わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結ぶ。(旧約聖書 レビ記26:4)
(贖われたいのちは私たちのうちでどのように働くのでしょうか。二つの方法があります。一方で、私たち自身の生まれながらのいのちを切り捨てて、神との交わりの基盤として働くのです。そのことは大きなことであります。そして、大きな根底からなされる働きであります。
霊にあって幼く未成熟なかなり多くの人は、自分自身の生まれながらのいのちや精力や熱心さでことを行ないます。このようなものがすべて、生活や奉仕の双方において神との交わりの基盤となっています。それが未成熟さのあらわれです。私たちは、生まれたばかりの信者がつねに大変熱心であり、熱心さが神とのつながりの本当の強さだと思い、事実そのことが神との関係になっていることをかなりよく知っています。
今、三月の風が吹き始め、花がさらってゆかれると、このような人々は冬が夏の代わりにやって来たと思います。彼らはこのことですべてのものをなくしたと思います。彼らは尋ねるのです。一体、何が私に起こったのでしょう、と。恐らく賛美歌の次のようなフレーズが口から漏れて来ることでしょう。
「どこに花はあるのかしら、私が知っていたあの花は。始め主にお会いした時のあの喜びの花は?」
しかし、)花が咲き終わるまでは果実は取れないものです。花が風に吹き飛ばされるのに続くのは夏であって、冬ではありません。もちろん私たちの誰もがちょうど良い頃合に花が咲くのを見ることを好むのですが、もし夏中ずっとそこに花が咲いているとしたら、奇妙に感じられることでしょう。私たちは言うにちがいありません。「ここには良くないものがある。花は終わったころなのに。」(ところが)近寄って見て、そこに期待に満ちたもの、はるかにもっと価値のあるもの(実)を見るのです。
このような早咲きはいのちのしるしであるかも知れません。しかし、いのちそのものではありません。早いいのちのしるしは早く春が来たのであって、冬が過ぎ、蘇生が緒についたことを示すのです。それはしるしであって、いのちそのものではありません。こういうように早く芽生えて来る(人間の)熱心さというものは、私たちが神様と結びついているという本当の基盤によるのではありません。私たちの中で起きていることのしるしであって、霊的な幼稚さをともなって過ぎ去るものです。このような熱心さは私たち自身からのものであり、神からのものではありません。神はしるし以上のものであります。神は駄目にはなさいません。いのちは働いています。そして、いのちはいのち自身をより強く、より深く、心の底からあらわされるものです。
(このいのちの全行程を通して、私たちは、結局、神と関係がある私たちのものから、私たちのうちにある神ご自身へと変化が生じていることを学ぶ必要があるのです。 確かにたくさんのものがあって神と関係があります。しかし私はそれが終わりを正しく推し測るものになるようにと望んでいます。依然として私たちの心の中にあることは神のことを自分たちがなしているということです。私たちはそれらが神の考えであり、神の精神だと考えるのかもしれませんが、そこにはまだ神のことにかかわる人間の心やうまく作り上げた私たち自身の姿があるにすぎないのです。私たちは新しい主に関する考え方に場所を譲る必要があります。意志においても心においても、それは同じことであります。
私たちはからだのことを念頭において今話し始めています。いのちの法則は主との関係において私たちの生まれながらの基盤を動かすように働きます。その結果、肉体の領域においてさえ、主のことに関わるために主のところに来れば、主が天的な事柄と関わる私たちのからだ的ないのちとさえなってくださるのです。そのことは事実です。そこには一方で私たちが漸進的に別のところに移らされているという証があるのです。つまり主の事柄において私たちは自分自身のうちにはいのちがなく、肉体にあってもできないということに直面させられているのです。それはつねに神の観点からそうであったのですが、私たちはかなり多くのことをなしていたと思ってきたのです。なぜなら私たちが駄目になり、生まれながらの自分では何もできないということを知るところまで動かされていなかったからです。ところが今や多かれ少なかれ私たちは神のことに関して私たちは、からだの面でも、出来ないことを悟るのです。)
一方で永遠のいのちが私たちの生来のいのちを切り離すために神様とのつながりを持つ原理として働くなら、他方でその働きは全く素晴らしいものであります。それが「主のなさることは私たちの目には素晴らしい」ということです。
主は私たちの肉体のいのちとしてお入りになり、私たちが最善の時にできたかもしれないが決してできなかったこと以上のことをなさります。確かにそれは現在の可能性よりもはるかにまさったみわざです。なぜなら主はこれまで私たちは人間として最善であっても何者でもないということを知らしめて来られたからです。 いのちはそのことをなすのです。(主の与える)いのちはひとつの原理(肉の原理)を追い出し、別の原理(いのちの原理)を与え、いのちが働くようにその余地をつくるのです。
(今日の箇所は All Things in Christ - Chapter 9の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003114.htmlです。2/16「豊かないのちとは」で一部すでに訳出済みのところなどを引用しつけ加えましたのでかなり長文の訳になり、かえって意味が不鮮明になってしまいました。お許しください。)
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