10日ぶりに花みずきの木に出会いました。すでにこんなにきれいな花が咲いていました。 |
金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい(新約聖書 使徒3:6)
(引用聖句 ヨハネ5:1~9。この足なえの人の話にある事柄の核心はヨハネ5:5にあります。「そこに、38年もの間、病気にか かっている人がいた」この背景にあるユダヤ教とは何でしょうか。それはイスラエルの荒野における旅が38年間の放浪であったこととつながりがあることはほぼ間違いが ありません。イスラエル人はどんなに不具の状態にあったことでしょうか。彼らがエジプトからカナンへ旅するのには11日間で良かったのに、38年間もかかり、その間本当に一歩たりとも進めなかったのです。彼らは自らの自己本位の生活に縛られていたのです。彼らは無能力で絶望的な不具の状態にありました。なぜなら自己本位の生活に支配されていたからです。皆さんにはその自己本位の生活がどのように荒野の生活で支配的であったかをお話する必要はないでしょう。彼らはどのように神に仕え、どれだけ神に喜んでもらえるかという光を通して少しも見ることをせず、どのように自分自身が愉快になれるかという光のもとですべてのことを見ていたのです。あらゆる彼らの不平や反抗は自らが欲したものが何も得られなかったことから来ていました。それは神様が望まれたものではありませんでした。彼らは全くの自己中心的な人々であり、自己本位の生活が彼らの寝床であり、その寝床に不具なからだを横たえていたのです。彼らは起き上がって神の目的に向かって真っ直ぐ行進することは決してありませんでした。いいでしょうか。それがユダヤ教の背景であります。そしてイエス様はこの病気の人を立ち上がらせる時、ユダヤ人のいる前で、イエス様による正しい実例として取り上げておられるのです。)
新しく天のイスラエルとなった人々は、自己本位の生活から神様を中心とする生活へと解放された人々により構成されています。彼らは霊的な歩みをイエス・キリストによって行ない、今や主の歩みのとおりに、強くせられて、歩くことができるのです。
皆さんは、ペンテコステの日の後の最初の奇跡が、エルサレムの宮の門にいた(イエス様が地上におられて歩かされた人とはまた別の)一人の足なえの人の立ち上がりにあったことにあるのは、大変意義あることだったとは思いませんか。これらのことは興味ある本を作るために一緒にまとめられるにすぎない、結構な物語にとどまりません。神様はご自身がなさることをお知りであります。そして神様がクリスチャンが誕生した時の最初に行なわれた記念すべき奇跡とは、動けず足なえの状態にあった人を立ち上がらせなさったことにあります。その時、主は言明されました。すなわち、この新しいイスラエルはこの(歩けないという)無能力から解放され、自分の足で霊的に歩く者とされたのだ、と。
何と周囲には証を失ったクリスチャンがたくさんいることでしょうか。彼らは自分の足で歩くことが出来ないのです。それだけでなく他の人々もそのような状態に放置されているのです。皆さんはその人たちを救い出そうと試みておられます。ところで彼らは一足、二足歩むかも知れませんが、再び転んでしまうのです。多くの方々がそのようであり、皆さんは彼らが自分の足で立ち上がれるように人生を費やすことが出来ます。
彼らから出ている、いのちそのものを心配する事柄とは何ですか。また、全く望みを失い、足なえの状態になっているので、歩けなくさせているものとは一体何ですか。それは自己本位ということであります。そのことについて誤解しないでください。それはある形を取る自己であります。注目されたいとする自己であり、自らを誇ろうとする形を取っている自己であります。
この貧しい気の毒な人は自らの絶望状態を知っていたので解放され、イエス様がおっしゃったことを信じたのです。彼はイエス・キリストを信じました。そのことは彼が自らを捨て、信じたことを意味しています。そうなんです。それが秘訣です。私たちはみじめな自分から転換し、もはや自分というものに支配されなくなり、きっぱり言うようになります。「私はみじめな自分と関係がなくなりました。私は自分自身をイエス・キリストに預けます。私は自分を埋葬するという偉大な第一歩を歩みます。」イエス様はそのような人を決して気落ちさせられません。
(今日の文章は The On-High Calling - Chapter 2 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003162.htmlです。このシリーズは以前にも1/30「信仰の創始者・完成者であるイエス」3/26「いのちを伝える使命とよろこび」でお目にかけています。要点をつかまえた文章が続いた記憶があります。なお今日の章は比較的読みやすい英文が続き、興味ある記事が続きます。是非一読なさると聖書の真髄がこんなところにあるのかという思いにさせられ、もっと聖書を注意深く読んでみたい思いに駆られるはずです。ただし今日の訳文そのものはかなり意訳につとめており、果たしてこれでいいのかと思っていますので、眉につばをつけてお読みくださるとありがたいです。)
0 件のコメント:
コメントを投稿