草緑 ルナリアの花 引き立てり 創造主に 魅せられる春 |
唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。(新約聖書 1コリント8:6)
救いは単に救われる魂を得ることだけにあるのではありません。救われた魂がキリストの満たしを求めて歩み始めることにあります。みことばと御霊のうちにある宣教はことごとくその目的に支配されているのです。したがって、ただ救われただけでそこに留まっていることは、みことばの目的が台無しになっていることであり、御霊の働きが不十分だということです。
私たちが「主の働き」と呼んでいる、世間のどの場所に出て行くにしても、次のことに支配されていることが大切にならなければなりません。 それはその場所にあってはキリストの満たし以外の何ものも他にはないということです。可能な限り、キリストはすべてであり、そこのすべてのうちにおられるということです。それが究極であり完全な到達点であります。キリストとの分裂は一切なく、その役割分担もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにキリストが存在しなければなりません。
私たちはそれが聖霊の目的であることを認識する時に、いのちが与えられ、明確にされた宣教を体験するのです。そのことはすべてに適用します。もしあなたが主のものなら、あなたの生活は主のみことばと聖霊によって支配されるにちがいありません。もしそうでないなら、あなたと主との関係は正しくないものがあるのです。あなたの働きがたとえどんなものであっても、たとえば、両親として家庭におり、家の台所の処理しなければならないことにかかわり、仕事の最中であっても、あなたが個人的なことに関して、その場で主とつながっているなら、あなたの生活はキリストをあらわしているはずです。そしてそれが宣教なのです。
もし生活のあらゆる分野にそのことが浸透しているなら、事態は全く異なったものとなったことでしょう。それはすべての動機への挑戦であり、すべての考察を支配するものとなるにちがいありません。あらゆる紛争、あらゆる闘争、さらに私たちを混乱させイライラさせ、その結果何らかの闘いの渦の中に投げ込むようなすべてにおいても、そのことが解決となるにちがいありません。物事はただこの一点、キリストがすべてであり、すべてのうちにキリストがおられるということに立って試されねばならないのです。
(今日の文章は Filled Unto All the Fulness of God - Chapter 3 の抜粋引用訳です。原文はhttp://www.austin-sparks.net/english/openwindows/003169.htmlです。)
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