ラベル Filled unto all the fulness of God の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Filled unto all the fulness of God の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年2月3日金曜日

十字架に示される「逃れ」の町

初春の 思いを運び ゆかしきか 大阪からの 絵葉書なりき(今日は旧正月)
もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。(新約聖書 ガラテヤ6:1)

 もし私たちが本当に十字架でなされたこと、すなわちご主自身の満たしが与えられ、敵が征服された偉大さを霊的に何らかでも理解するようになったら、私たちは狭量な人間にはなり得ず、キリストにある立場の偉大さゆえに寛容になるに違いない。

 それは端的にはこんな風な働きである。主が十字架でなしてくださったことの理解が大きくなればなるほど、他の人々に対して益々寛容になるにちがいない。また、益々忍耐強くなり、悪に対してすぐ悪で返すようにはならず、忍耐が容易になり、悪に耐えるようになるということだ。

 もし、私たちが悪いと感じる事柄に対してお互いにすぐかっとなるならば、それは極めて限定されたカルバリ理解にちがいない。(そうではなく、人の罪を)きわめて大きく見過ごすように、また大変寛大になるにちがいない。私たちは、喜ぶべき霊的地位、すなわち天に引き上げられる地位に置かれるから、恵みが勝利の凱歌をあげねばならない。こういう「逃れの町」は最高であるに違いない。恵みが天にあっては支配するからである。

 キリストにあって天に達する時でさえ、過ちに対してなされる備えがある。罪がない完全さのようには見えない。天に移される時でさえ、すべての欠陥や過ち、大失態や損害がなかったかのようには見えない。悪くなったことに耐えるには依然として恵みが必要であるかのように見える。それで、私たちが霊的にその位置に達する時でさえ何らかの悪があるにちがいない。主は、それゆえ恵みがあるとおっしゃる。

http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003032.html  Filled Unto All the Fulness of God - Chapter 13 の訳である。 今日は久しぶりに家庭集会が開かれ様々な地方から多くの方々が集ってくださった。メッセージは「パウロに学ぶ喜びの秘訣」と題して、5つの喜びが語られた。引用聖句はピリピ4:12~13であった。今日の箇所はさしずめその中で語られた第一番目「主から救いの恵みを受けたことの感謝の喜び」に該当する、と言えようか。ちなみに他の4つは順番に掲げると②罪と律法から解放される喜び③神の栄光を現わす喜び④主の苦しみにあずかることを通して神の愛を確信した喜び⑤天の御国をめざす喜び、再び来られる主を待望む喜び、であった。同時に70歳になられ、この3、4年余りのご経験を通して大きく主イエス様への救いへと導かれた方のお証もお聞きすることができた。

追記:6年前のこの投稿を見て、この日に家庭集会が持たれたことを知った。残念ながら最後に触れている方がどなたか思い出せない。様々な資料を探してもわからなかった。自らの好い加減さにあきれる。そこへ行くとこのすばらしい絵はがきをくださったことは覚えている。しかし残念ながらこの方とはこれっきりになってしまい、今日に到っている。)

2017年1月16日月曜日

勝利者の道

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示3:21)

 私たちすべての者は、もし私たちがキリストともによみがえらされているなら、よみがえりのいのちを持っています。しかし、それ以上のものがあります。よみがえりの力はやがて私たちを御座にまで運ぶものですが、すべての者が御座に近づくのではありません。それは「勝利を得る者」であります。カレブはパウロのように、そしてパウロはカレブのように主の民の間にあって通例の生き方に抗しています。大部分の人は受け継ぐものに関し放棄しそこにとどまり腰を据えることに満足しました。未完成の針路、短縮された霊的進歩、神様が示され意図されたものよりもはるかに少ないものを受け取ることでした。大部分の人たちはそのコースを選びましたが、カレブは決して満足せず、大多数の人に抗して立っていました。それはちょうどいつも神様の完全なみこころを代表しない大多数の人に抗したもののようでした。

 霊的なリーダーシップはつねに孤独を伴います。それがリーダーシップの犠牲です。勝利者はつねにより広範囲のキリスト者に関して言うなら、孤独な仲間であり、ほとんどついて来ることができない人と進まねばならないのです。カレブは民衆の声を受け入れることができませんでした。彼の心は余りにも主と結び合っていたからです。彼は全面的に主に従っていてキリスト者生活の一般的通常の水準ではありませんでした。カレブは神様が全き人がどうなるかをあらわしているまさに具現化した人だったと言っても良いでしょう。あなたはカレブを見る時、神様が全イスラエルがそうあるように望まれたが、全イスラエルはカレブの水準には達しなかったことを知っているでしょう。しかし、主はカレブのうちに主の心を満足させるものを得ておられます。主は一人のカレブのうちに主の完全なみこころを認め、それと同じように一人のパウロの中に認めておられるのです。

(今日の箇所はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003014.htmlです。2017.1.30Translate。) 

2012年1月16日月曜日

勝利を得る者

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(新約聖書 黙示3:21)

 もし私たちが復活のキリストと一つにされているなら、全ての人は復活のいのちをいただいているのですが、実はそれ以上のことがあるのです。それは復活の力であり、その結果、もしその力が完遂されるなら私たちは王座につくのですが、必ずしも全員が王座につけるとは限らないのです。それは「勝利を得る者」とあるとおりです。

 カレブはパウロのように、そしてパウロはカレブのように主の民の間にあるもっと一般的 な歩みに対抗したのです。大多数の人々は嗣業に関して、かなりのものを持ち、その状態にとどまることに満足していたのです。つまり未完成な歩み、削減した霊的進歩、神が指し示し意図されたものにほど遠いものを受け入れることです。大多数の人々はその道を選んだのですが、カレブは決して満足せず、神の完全なみこころをあらわさなかった大多数の人々にこれまで反対して来たように、つねに彼らと対抗したのです。

 霊的なリーダーシップはつねに孤独が伴います。それがリーダーシップが払わねばならない犠牲です。勝利者たちはより広範囲のクリスチャン世界に関する限り、つねに孤独な交わり、誰もついて来ることができない状態で、続けねばならない交わりがあるのです。

 カレブは俗受けする声に耳を傾けることができませんでした。彼の心は余りにも主に引きつけられていたからです。彼は全面的に主に従い、クリスチャン生活の普通の一般的な標準とはならなかったのです。カレブこそ神がすべての人がそうあるようにと意図されていたことをすべて体現していたと言っても良いでしょう。カレブを見ると神が全イスラエルに神が望んでおられたことがわかりますが、同時に、全イスラエルがカレブの水準に達し得なかったこともわかります。しかし主はカレブのような人に心から満足されます。主はカレブのような人に主の完全な考えを実現されますが、同じくパウロのような人にもそうされるのです。

(今日の箇所は Filled Unto All the Fullness of God - Chapter 14 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003014.htmlです。)

2011年7月3日日曜日

父と呼びまつる神様

私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。(新約聖書 エペソ3:14~15)

「わたしはよみがえりです。いのちです。・・・父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」(ヨハネ11:25~26,41)これらの二つの聖句の間にあるギャップを橋渡しするにゆがめるものは何もありません。もしあなたがヨハネの福音書の5章に戻られるなら、そのことは完全に正しいと理解されることでしょう。「というのは、父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」(同21節)二つの事柄は一つです。父と御子は復活の力と行動において一つです。
 御子は父がよみがえらせられるという事実の啓示そのものであり、その結果、死は父の家族を壊すことが出来ないのです。父は神の家族をお持ちになり、一度お持ちになるなら、死はそのうちからいかなるメンバーも奪うことはあり得ないのです。父は死の主であり、死の支配者であり、死の征服者です。そしてこの父なる神のまさしく本質そのものによれば、神が死から神の家族を守ることが出来るということであります。そのことは新約聖書の真理をもっとたくさん広げることなのですが、以下ではこの事実を簡潔に書き留めることにします。)

神はこの終わりの時にあって家族を得るように行動しておられ、神の現在のご計画による行動は死によって打ち負かされないものです。神は死によってごまかされることがないお方です。ところが、神の敵である悪魔は家族を得、その家族の死をごまかすことでしょう。それは神ではありません。

この家族は決して死によって分けられませんし、死によって壊されることもありません、死によって死別のようなことを経験しないですし、死によって子どもを失うことも決してないのです。もちろん、家族として私たちがそのことを心から感謝するなら、それは私たちにとって快いことです。この家族にあって私たちは誰をも失わないのですから。

死は地上にあって、事態に手を伸ばすかもしれませんが、霊的な家族は霊的な真実性や父の家のとこしえに続く一体性にあって、もし家族が地上に依然として存在するなら考えられることにまさって、それ以上、一つも引き離されることはないのです。死に痛手を受け、すべてのその心の痛みを経験しなければならないのは私たちの生まれながらの人間的な側面であります。

けれども一体、信者が心から安心することとはどんなことでしょうか。私たちは望みのない人々のようには悲しみません。何が私たちの望みですか。なぜなら、私たちには一人の父がいるからです。その父は死によって決して壊されることもなく、一人のメンバーも失うことのない家族を持っておられるのです。私たちの望みは全家族が誰も失うことなく一緒になることです。その望みは私たちが失うものを何も持たないということです。私たちの望みはとこしえに一緒にいることです。「天上と地上の家族」それが父なる神の意味の一部分です。そしてそれが父がこの終わりの時になしておられること、その種の家庭を得られることであります。

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(ヨハネ15章)この二者は絶えず一緒です。このことは別の言い方が出来ます。偉大な神の家族の霊的な真理を表現する比喩的な方法であります。このことは端的に言えば父は家族の世話をすることに最大の関心を持っておられるということです。15章は信者の世話、すなわち実を結ぶことに関する章です。それは世話をする生活です。私たちはそのことを既成概念に当てはめて考えないようにしましょう。防水区画から始め、公的な称号である牧師や宣教師の世話だと考えないようにしましょう。様々な形態を取り、様々な経路をたどるかもしれませんが、世話は父のいのちの表現であり、父の願いに即応するものであります。
 「わたしの父は農夫です」実を得るためには父は一定の方向を取られます。実はありますが、父は一定の方法を採用することにより、もっと実を得ることが可能であることを知っておられ、もっとも完全に実を結ぶことが出来るまでに成長しなければならない特別な枝に関心を持っておられます。それですから父はある方法を採用されるのです。「主はその愛する者を懲らしめ」とはヘブル人への手紙においてこのことを言い表している言葉です。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義を結ばせます。」父は刈り込みをなさりこらしめられます。それはもっとも完全な手段によって実を結ばせるまで成長させるためです。「わたしはぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」そのようなものとして父は一つのことに関心を持っておられるのです。そしてそれが実を結ぶための最も完全な手段です。
 私たちは神による刈り込みや懲らしめを受けていますか、それとも父により受けていますか。そのことは大変な違いをもたらすものです。)

「神」の精神構造は時々きびしいものです。ところが、私たちは「父」の雰囲気そのものにあっては、きびしい精神構造を受け取ることが出来ません。こういうことはすべてその父の権限内でもたらされるにちがいありません。私たちに対する主のお取り扱いは今や父の処遇であり、家族の線に沿ってなされるのです。それがこの終わりの時に起こっていることです。

(このヨハネによる福音書は神の家族にとっての父の考え、心、意志、関心がどんなものであるかを包み隠さず述べている最高峰の一つであります。)

世界史においてすべての啓示にまさる啓示は私たちが今そのうちにあって生きているという啓示です。すなわち御子、イエス・キリストによって私たちにもたらされた父の啓示であります。将来において私たちが「私たちの父」と言う時、私たちにはより完全な意味がもたらされることでしょう。

 (今日の箇所は Filled Unto All the Fullness of God - Chapter 7 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003244.htmlです。スパークス氏によると、ヨハネの福音書では何と「Father」という言葉は111回を下らないそうです。7章全体の題名は「The Father of the Family(神の家族のもとである父)」であります。)

2011年5月17日火曜日

御霊におゆだねしましょう

御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。(新約聖書 1コリント2:15)

(救いはたましいが救われることだけではなく、そのたましいがキリストの満たしを経験するまでの道を歩き始めることです。みことばと御霊のどんな宣教もその目的に支配されているのです。だから(人が)救われるだけでいつまでもそこにとどまっているのは、みことばの目的が失敗しており、聖霊の働きが十分でないのです。私たちが「主の働き」と呼ぶ、この世のいかなるところにも出て行くことは、私たちがこのことによって支配されることを意味していなければなりません。

すなわち、できる限り、そこではキリストの満たし以下の何ものもないということであり、キリストがすべてであり、そこではすべてのうちにキリストがあるということです。それが最終の、絶対的な終着点であります。キリストとの分離も分担も一切ないのです。すべてのものであり、すべてのうちにあるキリストでなければならないのです。

私たちはそれが聖霊の目標であり目的であることをはっきり知るとき、いのちを持ち、明確化された宣教を経験します。それはすべてに妥当します。もしあなたが主のものであるなら、あなたの生活は主のことばと聖霊に支配されねばなりません。もしそうでないなら、あなたの主との関係はどこか間違っているのです。あなたの働きがたとえどんなものであろうとも(両親として家庭にあるものであっても、また家の仕事をするものであっても、商売のうちにあっても)もしあなたがそこで個人的なことに関して、主と交わりがあるなら、あなたの生活はキリストを代表するものであるにちがいありません。それが宣教です。

もし私たちが生活の全分野にそのことを持ち込むなら、事態は大変別なものとなることでしょう。それはあらゆる動機に挑戦し、あらゆる考察を支配し、あらゆる争いに解決を与えるにちがいありません。(一部訳は省略)物事はこのポイント、すなわちすべてのものであるキリストとすべてのうちにおられるキリストというものだけで試されるに違いありません。)

私たちは絶えず問わねばなりません。「このことはキリストがすべてなのだろうか、それとも私は自分のやり方を望んでいるのだろうか。私は自分の感情や意欲や好悪に支配されるのを許しているのだろうか、それともキリストがすべてであるのだろうか。私の力の範囲内のことに関してキリストがすべての中におられるか。」そのことは日々の細かい点にいたるまで支配されていなければなりません。私たちは腹を立てたりイライラする時、そこを離れ、その闘いを戦い抜いて、「主よ、あなたはこのことでもすべてでなければなりません。私の思いがどんなに影響されようとも構いません」と言わねばなりません。

そして、日々の生活と経験の細々したことからもっと広い領域にいたるまで、また主の大切なしもべであるところに至るまで、みことばと御霊に支配されなければなりません。みことばと御霊は一つの目的を持ちます。すなわちすべてのすべてであるキリスト、すべての中におられるキリストということです。

そのことを認識すれば、私たちはこのさらなることが必要だと知るのです。霊的とか霊的な人々はどんなことを意味するかを定義するのは極めてしばしば難しさを感じさせるものです。説明するよりは経験する方がもっと良いことである事柄の中の一つです。しかし差し当たりは、霊的な人とはみことばと御霊によって支配される人だと、こんなふうに、極めて簡潔にまた極めて無難かつ健全に定義され得るものです。また内外のすべてにおいてキリストがすべてであり、すべての中にあるということです。それが本当の意味で霊的ということです。

(今日の文章は Filled Unto All the Fullness of God - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003186.htmlです。訳せないところがありその文章はカットしてあります。ご了承ください。( )書きのところは4月29日のところと同じ箇所でした。自分で読んでいて前に読んだ記憶が途中からよみがえってきました。自分でいうのもおかしなものですが、その日の訳の方が生き生きしている感じです。不思議なものです。あとになったから訳が上達するというものでもないのですね。)

2011年5月1日日曜日

心の目をあけてください

長野県御代田地方は今桜が満開です。
私は祈っています。あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか知ることができますように。(新約聖書 エペソ1:18)
(霊的照明は神のご目的の基礎であります。私たちは自分の頭脳を使った単なる調査や探求によって霊的事柄を知り、キリストの満たしを体験するということは決してありません。必要なことは聖霊が与えてくださる啓示を通してキリストを知ることです。イエス様の証が、おことばを通しての霊的な照明や啓示であったのと同じです。イエス様の証は決して固定的なものではありません。あなたがたが「これがイエスの証であります」と言い、公式化するようなものではありません。

イエス様の証は(父なる神様によって)明らかにされたことであります。イエス様の証とは「天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」(使徒7:56)です。ステパノはその証のために死にました。「正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです」(使徒26:13)その内面的な意味はみことばを離れたものではなく、みことばを通して聖霊によってあたえられるものです。それは手紙よりもっとすごいものです。いのちだからです。あなたに次のように言わせるものです。私は随分長い間聖書を読んで来たが、以前にはその方(聖霊なる神様)には会っていませんでした、と。)

聖霊が教会に関して明らかにすること(聖霊による照明)は、大変難しく、主を体験的に知っていない人にはどなたにも説明することができません。しかし主を体験的に知っている人に対しては説明は不要であります。すべての点でこれだけの違いが生ずるのです。あなたはエペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ローマ人への手紙について、キリストが教会のからだであるとして説教することはできるかもしれません。また本の中に書いてあることを読むこともできるでしょう。しかしそのことをまだ本当には体験していないことはあり得るのです。

それがある日、天が開け、突然そのことがあなたの霊にのぞみ、あなたがそれを見、そしてあらゆる種類の調整が生活に必要になったとしましょう。あなたは次のように言うでしょう。「私は教会には宗派や国籍の違いは何もないのを見ました。私はすべての信者が一つであることを信じました・・・」そうです。あなたは全部が全部そのように言うことができるのです。しかしまだあります。

そのあるものは啓示によって始めて体験できるのです。あなたは別のことを体験し、それによってちょっとかなり遠くまで行くようになるでしょう。しかしそのことをもっと求めてごらんなさい。そうすればあなたはさらに前進することになります。あなたはそのことにより、新たな戦い、犠牲を経験しますが、新しいところへ移されているのです。そのことは神様の目的にとって必要だからです。

こういうことを申し上げ、指摘し、強調しておりますのは一つのことであります。あなたはおっしゃるでしょう。「あなたはどのようにしてそこに達しましたか。私たちはあなたがおっしゃりたいことを見ています。全部はっきりしているのですが、達していないのです」 よろしいですか、もしあなたが本当に二心をお持ちでないなら、また完全に主と一つになり、見えるように見られ、主とまちがいなく、ともに事を処理なさるなら、一日のうちにではないかもしれませんが、ゆっくりと、確実に、静かに、新しい(御霊の)理解の世界へと移られてゆくのです。

そしてあなたはご自分の見方が変わっていることに気がつかれるでしょう。あなたの価値基準が変化します。あなたの見方が変わります。数ヶ月を要するかもしれませんが、その終わりにはあなたはおっしゃるでしょう。「私は変わりました。あることが私に起こったのです。今まで受け入れていたことがもはや受け入れられなくなりました」

ひょっとして一瞬間のうちにそうなられるのかもしれません。どのようにしてその時が来るかは全くどうでもいいことです。大切なことは霊的照明ということです。(冒頭のみことばにあるように)使徒が手紙を出した人々に持って欲しいと祈ったのはこのことなんです。私たちも祈りましょう。私たちに霊的照明が与えられるように、また主の民のすべてにこの照明が与えられるようにと。

(今日の箇所は以前の1/28と全く同じ箇所でした。スパークス氏サイト編集者の何らかの意図があるか知れません。前回、「訳すのが大変難しかった箇所です。参考のために数行前から訳してみました。誤訳が多いと思います。問題に感ぜられる方は下記の原文に直接当たってみてください。」http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003026.html
と書きましたので再挑戦し訳し直そうとしましたが、訳し直すことが出来ませんでしたので、このまま再録します。なおこの文章はスパークスのFilled Unto All the Fulness of God Chapter 2 からの抜粋です

2011年4月29日金曜日

主イエス様はすべてのすべて

草緑 ルナリアの花 引き立てり 創造主に 魅せられる春
唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。(新約聖書 1コリント8:6)

救いは単に救われる魂を得ることだけにあるのではありません。救われた魂がキリストの満たしを求めて歩み始めることにあります。みことばと御霊のうちにある宣教はことごとくその目的に支配されているのです。したがって、ただ救われただけでそこに留まっていることは、みことばの目的が台無しになっていることであり、御霊の働きが不十分だということです。

私たちが「主の働き」と呼んでいる、世間のどの場所に出て行くにしても、次のことに支配されていることが大切にならなければなりません。 それはその場所にあってはキリストの満たし以外の何ものも他にはないということです。可能な限り、キリストはすべてであり、そこのすべてのうちにおられるということです。それが究極であり完全な到達点であります。キリストとの分裂は一切なく、その役割分担もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにキリストが存在しなければなりません。

私たちはそれが聖霊の目的であることを認識する時に、いのちが与えられ、明確にされた宣教を体験するのです。そのことはすべてに適用します。もしあなたが主のものなら、あなたの生活は主のみことばと聖霊によって支配されるにちがいありません。もしそうでないなら、あなたと主との関係は正しくないものがあるのです。あなたの働きがたとえどんなものであっても、たとえば、両親として家庭におり、家の台所の処理しなければならないことにかかわり、仕事の最中であっても、あなたが個人的なことに関して、その場で主とつながっているなら、あなたの生活はキリストをあらわしているはずです。そしてそれが宣教なのです。

もし生活のあらゆる分野にそのことが浸透しているなら、事態は全く異なったものとなったことでしょう。それはすべての動機への挑戦であり、すべての考察を支配するものとなるにちがいありません。あらゆる紛争、あらゆる闘争、さらに私たちを混乱させイライラさせ、その結果何らかの闘いの渦の中に投げ込むようなすべてにおいても、そのことが解決となるにちがいありません。物事はただこの一点、キリストがすべてであり、すべてのうちにキリストがおられるということに立って試されねばならないのです。

(今日の文章は Filled Unto All the Fulness of God - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003169.htmlです。)

2011年2月17日木曜日

私たちは神の家です

セキレイの 喉を潤す 雪アイス
私たちが神の家なのです。(新約聖書 ヘブル3:6)

主は最初のお考え、すなわち主の民に対する主独自の言い回しが回復される必要を覚え、そうなるように切望されていますが、現実には霊的家族の回復は少しもないのであります。※ですから、主の独自な考えと関連した神によるどんな新たな動きも、(もしそれが起こされるなら)霊的な家族を再導入することは確かでしょう。(新約聖書に登場する「父」「子どもたち」「息子たち」「兄弟」「家族」「家庭」など多く使われている用語の)すべてはそのことを意味しています。

(今)そのことが少なからず機能停止になっているのかもしれません。多くの誤解は除去されねばならないでしょう。全部の伝統的な機構が廃棄されねばならないでしょう。霊的家族生活やその家族の中の訓練ということとつながりがあるところに素晴らしい価値があるのです。家族の中における訓練以上にすぐれた訓練の場はありません。

制度においてそれに代替する適当な訓練の場を探すことはできないでしょう。主の信頼できる、また主のために役に立つ男女は制度の中では訓練されないで、家族の中でこそなされるというのが本当なのです。極めて多くの場合、主の働きをなすために出かけて行く人々が人間関係でだめになるのは訓練を受けるその家族を欠いていることがあります。

神の働きの極めて多くの悲劇は組織化された方法で一緒に働いている奉仕者の間で人間関係が崩壊しているということであります。そして彼らは家族生活の訓練を通して難しい人とともに喜んで生活する方法を決して知らなかったのであります。霊的家族の訓練の中に大きな価値があるのです。それは極めて密接な人間関係を必要としているからです。

私たちは教会に行っている人々が仲間のクリスチャンたちや教会員と余り緊密な関係を持ちたくないと言っているのを聞いたことがあります。彼らはそれよりもはるかに互いに知りたくないのです。それがそもそも敗北です。そのことは主にとって大変大きな損失を意味します。

主がお取りになる方法は主の民をもっとも緊密な関係に一緒に導かれ、もっとも難しい人でも除外しないということです。主は全く特別な家族をお持ちになっています。すべての種類の人々からなり、それらのうちの何人かには変わった人々もいます。けれどもそれらすべては素晴らしい訓練の土台を提供してくれる(と言われます)。

(今日の箇所は Filled Unto All the Fullness of God - Chapter 6 の抜粋引用訳ですが、1934年になされたメッセージの聞き書きのようです。時代は第二次世界大戦の始まる前夜です。諸国民の対立抗争がそろそろ抜き差しならぬ状況に立ち至っている時です。特に日本にとってはこの時はすでに深刻な事態だったことでしょう。※を載せましたのは、実はその当時の教会の姿は初代教会からますます離れて行って、教会に集う人々はよそよそしくお互いに無関心になって行った状況がこの文章以前に紹介されています。それで出だしの文章がこのようになっています。この文章の後、この神の家族に新しく主を信じた方が加えられる喜びの叙述も続きます。ちょうど10日ほど前、長女家族に新生児が与えられました。先ほどその伯母さんにあたる方から写真がメールで送られてきました。家族の豊かさを思わされました。ましてや、神の家族はそれ以上ではありませんか。ここには後半にありますように、違った者が一つとされる神の家族の世界があるのです。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」エペソ2:14〜15。スパークス氏は戦争をどんな思いで見ていたのでしょうか。原文はいつもの通りhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003046.htmlです。誤訳はお許しください。2月3日の記事も今回と同じ文章の抜粋ですがそちらの方は13章のものでした。ご参照ください。)

2011年2月12日土曜日

あなたは「霊の父」の子どもですか?

聖書には鳩は聖霊の象徴として描かれている。たまたま古利根川で今日見かけた。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。(新約聖書 ヨハネ3:6)

私たちは神様を決して理性によって知ることはできません。また神様を知りたいという非常な決心をもって近づくことによって知ることも決してないでしょう。私たちが神様を知り得るのは私たちの霊を通してであり、霊のうちにあってのみ可能です。それですから、霊的な知識が求めていることは霊は神様との交わりのある生き生きとした完全な働きであるということです。それはしばしば魂の側面が霊を押さえ抑圧し、その結果霊が自由に活発に働かないということをも意味しています。

人は分析的な頭脳によって特徴づけられることもあり得ます。その結果すべてのことを議論したがるものです。すべてのことを自らの頭脳や理性という一種の顕微鏡のごとき存在に支配させ理性的に考えようとします。そして納得できるまでは受け入れられないというやり方ですべてのことを正しく見ようとさえします。だから人は極めて分析的になり、物事を徹底的に調べるようになります。多方面から自分の疑問に対するもっともふさわしい答えを得るまで受け入れる意志はありません。そういう人は極めてゆっくりと前進するものです。

同じことは大きな宗教的な感情の力を得ることによって、神の世界に入っていきたいと思っている人に適用できるでしょう。それは今日悪魔の用いる大きな罠の一つです。(しかし言うまでもなく)宗教的感情は(神の世界に入って行く)基準になりません。真に霊的であることとは何の関係もありません。

私たちの主についての知識は、ほんのわずかのことや最初の一条の光のようなものであっても、聖霊により覚醒され、照らし出された霊によるものです。神を知る知識の増進は内なる人の成長によるだけであり、真理を把握する知的な能力が知るところではありません。私たちは思想を把握したり真理や教えを把握するために真理と親縁関係にある理性によってその能力を増進させることができると思うかもしれません。その能力はもうこれ以上発展する余地はないというまで増進することはできるかもしれません。しかし真の霊的知恵にとってはそのようなものはもっとも小さい尺度でしかあり得ないのです。

神の子どもは霊が新しくされた者であり、存在の中心にあって神様との結びつき、交わりをもっている人です。そのような交わりは生まれながらのどんな人間も持たないものであり、新生した霊以外のいかなる他の領域においても持ち得ないものであります。このような例として(旧約聖書の創世記に登場する)アブラムとロトを取り上げてみましょう。

アブラムは神様が語りかけられることを聞いていた人であり、神様との心の内側での交わりをもって歩んでおりました。ロトも起源からすると同じ道をたどりましたが、彼が歩んだのはアブラムとともにであって、決して神様とともにではありませんでした。言わば彼の歩みは神とともに歩むことは二義的であったのであります。これが霊と魂の違いの例になります。一方の者は神様との交わりが第一でした。ところが他方の者は神様のことをうわさで知っていたにすぎません。真の神の家族は最初のものです。その家族は完全には満たされずにいて、幼児の段階にいるかもしれません。しかし真の家族は神様の超自然的な働き、すなわち新生の結果として神様と心の内側で交わりを持っている人によって構成されているのです。

「霊の父」はそこから始められ、そこで続けられるのです。そして四六時中あらゆる他の領域にまさって霊に支配されることを求めておられるのです。

(今日も本来の引用文の前後を補って訳した。題名はこれまでと同様に、引用者が勝手に考えてつけている。本文はFilled Unto All the Fullness of God - Chapter 9 でありその抜粋である。原文は
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003041.htmlである。)

2011年1月25日火曜日

上にあるものを求めなさい

通い慣れし 小学校時代の 通学路 (2011.1.24故郷にて)
もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。(新約聖書 コロサイ3:1)

心が完全に神にとらえられている人にむかって、「これはあきらめねばならない、あれもあきらめねばならない」と決して言う必要はありません。そのような主とともにいる人をそのままにしておきなさい。そのようなものはなくなることがわかるでしょう。主に引き寄せられている(人の)心を見るのは大変うれしいことです。その行く末を心配する必要はありません。あらゆる不安は心が完全に主から離れるところにあります。

テサロニケ人に宛てた使徒の二つの手紙は喜びに満ちています。彼は彼らをことごとく思い出すごとに主に感謝しました。彼は彼らのことをよく言ったり、言葉を使ってほめそやす必要はありませんでした。なぜなら、単純なことに、彼らは「生けるまことの神に仕えるようになり、イエスが天から来られるのを待ち望んで」、この世から神に心が向いており、何ら心配する必要はなかったからです。ところが目をコリントの人々に転ずるとたくさん問題がありました。荒野の状態、二心でした。

よみがえりの土台により神様は(人を)世から主のところに引き出す機会を与えてくださいます。そのことが意味していることをすべて私たちは学ばねばなりません。もし私たちが主とともに行動するなら、私たちは決して予期しない事柄に出くわすことでしょう。私たちは神様が存在しているということほど明確に定められている事柄はないのですが、一瞬間たりとも疑問を持つことがないように望まれ挑戦されるようになります。過去において事柄は神からのものでないものはなく、ある程度神からのものだけでした。ところが今やそれらをはるかに越えたものがあるのです。

そしてこれ以上何かをし続けないなら、善が最善の敵となります。それゆえ私たちは価値を比較し、良いことを離れ、より良いことに向かわねばなりません。そしてそれからのちには、より良いことから離れ、さらに最善へと向かわねばなりません。私たちが本当に主とともに歩き続ける時に、はじめて事は起こり得るのです。しかし、そのことは先ず第一に次のことを求めています。私たちがこれまでもはっきりさせ、言って来たことです。「私は自らを捨て、復活の土台の上に立ちます。」「私は自らを捨て、完全に主とともにいます。」

(今日の部分は英文が難しく判読できないところばかりでした。読者が自ら下記サイトに当たられ直接確かめられるようにお願いします。また誤訳を指摘し正しく直してくださることを是非お願いします。
http://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003023.html  

なお、この記事を投稿した後に今日のオズワルド・チェンバーズの霊想を見たら、次の記事が載っていました。ひょとしてこのことも上記の記事と関連があるかもしれないと思い、以下に載せることにしました。お読みください。これは湖浜馨氏の訳です。


1月25日 神に機会を与える

恵みをもって召してくださった方が・・・よしとされたとき。(ガラテヤ一・一五、一六)

私たちは神の働き人として、神に機会を与えることを学ぶ必要がある。私たちは身を引き、神に十二分に働かれる余地を与えるのである。私たちは細かく計算し、見積もって、これこれのことが起こるだろうと言う。そして、神の介入される余地を作ることを忘れてしまう。
神が私たちの集会に、想像もしていなかったような方法で介入される時、私たちは驚くのではないだろうか。神はつねに特別な方法で介入されると考えてはならない。まず、神を尋ね求めよ。これが、神に機会を与える方法である。
神が臨まれることを当然のこととして期待せよ。しかし、ある一定の方法で臨まれると思うな。神について学べば学ぶほど、神はいつでも介入されることがわかる。神はこれ以外の方法では働かれない。神はよしとされた時、突然、あなたの生涯に臨む。しかし、私たちはこの事実を見逃しやすい、
だから、神と絶えず交わり、あなたの信仰生活を保て。そして神がいつ介入されてもよいように、神のために十二分に働かれる余地を作れ。そして、待機せよ。)