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2011年10月3日月曜日

神と人の前で真理を語り続けたい

芙蓉の白は青空に似合いますね。
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。(新約聖書 エペソ4:15)

(詩篇51篇は深い淵の底からというタイトルでよく知られていることでしょう。詩人が悲しみと良心の呵責という最深部に達しているのはこの詩篇です。深部が「血の罪」の問題である時、それはほっておかれないのです。というのは罪のためにモーセ儀式が提供する全ての中には血の罪のための備えがないからです。死だけがその答えです。このことがダビデがヒッタイト人ウリヤの挿話(2サムエル11章12章)ゆえに、この詩篇で知り、直面していることです。ダビデは神のあわれみが死よりももっと深く浸透しなければならないということをよく知っていました(死は当然彼が支払うべきものでしたが)。深い苦しみの中でダビデはきわめて重大な問題、論点に近づいたのです。「深さが深さを呼ぶ」とここにあります。もしその苦しみが罪と関連しているならば、深い苦しみは深い解決を求めるのです。解決は6節に「あなたはのうちの真実を喜ばれます」とあります。その最深部と解決に達するために神は私たちの失敗と罪を用いられるのです。

神の処遇の前進

 私たちの霊的な歩みのなかで神はもっとも深いところで私たちを取り扱われるのです。神は下へ下へと降りて来られます。それは私たちの大変深い点で物事が明らかになるように底辺に触れるまで続きます。神は私たちが専門とすること、主義、様々な思い込み、自負心、幻想、それに様々な習慣を次々削ぎ落とされるのです。
 これについては単なる形式主義はありません。またこの中には、単なるユダヤ教の儀式も、表面的な儀式もありません。そうです。これはもっとも心の奥の領域、すなわち心のうちに達することでなければなりません。神はその方向に沿って働かれます。神はつねにもっとも深奥部にむかって働かれるのです。あなたはそのことを認めますか。神が私たちを取り扱っておられることを理解しますか。
 ああ、神は私たちが神の前を、あの詩篇第一篇の人のように歩く時、一定の祝福をもって私たちと出会ってくださることでしょう。また私たちが背き、律法に違反し、失敗し悪をなすとき、私たちにやさしい備えをもって出会ってくださることでしょう。神は恵みをもって会ってくださるのです。ただし神はこの問題を私たちの存在のもっとも内側のところまで追求され、そのところで恵みと贖いの働きを刻印されるのです。
 三位一体 の神、父なる神、御子、聖霊はこの一つの性格、すなわち真理によって特徴づけられています。そして神はその神の性質の分与者である人を喜び、ご自身の心に銘記してくださるのです。だから神がこの目的に向かって絶えず深く深く働いてくださるので、すなわち主御自身の真実は神の子(神によって生まれさせられた者)の真実となり、この意味でそれらの人は当然神の本当の子となるのです。

すべての虚偽は悪魔的

 サタンはうそつき、偽りの父だと言われます。そのゆえにあらゆる虚偽は神にとって忌まわしいのです。神はすべてのうそつきどもを火の海に引き渡されました。すなわち神は新しいエルサレムからうそをつくすべてのものを除外されました。神は真理でない、ご自身のように徹底的にまっすぐ真理でないすべてのものを憎まれ ます。神は内面に真理を持たねばなりません。
 サタンによる神の創造物である人間に対する干渉は結果的に人が神がかかわるところで偽りのものとなりました。人は神のみこころを誤り伝えるものであり、欺かれる創造物です。 「この世の神は」とパウロは言い、「不信者の思いをくらませた」と言っています。人は欺かれ、目が見えなくされている生き物です。しかし神は「心のうちの真実」を望まれます。
 ご存知でしょうが、これはどんなに大きなことでしょうか。人はそれについて言うべきことと言わないでいいことを知るように追いつめられています。しかし、しばらくこの節「心のうち」をゆっくり考えてみましょう。この詩篇ではそのことばが真っ直ぐ貫いていることを見つけられることでしょう。ここにあるのがそれです。「私にきよいを造り」「私のうちに正しいを新しくしてください」「砕かれたと悔いたをあなたはさげすまれません」ご存知のように、それが今や心からの必要として生じて来た、この最も深い領域のすべてであります。もはや欺きはありません、偽りも、まがいものも、見せかけもありません。もはやすべて正しくない時、まるですべてが正しいかのように続けることもありません。もはや内側の不真実を覆い隠すために外側の手段を用いることもありません。内側が神の前に正しくない時、もはや集会に行き、お祈りをし、全体系に加わることもありません。その時私たちは自分たちが今や生まれながらの性質によって存在していることを知り、これが私たちの再構成になるのです。そのことに服しないことはたとえどんなことであってもそれ自身が偽りであります。)

外からちょうどうまい具合に装ったり、単に儀式や慣例によって内なるいのちを覆うような宗教組織はいかなるものも偽物であり、それは真実ではありません。神の働きは人間の性質を再構成します。そしてそれは当然二つのことを意味するのです。

一方で神の働きは破壊が伴います。そして神の御手に帰着する人々の取り扱いについて何ほどかのことを知るなら、疑いもなくそのことに対する大きな余地があるのです。それは漸進的な破壊であり、物事の本質に達することであり、真実を悟らせることにあります。もし私たちが自分自身に少しでも幻想を抱いているな ら、神がことをなさった時、全部なくなるでしょう。また、もし私たちが自分自身や自分の立場や働きについて何らかのうそのようなものに支配されるなら、神が私たちを取り扱われた時それは全部消滅するでしょう。神は私たちが自らがありのままで汚れていること、すべて自分たちの正義は、不潔なぼろ切れのようであるとわかるまで砕いてくださいます。

しかし、当然もう一方のことが四六時中あるのです。というのは神はつねに否定的であるだけではないからです。建設があり、にせもの、完全に透明で真実で真っ直ぐでないものが自分たちにとって憎しみになるように育てられるのです。ますます私たちの内なる人が私たち自身の欺瞞に反抗するのです。いかなる誇張もただちに悪であるとする有罪宣告が帰って来るのです。すなわちいかなる偽りの言明も私たちを厳しく打ち、私たちが真実を語って来なかったことを知らせるのです。神のように、私たちの憎む一事はにせである限りどんなものでも憎むようになるまで、聖霊の御手のうちに入ることになります。それは素晴らしいことです。「私は憎む」とダビデは言い、「あらゆる偽りの道を」と言いました。私たちはそのところに来なければなりません。けれども私たちは真理を愛し慕う者にならねばなりません。そしてこれが私たちをいたるところで追求するのです。すなわち私たちが全然自分を欺かないということが自分自身の内側の生活へと私たちを駆り立てるようになります。神の前で神が私たちを何と思っておられるかを知り、光のなかでどこに立っているのかを知るのです。 
社会生活の真実さ

 そのことは私たちの社会生活を追求するでしょう。そしてあらゆる社会のうそや見せかけは神の御手の下にへりくだってこなければなりません。ああ、社会の領域には何と巨大な偽りと見せかけが存在することでしょうか。あらゆる「見せかけ」についてはどうですか。見せかけによって、あなたは実際はそうでないのに何者かであるかのように見せてはいませんか。真実でない何かの外観を与えるためですか。すべての社会生活はそのようであります。それが不真実の構造です。そしてまことに真実でないことを良い案配に言う多くの方法を備えているのです。

実業生活の真実さ

 今度は実業生活を追求してみましょう。私たちが良い売り手や買い手にするうそ、商業上のうそがあります。ですから徹底的に神はこの真理の問題を追及されるでしょう。失礼ですが、それは神にとって大変大変重要な問題なのです。もし神が不真実なことを憎み、内側の真実を望まれるなら、うそがあるところ、少しでもそのようなものがあるところを神はどのようにして祝福なさるでしょうか。神の目は見ておられます。
 そしてこれは時のわざです、実に一生のわざです。このことはもっと光があてられるようになり、ますます激しく、一層続きます。主は私たちを、ちょうど私たちが子どもたちにするように霊的な幼児として多くのことを許しておられます。私たちは彼らが子どもであることを知っており、全く正しくないと知っている確かな事柄をあまり気にとめません。そして神は大変忍耐し私たちが成長するように気を使っておられます。神の性質のあらゆる満たしや正確さをもってよくなることはすぐにはされないでしょう。神は人の全生涯をかけて広げて行かれるのです。
 そして私たちが主のところに近づけば近づくほど、聖霊はますますこの真理の問題を細かく支配されます。すなわち聖霊の私たちに対するお取り扱いはますます緊密になるのです。「主 を恐れるきよさを完成する」完成が非常な真実であると知るのです。目的に近づけば近づくほど主の私たちの生活のいかなる偽りも主のお取り扱いはますます厳重であるでしょう。それは時の問題ですが神は非常に厳しくあられます。そうです。厳しくあられるのです。神はやり過ごされません。私たちは神が厳しくなさることを求めますか。確かに「ハイ」と言うことは愉快ではありません。しかし神が内側にあるあらゆる無定見、あらゆる矛盾、あらゆる偽りを厳しくしかられることは良いことです。)

(今日の箇所は Truth in The Inward Parts  の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003393.htmlです。このシリーズは三回目です。短編ですので、あともう少し頑張れば完訳です。

2011年5月6日金曜日

私の罪の物差し

「立てば芍薬、座れば牡丹」のしゃくやく。こんな見事な花が近所のお庭にあった。
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。—主の御告げ。— 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(旧約聖書 イザヤ55:8~9)

神様のものごとに関する思いは私たちの思いと全く異なります。私たちは神様が決して許さない、認めないであろうことを、よく許したり認めたりします。神様は事態に関して完全に違う観点を持っておられます。私たちが物事をあるやり方で裁くのに対して神様は別のやり方で裁かれます。私たちが神様の立っておられるところまで来ることが必要です。

ああ、私たちはよく言ったものです。あれこれの事柄には何の害も加えるものはない。ああそこには悪いものは何もない。あれこれ見渡して、私たちは自分の基準を採用します。そして恐らくはそれは他の人々からの基準でもあるでしょう。私たちは人々がそうするのを知っています。神の働きをする何人かの傑出した人々を取り上げて見なさい。彼らの生活は確かなものでした。模範として、また倣うべきものとして、だから採用されてきました。ああ、そこには害を加えるものはありません。あれこれをご覧なさい、と。ところが私はまさしくその理由ゆえに破滅させられた多くの生活や宣教の例を見て来たのです。

問題はこうです。主はそれについて何と言われるのか、ということです。神様はおっしゃいます。わたしの前を歩みなさい! いかなる人の模範も、いかなる人の基準の前も歩んではなりません。「その中に害を加えるものはありません。しかじかの人がそうします。それが全く常識です」いいえ、そうではないのです。「わたしの前を歩め」と主はおっしゃるのです。私たちはこのことを霊において、内なる人において理解しなければなりません。それは最上の道徳水準よりもさらに深いのです。

さもなければ聖書にある存在には全然問題点がないことになります。もし私たちの道徳水準が神様が満足されるところにまで達し得るならば、なぜ私たちはそんなに扱われ、再構成されねばならないのですか。それは私たちの知性よりも、また理性よりもさらに深いのです。あなたは知性や理性によって神様の水準に達することは出来ないのです。全然出来ないのです。ああ、あなたはいかなる理性の力によっても神様の水準に必ず達しうるのだと思わないでください。あなたは決して達することができないでしょう。

ここにいたるのは聖霊の啓示によるだけです。キリストは御霊によって私たちの心に現われねばならないのです。イエス様がおっしゃることに何の問題もありません。「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」もし私たちが自分の知力でそこに達することができるなら、と言われるのですか、でもそれは全然無理です。それは私たちの心のうち、すなわち内なるところにキリストの啓示が及ばなければならないからです。これが霊的な事柄であります。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」すなわち霊とまことは一緒に手を携えるものなのです。霊的であること、すなわち神からのものだけが真理(まこと)であります。そうです!それだけが真理なのです。

(今日の箇所は Truth in the Inward Parts の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003176.htmlです。第二パラグラフの訳が自信がありません。気をつけてお読みください。さて、ここに書かれていることは全文を読まない方には、やや観念的に聞こえるかもしれません。しかし聖書記事の中でもっとも大切なことが書かれているのだと私は思います。たとえば、私の「罪」の物差しは人間の基準、自分自身を弁解する基準に他なりませんでした。それは主の光のなかに出る時、そうでないことがわかったのです。主の光とは聖書の言葉です。ダビデ王のバテ・シェバ事件はその顛末がいずれも聖書に描かれていますが、そのダビデ王自身の罪の悔い改めは今日の記事の根底にあるものであります。関心のある方は詩篇51篇をお読みください。前回記事4/21「Thou desirest truth in the inward parts」は今日の箇所と同じ文章の抜粋です。)

2011年4月21日木曜日

Thou desirest truth in the inward parts

花よ我が 心となれ 日に照らされ 明日キリストの 受難日なり 
ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。(旧約聖書 詩篇51:6)

私たちの霊的な歩みのなかで神様はもっとも深いところで私たちを取り扱われるのです。神様は下へ下へと降りて来られます。それは私たちの大変深い点で物事が明らかになるように底辺に触れるまで続きます。神様は私たちが専門とすること、主義、様々な思い込み、自負心、幻想、それに様々な習慣を次々削ぎ落とされるのです。

これについては単なる形式主義はありません。またこの中には、単なるユダヤ教の儀式も、表面的な儀式もありません。そうです。これはもっとも心の奥の領域、すなわち心のうちに達することでなければなりません。神様はその方向に沿って働かれます。神様はつねにもっとも深奥部にむかって働かれるのです。あなたはそのことを認めますか。神様が私たちを取り扱っておられることを理解しますか。

ああ、神様は私たちが神様の前を、あの詩篇第一篇の人のように歩く時、一定の祝福をもって私たちと出会ってくださることでしょう。また私たちが背き、律法に違反し、失敗し悪をなすとき、私たちにやさしい備えをもって出会ってくださることでしょう。神様は恵みをもって会ってくださるのです。ただし神様はこの問題を私たちの存在のもっとも内側のところまで追求され、そのところで恵みと贖いの働きを刻印されるのです。

三位一体の神、父なる神様、御子、聖霊はこの一つの性格、すなわち真理によって特徴づけられています。そして神様はその神の性質の分与者である人を喜び、ご自身の心に銘記してくださるのです。だから神様がこの目的に向かって絶えず深く深く働いてくださるので、すなわち主御自身の真実は神の子(神によって生まれさせられた者)の真実となり、この意味でそれらの人は当然神の本当の子となるのです。

(今日の箇所は Truth In The Inward Parts の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003155.htmlです。今日の箇所は短い文章で読みやすいですがやや粗雑な読み方しか出来ていません。詩篇51篇をひもとき味わわれると心の深奥部で主は私たちをどのように愛し慈しんでくださるかが分かり希望が出てきます。今日の家庭集会でベック兄は「主イエスのよみがえり力」について話してくださいましたが、真の愛を持たなかった者マグダラのマリヤ、真の信頼を持たなかった者ペテロ、真の信仰を持たなかった者トマス、真の義を持たなかった者ヤコブがそれぞれ復活の主と出会ってどのように新しく造り変えられ、真の愛、真の信頼、真の信仰、真の義を持つにいたったか、それはすべて1コリント15:3~8のパウロも経験した「復活」の主との出会いによると話してくださいました。これら5人の人はいずれも心の真実、すなわち神様の前に隠しようのない自己の姿をとことん認めさせられたのです。そこからただ復活の主に出会ったことが新しい人生の出発となったのです。私たちもまたこのよみがえりの主に出会うことが出来るのです。上記の文章もその一端を示すものであります。ダビデその人がバテ・シェバとの姦淫の末、どのように主によって立ち直れたか、この詩篇51篇は心の深奥の悩み、そしてそこからの離脱がどのようにして主によって可能になったか、語ります。)