることができることでしょう。どんな畏敬や驚きや法悦の興奮が支配的な魂によって聴衆や会衆を射抜くことができることでしょう。しかし、それはすべて神もなく永遠から出るものでもないニセの世界であるかも知れません。それはこの生活をここで練りあげ、単調さから救い出すために懸命であるかも知れません、しかしそこが最後なのです。私たちはどんなに人工的な世界に来ていることでしょうか。音楽が前進し、浪漫的な要素が服飾や金ぴかのもので明らかになり、人間の個性が見せびらかされるとき、どれほど誇りや競争心が自己主張するのか、信じさせるどんな力がその環境に入ってくるかを良く見なさい。まことに人工的な世界です。私たちはずっとその中にいました。そして後にその反動を知るのです。 どれほどその結果はうつろで空しいことでしょうか。死海のなれの果てともいうべきことです。このメロドラマの悲劇はかなり多くの人にとってそれが「現実の生活」であるということです。この魂の世界が悪魔の模造品であります。宗教に関係しようと、しなかろうとそのことが明らかになるところはどこでも全部ニセものなのです。

宗教や哲学や真理の体系であったり、道徳上あるいは倫理的な教義として受け入れらている「クリスチャンの信仰」は、偉大な理想の一時的な励みになるかも知れません。しかしこれはいのちの再生あるいは霊の新しい誕生の結果によらないことでしょう。今日世にはそのような「クリスチャン」がたくさんいるでしょうが、彼らの霊的な効能はゼロであります。

(今日の文章は What is Man? - Chapter 5 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003420.htmlです。英文は訳せなかったところです。今日の箇所はスパークス氏が聖書をとおして明らかにしている人間の構成要素である「霊」と「たましい」のちがいに思いを馳せるとき理解がスムーズに行くのではないでしょうか。特に最後のパラグラフの前にはおよそ二頁分の文章があります。その辺を補って訳したかったのですが、今回は原文がそうなので、それに従いました。よりくわしく読まれたい方は全文お読みなさることをお勧めします。それにしてもこの「人とは何者でしょうか」とも読めそうなこの文章は全部で11章のA4版にして77頁のものです。全文読みたい文章の一つです。)

2011年10月17日月曜日

管理者精神は永遠なり

久しく留守にしていました。今日から数日、10/7〜10/16の旅を載せます。先ずは眼鏡橋です。
このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。(新約聖書 1コリント4:2)

神様の目から見て、最大の徳は忠実であると私は信じます。忠実さはすべてのものを受け入れます。同時に忠実さは神様ご自身のみこころに従うのです。

この管理者、すなわち使徒パウロを一瞥してください。「デマスは私を捨てました・・・」(2テモテ4:10)「・・・アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。・・・」(2テモテ1:15)忠実さを引き起こすものがどれもこれも駄目になっている時のパウロをご覧なさい。彼は実際にひとり置き去りにされています。彼には今までよりももっとたくさんの敵がいるのです。そして今や悲劇であり悲惨であることは彼の敵のかなり多くの人が彼がもっとも多く仕えた人々であることです。尽したことのない敵がいることはそれほど難しいことでないのに対して、今や彼が尽しきった当の人たちが敵となってしまったのです。しかしあきらめるという考えも、兆しも何らありません。

彼の言葉は 「・・・死に至るまで忠実でありなさい・・・」であります。こういう管理者が忠実なのです。彼が死んだ時、事態は大成功を証明したとあなたなら言えないでしょう。全くそのようには見えなかったのです。パウロの生涯は絶対に外形的には汚名をそそぐことはありませんでした。(しかし)果たしてそうでしょうか。彼は孤独な人として大体において死にました。しかし忠実でした。「・・・管理者には、忠実であることが要求されます。」

けれども他の人を富ますことは、その要求を満たすことに続くものであります。それがたとえどんなに犠牲があろうとも。パウロは死んでいないのです!私はパウロが自身の宣教から生じたものをすべて知っており、また彼の宣教が私たちにとって重要であることを願うのみであります。主は私たちに主のしもべをとおして出会わせてくださいました。そして私たちはパウロをとおしてでなければ、決して決してキリストの満たしのもっとも深いところや基底部のいかなるところにも近づけませんでした。

私たちは進み続けるでしょう。そしてもし私たちが今の人生の二倍三倍生きるとしても私たちがパウロの管理者としての忠実さに依然として負うことが多いことに気づくことでしょう。それが幾世紀も続いて来たのです。

それが忠実な管理者精神です。そしてたとえ管理者が地上の管理責任から解き放たれて召されたとしても、その管理者精神は続くのです。忠実さがいつも私たちの途方もない夢にまさって報われるのです。願わくは、主が、時々忠実さが私たちに完全な失敗に見えたとしても、私たちに忠実さを守らせてくださいますように。主が私たちを良き管理者にしてくださるからです。

(今日の文章は The More Excellent Ministry - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003416.htmlです。昨日御代田でベック兄のメッセージをお聞きしたばかりですが、全くその続きのようなスパークス氏のメッセージです。)

2011年10月4日火曜日

よみがえりのキリストの力

友人がフィレンツェの思い出に焼きつけた試作品、土台はご主人が九十九里浜の流木を裁断したという
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(新約聖書 2コリント4:10)

今や私たちのからだにとってよみがえりのキリストに価値があるのです。キリストのよみがえりのいのちは、今やからだに力を与えることができるのです。 それは差し当たってからだをキリストの栄光あるからだに似たものに変えることでなく、奉仕のためにからだを生き返らせるのです。死ぬべきからだに、よみがえりのいのちが与えられるのです。よみがえりのいのちは慎重に当てられ、選ばれ、引き出されねばなりません。私が体調がすぐれず、へたへたと座り込むほど弱くなり、「ああ、主よ、来てください。私を元気にし、立ち直らせ、良くしてください。」と言う時、よみがえりのいのちは役に立ちません。主は決してそうはなさらないのです。私が、絶望的な弱さ、体力の減衰、完全に無能力を味わうような時、主がくださるいかなるものも、主が私にご自身をつかまえさせるように働かれた結果としては導かれませんでした。主は決して来てくださいませんでしたし、突然私にいのちが満たされ、充満され、よみがえりの思いにもさせられることもありませんでした。

私は非常にしばしば主が、聞こえる声でな く、提案や助言という良きもので、いのちをつかみなさい、わたしのいのちを自分のものとしてつかみなさい、と言われた素晴らしい時を経験しました。話された言葉ではありませんでしたが、暗示がこの結果に対してありました。それは私自らがこの状態(訳注:アダム的な状態)と縁を切り、いのちを求めてキリストをつかむようになった時です。そしてそれがもっと進んだ奉仕の期間のための再生となったのです。主は私たちをロボットのようには取り扱われません。主は私たちが主のよみがえりのいのちの基盤の上に立ってご自身と協力するようにさせられるのです。

よみがえりのキリストの全ての価値は、私たちが主のよみがえりのいのちを落ち着いて確信をもってつかむことによって見出されるのです。それはたとえ体やたましいや霊であろうとも、「縁を切ったアダムよ」と言うだけであり、必要はどんなことであろうともキリストに立つしかないのです。それは霊に対してでしょうか。精神に対してでしょうか、心に対してでしょうか、意志に対してでしょうか、体に対してでしょうか。本質的な唯一のことはその一つ一つの状態に対して確信をもってキリストに立つということです。

こうして最初にお話したところに戻ってきます。すなわち、経験にとってキリストの全領域とは私たちのうちにあるよみがえりのいのちとそれをつかみ、その上に立つことに依存しているということです。主は私たちにそのことが意味することをよりたくさん示してくださるのです。

(今日の文章は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003400.htmlです。誤訳があると思います。全文から意訳につとめたところもありますが。)

2011年10月3日月曜日

神と人の前で真理を語り続けたい

芙蓉の白は青空に似合いますね。
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(新約聖書 エペソ4:15)

(詩篇51篇は深い淵の底からというタイトルでよく知られていることでしょう。詩人が悲しみと良心の呵責という最深部に達しているのはこの詩篇です。深部が「血の罪」の問題である時、それはほっておかれないのです。というのは罪のためにモーセ儀式が提供する全ての中には血の罪のための備えがないからです。死だけがその答えです。このことがダビデがヒッタイト人ウリヤの挿話(2サムエル11章12章)ゆえに、この詩篇で知り、直面していることです。ダビデは神のあわれみが死よりももっと深く浸透しなければならないということをよく知っていました(死は当然彼が支払うべきものでしたが)。深い苦しみの中でダビデはきわめて重大な問題、論点に近づいたのです。「深さが深さを呼ぶ」とここにあります。もしその苦しみが罪と関連しているならば、深い苦しみは深い解決を求めるのです。解決は6節に「あなたはのうちの真実を喜ばれます」とあります。その最深部と解決に達するために神は私たちの失敗と罪を用いられるのです。

神の処遇の前進

 私たちの霊的な歩みのなかで神はもっとも深いところで私たちを取り扱われるのです。神は下へ下へと降りて来られます。それは私たちの大変深い点で物事が明らかになるように底辺に触れるまで続きます。神は私たちが専門とすること、主義、様々な思い込み、自負心、幻想、それに様々な習慣を次々削ぎ落とされるのです。
 これについては単なる形式主義はありません。またこの中には、単なるユダヤ教の儀式も、表面的な儀式もありません。そうです。これはもっとも心の奥の領域、すなわち心のうちに達することでなければなりません。神はその方向に沿って働かれます。神はつねにもっとも深奥部にむかって働かれるのです。あなたはそのことを認めますか。神が私たちを取り扱っておられることを理解しますか。
 ああ、神は私たちが神の前を、あの詩篇第一篇の人のように歩く時、一定の祝福をもって私たちと出会ってくださることでしょう。また私たちが背き、律法に違反し、失敗し悪をなすとき、私たちにやさしい備えをもって出会ってくださることでしょう。神は恵みをもって会ってくださるのです。ただし神はこの問題を私たちの存在のもっとも内側のところまで追求され、そのところで恵みと贖いの働きを刻印されるのです。
 三位一体 の神、父なる神、御子、聖霊はこの一つの性格、すなわち真理によって特徴づけられています。そして神はその神の性質の分与者である人を喜び、ご自身の心に銘記してくださるのです。だから神がこの目的に向かって絶えず深く深く働いてくださるので、すなわち主御自身の真実は神の子(神によって生まれさせられた者)の真実となり、この意味でそれらの人は当然神の本当の子となるのです。

すべての虚偽は悪魔的

 サタンはうそつき、偽りの父だと言われます。そのゆえにあらゆる虚偽は神にとって忌まわしいのです。神はすべてのうそつきどもを火の海に引き渡されました。すなわち神は新しいエルサレムからうそをつくすべてのものを除外されました。神は真理でない、ご自身のように徹底的にまっすぐ真理でないすべてのものを憎まれ ます。神は内面に真理を持たねばなりません。
 サタンによる神の創造物である人間に対する干渉は結果的に人が神がかかわるところで偽りのものとなりました。人は神のみこころを誤り伝えるものであり、欺かれる創造物です。 「この世の神は」とパウロは言い、「不信者の思いをくらませた」と言っています。人は欺かれ、目が見えなくされている生き物です。しかし神は「心のうちの真実」を望まれます。
 ご存知でしょうが、これはどんなに大きなことでしょうか。人はそれについて言うべきことと言わないでいいことを知るように追いつめられています。しかし、しばらくこの節「心のうち」をゆっくり考えてみましょう。この詩篇ではそのことばが真っ直ぐ貫いていることを見つけられることでしょう。ここにあるのがそれです。「私にきよいを造り」「私のうちに正しいを新しくしてください」「砕かれたと悔いたをあなたはさげすまれません」ご存知のように、それが今や心からの必要として生じて来た、この最も深い領域のすべてであります。もはや欺きはありません、偽りも、まがいものも、見せかけもありません。もはやすべて正しくない時、まるですべてが正しいかのように続けることもありません。もはや内側の不真実を覆い隠すために外側の手段を用いることもありません。内側が神の前に正しくない時、もはや集会に行き、お祈りをし、全体系に加わることもありません。その時私たちは自分たちが今や生まれながらの性質によって存在していることを知り、これが私たちの再構成になるのです。そのことに服しないことはたとえどんなことであってもそれ自身が偽りであります。)

外からちょうどうまい具合に装ったり、単に儀式や慣例によって内なるいのちを覆うような宗教組織はいかなるものも偽物であり、それは真実ではありません。神の働きは人間の性質を再構成します。そしてそれは当然二つのことを意味するのです。

一方で神の働きは破壊が伴います。そして神の御手に帰着する人々の取り扱いについて何ほどかのことを知るなら、疑いもなくそのことに対する大きな余地があるのです。それは漸進的な破壊であり、物事の本質に達することであり、真実を悟らせることにあります。もし私たちが自分自身に少しでも幻想を抱いているな ら、神がことをなさった時、全部なくなるでしょう。また、もし私たちが自分自身や自分の立場や働きについて何らかのうそのようなものに支配されるなら、神が私たちを取り扱われた時それは全部消滅するでしょう。神は私たちが自らがありのままで汚れていること、すべて自分たちの正義は、不潔なぼろ切れのようであるとわかるまで砕いてくださいます。

しかし、当然もう一方のことが四六時中あるのです。というのは神はつねに否定的であるだけではないからです。建設があり、にせもの、完全に透明で真実で真っ直ぐでないものが自分たちにとって憎しみになるように育てられるのです。ますます私たちの内なる人が私たち自身の欺瞞に反抗するのです。いかなる誇張もただちに悪であるとする有罪宣告が帰って来るのです。すなわちいかなる偽りの言明も私たちを厳しく打ち、私たちが真実を語って来なかったことを知らせるのです。神のように、私たちの憎む一事はにせである限りどんなものでも憎むようになるまで、聖霊の御手のうちに入ることになります。それは素晴らしいことです。「私は憎む」とダビデは言い、「あらゆる偽りの道を」と言いました。私たちはそのところに来なければなりません。けれども私たちは真理を愛し慕う者にならねばなりません。そしてこれが私たちをいたるところで追求するのです。すなわち私たちが全然自分を欺かないということが自分自身の内側の生活へと私たちを駆り立てるようになります。神の前で神が私たちを何と思っておられるかを知り、光のなかでどこに立っているのかを知るのです。 
社会生活の真実さ

 そのことは私たちの社会生活を追求するでしょう。そしてあらゆる社会のうそや見せかけは神の御手の下にへりくだってこなければなりません。ああ、社会の領域には何と巨大な偽りと見せかけが存在することでしょうか。あらゆる「見せかけ」についてはどうですか。見せかけによって、あなたは実際はそうでないのに何者かであるかのように見せてはいませんか。真実でない何かの外観を与えるためですか。すべての社会生活はそのようであります。それが不真実の構造です。そしてまことに真実でないことを良い案配に言う多くの方法を備えているのです。

実業生活の真実さ

 今度は実業生活を追求してみましょう。私たちが良い売り手や買い手にするうそ、商業上のうそがあります。ですから徹底的に神はこの真理の問題を追及されるでしょう。失礼ですが、それは神にとって大変大変重要な問題なのです。もし神が不真実なことを憎み、内側の真実を望まれるなら、うそがあるところ、少しでもそのようなものがあるところを神はどのようにして祝福なさるでしょうか。神の目は見ておられます。
 そしてこれは時のわざです、実に一生のわざです。このことはもっと光があてられるようになり、ますます激しく、一層続きます。主は私たちを、ちょうど私たちが子どもたちにするように霊的な幼児として多くのことを許しておられます。私たちは彼らが子どもであることを知っており、全く正しくないと知っている確かな事柄をあまり気にとめません。そして神は大変忍耐し私たちが成長するように気を使っておられます。神の性質のあらゆる満たしや正確さをもってよくなることはすぐにはされないでしょう。神は人の全生涯をかけて広げて行かれるのです。
 そして私たちが主のところに近づけば近づくほど、聖霊はますますこの真理の問題を細かく支配されます。すなわち聖霊の私たちに対するお取り扱いはますます緊密になるのです。「主 を恐れるきよさを完成する」完成が非常な真実であると知るのです。目的に近づけば近づくほど主の私たちの生活のいかなる偽りも主のお取り扱いはますます厳重であるでしょう。それは時の問題ですが神は非常に厳しくあられます。そうです。厳しくあられるのです。神はやり過ごされません。私たちは神が厳しくなさることを求めますか。確かに「ハイ」と言うことは愉快ではありません。しかし神が内側にあるあらゆる無定見、あらゆる矛盾、あらゆる偽りを厳しくしかられることは良いことです。)

(今日の箇所は Truth in The Inward Parts  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003393.htmlです。このシリーズは三回目です。短編ですので、あともう少し頑張れば完訳です。

2011年10月2日日曜日

神は御子によって語られる

いわゆる「放蕩息子の帰還」1606年 レンブラント・エッチング
神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。(新約聖書 ヘブル1:1〜2)

神は過去、「いろいろな方法」で、つまり、さまざまな部分だけでなく、さまざまな様式で語られたとヘブル人への手紙は言っています。余り長く時間をとると旧約聖書に戻って神が語られたすべての様式を見ることはできないでしょう。神は無数の異なった手段によって、時にはことばによって、時にはわざによって語られました。その方式は実に「さまざま」でした。しかし、ここで宣言されていることは終わりに神が一つの方法、一つのすべてを包含する方法で語られたということです。それは神の御子のうちにあります。神の御子は、終わりに語られる神の一つの包含的な方法であります。一方では誰もイエス・キリストを離れては神から何も得られないでしょう。神は御子にある以外には全く語ることを拒絶なさるのです。もし神があなたに言いたいことが何であるかを知りたいのなら、あなたは御子のところに行かねばなりません。もう一方でイエス・キリストにあるなら私たちは神がつねに言おうとされることをすべて知るのです。

(特に若いクリスチャンに申し上げたいのです。私は長年かけて聖書を読み学んできました。全く正直にお話するのですが、今日この本・聖書は全く私の分を越えたものです。もしそのことが本当でなかったら、私は決してこのヘブル人への手紙には戻らなかったでしょう。長年この手紙から説教もし学びもしてきました。しかし今日この手紙は私をはるかに越えているのです。果たして私たちはこの手紙を「ヘブル人への手紙」と言っていて、いいのでしょうか。「この手紙に啓示されている主イエス」と言うのがもっと正確でありましょう。)

そうです。私たちが依然として理解しようとしていることよりもはるかにもっと神は御子にあって語っておられることをこの手紙をとおして知るからです。私たちはイエス・キリストから離れて何も持たないのです。イエス・キリストを離れるものは何も必要としません。

(手紙は神の愛が神が子に用いるむちにあらわれると言っています。神はいつも良いこと、最善なことを快適な形にまかされません。先日薬を飲まねばならなかった 小さな男の子のことを聞きました。そのことは(その子に取って)あまり愉快なことではありませんでした。彼の父親は言いました。「この薬にはビタミンがたくさんあります。」男の子は言いました。 「お父さん、なぜ全部いいものはいやなものに入れられねばならないのですか。なぜアイスクリームに入れることができないのですか」主はいつもいいものをアイスクリームに入れられるわけではありません。時にはビタミンはいやな薬の中にあるのです。
 さてそのことはこの手紙が言っていることにぴったりです。神が私たちをそのようにお取り扱いになるとき、私たちを罪に帰せられるのではありません。神は私た ちを解放するために働かれます。ただ、もしあなたがここにあるこれらの話があなたを救うのだと思っているなら、あなたは誤解しているのです。それらは神がなさっていることを説明するものに過ぎません。神は理論によっては決して救われません。)

あなたはキリスト教の教義についてかつて書かれたものをことごとく読むことはできましょうが、相変わらず同じ男性あるいは女性であり得るのです。神の方法は (それとちがって)非常に実際的です。神は経験によって私たちを教えるのです。その経験は時には非常に理解しにくく、ヘブル人の手紙のここでは(訳 注:12:7)「子の訓練」と言われています。

主イエス様が私たちの心に何度もこれらのことを焼きつけて下さいますように。神はそれでもなお御子のうちにあって語っておられます。そして神の語りかけは御子の仲間(兄弟)を得るためであります。この天からの召しを受ける仲間、キリストの仲間(聖徒)は厳しい学校に入り、多くの厳しい課程を学ばなければならないでしょう。しかしそれらを学んで一人一人が主イエス様にあって受け継ぐものがどれほど偉大であるかを理解するようになることでしょう。

(これにつけくわえたいのです。私の経験によれば、誰も苦難なしには本当に霊的な知識を身につけられないということです。頭の知識について話しているのではありません。内なるいのちにある主を本当に知ることについて話しているのです。苦難を抜きにそのことを知るにいたったと言う人を私は誰も知りません。恐らくそれは口に出すのも憂鬱なことでしょう。しかしそこに神のみことばにある法則があるのです。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。」(2 コリント4:7)そしてこの土の器が試練と苦悩をとおしてどんなに貧しいものかを学びますが、一方で主がどんなに素晴らしいかを学ぶのです。
 ヘブル人への手紙は言います。「後になると」(それは、懲らしめのあとです)「平安な義の実を結ばせます。」(12:11)何というすばらしい聖句でしょう。これらの実は懲らしめの線に沿って、そして苦難の方法によって生ずるのです。そのように私たちも使徒が苦難のうちに喜んだに違いないその恵みを求めましょう。)

(今日の箇所は The On-High Calling - Chapter 5  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003382.htmlです。このOn-high callingは1963年スイスの年会で語られたものの記録のようですが、珠玉の文章が11章に分けて記録されています。是非とおして全部読みたいものです。)