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2011年10月4日火曜日

よみがえりのキリストの力

友人がフィレンツェの思い出に焼きつけた試作品、土台はご主人が九十九里浜の流木を裁断したという
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。(新約聖書 2コリント4:10)

今や私たちのからだにとってよみがえりのキリストに価値があるのです。キリストのよみがえりのいのちは、今やからだに力を与えることができるのです。 それは差し当たってからだをキリストの栄光あるからだに似たものに変えることでなく、奉仕のためにからだを生き返らせるのです。死ぬべきからだに、よみがえりのいのちが与えられるのです。よみがえりのいのちは慎重に当てられ、選ばれ、引き出されねばなりません。私が体調がすぐれず、へたへたと座り込むほど弱くなり、「ああ、主よ、来てください。私を元気にし、立ち直らせ、良くしてください。」と言う時、よみがえりのいのちは役に立ちません。主は決してそうはなさらないのです。私が、絶望的な弱さ、体力の減衰、完全に無能力を味わうような時、主がくださるいかなるものも、主が私にご自身をつかまえさせるように働かれた結果としては導かれませんでした。主は決して来てくださいませんでしたし、突然私にいのちが満たされ、充満され、よみがえりの思いにもさせられることもありませんでした。

私は非常にしばしば主が、聞こえる声でな く、提案や助言という良きもので、いのちをつかみなさい、わたしのいのちを自分のものとしてつかみなさい、と言われた素晴らしい時を経験しました。話された言葉ではありませんでしたが、暗示がこの結果に対してありました。それは私自らがこの状態(訳注:アダム的な状態)と縁を切り、いのちを求めてキリストをつかむようになった時です。そしてそれがもっと進んだ奉仕の期間のための再生となったのです。主は私たちをロボットのようには取り扱われません。主は私たちが主のよみがえりのいのちの基盤の上に立ってご自身と協力するようにさせられるのです。

よみがえりのキリストの全ての価値は、私たちが主のよみがえりのいのちを落ち着いて確信をもってつかむことによって見出されるのです。それはたとえ体やたましいや霊であろうとも、「縁を切ったアダムよ」と言うだけであり、必要はどんなことであろうともキリストに立つしかないのです。それは霊に対してでしょうか。精神に対してでしょうか、心に対してでしょうか、意志に対してでしょうか、体に対してでしょうか。本質的な唯一のことはその一つ一つの状態に対して確信をもってキリストに立つということです。

こうして最初にお話したところに戻ってきます。すなわち、経験にとってキリストの全領域とは私たちのうちにあるよみがえりのいのちとそれをつかみ、その上に立つことに依存しているということです。主は私たちにそのことが意味することをよりたくさん示してくださるのです。

(今日の文章は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003400.htmlです。誤訳があると思います。全文から意訳につとめたところもありますが。)

2011年7月23日土曜日

絶えず父なる神に問われる御子

高崎・少林山達磨寺内
わたしは、自分からは何事も行なうことができません。(新約聖書 ヨハネ5:30)

(キリストは全く私心のない心を原動力とされています。キリストには自我原理がないのです。キリストは地上にある生活をその基盤として受け入れておられました。その基盤に試みがなされたのです。そしてその基盤の試練を通して完成されたのです。それはいかなる点においても、いかなる時においても、またいかなる緊張下にあっても、自らにしたがって行動し動き、選択をし、決定するかどうかという試練でした。また(父なる神から)独立し分離したお方として、絶えず自ら話し、行動し、動き選択するだろうか、あるいはいかなる方法で自らを表すかという試練でした。)

主の生涯の試練の背景を構成した一つの問題は、この人はひとりで行動するのだろうか、ひとりで話すのだろうか、ひとりで選ぶのだろうか、ひとりで決定するのだろうか、ひとりで動くのだろうか、というものであったことだとあなたが認めるなら、あなたは主イエス様の場合のあらゆるものの核心部にたどり着いているのです。そして主の答えはいつも自分からは何もしません、でありました。「子は自分からは何事も行なうことができません」(訳注:ヨハネ5:19ほか)「わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません」(訳注:ヨハネ14:10)

ありとあらゆる種類の訴えが主を迫害するために彼に向かってなされたが、それは瞬間の衝動に基づくものであったり(訳注:兵士たちの言動?)、成功報酬を約束するように見えた交渉にたいする応答であったり(訳注:ユダとの関係か?)、最も信頼するに値する知恵のように見えた議論によったのです。それらは主自らが出て、動き、行動し、話し、何かをなすように誘うものでした。

(こういう誘惑の機会となった人々によって、そのことがそのように理解されたのか、そうでなかったかはともかく、このことは明らかに悪魔、すなわち、彼らを用いつつあった扇動者のたくらみでありました。)

時には、情況が必要であったり、また時には主のお働きの結果(訳注:十字架にかかるということ?)のお約束があったり、主がとっておられる道(主の兄弟が、主を信じていず、主に向かって、エルサレムに上って自分をあらわせと言って、上るのを遅らせられた主を叱った時のように)が全く無知であることをあらわすことにより、(悪魔の)暗示が影響を及ぼしたことでしょう。

兄弟たちに向かって主は言われました。「私はこの祭りにはまだ上って行きません」そしてそれから、兄弟たちが上って行った後、そんなにもすぐに、主もまた上られたのです。しかし、主は普通の理由にうながされて上られたのではなかったでしょう。主はこのことは誰でもしていることだったからという理由だけでこのことをなさらなかったし、誰もが祭りに上って行ったので、主も当然上って行かねばならないということによって強く促されたのでもありません。

九十九人の人がそうしたからと言って百番目の人がそうしなければならないという言い分にはなりません。私たちは多くの人が行動を決定する要請によって動かされるものではありません。そうするのは一般的なことです。誰もがまたそうしています。それはそうするように認められることです。いいえ、そうではないのです。私の父は私にこのことをするように求めておられますか。それが絶えず私たちの歩みを支配しなければならない問題であります。

主イエス様の場合、常時、主に反対の道を採用させ、父なる神に尋ねたり、父に直接導かれることなしに、つまり、まるで彼が自らの主人であったかのように、また他の所でアピールする必要がなかったかのように、個人の立場で行動する土台がありました。ところが、主にあっては個人的で独立的であったことは何もありませんでした。今話しているのは、罪深い個人性や積極的な個人性のようなものを単に話しているのではなく、独立した行動、つまり最上の目的のために、かなりふさわしい意図を持つ良い動機のために取られた行動について話しているに過ぎないのです。そうです。このすべてはなされてよいものですが、父からの積極的な言葉は別としてです。(Yes, all this may be done, but apart from the positive word from the Father.)たとえどれほど動機が良くてもそれが独立した考えを生み出すのです。

(キリストの心は聖霊による油注ぎに支配され、その油注ぎによって動機が起こされ、つねに聖霊が動かれるのを待っているのです。それがキリストです。精神も心も意志も、父なる神の考え、願い、意志に統制されているのです。)                                                           

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003291.htmlです。英文を併記したところは訳がおかしいと自分で思っているところです。識者のご教示を賜りたいです。)

2011年7月8日金曜日

復活のキリストの意味と価値を知る重要性

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(新約聖書 ローマ6:5)

(復活のキリストは人の内側の表現、体験にとって、真実なものとして示されます。主のよみがえりのいのちは私たちのうちにあるのです。キリストは主のいのちといのちの御霊によって私たちのうちにおられるのです。復活のキリストの内面的な意味と価値は信じる人々のうちにある主のいのちの再現であります。それが私たちのうちにキリストのいのちがあらわされるということです。
 私たちのうちに働くその再現の法則は私たち自身が死なねばならないことであり、死に場を受け入れ、その結果あらゆる個人のいのち、関心がまったく捨てられ、放棄され、キリストがすべてとなることです。それがパウロが「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(訳注:ガラテヤ2:20)と言った意味です。ここには生み出されるキリストが言い表されています。それは、キリストのものでないあらゆる生活が十字架に差し出され、死んでしまっているからです。主イエスの墓に入り、その墓から出てよみがえったのです。)

私たちはキリストとその死にあって一体であり、私たちは終わり、キリストが始めとなり、始めからキリストがすべてとなるのです。そのことは基礎的なことであることはもちろんですが、漸進的なことでもあります。その意味するところは包括的でありますが、また漸進的でもあるのです。私たちはそのことの満たしを行為において受け入れねばなりません。今や死せるキリストとの結びつきを受け入れて、そのことをかなり明確にし意識的な立場を取らねばなりません。このことは結果的にもはや私たちのおるところがなくなり、私たちが証言する時はいつでも殴られたり、無視されたり、話すことが認められないということであります。私たちは主に仕える決められた行為においてすべてのためにそのことを一旦は受け入れねばなりません。それ以来、自分から出るすべてのものはその十字架とともに容赦もなく倒されるようになり、自分が出て来る時はいつでも立ちおおせなくなります。

私たちは一旦全てに対してその決着をつけ、主とともに包括的で完全な基盤に立ってことを処理した方が良いのです。主がその真実性においてご自身を意義たらしめられることでしょう。それは私たちの理解力でもなく、把握する力でもなく「私」が認められないことだと思うことでもありません。そうではなくキリストが、私たち自身の知識の尺度を通してではなく、私たちについてのキリストの知識によって「私」だと知っておられることによるのです。かつて私たちの考えや想像のうちにあった「私」よりも、もっとたくさんのものとして明らかにされることでしょう。その時、私たちが知っている自我ではなく、キリストが徹底的に知っておられる自我が、その十字架の力のもとに組み敷かれるようになります。そしてこのことを私たちは行為において受け入れるのです。

(それですから、そのことは漸進的になるのです。日々死ぬこと、つねに死にかけている体や、主イエスの死にあって耐え続けることは、結果的にイエスの死が毎日自分が否定されることによって働くことではありますが、私たちの最初の受容の中心点であるのです。しかしそのことが起こるとき、つまり十字架に対してその犠牲を伴う明け渡しが起こるので、キリストのいのちが再現されるのです。キリストご自身のいのちの力によってキリストは盛んになられ、私たちは衰えて行くのです。
 私たちは自身が捨てられるような挑戦に出くわすことは決してないでしょう。その挑戦があり、それに対する応答がなされるのはキリストが増し加わる機会のみであります。そのことを求めるすべてのことを私たちは、復活のいのちにある主のもっと大きな量りである、主の死の意味するところを新鮮な尺度で受け入れるのです。
 その結果、復活のキリストの意味と価値は内面的ないのちとして再現されるのです。そしてそこには他のどんな道もないのです。新約聖書によればそれ以外にキリスト者を生み出す道はないのです。主御自身のものである仲間を増やすことは外側から何かが加わることではありません。十字架に近づき死ぬことによってであります。それが唯一の道です。キリストとともに死に、キリストとともによみがえらされた以上のいかなる根拠をも持たないのがキリスト者であります。この根拠のないキリスト者はいないのです。)

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 11 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003262.htmlです。相変わらず訳がごたごたしていますが、非常に重要な内容であることに変わりはありません。前後訳を増し加えましたので、この文章は11章中の「The meaning and value of Christ risen as an inward life」の全訳です。右側のラベルでこの項目「The risen lord and the things which cannot be shaken」を見ていただくとおわかりのように、今回の訳で8回目の登場です。全文通して読む必要があることを示されています。読者の中で余力のある方は是非挑戦なさってください。)

2011年6月7日火曜日

殺す働き、生かす働き

文字は殺し、御霊は生かす(新約聖書 2コリント3:6)

もし、あなたが何かについて御霊による思いを知りたいなら、パウロが言うように「御霊による思いはいのちです」(ローマ8:6)とあるのですから、その方向に向けば、いのちがあるのですから、それによってすぐに知ることでしょう。もし、逆に御霊に反することを知りたいのなら、霊において向かうところが死であるので、あなたが口に出すように、こちらにはいのちがないということを知ることでしょう。確かにそれがあなたが主を知っている、御霊を知っている、キリストにあるいのちの御霊の原理の基礎の上に動いているのだと知ることを意味しているのです。

父なる神様はその原理によって御子を治められました。神様は私たちをも、私たちが主とひとつの霊で行をともにしているならば、まさしく同じ原理で治められるのです。導きや私たちが進むべき方向は御霊のうちにあるいのち、御霊によるいのちの問題です。主イエス様は詳細にわたって即座に働きかける御霊によって命令を与えられ、統治され、指揮され、整えられるいのちをお持ちだったのです。

このことをもう一度以下のことで対照してみましょう。(訳者注:ヨハネの福音書5章に登場する)ユダヤ人は(ベテスダに)やって来て、こう言ったのです。「ここに聖書がある。聖書は言っている、お前たちはこれこれのことをしてはいけない。ところがお前たちはそれらのことをしている。お前たちは全員間違っている、聖書はこう言っているのだから、だ。」

キリストがそうなさった時(訳者注:38年の間患っていた人を安息日にいやされたこと)キリストは聖書の(戒め)を破られたのでしょうか。 それともキリストは聖書に神様の御意志を示されたのでしょうか。神様がその律法を授けられた時、神様は人々が表面的にちょっと見ている以上にもっと完全な意味をお持ちではなかったのでしょうか。霊的な意味合いはなかったのでしょうか。それが問題になった時、取り替えるべき(破るのでなく、越えることを意味する)何かが指摘されたのではなかったのでしょうか。それは単にもっと高く完全で深い意味が到達されたにすぎないのですから。(Was it not pointing on to something, which when it came was to supersede - I do not mean break, but transcend - simply because higher, fuller, deeper meaning was reached?)

キリストは神様の安息日であります。キリストにあって神様はあらゆる働きを休まれるようになるのです。つまり神様の新しい創造であります。けれどもユダヤ人たちは言ったのです。お前たちは文字(訳者注:律法)から一歩も出てはならない、と。そんなふうに文字を守ることと文字について聖霊により心に照明をいただくこととの間の相違が示せるのです。いのちと文字はしばしばみことばにおいて対照的であります。文字は殺し、御霊は生かすからです。

(今日の文章は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 6 の抜粋引用訳です。 英文を併記したところはどうしても訳せないところです。無理に訳を当てはめましたが、自分でも何を言っているのかわからないところです。ただそれにもかかわらず、この6章全体は引用聖句ヨハネ5:19~20,30;16:13、ローマ8:2,6を載せ、大変霊的な内容のものです。全文の一読をお勧めします。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003214.htmlです。)

2011年4月30日土曜日

私を強くしてくださるお方

クレマチス あなたも不思議な 花です(ね)
私は、私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなこともできるのです。(新約聖書 ピリピ4:13)

とどまるとはどういうことですか。これまでしばしば申し上げてきましたように、キリストにとどまることは自分自身のうちにとどまることとは反対のことです。

自分自身にとどまるということはただ単に自分の力で主のために生きようとしたり、働こうとしたりすることです。主に助けを求めますが、神様に完全に喜ばれる生活がすでに存在し、その信仰はキリストにあって全うされていることを当てはめてて考えないことです。

それに対して、キリストにとどまるということは、すべてのことをなし、すべてのこと満たすに際し、キリストの力でするということです。それは確かな地盤です。それはなされ得るものか、私はできるのかと、疑問も訳を問う必要がありません。さもなければ私はそのことについて確信がありませんが、それは必ずなされます。

主イエス様はあなたや私が遭遇するすべてのことを満たし、あらゆることにおいて必要なことをなされたのです。それは信仰によって手に入れるものです。信仰は言います。私にはことは馬鹿げており、実行することも非常識で、そのことを考えることも愚かです。しかしそれは成るのです。私はこの求め、あの求めを満たすことが出来ます。これをやり抜き、あれをやり抜くことが出来ます。「私は、私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなことも(「どんなことも」とは大きい言葉です)できるのです。」キリストが私たちの強さや、成長の隠れた源泉として存在するのです。


これは一つの学校です。だから私たちは少しづつこの課題を学ぶのです。主は学ばれたのです。だから私たちは私たちのケースが記録されているものとは異なっていても、学ぶのです。私たちは主が実現された満たしから引き出すことを学んでおり、ゴールに向かって自ら前進する時には満たしからはずれるのです。私たちは主が満たしに向かって動かれた満たしにどのようにして戻るかを学んでいます。

イエス様にとって十字架は終わりでしたが、私たちにとっては始まりです。私たちはどのようにして主の満たしに戻るかを学ばねばなりません。小さな子どもが、一から歩くこと話すことを学ぶように、一歩づつ漸進的に学ぶのです。子どもたちのように、私たちはなし得なかったことや以前試みたことにも直面します。それらはすべて新しく不思議なことであり、新しい世界、時には非常に恐ろしい世界であります。小さな子どもにとって最初の一歩を踏み出すことを考えることだけでももっとも恐ろしい課題であります。

あなたと私は信仰の領域に導かれています。そこでの始まりのもっとも単純なこと、最初の一歩を踏み出すことは時々私たちにとっても恐怖で困難なものです。けれども腕が差し伸ばされています。その方の腕は今も私たちが求めるものを実現するために私たちに代わってくださり、事はなされています。強さはそこにあり、証明済みの強さを手にできるのです。この方の腕を知り、信頼し、歩み出すことにより、私たちはキリストによって歩くこと生きることを学ぶのです。すると次にはもっと遠くまで行くことが出来るのです。

(今日の文章は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003170.htmlです。このところラフな訳になっています。とんでもない誤訳があると思います。ご寛恕を!)

2011年4月20日水曜日

人の思いと主の思いのすれちがい

知人からいただいた花
まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。(新約聖書 ヨハネ6:53)

この方式はつねに肉にとって、つまり生まれながらの人間にとって反対となる方式であることを覚えましょう。ユダヤ人はお互いに言いつのりました。「この人は、どのようにしてその肉を食べさせることができるのか」と。しかしユダヤ人、すなわち宗教的な自己満足のうちにあった宗教的な人々だけが一緒に言いつのっただけでなく、こうとも書かれているのです。「そこで、弟子たちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』」弟子たちでさえ、いつしかともに歩き続けることができなくなったのです。

弟子たちがこのような言い方のうちにある言外の意味に直面するようになった時、彼らはもはやその種の基盤の上に主との交わりを持とうとはしなくなったのです。肉は自分で事を行ない、計画を立て、整え、仕事を組織し監督し実行させることを大変好みます。肉はそのことを大変喜びます。

だから、皆さんがそのすべての物事の秩序を見て、神の方法は完全に依存と信仰の道、すなわち完全な命令のうちにある聖霊をともなうものだと言い、一切自らは手出しせず主があなたに話されることだけを行なう意志がなければならない、そしてもはやそれ以上のものはない(それは「わたしは自分からは何事も行なうことをしません」という宣言の意味するところですが)と言う時、それは生まれながらの人間に対する反対なのであります、もちろん宗教的なことにおいても。

私たちは絶えずそのことに直面しているのです。そうでないですか。弟子たちがアンテオケで祈って主の御心に関してその証拠を得ようとともに集まったことと、提案を議論し計画を立てるために集まり委員会を持つことの間には違いが存在するのです。もし生まれながらの人間がすべてのことをせず、整理もせず、命令もせず、全てのことを実行もしないのなら、その人は前進することは全然不可能だと思います。もし皆さんが計画を持って出て来ず、またその計画を話さず、あなたがしていることも話さず、統計数値を述べないなら、生まれながらの魂を持つクリスチャンは何事もなされないと思います。(しかし)その種の活動がいくつもなく、なされる素晴らしい事を体験することは可能なのです。私たちはそのようなことを純粋に実例として引証しているのです。適用は多くの方面に広げられることが出来ますが、これは思考を助けるものに過ぎません。

キリストにある神の全業績は信仰をとおして仲介される神のいのちの基盤の上にあるのです。それは別の言い方をすれば、キリストが霊的な道において、すべての基盤とならねばならないのです。 これは肉は反対しますが、御霊は満足するのです。

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003154.htmlですが、何カ所も意味の不鮮明な訳になっていて申し訳ありません。この章の文章は今日追加訳出しました4/16「いのちと水」と同じところのものです。全体の題名は「隠れたマナ」となっていて、ヨハネ4:31~34;6:28~32,34,38,53~58;7:17が通読箇所となっています。)

2011年4月16日土曜日

いのちと水

赤は「すおう」の花です。残念ながら、正面の木は水をやらなかったため、枯れています。
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。(新約聖書 ヨハネ6:63)

神の目的をよく理解し、それに専心することは大事なことですが、どのようにして神様が目的を実現なさるのかを知ることは余分なことであります。神様が用いられる方法を知ることはつねに別のことであります。

たくさんの人は神様の目的が何であるかを本当に理解しています。しかしその人たちが用いる方法は神様の方法ではなく、働き始める道は神の道でないために、主は自分たちを支えないことに気づいています。彼らは正しい方向に向かっているでしょう。しかし神の方法や手段との結びつきから逸脱して、無理矢理に自らその働きの責任を引き受け、力の源泉を探します。その結果疲れ果て、立ち往生し、神様の働きを実現するためのあらゆる方法や手段に頼らねばならないことに気づくのです。

なぜなら彼らは神様ご自身の支えを本当に享受していないからです。神様の働きは彼らの肩に重荷となっており、そうであると主は(その働きの)命令は出来ないのです。なぜなら彼らと主の方法、主の手段、主の時、主の目的の詳細との間に最も完全なつながりや共感がないからであります。

ところで主イエスの場合は全く正反対であります。細かい点にいたるまで主は父と密かな交わりを持っておられました。主にあっては、このことは一つの包括的な目的に達するための細かな従順となって表れていました。いくつかの与えられた事項にあって主によって必要とされた唯一の必要とはただ単に父なる神様が考えられたことを知ることにありました。それ以上の言葉を必要とせず主は行動されたのです。それが主の(父なる神様との)関係の根底にありました。

私たちは、主にあっては、なぜひとつのことがある方法でなされ、その時であり、別の時でなかったことや、なぜ用いられる方法があるものであって別のものであるべきでなかったのかを尋ねるために待たれたしるしを決して追跡できないのであります。父なる神様がそう意欲されただけで十分だったのです。説明はあとから正しいものであったという主張となってやって来たのです。神の意志を行なうことは、決して自分から動くことではなく、つねに父に従うその従順さのことでありました。それが主の場合に有効であったので、霊的な食べ物、強さ、エネルギーは十分供給されたのです。

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003150.htmlです。 4/16当時はネット環境故障のため投稿できず、4/20の時点で後追い訳出することになりました。写真は4/20のものです)

2011年4月5日火曜日

教会とはどんなところか

捨て場にて 咲くヒヤシンス 輝けり 教会また 斯くの如きか
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は仰せられる。(旧約聖書 ゼカリヤ4:6)

神殿の幕が裂かれて、イスラエルが捨てられたことはあなたがたを震駭させる極めて印象深いことではないでしょうか。イスラエルはずっと型を証するために召されていたのです。キリストが来られて、すべての型を成就されました。すべての型の中心である神殿の幕、すなわち神様を人から遮断し続けたものが今や処分され、(神への)道が開かれました。今や様々な型は必要なくなりました。だから、型の管理者が型から離れます。これは型がたどる道でなく、真実な神のみこころであり、よみがえられた主との天的な結びつきの恵みであり、目論まれているすべてのことには神のご計画があります。(This is not the dispensation of the types: this is the dispensation of the reality, the dispensation of a heavenly union with a risen Lord, and of all that that means.

私たちの危険は型を復活させることにあります。様々な型は消滅したのです。それがヘブル人への手紙の全般にわたるメッセージです。旧約聖書の外形的秩序は脇にやられ、今や獲得するもののすべてはキリストご自身であります。キリストが祭司です。もはや旧約聖書の意味する地上での祭司はいなくなりました。キリストが犠牲(いけにえ)です。他のどんな犠牲も必要ありません。キリストが天幕です。神殿です。教会です。

教会とは何ですか。教会はキリストであり、キリストがご自身との生き生きとした結びつきのなかにおられるところです。つまり、二三人がキリストの名前において一緒に集まるところはどこででもその真ん中にキリストがおられるというところです。それが教会なのです。特別な建物を数々建てて、それらを「教会」と呼ぶのではありません。「教会」と呼んでいる特別な組織や宗教的な機構を持つことでもありません。よみがえられた主との生き生きとした結びつきの中にある信者が教会を構成するのです。それが実体であり、形ではありません。つまりキリストのからだ、人間の制約はなくされています。今やよみがえられたキリストとの結びつきにあって、すべての人間の制約は越えられるのであります。これが生き生きと存在を現されるよみがえられたキリストの不思議さの中の一つであります。

私たちは人間の数々の能力よりはるかに多くの能力の領域へと導かれています。そしてそこでは、私たちのうちにキリストがおられるがゆえに、自然には全然出来なかったことが出来るのです。私たちの関係は新しくされるのです。それらの関係は天との関係になります。私たちの源泉も新しくされます。源泉は天にあるのです。それがあの使徒がコリントの人たちに神様は弱さ、愚かさを選ばれたのだとなぜ書き、また言ったかの理由です。それらは軽蔑される一つ一つのものです。逆に主は軽蔑されないこと、すなわち賢い者、力ある者を無いもの、軽蔑されるものとされるのです。なぜ神様はそうだとされたのでしょうか。なぜならそれは権力によらず、能力によらず、神の力によるからであり、この世のあらゆるもっともすぐれた力、能力を越えて、神ご自身の力や精力、能力があることを示すためであります。

(本日は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003130.htmlです。 訳の特に怪しげなところは英文を併記しました。この文中のdispensationは英語圏キリスト者が多用する用語のようで様々な訳し方があるやに思います。私はいまだにこの単語が苦手です。聖書を通していつか教えられたいと思います。読者諸氏の中で適切な訳をしてくださると大変ありがたいのですが・・・)

2011年2月20日日曜日

いのちに至らせるかおり

人知れず 椿ゆかしく 咲きてあり 弥生の声に 御文(みふみ)合わせて
ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。(2コリント2:16〜17)

主は私たちを教会を形成するために召されたのではありません。教会を形成することは私たちの仕事ではありません。もしそのことが認識されたら今日事態はまさしく変わって来たことでしょう。教会を拡大なさるのは主です。主が成長を支配しておられるのです。私たちがなさねばならないのは主の復活の力により主が約束してくださった通りに生きることです。

たくさん人がいる中で主が主の子どもたちの中でたとえ二人しか見つけることができなくても、その人の内に主のいのちが満ちていて自由であり、他の人々を集めようとせず(あるいは一定の真理や教えを納得させることにより人々を集めようともせず)ただキリストは自分にとってどういうお方か証さえできるなら主は道を開いてくださいます。

教会はあなたの生活によっても、また建物を買って人々を迎え入れるために励んだり、集まりに招いて教会員の役割を果たし地方教会を形成したとしても、それによって増やされるものではありません。それは主の取られる方法ではありません。成長はいのちによります。そしてこのことは先ずはいのちがただ一人の方の魂に入ることによるのであり、それから長らく時が経って他の人にそのいのちが与えられるのです。もっとももっとすぐにそうなるかもしれません。しかしポイントは成長はいのちによるということです。それが教会の成長なのです。

主の教会の成長にとって、主がいのちの主導権をとられ、中心であらねばならないのです。私は確信しているのですが、いのちが中心になるなら遅かれ早かれ二つのうちどちらかが起こります。すなわちそこではキリストが完全に徹底的に拒絶されることが極めて明白になるか、それとも逆に増し加わる成長があるかであります。

いのちにはとてつもない力があります。そしてその主のいのちは駄目になるか逆に息づくかのどちらかであります。いのちに対して取る人の態度によるからです。主はいのちに対してはいのちの香りであり、死に対しては死の香りであります。決して事態が中立で終わることはないのです。

(今日の箇所は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 11である。「生兵法は大怪我の元」とうそぶきながら訳業を続けている。知らぬは本人だけで、30点程度の答案を毎日披瀝している厚かましさよ。昨日、結婚披露宴でまた親戚の英語教師に会った。様々なことを教わった。これからも教わりたいと思う。読者の中には英語に堪能な方もいらっしゃるはず。忌憚なくご批判、またつたない訳の訂正をお願いしたい。今朝、庭に椿の花二輪を頂上あたりに見つけた。すでに一輪は前から咲いていたようで、よく見ると地面に花びらの一部が落ちていた。そこでもう一輪の昨日今日咲いたであろう椿をカメラに収めた。みことばは香りについて載せている。椿の香りはないが、みことばの真理にあやかりたいと思い強引な歌になった。原文はいつもの通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003049.htmlである。)

2011年1月13日木曜日

いのちの御霊の原理 

チャペルに バッハの音色 響き信仰 語りし若き ヴァイオリニスト(明治学院にて1月6日)
キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した(ローマ8:2)

まず自然法則について話すことにしましょう。自然法則っていったい何ですか。栄養摂取の原理を取り上げてみなさい。その原理が尊重され、体が必要とするものが多くもなく少なくもなくちょうど与えられる限り、栄養摂取の原理が働き、全く無意識のうちに体は成長していくものです。それが無意識のうちに行なわれる自然法則の働きというものです。あなたは原理に従って座ったり、見たり、わずらったりしないでしょう。あなたのすることは食べることだけです。そのあとは原理にまかせるでしょう。もしあなたが原理に違反するならすぐわかります。しかし、原理通りに働くなら、あなたは終日栄養摂取の原理に煩わされることはないでしょう。あなたは食べ物を取り働くだけでしょう。その結果、あなたは働き、活動を続けられるのです。栄養摂取の原理は貫徹されているのです。

ちょうどキリストにある御霊の原理もその通りなんです。それがいのちの原理です。その原理が尊重されるとき実際的な働きをなすのです。この原理は無意識のうちに働くものです。それ自身で全く自然に結果を生み出します。私たちはキリストにあるいのちの御霊の原理を知るようになります。それがこの事態における最も単純な方法です。

主イエス様はご存知でした。ある定められた時でないと、動けないことも、また話すこともできないことも。主イエス様は急かすような御霊の動きやそうするいのちはお持ちにはなりませんでした。ご自身の霊においていのちを働かせられなかったのです。原理は積極的には機能しないのです。

しかし話すべき行動すべきことをすべてご存知の父なる神様が、その時がやってき、主の耳もとで「今が時だ。さあ!言いなさい。さあ!しなさい。」と言われるなら、その通り話されたのです。主イエス様は父なる神様の促しによってだけ急がれたのです。いのちの原理はこのようにして働いたのです。主イエス様は神様のみこころが何であるかをすばやく知られたのです。それがパウロの言う「御霊の心がいのちです」という意味です。

(以上は、下記のサイトの私訳です。読者諸氏の中で誤りを指摘してくださると幸いです。)


The law of the Spirit of life in Christ Jesus has made me free from the law of sin and death. (Romans 8:2)
We speak about natural laws. What are natural laws? Take the law of nourishment. Provided that law is complied with, honored; and at the right time the body is given what it needs, not more, not less; the law of nourishment deals with that and quite spontaneously works out in development, growth, to express itself in various ways. It is the working of a natural law spontaneously. You do not sit down with the law, and watch it, and worry about it. What you do is to feed yourself, and leave all the rest to the law. If you violate the law you know all about it, but acting rightly in relation to the law you will not be fretting all day long about the law of nourishment, you will simply be taking your meals and getting on with your work. The result is that you are able to work, able to go on; you are nourished.

The law of the Spirit of Life in Christ is like that. It is a law of Life, and it works out in a practical way when respected and honored. It works out spontaneously in certain directions. It has its own results quite naturally. The law of the Spirit of Life in Christ is that law by which we become aware. That is the simplest way of putting things. The Lord Jesus knew that at a certain time He could not act, could not speak; He had no movement of the Spirit in quickening, no Life to do so at that time; in His spirit there was no movement of Life; the law was not active in the positive way. But when the Father, Who knew what was required in speech or action, saw that the time had come, He did not bend down and speak with an audible voice into His ear, and say, "Now is the time! Say this! Do that!" He simply quickened Him inwardly. The law of Life became active in that direction, and He knew by an inward quickening what the mind of God was. That is what Paul means when he says, "The mind of the Spirit is Life".

By T. Austin-Sparks from: The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 6