捨て場にて 咲くヒヤシンス 輝けり 教会また 斯くの如きか |
「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と万軍の主は仰せられる。(旧約聖書 ゼカリヤ4:6)
神殿の幕が裂かれて、イスラエルが捨てられたことはあなたがたを震駭させる極めて印象深いことではないでしょうか。イスラエルはずっと型を証するために召されていたのです。キリストが来られて、すべての型を成就されました。すべての型の中心である神殿の幕、すなわち神様を人から遮断し続けたものが今や処分され、(神への)道が開かれました。今や様々な型は必要なくなりました。だから、型の管理者が型から離れます。これは型がたどる道でなく、真実な神のみこころであり、よみがえられた主との天的な結びつきの恵みであり、目論まれているすべてのことには神のご計画があります。(This is not the dispensation of the types: this is the dispensation of the reality, the dispensation of a heavenly union with a risen Lord, and of all that that means. )
私たちの危険は型を復活させることにあります。様々な型は消滅したのです。それがヘブル人への手紙の全般にわたるメッセージです。旧約聖書の外形的秩序は脇にやられ、今や獲得するもののすべてはキリストご自身であります。キリストが祭司です。もはや旧約聖書の意味する地上での祭司はいなくなりました。キリストが犠牲(いけにえ)です。他のどんな犠牲も必要ありません。キリストが天幕です。神殿です。教会です。
教会とは何ですか。教会はキリストであり、キリストがご自身との生き生きとした結びつきのなかにおられるところです。つまり、二三人がキリストの名前において一緒に集まるところはどこででもその真ん中にキリストがおられるというところです。それが教会なのです。特別な建物を数々建てて、それらを「教会」と呼ぶのではありません。「教会」と呼んでいる特別な組織や宗教的な機構を持つことでもありません。よみがえられた主との生き生きとした結びつきの中にある信者が教会を構成するのです。それが実体であり、形ではありません。つまりキリストのからだ、人間の制約はなくされています。今やよみがえられたキリストとの結びつきにあって、すべての人間の制約は越えられるのであります。これが生き生きと存在を現されるよみがえられたキリストの不思議さの中の一つであります。
私たちは人間の数々の能力よりはるかに多くの能力の領域へと導かれています。そしてそこでは、私たちのうちにキリストがおられるがゆえに、自然には全然出来なかったことが出来るのです。私たちの関係は新しくされるのです。それらの関係は天との関係になります。私たちの源泉も新しくされます。源泉は天にあるのです。それがあの使徒がコリントの人たちに神様は弱さ、愚かさを選ばれたのだとなぜ書き、また言ったかの理由です。それらは軽蔑される一つ一つのものです。逆に主は軽蔑されないこと、すなわち賢い者、力ある者を無いもの、軽蔑されるものとされるのです。なぜ神様はそうだとされたのでしょうか。なぜならそれは権力によらず、能力によらず、神の力によるからであり、この世のあらゆるもっともすぐれた力、能力を越えて、神ご自身の力や精力、能力があることを示すためであります。
(本日は The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 4 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003130.htmlです。 訳の特に怪しげなところは英文を併記しました。この文中のdispensationは英語圏キリスト者が多用する用語のようで様々な訳し方があるやに思います。私はいまだにこの単語が苦手です。聖書を通していつか教えられたいと思います。読者諸氏の中で適切な訳をしてくださると大変ありがたいのですが・・・)
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